ジュネは人間の身体の様々な諸器官を列挙しつつ「魂」とはそれらが織り成す「妙なる展開にほかならない」と述べる。停止するということがない。流れがあるだけなのだ。
「(魂を返すとき〔息絶えること〕、その肉体の息吹は言葉もともに運び去るように思われる)ーーー魂とは波にきらめく海草のようなもの、その深い夜のなかで奇妙な生活をいとなんでいる諸器官、肝臓や、脾臓や、緑色の胃壁や、胆汁や、血液や、乳糜(にゅうび)や、珊瑚状毛細管や、朱色の海や、青い腸などの密やかな作業が、いやそれらの内蔵器官そのものが、陰影に富んだほのかな渦柱となって立ち昇る、妙なる展開にほかならないように思われる」(ジュネ「葬儀・P.78」河出文庫)
しかしジャンだけは特権化されている。「ヴェネチア・ガラスのフラスコ」にしてしまう。ジャンの身体は「一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間が訪れる」ことを疑わない。
「ジャンの身体は、いうなればヴェネチア・ガラスのフラスコであった。ジャンから抽き出される素晴らしい言語が、まるで糸毬の糸がそれを痩せ細らせるように、彼の身体を透明にまで、一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間が訪れることを私は疑わなかった。その言語はそれを発した天体を構成している物質の秘密を私に教え、ジャンの内蔵にたまった糞も、彼の澱んだにぶい血液も、精液も、涙も、膿汁も、わたしたちの糞や、血液や、精液と同じものではないことを思い知らせるのだった」(ジュネ「葬儀・P.78」河出文庫)
ジュネ的感性にすれば、このとき、ほとんど確実に或る種の音楽が聞こえるにちがいない。それは「美しい」からだ。しかし「一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間」とは一体どのような瞬間をいうのか。「泥棒日記」ではジャヴァについてこう述べられている。
「彼の卑劣さ、意気地無さ、挙措(きょそ)や心情の低俗さ、愚かさ、臆病(おくびょう)などといった性質も、わたしがジャヴァを愛する妨げとはならない。わたしは以上のものにさらに彼の可愛らしさという性質をもつけ加えよう。これらの諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす。
わたしは以上の諸性質にさらに彼の身体的諸性質、彼の頑丈(がんじょう)で仄(ほの)暗い肉体、をつけ加える。この新しい美質を言い表わそうとするとき、わたしの脳裡(のうり)に否応(いやおう)なく浮ぶイメージは、上に列挙した諸要素が、その一つ一つの断面を形づくっている一個の結晶体のイメージなのである。
ジャヴァは煌(きら)めくのだ。彼の液体ーーーと彼のもろもろの炎(光輝)とーーーは、まさにわたしがジャヴァとよぶところの、そしてわたしが愛するところの、独異の功力(ちから)なのだ。
わたしの言う意味をさらに明確に言えば、わたしは卑劣さをも愚かさも愛するのではなく、また、そのいずれかの《ために》ジャヴァを愛するのでもなく、それらの彼における出会いがわたしを夢中にする」(ジュネ「泥棒日記・P.364~365」新潮文庫)
それら諸要素のジャヴァ《における》出会いがジャヴァという「合金」を成立せしめるのであって、その逆ではない。ふだんそれらの諸要素はばらばらに解体されていて、何らの魅力もない。ジュネは或る瞬間、諸要素のジャヴァ《における》出会いの瞬間にのみ光り輝く「一個の結晶体」であり「独異の功力(ちから)」となるときにかぎり、仮にジャヴァと名づけられた「力あるいは美」の出現を見る。このときジャヴァは諸商品の無限の系列から排除され諸商品を排除しつつ出現する貨幣に似ている。
同じ論理がジャンの場合にも応用されている。ジュネにとってはジャンの言語だけが貨幣化される。他のすべてのただ単なる言語の系列から独立し他の言語を排除してただ一つの言語(ジャンの言語)だけが特権化されることでその言語のみにかぎり始めて貨幣的特権を得る。
「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.130~131」国民文庫)
したがってジャンは、力への意志としては、他の何にでも変態可能だ。ジュネは力がその猛威を振るうあらゆる場面で、特権的言語と化したジャンの力を他の何ものにでも転移させ全力で活用する。ポーロにもエリックにもリトンにも。人間本来の獣性。それは兵士たちが互いに敵同士であってもなくても作動している。ジュネはそれを「アフリカの心臓」に喩える。
「対独協力義勇兵のズボンの紺の綿地と、兵士の黒色のそれとは、八月の日々と夜々と、疲労と不安とが彼らの汗とともに蓄積した匂いを収めていた、ところで二人の重なり合った動作はそれを解き放ち、まぜ合わせ、そして髪の毛で飾られた帯をまとい、身体をテカテカに光らせた裸の黒人戦士が、槍をたずさえ、竹藪の中から出現するのだった。リトンの握りしめた手のなかで、アフリカの心臓が鼓動していた」(ジュネ「葬儀・P.80~81」河出文庫)
エリックはナチス隊員であるにもかかわらず油断がある。エリックは男同士の友情というものに弱い。冷淡で残酷でありながらなぜか仲間にはふと心を許してしまう面を持っていた。
「パリの反抗は彼には裏切り行為のように思われた。四年間の眠りを装って一杯くわせたのだ。スタンドで飲み交わしたグラス、親しげにたたき合った肩、握手とともに与えられたあれほど親切な説明、遠慮なく、手軽に、後ろからものにできた女や若者、それらの背後で夥しい底意が復讐を準備していたのだ。友情が罠でありうることをエリックはさとりだしていた」(ジュネ「葬儀・P.82」河出文庫)
友情というものは永遠でないということを言いたいわけではない。そうではなく友情にしても愛情にしても、いずれにしても「罠」を含まないわけにはいかないということを意味している。とりわけ愛情の場合はどうか。愛情は変化することがあるが、そのとき愛情はいったい何を思いつくだろうか。
「《愛の残忍な思いつき》。ーーー激しい愛はすべて、愛の対象を殺して、それをけがらわしい心変わりの戯れから決然引き離してしまおうという残忍な考えを伴う。なぜなら、愛する心にとっては、破滅よりも変化のほうが恐ろしいからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二八〇・P.196~197」ちくま学芸文庫)
次の一節はエリックがなぜヒットラー・ユーゲントに入ったかという説明だが、注目すべき部分がある。「暮らしぶり」というものは何をどのように成し遂げるかということに言及している。
「だが結局のところドイツは彼にとってどれほどの意味があるというのか?彼は武器を手に入れるためにヒットラー・ユーゲントに入っただけのことだ。見せびらかすための短剣と、強奪用の拳銃。上衣の下に装填した拳銃を感じて胸をおどらせるフランスの若い対独協力義勇兵と彼はそれほどえらぶところはなかった。生れつきたくましい筋骨を彼はいやがうえにも培うのだった。暮らしぶりがその肉体のかたち、内在する微妙な性格を身につけぬわけはない」(ジュネ「葬儀・P.82~83」河出文庫)
要するにジュネが述べていることは、社会的物質的生活環境が人間の意識を規定するというマルクスの言葉そのままに状況は進展していく、という現実にほかならない。
「むしろ自分たちの物質的な生産と<現実的な>物質的な交通<の中で発展していく>を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.31」岩波文庫)
さて、アルトー。理解されることはおそらくないだろうという絶望的な確信の裡(うち)にこう述べる。
「人は私を信じまい みんなが肩をすくめるのがここから見える」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)
糞、肉、地層、領土、貨幣、資本、戦争、等々。それらへ置き換えられた暴力的過程を人間たちに開いてやってから、事後的にキリストは溶けてなくなってしまったかのように事態は推移している。
「しかしキリストという名の男は 神という毛虱を前にして 身体なしで生きることに同意したものにほかならない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)
神とは何か。それは古代からすでに自然に対する恐れとともに発生した「国家への意志/支配への意志」だった。極めて宗教色の強い国家共同体として君臨すること。神を名乗るあらゆる人々の共同体は、それじたい流動する「君臨への意志」でありなおかつ「支配への意志」として国家を形成した。国家こそが神を僭称したのだ。しかし凝固し固定しステレオタイプ化することでしか存在し得ない国家形態はさらなる新しい形態を準備していかなくてはならない。権力への意志はいたるところから生じるからである。そしてそれらはすべて敵として認知されるほかないからである。神としての国家はなるほど人間が糞であることを選択したときから始まった。そしてまた神は、糞としての神を欲した人間によってそれ以降たいへん長い過程を経つつ、しかし確実に地層の堆積として資本化される軌道を描いていくことになる。人間は凝固し固定しステレオタイプ化した身体というものの内部に拘束された。拘束されつつ資本化される。キリスト教は種々様々に異なる差異的人間に対して整形手術的な人為的暴圧を慣習的に加えつづけ、個々別々の人間であっても人間である以上はどの人間も均質で等価で一般的な人間を造り出した。いわば「数えられる集合化」(モル化)できる存在へと加工=変造した。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
しかし世界は必然的偶然性に満ちてもいる。
「ところが十字架から降りてきた 人々の一団がある」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)
この「一団」は何を意志しているのだろうか。
「神は久しい以前から彼らを十字架に釘付けしたものと信じていたが、彼らは反乱し、鉄、血、炎と骨で武装し、<不可視のもの>を罵倒しながら進んでいく 《神の裁き》を終えるためである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.26」河出文庫)
要するに「《神の裁き》」とは人間のステレオタイプ化にほかならない。だからアルトーはこの詩の終わりで述べられるように「器官なき身体」を意志する。ステレオタイプとしての身体を解体して流動するに任せてしまうということだ。ドゥルーズとガタリはその点についてこう述べている。
「器官なき身体。それは身体が器官にうんざりし、器官を放棄したがっているか、それとも失ってしまうときに、もう始動している」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.308」河出文庫)
さらに詳細な分析が加えられる。
「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫)
もっとも、器官なき身体という用語は「アンチ・オイディプス」ですでに採用されていた。そして「器官なき身体」の実現へ向けて資本主義をより一層加速化することが目指されていた。資本主義特有の均質化作用が極限まで達するとすれば、どの人間ももはや原型を留めず、より一層高速で回転しつづける諸力の運動の中で溶解してしまい、端から端まで均質化されたどろどろのバターのようなものになったしまうだろうという読みは十分に考えられた。もっとも、一方でそれは非難されもした。けれども他方、資本主義分析としては何ら間違っていないと言い得る。一九七二年に発表された著作である。むしろ事態がそのまま推移するとすれば当然そうなるのは目に見えていたと言わねばならない。事実、日本でも八〇年代後半のバブルの時期、プルースト化していないどんな金融機関があったというのか。あらゆる金融機関は《進行中の》「失われた時を求めて」《未知の国、未知の大地》へ全力で欲望していなかっただろうか。
「分裂者分析の偉大なる試みとして、『失われた時を求めて』を取りあげることにしたい。すべての局面は、分子的な逃走〔洩出〕線⦅つまり、分裂症的な突破口⦆にまで通じている。だから、接吻においてもそうだ。そこでは、アルベルチーヌの顔は、ひとつの構成局面から別の構成局面に飛躍して、ついには、種々の分子の星雲の中に解体してゆくのだ。読者自身は、ある局面に立ち止り、そこで、<そうだ、プルーストが自分の立場を説明しているのは、ここなのだ>と語る危険にたえずさらされているわけなのだ。ところが、蜘蛛である話者は、自分の形成した蜘蛛の巣や局面をみずから解体しては再び旅行に立ち帰って、種々の機械として働く記号や指標をさぐり求めることをやめないのである。こうした記号や指標は、この蜘蛛である話者をさらに遠くへと進ませるものにほかならない。この運動そのものは、ユーモアである。ブラック・ユーモアである。オイディプスの神経症的な家庭の大地。ここは、全体として人間の姿態をとった人物の種々の接続が確立されている場所である。ああ、だが話者はここには定着しない。ここには立ち止らないのだ。ここを横断し、ここを冒瀆し、ここを突破して、靴の紐を締める機械で自分の祖母をさえ片づけて始末してしまうのだ。同性愛の倒錯した大地。ここは、女性と女性、男性と男性との排他択一的離接が確立されている場所である。この大地も同様に、この大地に坑道を掘る種々の機械的指標の働きに応じて瓦解してゆく。自分自身の連接の働きをその場に具えている精神病的な大地。(だから、シャルリュスは確実に気が狂っている。だから、恐らく、アルベルチーヌもそうだったのだ。)この大地は、こんどは、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦅つまり、そのままの事態で、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦆道が真直ぐに通じている。話者は、《未知の国、未知の大地》に至るまで、かれ自身の仕事をなし続けるというわけなのだ。この未知の大地は、進行中のかれ自身の作品⦅つまり『《進行中の》』『《失われた時を求めて》』⦆によってのみ創造されるものなのである。進行中のかれ自身の作品は、一切の指標を採集して処理することのできる欲望する機械として作用するからである。話者は、こうした新しい領域に進んでゆくのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.378」河出書房新社)
バブル期の高速流通経済は、言語も貨幣も労働力も性行為も、いずれにしても「死《を》欲望する」というより、「死《が》欲望している」としか見えなかった。学生時代にあちこちふらふらしていたおかげというべきか、大企業密集地(北浜など)も日雇い労働者の街(釜ヶ崎など)も見る機会が多々あった。さらに東京の新宿や神田などはとても元気で面白かった。日本中で「死《を》欲望する」のではなく「死《が》欲望している」現場を見た。
アルトーのいう「器官なき身体」《と》「死」との関係について。
「器官なき身体は死のモデルである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)
さらに。
「死は欲望されているのではない〔欲望の対象であるのではない〕。欲望の主体である。<欲望している死>が存在しているだけなのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)
バブル期の高速流通経済のうちに見えたのは後者で書かれている「主体」《として》「欲望する死」であり、それもまた欲望する生産の一方をなしている。というのは「欲望する生」もまた同時に生産されているからにほかならない。
ところが「千のプラトー」では「アンチ・オイディプス」で提起された諸問題について、《別の仕方で》繊細かつ慎重な配慮が払われている。叙述が異なっている。というのは、「《神の裁き》、神の裁きの体系」に対して自己の身体〔次々と地層化され領土化され資本化されていく身体〕を徹底的に解体するといってみたところで、どんどん生じてくる欲望は限度を知らないということはわかりきったことだからだ。したがって欲望する生産に向かって「ハンマーでめった打ちにするような仕方では」、神と化した資本主義に抵抗する側ばかりがただ単に力を消耗させてしまうのみならず、欲望という多義的な力の流動性に対してきりのない暴力的死を夢見ることと同義になってしまいかねないのである。ややもすればただ単なる抽象的な観念に堕してしまう。逆に欲望は種々様々な形態へ変容しうる。次のように。
「器官なき身体は欲望である。人が欲望するのは器官なき身体であり、これによってこそ人は欲望するのだ。器官なき身体は存立平面であり、欲望の内在野であるばかりではなく、たとえ粗暴な地層化によって空虚におちいり、また癌的な地層の増殖におちいっても、まだ欲望であり続ける。欲望は、自分自身の消滅を願ったり、破壊的な力をもつものを欲したりするところまで行く。貨幣の欲望、軍隊の欲望、警察や国家の欲望、ファシストの欲望。ファシズムさえも欲望なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.338」河出文庫)
そういうものに対するとき、そして人間もまたそのように変容する欲望の部分として生きているかぎり、「有機体であることをやめる」ためには、もっと繊細で注意深くなければならない。こんなふうに。
「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「(魂を返すとき〔息絶えること〕、その肉体の息吹は言葉もともに運び去るように思われる)ーーー魂とは波にきらめく海草のようなもの、その深い夜のなかで奇妙な生活をいとなんでいる諸器官、肝臓や、脾臓や、緑色の胃壁や、胆汁や、血液や、乳糜(にゅうび)や、珊瑚状毛細管や、朱色の海や、青い腸などの密やかな作業が、いやそれらの内蔵器官そのものが、陰影に富んだほのかな渦柱となって立ち昇る、妙なる展開にほかならないように思われる」(ジュネ「葬儀・P.78」河出文庫)
しかしジャンだけは特権化されている。「ヴェネチア・ガラスのフラスコ」にしてしまう。ジャンの身体は「一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間が訪れる」ことを疑わない。
「ジャンの身体は、いうなればヴェネチア・ガラスのフラスコであった。ジャンから抽き出される素晴らしい言語が、まるで糸毬の糸がそれを痩せ細らせるように、彼の身体を透明にまで、一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間が訪れることを私は疑わなかった。その言語はそれを発した天体を構成している物質の秘密を私に教え、ジャンの内蔵にたまった糞も、彼の澱んだにぶい血液も、精液も、涙も、膿汁も、わたしたちの糞や、血液や、精液と同じものではないことを思い知らせるのだった」(ジュネ「葬儀・P.78」河出文庫)
ジュネ的感性にすれば、このとき、ほとんど確実に或る種の音楽が聞こえるにちがいない。それは「美しい」からだ。しかし「一粒の光にまでやせ細らせてしまう瞬間」とは一体どのような瞬間をいうのか。「泥棒日記」ではジャヴァについてこう述べられている。
「彼の卑劣さ、意気地無さ、挙措(きょそ)や心情の低俗さ、愚かさ、臆病(おくびょう)などといった性質も、わたしがジャヴァを愛する妨げとはならない。わたしは以上のものにさらに彼の可愛らしさという性質をもつけ加えよう。これらの諸要素の対立状態、あるいはその混合状態、あるいはそれらのついての解釈が、一つの新しい、名づけようのない美質ーーー合金のごときものーーーを造りだす。
わたしは以上の諸性質にさらに彼の身体的諸性質、彼の頑丈(がんじょう)で仄(ほの)暗い肉体、をつけ加える。この新しい美質を言い表わそうとするとき、わたしの脳裡(のうり)に否応(いやおう)なく浮ぶイメージは、上に列挙した諸要素が、その一つ一つの断面を形づくっている一個の結晶体のイメージなのである。
ジャヴァは煌(きら)めくのだ。彼の液体ーーーと彼のもろもろの炎(光輝)とーーーは、まさにわたしがジャヴァとよぶところの、そしてわたしが愛するところの、独異の功力(ちから)なのだ。
わたしの言う意味をさらに明確に言えば、わたしは卑劣さをも愚かさも愛するのではなく、また、そのいずれかの《ために》ジャヴァを愛するのでもなく、それらの彼における出会いがわたしを夢中にする」(ジュネ「泥棒日記・P.364~365」新潮文庫)
それら諸要素のジャヴァ《における》出会いがジャヴァという「合金」を成立せしめるのであって、その逆ではない。ふだんそれらの諸要素はばらばらに解体されていて、何らの魅力もない。ジュネは或る瞬間、諸要素のジャヴァ《における》出会いの瞬間にのみ光り輝く「一個の結晶体」であり「独異の功力(ちから)」となるときにかぎり、仮にジャヴァと名づけられた「力あるいは美」の出現を見る。このときジャヴァは諸商品の無限の系列から排除され諸商品を排除しつつ出現する貨幣に似ている。
同じ論理がジャンの場合にも応用されている。ジュネにとってはジャンの言語だけが貨幣化される。他のすべてのただ単なる言語の系列から独立し他の言語を排除してただ一つの言語(ジャンの言語)だけが特権化されることでその言語のみにかぎり始めて貨幣的特権を得る。
「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.130~131」国民文庫)
したがってジャンは、力への意志としては、他の何にでも変態可能だ。ジュネは力がその猛威を振るうあらゆる場面で、特権的言語と化したジャンの力を他の何ものにでも転移させ全力で活用する。ポーロにもエリックにもリトンにも。人間本来の獣性。それは兵士たちが互いに敵同士であってもなくても作動している。ジュネはそれを「アフリカの心臓」に喩える。
「対独協力義勇兵のズボンの紺の綿地と、兵士の黒色のそれとは、八月の日々と夜々と、疲労と不安とが彼らの汗とともに蓄積した匂いを収めていた、ところで二人の重なり合った動作はそれを解き放ち、まぜ合わせ、そして髪の毛で飾られた帯をまとい、身体をテカテカに光らせた裸の黒人戦士が、槍をたずさえ、竹藪の中から出現するのだった。リトンの握りしめた手のなかで、アフリカの心臓が鼓動していた」(ジュネ「葬儀・P.80~81」河出文庫)
エリックはナチス隊員であるにもかかわらず油断がある。エリックは男同士の友情というものに弱い。冷淡で残酷でありながらなぜか仲間にはふと心を許してしまう面を持っていた。
「パリの反抗は彼には裏切り行為のように思われた。四年間の眠りを装って一杯くわせたのだ。スタンドで飲み交わしたグラス、親しげにたたき合った肩、握手とともに与えられたあれほど親切な説明、遠慮なく、手軽に、後ろからものにできた女や若者、それらの背後で夥しい底意が復讐を準備していたのだ。友情が罠でありうることをエリックはさとりだしていた」(ジュネ「葬儀・P.82」河出文庫)
友情というものは永遠でないということを言いたいわけではない。そうではなく友情にしても愛情にしても、いずれにしても「罠」を含まないわけにはいかないということを意味している。とりわけ愛情の場合はどうか。愛情は変化することがあるが、そのとき愛情はいったい何を思いつくだろうか。
「《愛の残忍な思いつき》。ーーー激しい愛はすべて、愛の対象を殺して、それをけがらわしい心変わりの戯れから決然引き離してしまおうという残忍な考えを伴う。なぜなら、愛する心にとっては、破滅よりも変化のほうが恐ろしいからである」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・二八〇・P.196~197」ちくま学芸文庫)
次の一節はエリックがなぜヒットラー・ユーゲントに入ったかという説明だが、注目すべき部分がある。「暮らしぶり」というものは何をどのように成し遂げるかということに言及している。
「だが結局のところドイツは彼にとってどれほどの意味があるというのか?彼は武器を手に入れるためにヒットラー・ユーゲントに入っただけのことだ。見せびらかすための短剣と、強奪用の拳銃。上衣の下に装填した拳銃を感じて胸をおどらせるフランスの若い対独協力義勇兵と彼はそれほどえらぶところはなかった。生れつきたくましい筋骨を彼はいやがうえにも培うのだった。暮らしぶりがその肉体のかたち、内在する微妙な性格を身につけぬわけはない」(ジュネ「葬儀・P.82~83」河出文庫)
要するにジュネが述べていることは、社会的物質的生活環境が人間の意識を規定するというマルクスの言葉そのままに状況は進展していく、という現実にほかならない。
「むしろ自分たちの物質的な生産と<現実的な>物質的な交通<の中で発展していく>を発展させていく人間たちが、こうした自分たちの現実と一緒に、自らの思考や思考の産物をも変化させていくのである。意識が生活を規定するのではなく、生活が意識を規定する」(マルクス=エンゲルス「ドイツ・イデオロギー・P.31」岩波文庫)
さて、アルトー。理解されることはおそらくないだろうという絶望的な確信の裡(うち)にこう述べる。
「人は私を信じまい みんなが肩をすくめるのがここから見える」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)
糞、肉、地層、領土、貨幣、資本、戦争、等々。それらへ置き換えられた暴力的過程を人間たちに開いてやってから、事後的にキリストは溶けてなくなってしまったかのように事態は推移している。
「しかしキリストという名の男は 神という毛虱を前にして 身体なしで生きることに同意したものにほかならない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)
神とは何か。それは古代からすでに自然に対する恐れとともに発生した「国家への意志/支配への意志」だった。極めて宗教色の強い国家共同体として君臨すること。神を名乗るあらゆる人々の共同体は、それじたい流動する「君臨への意志」でありなおかつ「支配への意志」として国家を形成した。国家こそが神を僭称したのだ。しかし凝固し固定しステレオタイプ化することでしか存在し得ない国家形態はさらなる新しい形態を準備していかなくてはならない。権力への意志はいたるところから生じるからである。そしてそれらはすべて敵として認知されるほかないからである。神としての国家はなるほど人間が糞であることを選択したときから始まった。そしてまた神は、糞としての神を欲した人間によってそれ以降たいへん長い過程を経つつ、しかし確実に地層の堆積として資本化される軌道を描いていくことになる。人間は凝固し固定しステレオタイプ化した身体というものの内部に拘束された。拘束されつつ資本化される。キリスト教は種々様々に異なる差異的人間に対して整形手術的な人為的暴圧を慣習的に加えつづけ、個々別々の人間であっても人間である以上はどの人間も均質で等価で一般的な人間を造り出した。いわば「数えられる集合化」(モル化)できる存在へと加工=変造した。
「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名文を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・P.64」岩波文庫)
しかし世界は必然的偶然性に満ちてもいる。
「ところが十字架から降りてきた 人々の一団がある」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.25」河出文庫)
この「一団」は何を意志しているのだろうか。
「神は久しい以前から彼らを十字架に釘付けしたものと信じていたが、彼らは反乱し、鉄、血、炎と骨で武装し、<不可視のもの>を罵倒しながら進んでいく 《神の裁き》を終えるためである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.26」河出文庫)
要するに「《神の裁き》」とは人間のステレオタイプ化にほかならない。だからアルトーはこの詩の終わりで述べられるように「器官なき身体」を意志する。ステレオタイプとしての身体を解体して流動するに任せてしまうということだ。ドゥルーズとガタリはその点についてこう述べている。
「器官なき身体。それは身体が器官にうんざりし、器官を放棄したがっているか、それとも失ってしまうときに、もう始動している」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.308」河出文庫)
さらに詳細な分析が加えられる。
「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫)
もっとも、器官なき身体という用語は「アンチ・オイディプス」ですでに採用されていた。そして「器官なき身体」の実現へ向けて資本主義をより一層加速化することが目指されていた。資本主義特有の均質化作用が極限まで達するとすれば、どの人間ももはや原型を留めず、より一層高速で回転しつづける諸力の運動の中で溶解してしまい、端から端まで均質化されたどろどろのバターのようなものになったしまうだろうという読みは十分に考えられた。もっとも、一方でそれは非難されもした。けれども他方、資本主義分析としては何ら間違っていないと言い得る。一九七二年に発表された著作である。むしろ事態がそのまま推移するとすれば当然そうなるのは目に見えていたと言わねばならない。事実、日本でも八〇年代後半のバブルの時期、プルースト化していないどんな金融機関があったというのか。あらゆる金融機関は《進行中の》「失われた時を求めて」《未知の国、未知の大地》へ全力で欲望していなかっただろうか。
「分裂者分析の偉大なる試みとして、『失われた時を求めて』を取りあげることにしたい。すべての局面は、分子的な逃走〔洩出〕線⦅つまり、分裂症的な突破口⦆にまで通じている。だから、接吻においてもそうだ。そこでは、アルベルチーヌの顔は、ひとつの構成局面から別の構成局面に飛躍して、ついには、種々の分子の星雲の中に解体してゆくのだ。読者自身は、ある局面に立ち止り、そこで、<そうだ、プルーストが自分の立場を説明しているのは、ここなのだ>と語る危険にたえずさらされているわけなのだ。ところが、蜘蛛である話者は、自分の形成した蜘蛛の巣や局面をみずから解体しては再び旅行に立ち帰って、種々の機械として働く記号や指標をさぐり求めることをやめないのである。こうした記号や指標は、この蜘蛛である話者をさらに遠くへと進ませるものにほかならない。この運動そのものは、ユーモアである。ブラック・ユーモアである。オイディプスの神経症的な家庭の大地。ここは、全体として人間の姿態をとった人物の種々の接続が確立されている場所である。ああ、だが話者はここには定着しない。ここには立ち止らないのだ。ここを横断し、ここを冒瀆し、ここを突破して、靴の紐を締める機械で自分の祖母をさえ片づけて始末してしまうのだ。同性愛の倒錯した大地。ここは、女性と女性、男性と男性との排他択一的離接が確立されている場所である。この大地も同様に、この大地に坑道を掘る種々の機械的指標の働きに応じて瓦解してゆく。自分自身の連接の働きをその場に具えている精神病的な大地。(だから、シャルリュスは確実に気が狂っている。だから、恐らく、アルベルチーヌもそうだったのだ。)この大地は、こんどは、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦅つまり、そのままの事態で、問題がもはや提起されることのない地点にまで⦆道が真直ぐに通じている。話者は、《未知の国、未知の大地》に至るまで、かれ自身の仕事をなし続けるというわけなのだ。この未知の大地は、進行中のかれ自身の作品⦅つまり『《進行中の》』『《失われた時を求めて》』⦆によってのみ創造されるものなのである。進行中のかれ自身の作品は、一切の指標を採集して処理することのできる欲望する機械として作用するからである。話者は、こうした新しい領域に進んでゆくのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.378」河出書房新社)
バブル期の高速流通経済は、言語も貨幣も労働力も性行為も、いずれにしても「死《を》欲望する」というより、「死《が》欲望している」としか見えなかった。学生時代にあちこちふらふらしていたおかげというべきか、大企業密集地(北浜など)も日雇い労働者の街(釜ヶ崎など)も見る機会が多々あった。さらに東京の新宿や神田などはとても元気で面白かった。日本中で「死《を》欲望する」のではなく「死《が》欲望している」現場を見た。
アルトーのいう「器官なき身体」《と》「死」との関係について。
「器官なき身体は死のモデルである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)
さらに。
「死は欲望されているのではない〔欲望の対象であるのではない〕。欲望の主体である。<欲望している死>が存在しているだけなのである」(ドゥルーズ&ガタリ「アンチ・オイディプス・P.391」河出書房新社)
バブル期の高速流通経済のうちに見えたのは後者で書かれている「主体」《として》「欲望する死」であり、それもまた欲望する生産の一方をなしている。というのは「欲望する生」もまた同時に生産されているからにほかならない。
ところが「千のプラトー」では「アンチ・オイディプス」で提起された諸問題について、《別の仕方で》繊細かつ慎重な配慮が払われている。叙述が異なっている。というのは、「《神の裁き》、神の裁きの体系」に対して自己の身体〔次々と地層化され領土化され資本化されていく身体〕を徹底的に解体するといってみたところで、どんどん生じてくる欲望は限度を知らないということはわかりきったことだからだ。したがって欲望する生産に向かって「ハンマーでめった打ちにするような仕方では」、神と化した資本主義に抵抗する側ばかりがただ単に力を消耗させてしまうのみならず、欲望という多義的な力の流動性に対してきりのない暴力的死を夢見ることと同義になってしまいかねないのである。ややもすればただ単なる抽象的な観念に堕してしまう。逆に欲望は種々様々な形態へ変容しうる。次のように。
「器官なき身体は欲望である。人が欲望するのは器官なき身体であり、これによってこそ人は欲望するのだ。器官なき身体は存立平面であり、欲望の内在野であるばかりではなく、たとえ粗暴な地層化によって空虚におちいり、また癌的な地層の増殖におちいっても、まだ欲望であり続ける。欲望は、自分自身の消滅を願ったり、破壊的な力をもつものを欲したりするところまで行く。貨幣の欲望、軍隊の欲望、警察や国家の欲望、ファシストの欲望。ファシズムさえも欲望なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.338」河出文庫)
そういうものに対するとき、そして人間もまたそのように変容する欲望の部分として生きているかぎり、「有機体であることをやめる」ためには、もっと繊細で注意深くなければならない。こんなふうに。
「非分節化すること、有機体であることをやめるとは、いったいどんなことか。それがどんなに単純で、われわれが毎日していることにすぎないかをどう言い表わせばよいだろう。慎重さ、処方量(ドーズ)のテクニックといったものが必要であり、オーバードーズは危険をともなう。ハンマーでめった打ちにするような仕方ではなく、繊細にやすりをかけるような仕方で進まなくてはならない。われわれは、死の欲動とはまったく異なった自己破壊を発明する。有機体を解体することは決して自殺することではなく、まさに一つのアレンジメントを想定する連結、回路、段階と閾、通路と強度の配分、領土と、測量士の仕方で測られた脱領土化というものに向けて、身体を開くことなのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.327~328」河出文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM