白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ジュネという身体、そのアナーキー

2019年10月15日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネが「別種の美しさ」と呼ぶもの。それらは「多くの性質から成り立っている」という。たとえば、「力」「絶望」「恥」「狡知(こうち)」「怠惰」「あきらめ」「蔑(さげす)み」「倦怠(けんたい)」「勇気」「卑劣さ」「恐怖」ーーー。

「わたしは彼らのことを、美しい、と言った。それは整った美しさではない。別種の美しさで、力とか、絶望とか、その他、次のような、それらを挙げるについては注解を必要とするであろう多くの性質から成り立っている。すなわち、恥、狡知(こうち)、怠惰、あきらめ、蔑(さげす)み、倦怠(けんたい)、勇気、卑劣さ、恐怖ーーーまだいくらでも続くだろう」(ジュネ「泥棒日記・P.369~370」新潮文庫)

この系列は特権的な項あるいは中心を持たない極めて並列的なレベルで延長された等価物の系列を示している。次のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

その等価性の内容は商品の場合、労働者による労働力である。逆にいえば、流動する「力への意志」あるいは「情動の動き」が商品として固定されたものである。

「これらの諸性質はわたしの友達の過去や肉体に刻印されているのである。そしてそこで押し合いへし合いし、なかば重なり合い、相争っている。それだからこそわたしは、彼らは魂を持った男たちだと言うのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)

それら諸性質はジュネの「友達の過去や肉体に刻印されている」わけだが、完全に凝固して固定されきってしまったものではけっしてない。むしろ「肉体」へ「刻印」されたことで今なお生きいきと「押し合いへし合いし、なかば重なり合い、相争っている」あるいは「緊密に融合している」ということができる。

「《衝動》は、私の理解するところでは、《高級の機関》である。行為、感覚、および感情状態が、たがいに組織し合い、養い合いながら、入りまじって緊密に融合しているのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三一五・P.179」ちくま学芸文庫)

さらにこのことは、ニーチェにいわせれば「身体を手引きにする」ことでもある。

「身体を手引きにして私たちは人間をもともとの生命体の一個の数多性として認識するのだが、それらの生命体は、一部はたがいに闘争し合いながら、一部はたがいに順応したり従属したりしながら、それら個々の生命体を肯定することにおいて思わず知らず全体をも肯定する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三三・P.361~361」ちくま学芸文庫)

しかしこれらの行為はどれも、ほとんどの人間が無意識の裡(うち)に繰り返し反復していることでもある。

「わたしと彼らを結びつけているものとしては共犯関係のほかに、さらにある秘密な和合、ごく繊細な一種の盟約関係とも言うべきものがあるのであり、それを破壊しうる力をもったものはこの世におそらくごく少ないのであり、わたしはそれを巧妙な指先で扱い、それを護(まも)る術(すべ)を知っているのだ、ーーーそれは、我々の恋の夜の思い出、あるいはときとしてはほんの束(つか)の間(ま)の恋の会話、あるいはまた、微笑とそして快楽の予感の押し殺したため息と共になされた体の触れ合い、の思い出なのである」(ジュネ「泥棒日記・P.370」新潮文庫)

ここで問題となっているのは「性愛あるいは恋愛の仕草(しぐさ)」なのだ。そしてそれらは様々に分類可能だが、いずれにせよ、「微笑とそして快楽の予感の押し殺したため息と共になされた体の触れ合い」というカテゴリーの多様性を示すものだ。重要なのは、カスタネダの報告によれば次の言葉に要約される。

「自分の力を自由に流れ出させること」(カスタネダ「呪師に成る・P.238」二見書房)

さて、ジャン・ドカルナンの死とその晩餐についてジュネは述べる。

「彼の死体を食い平らげ、私を愛してくれたかけがえのない愛人を身内に蔵して、いま、私は自分におじけづいている。私は彼の墓場だ。大地は虚しい。死に絶えたのだ。陰茎(ヴェルジュ)も果樹園(ヴェルジェ)もいまでは私の口から生える。つまり彼の口から。ぱっくり開いた私の胸をかぐわせ。一本(ひともと)の李(すもも)の木がその静寂をふくらませる。彼の眼から、たるんだ眼瞼の下へ瞳が溶けて流れた眼窩から、蜂の群が飛び立つ」(ジュネ「葬儀・P.15」河出文庫)

ところで「彼の死体を食い平らげ」という表現について。キリスト教の葬儀のしきたりにしたがっているわけだが、その形式の原典である新約聖書から若干引用しておこう。

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取りなさい、これはわたしの体(からだ)である』。皆がそれを受け取って食べた。また杯(さかずき)を取り、神に感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。彼らに言われた、『これは多くの人のために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マルコ福音書・第十四章・P.57」岩波文庫)

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美(さんび)して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取って食べなさい、これはわたしの体(からだ)である』。また杯(さかずき)を取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、彼らに渡して言われた、『皆この杯から飲みなさい。これは多くの人の罪を赦(ゆる)されるために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十六章・P.155~156」岩波文庫)

「いつものように杯(さかずき)を受け取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、弟子たちに言われた、『これを取って、みなで回(まわ)して飲みなさい。わたしは言う、今からのち神の国が来るまで、わたしは決して葡萄(ぶどう)の木から出来たものを飲まないのだから』。またパンを手に取り、感謝して裂(さ)き、彼らに渡して言われた、『これはわたしの体(からだ)である』」「新約聖書・ルカ福音書・第二十二章・P.261」岩波文庫)

次のセンテンスでジュネは、「ジャン・ドカルナンの死体」に、「若い勇士」に、「血まみれの唇」に《なる》。キリスト教の葬儀のしきたりにしたがっているだけのことなのだが、ジュネにとってそれはただ単なる葬儀上の儀式というだけでは済まされないのだ。

「市街戦の銃弾に斃れた若者を食らうのは、若い勇士を食い平らげるのは、容易なわざではない。ひとはだれしも太陽にひかれる。私の唇は血まみれだ、そして指も。歯で私は食いちぎった。普通なら、死体は血を流さない、きみのはちがう」(ジュネ「葬儀・P.15」河出文庫)

なぜ「きみのはちがう」のか。ジュネにとってジャンの「美貌は私の脅威だった、また彼の言葉の賢(さか)しさと美しさも」。ゆえに、言語フェチであり美青年フェチであり男根フェチでもあるジュネとしては、ジャンの「陰茎(ヴェルジュ)は、五月の果樹園(ヴェルジェ)を舞台に、私の口をすでに血で染めていた」、という経過を閃光のように瞬時に流通しなければならない。そしてこの経過はジュネ自身の性質であるというだけでなく、むしろ人格が賭かっており、したがって決して避けて通れない或る種の儀式にも似た様相を呈するのである。

「一九四四年八月十九日の市街戦で斃れたとき、彼の陰茎(ヴェルジュ)は、五月の果樹園(ヴェルジェ)を舞台に、私の口をすでに血で染めていた。生前、彼の美貌は私の脅威だった、また彼の言葉の賢(さか)しさと美しさも。当時、私は彼が墓に入ることを願ったものだ、暗い深い墓穴、彼の並外れた在りかたにふさわしい唯一の住まい、そこに彼は蠟燭のあかりをたよりに、ひざまずいて、それともうずくまって暮らすのだ」(ジュネ「葬儀・P.15~16」河出文庫)

後半部分の記述ではジュネ独特の想像力がおおらかに全開されている印象を受けないではいられない。自己省察の深さ。その自由さ。その翼の巨怪さ。なかでも自己省察の自由さとその巨怪さは、ジュネが、というより、読者とともにジュネ自身を、とことん「混沌と迷宮(ラビリンス)の奥深くまでわれわれを導いてゆく」。ニーチェはいう。

「自己の内奥を覗き見ることあたかも巨大な宇宙を覗きこむごとくである者、そして自己の内奥に銀河を抱いている者、こういう者はまた一切の銀河がどんなに不規則なものであるかを知っている。こういう者たちは、現存在の混沌と迷宮(ラビリンス)の奥深くまでわれわれを導いてゆく」(ニーチェ「悦ばしき知識・三二二・P.336」ちくま学芸文庫)

この「不規則さ」は、規則的なもの、凝固したもの(ステレオタイプ)、がちがちに打ち固められ拘束され徹底的かつ人工的加工を施された「言語、貨幣、性」という死物に対する自然界からの猛反撃を意味している。そして現実とは、常に既に流動する強度としてしか存在しない「自然」のことをいうのである。マルクスはいう。

「《このパラグラフの最初の部分》、『労働はすべての富とすべての文化の源泉である』。ーーー労働はすべての富の《源泉ではない》。《自然》もまた労働と同じ程度に、諸使用価値の源泉である(じっさい、物象的な富はかかる諸使用価値からなりたっているではないか!)。そしてその労働はそれじたい、ひとつの自然力すなわち人間的な労働力の発現にすぎない」(マルクス「ゴータ綱領批判・P.25」岩波文庫)

だからこう言える。人間はいつ何時も絶え間なく自然との新陳代謝のうちにあると。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の台風災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。おそらく、測り知れない。

台風十九号。それは常に既に「流動する強度《としての》自然」から見れば人工的に設定された一時的な仮の名に過ぎない。自然界においてそれは様々な多様体からなる一つの多様体の通過である。したがって次のようにいうことができる。

「多様体が分割され、次元を一つでも失ったり獲得したりすると、《必ず多様体の性質が変化する》。そして次元数の変化は多様体に内在するため、《個々の多様体が、共生するたがいに異質な項によって構成されていると考えても、あるいは個々の多様体はその閾と戸口に応じて他の一連の多様体に入り込んで休みなく変化していると考えても、結局は同じことなのだ》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.182~183」河出文庫)

人工的なものはどれほど強力でなおかつ重厚長大なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、いずれ壊れる。溶ける。流動しないわけにはいかない。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。

BGM