ポーロの特徴を列挙するジュネ。ポーロあるいはポーロに類似したカテゴリーに含まれる人間はどれほど魅力的か。それらについて述べたいという気持ちがジュネにはある。ところがしかし、ここで注目したいのはポーロの個別的魅力ではなく、その語彙の中に含まれる「不良少年のなかでも、いちばん悪質な男」とある部分だ。
「顔はめったに笑顔を浮かべない。髪はつややかだが、房になって重なり合っていた。手っとり早くいえば、いちいども櫛目を入れたためしがなく、濡れた手で撫でつけておくだけのように思われた。私が自分の作品の中に好んで持ち込む不良少年のなかでも、いちばん悪質な男」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
この種の人間。「不良少年のなかでも、いちばん悪質な」としか言いようがないタイプの人間。なおかつ「冷淡で残酷な」人間。この種の人間は魅力的であるかどうかにかかわらず、しばしば或る特性を発揮することがある。変則者、境界線、極限、といったボーダーの役割を果たす。その時その時で支配的な社会的規範というものに関し、社会の欄外から冷静に事態を眺めてみることができる。
「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)
さらに。
「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)
だからといって、どこにでもいる不良少年や冷淡で残酷な人間はすべてそうだとはまったく限らない、と断っておかねばならない。むしろニーチェのいうような例外的な人々は普段どこにいるか。それは芸術家に多い。音楽や絵画や映画や文学研究に取り組んでいる。だから国家はただ単なる不良少年やごろつきどものことはさっさと警察に任せて、社会的規模で強力な発信力を持つ研究者や芸術家の作品あるいは発言にいつも目を光らせることにしている。
ところでジュネは様々に変容するポーロの仕草に官能を感じ取らざるを得ない。この官能性を通してポーロの「邪険さ」はただちに「充分な責道具の一種に、《やっとこ》に」《なる》。といっても「《やっとこ》に《なる》」のは、そのような妄想に浸りきっているジュネの身体である。この変身がジュネの身体において生じる生成変化であるかぎり、ポーロの「邪険さ」はさらに「飛び出す匕首(あいくち)に化ける」。ジュネは匕首(あいくち)だ。
「私の寝台に身を投げ出し、この男はそのすべすべした裸体で、いつなんどきでも機能を果たす、邪険さというその在り方だけでも効き目は充分な責道具の一種に、《やっとこ》に、私の悲しみから、蒼ざめ歯を食いしばって、飛び出す匕首(あいくち)に化けるだろう」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
しかしこのような生成変化を加速的に可能にしたのは、そもそも戦争である。フランスとドイツの指導者層は帝国主義的資本主義を存分に利用しようと考えた。ところがすでに資本主義のダイナミックな諸運動は人間の手によって操作できうる範囲をはるかに越えて絶え間なく発展していた。フランスの指導者層もドイツの指導者層もお互いにほとんど同じ程度に資本主義を侮っていた。ちなみにジュネは死ぬことなく戦争の難を逃れることができた。とともに戦後生き残った人々に降りかかった負い目(良心の疚(やま)しさ)がもたらした悲喜劇を見届けることを不可避にした。その理由は何か。戦時中、ほとんどのあいだ刑務所に叩き込まれていたということがあげられる。ジュネに対する憎めなさはそういうほんのちょっとした細かな事情から発生している部分が多々あると言わねばならない。ジュネにとっては戦争よりもポーロの肉体美とその「邪険さ」の方がはるかに重要だった。ジュネは戦争の悲惨さを自分の欲望達成のため巧妙に活用する。そしていう。
「これは私の悲しみの化身だ。彼のおかげで私はこの作品が書けるのである、追憶のすべての儀式に参列する気力を彼から授けられたように」(ジュネ「葬儀・P.59~60」河出文庫)
さて、アルトー。「骨の大地や森しかなかった」人間。人間はそれを惨めに感じた。なぜだろうか。器官なき身体として脱領土化の運動をどんどん進行させようというのならわかりもするが、そうではなく、逆に「肉」を欲した人間。「肉」は「地層」であり「領土」である。人間は「領土」を欲しがった。
「つまり骨の大地や森しかなかったので、人間は肉を手にいれなければならなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
だがしかし、「肉」は「糞」だ。「肉《への》意志」は「糞《への》意志」でもある。そして「糞」の堆積は徐々に加速する「地層」の堆積過程であり、資本の堆積過程でもある。そのために「肉」を「糞」を「貨幣」を、欲望した。結果的に「血を代償に」する宗教をみずから欲することになる。
「鉄と炎しかなく 糞がなかったので 人間は糞を失うのが怖かった あるいはむしろ糞を《ほしがった》 そしてそのため血を代償にしたのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
人間の「糞」と「貨幣」の関係。フロイトはいう。
「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)
だからこそ、「糞《への》意志」はますます増殖することを欲する。同時に「肉」を手に入れどんどん肉食しなければならない。でないと「糞」を蓄積することができなくなってしまう。「もっと《糞》」を。それが人間の合言葉と化していく。すなわち「もっと肉」を、「もっと地層」を、「もっと領土」を、「もっと貨幣を」、等々の系列が出現する。
「糞を手にいれ、つまり肉を手にいれようとしたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
肉の堆積と貨幣の堆積。再生産される「肉」と「貨幣」。さらに地層化され再地層化され拡大される領土。労働力商品としての人間とその生産物としての諸商品の系列には当然「軍事力」が入っている。「戦争《への》意志」は人間の欲望とともに生まれたのだ。ゆえに人間は「器官なき身体」ではなく「欲望する戦争機械」として生きていくことに同意したのである。ただ、かつて国家は戦争機械としての人間を所有していた。今や事態は転倒し、国家は戦争機械の部分へと組み込まれた。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
資本主義は「欲望する生産」を加速的に押し進めることで、様々な支流を巻き込み、もっと巨大な流れとなって世界を何度でも繰り返し生産し支配することを意志する。世界中で実行に移してもいる。一方で人間の均質化作用を押し進め、他方で社会的格差を増産する。資本主義の諸運動は強迫神経症的な反復衝動をもっと大きな次元で打ち重ねていくことになる。
もっとも、加速する資本主義はあちこちで打撃を受ける。が、その修復に当てられる資金はどこからやってくるのだろう。連日連夜資本によって酷使され、痛烈な痛みと苦悩に打ちひしがれ疲労しきっている諸国民に課せられた税金からである。にもかかわらず、今後ますます疲労し疲弊しきっていく諸国民は、自分を酷使させている資本のためにますます資本へ奉仕するという倒錯した状況の中へ突き進み、のめり込んでいく。しかしなぜ人間はこうも資本主義に奉仕したがるのか。奉仕すればするほど自分を苦しめる資本に忠誠を誓って止まないのか。解雇が怖いならなぜ労組を裏切ったのか。そして労組はなぜほとんどが資本のための御用組合でしかなくなったのか。おそらく人間は一刻も早く死にたがっているとしかおもえない。
「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.174』人文書院)
ところが資本としては、労働者にそう簡単に死なれてしまっては困るという事情がある。利子を生む力としてできるかぎり有効に生かしておかなくてはならない。だがどうして、よりによって「反復」ばかりなのか。そもそも「反復」はいかにして可能となったか。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
さらに。
「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)
こうして慣習は自動的に何度も反復されて制度化する。同時に資本は労働者に対して或る程度の報酬を与える。労賃は労働者に快楽を与える。ぼろぼろになった労働者の傷口にとってさえ労賃は薬になる。しかしこの薬は「パルマコン」=「医薬/毒薬」という両義性を持つ。資本は労賃というパルマコンの両義性を最大限利用する。ぼろぼろになった最底辺労働者やその仲間あるいは家族たちを自殺、他殺、家庭内暴力に追いやるところまで持っていく一方、自殺、他殺、家庭内暴力の寸前で引き返す習慣を身に付けることにも習熟させる。それはぼろぼろになった労働者の傷口が他者の眼の前で自慢できるような傷口であることが条件になる。凄惨な傷口を見せつけるという或る種の快感にともなう権力感情を与える。
「病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫)
ところが昨今、資本の側も労働者の側も、とりわけ家庭内暴力の阻止については実にしばしば失敗するケースが増えてきた。それは資本家というより資本主義の特性がますます発揮されることによって起こる。資本主義は一方で人間を均質化、平板化、記号化する。けれども他方で社会的格差を増大させる。格差増大を再生産する脱領土化と再領土化の流れ。同時に公理系によるその整理整頓。この二重の相反傾向によって発生する多少なりとも暴力的な色彩を帯びた諸問題に対して資本主義は、さらに様々な公理系(調整器、調整者)を付け加えることで限界を押しのけ置き換えてよりいっそう生き延びる。しかしこの極めて狡猾な公理系の調整を担っているのは一体何ものなのか。
「《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.304」河出書房新社)
また、自己目的としての資本主義の運動は「超越論的探究」の特性と一致する。「超越論的探究」というのは、言い換えれば、ヘーゲルのいう「絶対精神」でありマルクスのいう「物質的生産力」である。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
重要なのは、このような特性を持つ資本主義は「好きなときにやめることができないという点にある」。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「顔はめったに笑顔を浮かべない。髪はつややかだが、房になって重なり合っていた。手っとり早くいえば、いちいども櫛目を入れたためしがなく、濡れた手で撫でつけておくだけのように思われた。私が自分の作品の中に好んで持ち込む不良少年のなかでも、いちばん悪質な男」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
この種の人間。「不良少年のなかでも、いちばん悪質な」としか言いようがないタイプの人間。なおかつ「冷淡で残酷な」人間。この種の人間は魅力的であるかどうかにかかわらず、しばしば或る特性を発揮することがある。変則者、境界線、極限、といったボーダーの役割を果たす。その時その時で支配的な社会的規範というものに関し、社会の欄外から冷静に事態を眺めてみることができる。
「《『漂泊者』は語る》。ーーーわれわれのヨーロッパの道徳性を一度遠くから眺められるようにするためには、それを過去あるいは将来の別な道徳性と比べて見るためには、ある町の塔の高さのほどを知ろうとする漂泊者のやりかたと同じことをやらねばならない、ーーーつまり、それをやるために漂泊者はその町を《立ち去る》。『道徳的先入見についての考察』には、それが先入見に関する先入見に堕さないようにするためには、道徳《外》に位置することが、われわれがそこまで昇り・攀(よ)じ・飛翔すべき何か善悪の彼岸といった位置が、前提となる」(ニーチェ「悦ばしき知識・三八〇・P.451」ちくま学芸文庫)
さらに。
「哲学的誇大広告ーーーこれがお上品なドイツ市民の胸にさえ慈悲深い国民感情を奮い起こさせるのだがーーーを正しく評価するためには、また、《こうした青年ヘーゲル派運動総体の》狭量さ<と>、地方的偏狭さを、<そして>《とりわけ》これらの英雄たちの実際の業績と業績に関する幻想との間の悲喜劇的なコントラストを明瞭にするためには、この騒動全体をいったんドイツの外なる見地から眺めてみることが必要である」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.36」岩波文庫)
だからといって、どこにでもいる不良少年や冷淡で残酷な人間はすべてそうだとはまったく限らない、と断っておかねばならない。むしろニーチェのいうような例外的な人々は普段どこにいるか。それは芸術家に多い。音楽や絵画や映画や文学研究に取り組んでいる。だから国家はただ単なる不良少年やごろつきどものことはさっさと警察に任せて、社会的規模で強力な発信力を持つ研究者や芸術家の作品あるいは発言にいつも目を光らせることにしている。
ところでジュネは様々に変容するポーロの仕草に官能を感じ取らざるを得ない。この官能性を通してポーロの「邪険さ」はただちに「充分な責道具の一種に、《やっとこ》に」《なる》。といっても「《やっとこ》に《なる》」のは、そのような妄想に浸りきっているジュネの身体である。この変身がジュネの身体において生じる生成変化であるかぎり、ポーロの「邪険さ」はさらに「飛び出す匕首(あいくち)に化ける」。ジュネは匕首(あいくち)だ。
「私の寝台に身を投げ出し、この男はそのすべすべした裸体で、いつなんどきでも機能を果たす、邪険さというその在り方だけでも効き目は充分な責道具の一種に、《やっとこ》に、私の悲しみから、蒼ざめ歯を食いしばって、飛び出す匕首(あいくち)に化けるだろう」(ジュネ「葬儀・P.59」河出文庫)
しかしこのような生成変化を加速的に可能にしたのは、そもそも戦争である。フランスとドイツの指導者層は帝国主義的資本主義を存分に利用しようと考えた。ところがすでに資本主義のダイナミックな諸運動は人間の手によって操作できうる範囲をはるかに越えて絶え間なく発展していた。フランスの指導者層もドイツの指導者層もお互いにほとんど同じ程度に資本主義を侮っていた。ちなみにジュネは死ぬことなく戦争の難を逃れることができた。とともに戦後生き残った人々に降りかかった負い目(良心の疚(やま)しさ)がもたらした悲喜劇を見届けることを不可避にした。その理由は何か。戦時中、ほとんどのあいだ刑務所に叩き込まれていたということがあげられる。ジュネに対する憎めなさはそういうほんのちょっとした細かな事情から発生している部分が多々あると言わねばならない。ジュネにとっては戦争よりもポーロの肉体美とその「邪険さ」の方がはるかに重要だった。ジュネは戦争の悲惨さを自分の欲望達成のため巧妙に活用する。そしていう。
「これは私の悲しみの化身だ。彼のおかげで私はこの作品が書けるのである、追憶のすべての儀式に参列する気力を彼から授けられたように」(ジュネ「葬儀・P.59~60」河出文庫)
さて、アルトー。「骨の大地や森しかなかった」人間。人間はそれを惨めに感じた。なぜだろうか。器官なき身体として脱領土化の運動をどんどん進行させようというのならわかりもするが、そうではなく、逆に「肉」を欲した人間。「肉」は「地層」であり「領土」である。人間は「領土」を欲しがった。
「つまり骨の大地や森しかなかったので、人間は肉を手にいれなければならなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
だがしかし、「肉」は「糞」だ。「肉《への》意志」は「糞《への》意志」でもある。そして「糞」の堆積は徐々に加速する「地層」の堆積過程であり、資本の堆積過程でもある。そのために「肉」を「糞」を「貨幣」を、欲望した。結果的に「血を代償に」する宗教をみずから欲することになる。
「鉄と炎しかなく 糞がなかったので 人間は糞を失うのが怖かった あるいはむしろ糞を《ほしがった》 そしてそのため血を代償にしたのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
人間の「糞」と「貨幣」の関係。フロイトはいう。
「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)
だからこそ、「糞《への》意志」はますます増殖することを欲する。同時に「肉」を手に入れどんどん肉食しなければならない。でないと「糞」を蓄積することができなくなってしまう。「もっと《糞》」を。それが人間の合言葉と化していく。すなわち「もっと肉」を、「もっと地層」を、「もっと領土」を、「もっと貨幣を」、等々の系列が出現する。
「糞を手にいれ、つまり肉を手にいれようとしたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)
肉の堆積と貨幣の堆積。再生産される「肉」と「貨幣」。さらに地層化され再地層化され拡大される領土。労働力商品としての人間とその生産物としての諸商品の系列には当然「軍事力」が入っている。「戦争《への》意志」は人間の欲望とともに生まれたのだ。ゆえに人間は「器官なき身体」ではなく「欲望する戦争機械」として生きていくことに同意したのである。ただ、かつて国家は戦争機械としての人間を所有していた。今や事態は転倒し、国家は戦争機械の部分へと組み込まれた。
「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.234」河出文庫)
資本主義は「欲望する生産」を加速的に押し進めることで、様々な支流を巻き込み、もっと巨大な流れとなって世界を何度でも繰り返し生産し支配することを意志する。世界中で実行に移してもいる。一方で人間の均質化作用を押し進め、他方で社会的格差を増産する。資本主義の諸運動は強迫神経症的な反復衝動をもっと大きな次元で打ち重ねていくことになる。
もっとも、加速する資本主義はあちこちで打撃を受ける。が、その修復に当てられる資金はどこからやってくるのだろう。連日連夜資本によって酷使され、痛烈な痛みと苦悩に打ちひしがれ疲労しきっている諸国民に課せられた税金からである。にもかかわらず、今後ますます疲労し疲弊しきっていく諸国民は、自分を酷使させている資本のためにますます資本へ奉仕するという倒錯した状況の中へ突き進み、のめり込んでいく。しかしなぜ人間はこうも資本主義に奉仕したがるのか。奉仕すればするほど自分を苦しめる資本に忠誠を誓って止まないのか。解雇が怖いならなぜ労組を裏切ったのか。そして労組はなぜほとんどが資本のための御用組合でしかなくなったのか。おそらく人間は一刻も早く死にたがっているとしかおもえない。
「もし例外なしの経験として、あらゆる生物は《内的な》理由から死んで無機物に還るという仮定がゆるされるなら、われわれはただ、《あらゆる生命の目標は死である》としかいえない。また、ひるがえってみれば、《無生物は生物以前に存在した》としかいえないのである」(フロイト「快感原則の彼岸」『フロイト著作集6・P.174』人文書院)
ところが資本としては、労働者にそう簡単に死なれてしまっては困るという事情がある。利子を生む力としてできるかぎり有効に生かしておかなくてはならない。だがどうして、よりによって「反復」ばかりなのか。そもそも「反復」はいかにして可能となったか。
「一方の極に労働条件が資本として現われ、他方の極に自分の労働力のほかには売るものがないという人間が現われるということだけでは、まだ十分ではない。このような人間が自発的に自分を売らざるをえないようにすることだけでも、まだ十分ではない。資本主義的生産が進むにつれて、教育や伝統や慣習によってこの生産様式の諸要求を自明な自然法則として認める労働者階級が発展してくる。完成した資本主義的生産様式の組織はいっさいの抵抗をくじき、相対的過剰人口の不断の生産は労働の需要供給の法則を、したがってまた労賃を、資本の増殖欲求に適合する軌道内に保ち、経済的諸関係の無言の強制は労働者にたいする資本家の支配を確定する。経済外的な直接的な強力も相変わらず用いられはするが、しかし例外的でしかない。事態が普通に進行するかぎり、労働者は『生産の自然法則』に任されたままでよい。すなわち、生産条件そのものから生じてそれによって保証され永久化されているところの資本への労働者の従属に任されたままでよい。資本主義的生産の歴史的生成期にはそうではなかった。興起しつつあるブルジョアジーは、労賃を『調節する』ために、すなわち利殖に好都合な枠のなかに労賃を押しこんでおくために、労働日を延長して労働者自身を正常な従属度に維持するために、国家権力を必要とし、利用する」(マルクス「資本論・第一部・第七篇・第二十四章・P.397」国民文庫)
さらに。
「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)
こうして慣習は自動的に何度も反復されて制度化する。同時に資本は労働者に対して或る程度の報酬を与える。労賃は労働者に快楽を与える。ぼろぼろになった労働者の傷口にとってさえ労賃は薬になる。しかしこの薬は「パルマコン」=「医薬/毒薬」という両義性を持つ。資本は労賃というパルマコンの両義性を最大限利用する。ぼろぼろになった最底辺労働者やその仲間あるいは家族たちを自殺、他殺、家庭内暴力に追いやるところまで持っていく一方、自殺、他殺、家庭内暴力の寸前で引き返す習慣を身に付けることにも習熟させる。それはぼろぼろになった労働者の傷口が他者の眼の前で自慢できるような傷口であることが条件になる。凄惨な傷口を見せつけるという或る種の快感にともなう権力感情を与える。
「病人や精神的にふさいでいる人と交わってくらし、その雄弁な哀訴や哀泣、不幸のみせびらかしが、結局は居合わせる者を《辛がらせる》という目標を追求しているのではないかどうか、と自問してみるがよい、居合わせる者のそのときに現わす同情が弱き者・悩める者にとって一つの慰めとなるのは、彼らがそれで自分たちのあらゆる弱さにもかかわらず、すくなくともまだ《一つの権力を、辛がらせるという権力をもっている》と認識できるからである。不幸な人は同情の証言が彼に意識させるこうした優越感において一種の快感を得る、彼の己惚れが頭をもたげる、自分にはまだまだ世間に苦痛を与えるだけの重要性があるのだ。そんなわけで同情されたいという渇望は、自己満足への、しかも隣人の出費による自己満足への渇望である、それは人間を、当人のもっとも固有ないとしい自我のまったくの無遠慮さにおいて、さらけだしている」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的1・五〇・P.85~86」ちくま学芸文庫)
ところが昨今、資本の側も労働者の側も、とりわけ家庭内暴力の阻止については実にしばしば失敗するケースが増えてきた。それは資本家というより資本主義の特性がますます発揮されることによって起こる。資本主義は一方で人間を均質化、平板化、記号化する。けれども他方で社会的格差を増大させる。格差増大を再生産する脱領土化と再領土化の流れ。同時に公理系によるその整理整頓。この二重の相反傾向によって発生する多少なりとも暴力的な色彩を帯びた諸問題に対して資本主義は、さらに様々な公理系(調整器、調整者)を付け加えることで限界を押しのけ置き換えてよりいっそう生き延びる。しかしこの極めて狡猾な公理系の調整を担っているのは一体何ものなのか。
「《国家》は、公理系の中に組み入れられた種々の流れを調整する働きにおいて、次第に重要な役割を演ずるように規定されてくることになる。つまり、生産とその企画に対しても、また経済とその『貨幣化』に対しても、また剰余価値とその吸収(《国家》装置そのものによるその吸収)に対しても」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.304」河出書房新社)
また、自己目的としての資本主義の運動は「超越論的探究」の特性と一致する。「超越論的探究」というのは、言い換えれば、ヘーゲルのいう「絶対精神」でありマルクスのいう「物質的生産力」である。
「超越論的探求の特性は、好きなときにやめることができないという点にある。根拠を規定するにあたって、さらなる彼岸へと、根拠が出現してくる無底のなかへと、急き立てられずにいることなどどうしてできよう」(ドゥルーズ「ザッヘル=マゾッホ紹介・P.173」河出文庫)
重要なのは、このような特性を持つ資本主義は「好きなときにやめることができないという点にある」。
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM