白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

ジュネの輪郭/デデの機能

2019年10月09日 | 日記・エッセイ・コラム
ジュネが何ものであるかはジュネが何をしているかによって決まる。少年時代のジュネは孤児という境遇においてすでに社会から排除されていたため、ほとんど何もすることがなかった。そこで覚えたのが「盗み」である。「盗むこと」でジュネは孤児という境遇にふさわしい怪物性が自分に与えられるはずだと信じるようになる。ところが。

「盗みという行為がどれほど広く行われているものであるかということに気づいたとき、わたしの驚きは大きかった。わたしは一挙に月並みさの中に投げこまれてしまった」(ジュネ「泥棒日記・P.357~358」新潮文庫)

ジュネが欲していたのは孤児の境遇にふさわしい固有性でありその証明として機能したのが「盗み」だったにもかかわらず、すでに世間一般では「盗み」は何一つ特別な行為ではないことを知った。むしろ「盗み」は「月並み」な行為にほかならず、ジュネが実現しようとした自分だけの怪物性あるいは固有性さらには独異性の獲得とはかけ離れた凡庸な行為でしかなかった。そこで思いついたのは、盗みという行為から撤退するのではなくて、逆に「盗み《への》意志」としてその過程をよりいっそう強力に押し進めるという方法だった。

「それから抜け出すために、わたしが必要としたのは、ただ、わたしの泥棒としての運命を自己の栄光とし、この運命を希求することだけでよかったのだ。人はこれを負け惜しみと見なし、馬鹿者どもはそれを冷笑した。人はわたしのことを悪(あ)しき泥棒だと言うかもしれないが、そんなことは問題ではない」(ジュネ「泥棒日記・P.358」新潮文庫)

ここでおそらく自然に身につけることになったのがニーチェのいう「運命愛《への》意志」だったのだろう。

「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいう「運命愛」は当時の宗教が指導していた「運命の甘受」とはまったく異なる。宗教界があげて勧めていたのは、たとえばジュネのような孤児の場合、孤児の分限を越えようとするのではなく、むしろ孤児なら孤児で孤児としての分(ぶ)をわきまえて置かれた場所で花を咲かせてみてはどうか、という極めて消極的な意味の説教でしかなかった。そこには何らの積極的行動も伴わない。ニーチェのいう「運命愛」はそうではない。自分が孤児であるなら、孤児として怪物性あるいは固有性さらには独異性をあくまで能動的に《欲する》という行為に変換するという「価値転換《への》意志」を意味する。そのために必要な能動性とはどのような態度だろうか。

「『能動的』とは何か?ーーー権力をつかみかかること」(ニーチェ「権力への意志・第三書・六五七・P.179」ちくま学芸文庫)

まず自分が置かれている現状についての把握。そして世間一般の価値観の価値転換に至るほどにまでよりいっそう現状を深く強力に押し進めるための自覚こそが必要となる。

「弱い人間たちは『私はこうせざるをえない』と言い、強い人間たちは『事はこうあらざるをえない』と言う」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・五二三・P.289」ちくま学芸文庫)

ジュネは是非もなく「強い人間」になろうとますます自分で自分自身を鍛錬していく。しかしそれはただ単に筋肉隆々な肉体改造によってマッチョになることとは何の関係もない。そうではなく、政治的社会的機構を通して操作される世間からの排除圧力に対して、「《ディオニュソス的に然りと断言すること》」、である。それがよりいっそうの汚辱への過程であれ、ますます激しくなる性倒錯への過程であれ、救いようがなければなくなるほど、少なくとも自己「英雄化=神格化」される機会から遠のくことができるし、人間たちから隔絶されればされるほど人間たちから搾取されることもないのであるから。

さらにジュネは、「人はわたしのことを悪(あ)しき泥棒だと言うかもしれないが、そんなことは問題ではない」、と述べる。「負け惜しみと見な」されることも多々あった。けれどもジュネたちの側からすれば、もっとはるかに珍妙な光景を見せつけられてきた疑えない歴史について語り継がれ熟知されている実状がかつてあったし当時も残されていた。こうだ。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

さらにジュネは次第に「言語の力」を活用することを学んでいく。たとえば「泥棒」の場合。ジュネは「泥棒」だと明確化され、しかも自分の頭の中だけで漫然とそう考えているだけではなしに、周囲からその「輪郭」を鮮明化した形で、要するに「泥棒」という言語で明確な輪郭を与えられることで、逆にジュネはますます自己実現への過程を加速することができるようになる。

「泥棒という言葉は、その主要な活動が盗みであるところの人間をさす。そういう人間からーーー彼がこう呼ばれているかぎりーーー彼の中の泥棒以外のあらゆる点を除外して、その人間を明確化するはたらきをする。彼を単純化する」(ジュネ「泥棒日記・P.358」新潮文庫)

言語化の過程で明晰になるのは事物の潜在的可能性である。ベルクソンはいう。

「知覚とは、私たちの理解するところでは、事物に対するみずからの可能な行動を計るものであり、逆にじぶんに対して事物がおよぼすことの可能な作用を測るものにほかならない」(ベルクソン「物質と記憶・P.111」岩波文庫)

たとえばシーザーがルビコン河を渡るか渡らないか分からないとき、シーザーの行動の潜在的可能性は周囲にはまだ未知数でしかない。ところがシーザーがルビコン河を渡り、その輪郭が明確化されるやいなや、シーザーの行動の潜在的可能性は一挙に現実性へと変換される。その意味で「ジュネは泥棒だ」と明確化した言語の力は逆にジュネの生き方とその無限の可能性を一挙に押しひらくことに貢献するわけである。輪郭を与えられるということ。ベルクソンは他のところでも幾つか触れている。

「われわれがある対象に割り当てるはっきりとした輪郭は、その対象に個別性を与えているが、それらの輪郭は、われわれが空間のある点で及ぼしうるある種の《影響》の素描でしかない。つまりそれらは、われわれが起こすことになるかもしれない行動の計画である」(ベルクソン「創造的進化・P.30~31」ちくま学芸文庫)

「諸物体の眼に見える輪郭とは、それらに対するわれわれの可能的な行動の素描なのである」(ベルクソン「創造的進化・P.131」ちくま学芸文庫)

「われわれの知覚は、事物そのものの素描よりも、その事物に対するわれわれの可能的な行動の素描を与える。われわれが対象に見つける輪郭が示しているのは単に、その対象のうちで到達できるもの、変化させることができるものでしかない」(ベルクソン「創造的進化・P.240」ちくま学芸文庫)

世間一般からの除外。それはジュネを一挙に社会的孤立へと突き放す。突き放されたことで逆にジュネの自覚は急速に深まる。世間一般とジュネとのあいだには或る距離が生じる。この距離はジュネにっとておそらく途方もなく大きく作用したはずだが、そのことが逆に世間一般への洞察力ならびに理解力をも容易にしたことは確実だといえる。

「ところで詩(ポエジー)は、彼の、泥棒という境涯への最も深い自覚にあるのだ。もちろん、泥棒以外のいかなる境涯でも、その人間に名称を与えるほどに本質的になることができる自覚ならば、それもまた同様に詩(ポエジー)であろう。しかし、いずれにしろ、わたしの独異性への自覚が、盗みという一つの非社会的活動によってよばれるということはよいことである」(ジュネ「泥棒日記・P.358」新潮文庫)

世間一般の性質について学ぶジュネ。世間一般というものは自分たち世間の価値観に合わないものに対してともかく突き放し排除しようという傾向を持つ。その傾向はたとえばジュネのような孤児の境遇に陥っている人間に対する「復讐感情」として表面化することが多い。さらにジュネはすでに盗みに手を染めている。事態がそうなってくると、世間は、自分たちの価値観に合わないものを「《低級の段階に置くという》」行動でとことん責め立て、「《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》」という次元にまで徹底的に落とし込めようと必死になる。

「『復讐』ーーー報復したいという熱望ーーーは、不正がなされたという感情では《なく》て、私が《打ち負かされた》というーーーそして、私はあらゆる手段でもっていまや私の面目を回復しなくてはならないという感情である。《不正》は、《契約》が破られたとき、それゆえ平和と信義が傷つけられるとき、初めて生ずる。これは、なんらかの《ふさわしくない》、つまり感覚の同等性という前提にふさわしくない行為についての憤激である。それゆえ、或る低級の段階を指示する何か卑俗なもの、軽蔑すべきものが、そこにはあるにちがいない。これと反対の意図は、ふさわしくない人物をこうした《低級の段階に置くという》、つまり、そうした人物を私たちから分離し、追放し、おとしめ、そうした人物に恥辱を加えるという意図でしかありえない。《刑罰の意味》。刑罰の意味は、威嚇することでは《なく》て、社会的秩序のなかで誰かを低位に置くことである。《その者はもはや私たちと同等の者たちには属していない》のだ。《このこと》を実現する方策ならどれでも、用が足りるのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一〇五一・P.560~561」ちくま学芸文庫)

それにしても、世間からジュネに浴びせられる「復讐感情」はどのようにして増殖する機会を得たのだろうか。なるほどジュネは孤児であり泥棒となり裏切り者になるとともに性倒錯者に《なる》。世間の中にはそのような境遇に置かれた幼少年を救済する意志がまったくなかったのだろうか。そうとはいえない。救済機関はあった。けれどもジュネに対する救済措置が功を奏さなかったとき、何が起こったか。救済機関の側がジュネの「希望をかなえてやれない」と見切ったとき、どのような意識の転倒が起こったのか。それがわからなければ、なぜジュネに対する「復讐感情」「差別意識」「終わりなき刑罰」が発生したか理解に苦しむことになるだろう。事態はおそらくこうだったに違いない。

「《もはや望ましくない友人》。ーーーその希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む」(ニーチェ「曙光・三一三・P.307」ちくま学芸文庫)

人間は誰かを救けようとする傾向を持つ。ところがしばしば救けられずに失敗する。すると、救けられなかったことが自分の無力あるいは恥部さらに罪悪感として感じられる。誰かが救けを希望して待ち望んでいたとしよう。しかしその「希望をかなえて」やることができない結果となった。その経験は救ける側にとって「恥部」「心の傷」「良心の疚(やま)しさ」として、精神の奥深くまで食い込み記憶に刻み込まれる。やがてそれは無意識の裡(うち)に全身を蝕んでいく。放っておくと自分自身が「恥部」「心の傷」「良心の疚(やま)しさ」によって自己破滅してしまうだろう。そこで人間はこんどは逆に、「希望をかなえて」やることができなかった相手の中に自分が負った「恥部」「心の傷」「良心の疚(やま)しさ」を暴力的に無理やり押し込み擦り付ける。あるいは似たような境遇に置かれている別の相手を見つけ出して、かつて自分が負った「恥部」「心の傷」「良心の疚(やま)しさ」を暴力的に無理やり押し込み擦り付ける。そうして「終わりなき刑罰」を反復することで少しでも自分が、そして自分だけが、ほんの短時間だけでも「癒される」ことを欲する。ジュネの場合、つねづね世間が感じている「恥部」「心の傷」「良心の疚(やま)しさ」をほとんど一手に引き受けさせられることになった。しかし被害者意識ばかり持っていては近いうちに自分は死ぬにちがいないとジュネはおもう。だから、終わりのない「罪と罰」という暴力を受動的に甘受して殺されるときを待つのでなしに、自分の側から他人の「恥部」を思う存分に引き受けるだけでなく、白昼堂々と出現する「汚辱《への》意志」として実際に繰り返し再演してみせるという「積極的《ディオニュソス的》運命愛」を欲したのだ。

そしてジュネは知る。周囲と「《別様の》感じ方」をした人間たち、「『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」、と。「例外」と見なされたすべての者たちは、長い時間をかけてじわじわと「排除」され「破滅」させられてきたのだと。

「私は、戸外へ歩み出て、どんなすばらしい明確さをそなえて一切のものが私たちに作用をおよぼすか、たとえば森がそうであり山もそうである、と考えて、また、一切の感覚に関して、私たちのうちにはまったくなんらの混乱、見誤り、躊躇もないということを考えて、いつも驚くのである。それにもかかわらず、はなはだしい不確実性と何か混沌としたものが現存していたにちがいなく、途方もなく長い時間をかけて初めてそういった一切のものはそのように《確固とした》相続物になったのである。空間的間隔、光、色等々に関して本質的に別様の感じ方をした人間たちは、排除されてしまい、うまく繁殖することができなかったのだ。こういう《別様の》感じ方は、何千年もの長い間『《狂気》』と感じられて忌避されたに《ちがいない》のだ。人々はもはや互いに理解し合わず、『例外』を排除し、破滅させたのだ。一切の有機的なものの始まり以来或る途方もない残酷さが現存してきた、つまり『《別様の感じ方をした》』一切のものが排除されてきたのだ」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・八九・P.63」ちくま学芸文庫)

また世間には世間一般の道徳というものがある。ひとことで道徳といっても実に様々だということもジュネは学んでいく。ジュネにとって「性愛《への》意志」は重要な要素なのだが、その性愛について、奇妙というほかない道徳が社会的規模で蔓延していることをも知ることになる。たとえば次のような、ニーチェのいう「道徳的な虚偽」というものについて。

「人間にその性欲を、子供をもうけるための《義務》としてしか意識させないような、高度に道徳的な虚偽がありうるかもしれない」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・九四四・P.508」ちくま学芸文庫)

ちなみに道徳感情についてとりわけ鋭い意識を持っていたニーチェは、道徳の発生源は人間の「群畜的本能」にあると追求してみせた。

「群畜的本能。ーーー道徳というものにぶつかる場合、いつでもそこにわれわれは人間の諸々の衝動や行為の評価と等級づけのあるのを発見する。これらの評価と等級づけは、いつでも、ある共同体や群畜存在の要求の表現なのである。《これらのものに》とって第一に役立つーーーまた第二にも第三にも役立つーーーもの、それがまたすべての個々人の価値を定めるうえの最高の規準でもある。道徳によって、個人は、群畜存在の機能であるように、また機能としてだけ自分を価値づけるように、導かれる。一共同体を維持する諸条件は他の共同体のそれとは非常に違っていたから、きわめてまちまちな道徳が存在した。さらに、もろもろの群畜存在や共同体、国家や社会に今後おこるでもあろう本質的な変革を頭におけば、次のようにわれわれは予言することができる、ーーーこれからも随分と変り種の道徳があらわれるだろう、と。道徳性とは、個々人における群畜的本能のことである」(ニーチェ「悦ばしき知識・一一六・P.210」ちくま学芸文庫)

また、ジュネが「泥棒という境涯への最も深い自覚」に「詩(ポエジー)」を見ると言うとき、犯罪者としてジュネが感じている「詩(ポエジー)」とはどのような「詩(ポエジー)」だろう。

「《犯罪者の悲哀》。ーーー犯罪者であることが発覚したとき、彼が苦しむのは犯罪ではなくて恥辱であり、馬鹿げたことをしたことに対する嫌悪であり、通例の生活必需品に不自由することである。この点を区別するためには、めったにないような敏感さを必要とする。刑務所や強制労働場にしばしば出入りした人ならだれでも、そこでは明確な『良心の呵責』に出会うことがどんなに珍しいかに驚く。しかもそれだけ一層多く、古くから馴染んでいる悪い犯罪への郷愁に出会う」(ニーチェ「曙光・三六六・P.333」ちくま学芸文庫)

ジュネは孤児として生まれた。あらかじめ世間から排除される対象として生まれてきた。だからといって、まちがっても「同情」などしてほしいとは望まない。「同情」は、或る人間が他の人間よりも社会的に優位な立場に立ったとき始めて込み上げてくる差別的で忌まわしい極めて不潔な感情でしかないからだ。それよりもジュネは、自分から、自分の意志によって、あえて「汚辱《への》過程」を選択するという方向へ向かった。変に同情されて望んでもいない恩を売られるより、「非情な扱いを受けること《への》意志」を選択することで、同情という「押し売り」から上手く逃れたのである。そして世間一般による「非情な扱い」はジュネに対してますます救いようのない独異性をどんどん与えていくこととなる。さらに「盗み」という行為が、この独異性あるいは固有性をますます大きなものに変え、いよいよ明確な輪郭を兼ね備えた確固たるものになっていくとすれば、要するにジュネの固有性(自分が自分自身であること)を保障する根拠になればなるほど、ジュネの行う「盗み」はジュネ自身にとって「よいこと」として感じられるようにすらなるわけである。

さて、ブレストのクレルだが。ジュネから見た警察官の心とはどのようなものに映って見えていただろうか。

「幸福な汗をかく不思議な植物、刑事(でか)の心」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.347」河出文庫)

その特権性について次のように述べる。

「時として彼は、自分の手から絶対に失われる心配のない品物の前から離れるように、いかにも無頓着な態度で机の前を離れ、たくさんの分類したカード箱をしらべに行くのだった。この仕事は、さらに彼に強い自信をあたえるものだった。つまり、何千人という人間の秘密を握っているという意識である。外へ出ると、彼の顔はたちまち一つの仮面に変っていた。カフェであろうと他の場所であろうと、警官に自分の秘密を打ち明けようと思うひとはいないにきまっている。ところで、マリオはこの仮面のうしろにーーーこんなアクセサリーをかぶっている以上、それに見合った顔があるにちがいないーーーれっきとした警官の顔をかくしていた。さしあたって、彼は人間の断層を、人間の罪過を発見すべき役目の者であらねばならなかった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.348」河出文庫)

似た描写が「泥棒日記」でも見られる。それはジュネの憧れを反映してもいる。

「わたしはベルナルディーニ刑事が羨(うらや)ましかった。彼は自由に犯罪人名簿から殺人事件なり、強姦(ごうかん)事件なりを取出し、それで自分をふくらせ、それをあきるほど食い、それから自宅(うち)へ帰ることができたのだ。わたしの言うのは、彼が探偵小説を読むような工合に、それらで気晴らしをすることができたという意味ではない。気晴らしではない。その反対だ。それは、最も意想外の、最も不幸な状況を自己に引寄せること、最も屈辱的な告白ーーーそれらこそ最も豊饒(ほうじょう)な告白であるーーーを自己のものとして担(にな)うことなのだ」(ジュネ「泥棒日記・P.287」新潮文庫)

警察署で行われる「告白」は合法的だ。そのような「最も屈辱的な告白」を合法的かつ「豊饒な告白」として全身で吸い込み身に帯びることのできる警察という立場に、ジュネはこの上ない憧憬を抱くのである。同時にこの箇所では人間の「顔」について言及されている。マリオの場合、職業柄、それは「警官の顔」だ。しかし、とニーチェはいう。

「私たちが着けている最良の仮面は、私たち自身の素顔である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・一一六三・P.595」ちくま学芸文庫」)

ではマリオにとって「素顔」でない「警官の顔」とはどのような特色を持っているだろうか。ところがそれは現代の一般の社会人とあまり変わらないような顔なのだ。

「彼は、警官の職業を崇高な職業だと思っていたから、ドアに耳を押しあてて立ち聞きするとか、鍵孔からのぞくといった卑しい行為に、これを下落させることは堪えがたかったにちがいない。マリオは誰に対しても、少しも好奇心を感じず、他人の秘密を窺い知ろうなどという根性は、まったくなかったが、ひとたび、ほんのちょっとした悪の徴候を見つけ出すと、あたかも石鹼の泡で遊ぶ子供のような行動を取りはじめるのだった。つまり、麦藁の先で、こわれやすい泡のなかから、虹色に輝くシャボン玉になるまで丹精することができそうな泡を探すのである」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.348~349」河出文庫)

なかなかないだろうと思われる。そのような「こわれやすい泡のなかから、虹色に輝くシャボン玉になるまで丹精することができそうな泡」は。

「想像上の権力という泡(あわ)が破裂する、これが生における主要な事変なのだ。そのとき人間は腹を立てて、あるいは打ち砕かれて、あるいは空(うつ)け者になって、身をひく。最愛の者たちの死、或る王朝の崩壊、友人の不実、或る哲学の、或る党派の支持しがたさ、そのとき人々は《慰め》を欲するのだ、言いかえれば或る新しい泡を」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・六九三・P.434~435」ちくま学芸文庫)

さて、次の一節には注目すべき点がある。雑然たる書類の中を探っているうち、「どんどん大きくふくれあがって」いく「犯罪」にたまたま出会うことができたとしても、マリオの場合、その犯罪が「ついに彼自身から離れ、犯罪だけがゆらゆら空に舞いあがって行くのを感じると、マリオは、えもいわれぬ歓喜の情をおぼえる」と告白せざるを得ない。

「次から次へと秘密を見破り、やがて彼自身の息でふくらむように、犯罪がどんどん大きくふくれあがって、ついに彼自身から離れ、犯罪だけがゆらゆら空に舞いあがって行くのを感じると、マリオは、えもいわれぬ歓喜の情をおぼえるのだった。もちろん、マリオは自分の職業が有益であり、完全に道徳的であるということを、しばしば心のなかで自分に言い聞かせていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.349」河出文庫)

このときマリオは、マリオ自身の情動(パトス、パッション)、さらには欲望によって支配されているといってよい。マリオは「空に舞い上がる犯罪」に《なる》。一般的に犯罪は犯罪者を「下降」させる行為だと思われている。だがしかし、クレルやマリオにとっては「下降」などではさらさらなくむしろ欲望の実現として逆に「上昇」であり「歓喜」なのだ。

警察官としてのマリオはしかし、職務を忘れているわけではない。以前からデデという密告者(スパイ)を懐の裡(うち)に抱え込んでいる。デデについて理解するには次の文章が有益かとおもわれる。というのも、デデはただ単なる密告者ではないからである。

「《愛と二元性》ーーーいったい愛とは、もうひとりの人がわれわれとは違った仕方で、また反対の仕方で生き、働き、感じていることを理解し、また、それを喜ぶこと以外の何であろうか?愛がこうした対立のあいだを喜びの感情によって架橋せんがためには、愛はこの対立を除去しても、また否定してもならない。ーーー自愛すらも、一個の人格のなかには、混じがたい二元性(あるいは多元性)を前提として含むのだ」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第一部・七五・P.67」ちくま学芸文庫)

マリオとデデとの会話。

「デデは一年以上ものあいだ、次のような二つの原則が自分のなかに同居していることに平然と堪えていた。すなわち、泥棒を警察に密告する原則と、みずから泥棒をする原則とである。マリオはデデが密告の習慣を失わないように、しばしば、

『お前は実際役に立つよ、悪漢を逮捕するために、《われわれ》に協力してくれるんだからな』

と繰り返していただけに、デデの立場はますます奇妙なものであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.349」河出文庫)

この「われわれ」とはそもそもなんなのだろうか。言語というものの不可解さは、それを取り扱う人間の不可解さの反映なのだろうか。それとも人間のそもそもの不可解さが言語を曖昧なものにしてしまうのだろうか。あるいは言語自体が始めから曖昧な構造物としてしか出来上がっていないのだろうか。いずれなのか。もしかしたらいずれでもあるのか。デデはおもう。

「少年はいかなる不安にも心を乱されず、ただマリオの言葉によって、《われわれ》の役に立っているのだとばかり思っていた。マリオの言葉によって、自分が一つの広大な冒険に参加しているような気になっていた。彼はごく自然に、悪漢どもを警察に売り、同時に悪漢どもと一緒に盗みをはたらいていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.349」河出文庫)

そして次のセンテンスを見逃すわけにはいかない。現代社会の理解のために。

「デデは、ブレストのちんぴら不良少年どものあらゆる感情的経緯に通じていた、あるいは通じていると信じていた。最善をつくして奉仕するために、ーーーもちろんマリオに対する奉仕であるが、マリオよりもむしろ警察のため、というよりもむしろただの《奉仕》である、ーーーデデは自分の偵察のすばやさによって、自分の本領を発揮していた(このことは彼の肉体的精神的な敏捷さと、視線の巧妙さに原因があるように思われる)。道義心ーーーと同時に不安ーーーなどというものを持つより前に、デデは優秀な一個の録音機なのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.362」河出文庫)

こうある。「デデは優秀な一個の録音機なのであった」と。ドゥルーズはいう。

「SFの助けを借りなくても、保護区内の動物や(エレクトロニクスの首輪をつけた)企業内の人間など、開かれた環境における成員の位置を各瞬間ごとに知らせる管理機構を思い描くことができる」(ドゥルーズ「記号と事件・P.364」河出文庫)

読者はすでに「SFの助け」さえ越えたところを、眼で、指先で、身体で、なぞっているに過ぎないのだろうか。SFを越えた世界へ全身で歩み進めているのだろうか。だとしても、しかしそこは一体《どんなところ》なのだろうか。

なお、補足として。先に引用して述べた部分について。

「《もはや望ましくない友人》。ーーーその希望をかなえてやれない友人は、むしろ敵であることを人は望む」。

昨日一昨日あたり、マスコミ報道で知った。「複数の教職員による他の教職員いじめ」。いじめた側を擁護するわけではない。そうではなく、当事者がどちらも教師だという点に引っかかりを覚えた。教師はまず何より生徒たちの「希望をかなえてやらなければならない」職業である。もし生徒の「希望をかなえてやれない」場合、そこに教師としての「恥部」が「心の傷」が「良心の疚(やま)しさ」が「終わりなき罪責感」が発生する。二度や三度くらいならどの教師にでも経験があるだろう。たいがいは慣れてしまいもっとほかのベターな方法を見つけ出して或る程度良好な教師として職業をまっとうしていくことになる。だが再起に失敗した場合はどうか。アルコール依存症者の自助グループにもそうした経験を持つ教師が何人かいた。しかし教師の場合、周囲の目があるため、教師としての「恥部」「心の傷」「良心の疚(やま)しさ」「終わりなき罪悪感」を生徒たちの側に向けて暴力的に無理やり押し込み擦り付けるということはなかなかできない場合が多いしそもそも許されない。すると行き場を失った暴力的「復讐感情」「罪責感」は、他の同僚教師へと向け換えられ転移する場合がある。今回マスコミで報じられているケースは、もしかしたら、そのような条件下で発生した事案なのかもしれないと思われなくもないのである。

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