様々なジャヴァの特徴が列挙された。なかでもジュネはそれらの中の「軟弱な性質」に注目する。世間的価値観では否定的とされているような諸要素に。
「人は、このような軟弱な性質の集合が、鉱物の結晶に比すべき鋭い稜角(りょうかく)を形成するということを不思議に思うだろう。また、わたしがーーー行為ではなしにーーーもろもろの行為の倫理的表現を具象的世界の属性に譬(たと)えることをも意外とするだろう。しかし、わたしは、今、わたしが夢中にさせられると言った、この夢中(ファシネ)という語はそれ一つの中に束(フェソー)という観念をーーーそして、よりいっそう、水晶のまばゆい輝きに類する光線の束という観念を含んでいる」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
さしあたり、「夢中」「束」という言語に関して訳注を参照するのがいいとおもう。こうある。「原語fascine〔夢中〕からアクサンテーギュを除いたfascineという語は束柴を意味し、束faisceauと同じ語源fascisから派生した語である」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)、と。
だから要するに、「夢中」という言葉の綴りの中には、語源的に、「束」という言葉が含まれている。したがって「夢中」は「束」を含んでいるかぎりで、それは様々な諸要素の水晶〔あるいは結晶〕として「まばゆい輝きに類する光線の束という観念を《も》含」む、とジュネはいいたがっているにちがいない。ジュネ固有の言語の活用方法と考えてよいとおもわれる。
「そしてこの水晶などの輝きは、それを形づくるいくつかの断面の一定の組合せの結果なのである。わたしはジャヴァにおける、意気地無さ、卑劣さ、等々が形成する新しい美質ーーー功力ーーーを、この結晶体の光輝(炎)に比するのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
もちろん「水晶などの輝き」はいつも必ず光り輝いて止まないものではない。むしろ本来的にばらばらなものだ。ところが或る条件が揃ったとき、ジュネのいう「いくつかの断面の一定の組合せ」が揃うやいなや、それはいきなり「光輝(炎)に比する」べきものと《なる》。たとえばヘンリー・ミラーはそのような瞬間に出現するものを「一種の熱帯性植物」と呼んでこう述べる。
「病める卵巣という考えから、電光のような一瞬のうちに、あれやこれやおよそ雑多なよせ集めからなる一種の熱帯性植物が生育しはじめた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.71」講談社文芸文庫)
ドゥルーズとガタリでは、それを多様体の変化として次のように述べる。
「多様体が分割され、次元を一つでも失ったり獲得したりすると、《必ず多様体の性質が変化する》。そして次元数の変化は多様体に内在するため、《個々の多様体が、共生するたがいに異質な項によって構成されていると考えても、あるいは個々の多様体はその閾と戸口に応じて他の一連の多様体に入り込んで休みなく変化していると考えても、結局は同じことなのだ》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.182~183」河出文庫)
そしてその「功力(くりき)」は特定の「名を持たない」。仮にその「力」を「放散する者の名前」について世間では一般的かつ制度的にジャヴァと呼ぶことになっている、というだけのことに過ぎない。むしろそれはつねに変化過程にある燃え上がる炎(光輝)というべきものであって、いつも揺れ動く動的状態を保持しており、諸条件が整うやいなや瞬発的かつ衝撃的に放射されるものだ。だから名がない。しかしもしあえて名づけるとすれば、固有名詞を通り越してただ「愛」とだけ呼ばれるほかないような流動する強度としてのみである。「ジャヴァ」という固有名詞はあくまで仮の社会的制度上の名前であるに過ぎない。
「この功力は名を持たない、それを放散する者の名前のほかは。そして、その者から出るやいなや、この放射された炎(光輝)は、わたしというそれが燃やしうる物質に出くわして、わたしを燃えあがらせる、ーーーそれが愛なのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
ドゥルーズとガタリは次のように説明している。それはほとんど「不意打ち」といってよいし、そもそも「不意打ち的」で衝動的な一瞬の閃光としてしか把握できない。
「固有名というものは、一個人を指示するのではない。ーーー個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解(包摂)された純粋な不定法の主体なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫)
前回述べた。重要なのは、もろもろの諸要素のばらばらに列挙された部分ではなく、諸要素の融合する「合金のごときもの」として、それらすべての「ジャヴァ《における》出会い」が、ジュネを「夢中にする」ということでなくてはならない、と。その瞬間、そしてその瞬間にかぎり、ジャヴァは「光り煌(きら)めく」しジュネは「燃える」。
「わたしは、わたしの内部におけるこの可燃の物質に比すべきものを探究することに努めてきたので、わたしは反省によって、それらの諸性質の欠如を獲得するのである。ジャヴァという人間における、それら諸性質の出会いがわたしを眩惑する。彼は光り煌(きら)めく。わたしは燃える、彼がわたしを燃やすから」(ジュネ「泥棒日記・P.365~366」新潮文庫)
そして「彼がわたしを燃やすから」。なぜジュネは自分が燃えていると知ることができるのか。「泥棒日記」冒頭部にあるように、二人の行為がジュネの身体を「歌わせる」から、ということでなくてはならない。ジュネは音楽に《なる》。
「音楽へ《の》生成変化」を極めて簡略化して言い現わすとすれば、ただ、ひたする「創造《への》意志」に《なる》ということであるだろう。
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)
したがって、次のようにジュネはいうわけだ。
「わたしが短い瞑想(めいそう)をしようとして書く手を休めるとき、わたしの脳裡(のうり)に押し寄せてくる言葉は、光と熱を想起させる語であり、ふつう人(ひと)が愛について語るときに用いるのを常とする言葉なのである、すなわち、眩惑とか、放射線とか、灼熱(しゃくねつ)、束線、熱中、火傷(やけど)、等である。それにもかかわらず、ジャヴァの諸性質ーーー彼の光輝(ほのお)を構成するものーーーはどれも氷のように冷たい。それらはどれも別々には、情熱的気質、熱の欠如を思わせるものなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365~366」新潮文庫)
列挙されたどの諸要素は、本来的に何の関係もないばらばらなものでしかない。が、或る条件のもとにかぎり、「水晶のまばゆい輝きに類する光線の束」としてジュネを「眩惑」(げんわく)すると同時にジュネは音楽に《なる》、という事情でなければならない。
さて、ブレスト出港直前の艦船。セブロン中尉が、クレルの規律違反とセブロンによるその黙許という二重の軍律背反ならびにその共犯を演じたために、セブロンは交錯した欲望の瞬間的独占を獲得したことは前回述べた。置いてけぼりにされたクレルは白昼堂々と娼婦たちをからかっていたわけで、セブロン中尉がクレルを規律に則って艦船に連れて帰ればその場でそれ以上のことは何も起こらなかったはずだった。けれども置いてけぼりになったクレルはただ単なる水兵の一人でしかない。商売道具である娼婦を思うがままにからかわれて怒らせてしまった娼婦の紐(ひも)でありふだんは街路のごろつきどもがクレルに近づいてきて色々と因縁をつけ始めた。だがクレルは一応は軍人でもあるので、ごろつきどもはクレルを暴行するわけにもいかない。で、言語による「因縁攻め」にした。今でいう言葉の暴力とか脅迫とかである。やけを起こしたクレルは何軒かの飲み屋を梯子した後、べろべろに酔っ払って艦船に戻ってくる。クレルの体はふらふらである。そしてセブロン中尉の部屋に勝手になだれ込む。もう夜だ。
「士官の首にぶら下がりながら、クレルがふたたび立ちあがろうとして示した動作は、しかし、今までにないほどの放埒さとしだらなさに満ちあふれたものだったので、どこから来たのか分らない女性的なものが波のように彼の内部に流れこみ、この彼の動作を、男性的な美の傑作たらしめた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.391」河出文庫)
クレルがセブロンに屈することになるシーン。ジュネはクレルの中に「女性的なものが波のように彼の内部に流れこみ」と書いている。二人の関係は男性同性愛的なものである。だからここで「女性的なもの」とあるのは、男性同性愛において女性の側を演じる人物として、クレルが女性に《なる》ということでなくてはならない。しかし重要なのは、或る種のものがまた別の種のものへと「流れこむ」とはどういうことかということであろう。ホフマンスタールはいう。
「とつぜん心のなかに、鼠の群の断末魔の苦しみにみちた地下室の情景が浮かびあがったのです。心のなかにはすべてがありました。甘く鼻をつく毒薬の香にみちみちた、冷たく息づまるような地下室の空気、黴(かび)くさい壁にあたってくだける断末魔の鋭い叫び、気を失って絡みあい痙攣(けいれん)する肉体、すてばちになり入り乱れて走りまわり、狂ったように出口を探し求めるさま、行きどまりの隙間で出会った二匹の冷たい怒りの眼つきーーー。鼠の魂がわたしの心のなかでおそろしい運命にむかって歯をむきだしたーーーですが、わたしの心を満たしたのが憐憫の情であったとはお考えにならないでください。それはなりません。もしそうなら、選んだたとえがひどくまずかったのです。あれははるかに憐憫以上のもの、また憐憫以下のものでした。それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへとーーーどこからかはわかりませんがーーー流れこんだ、という感覚でした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙・P.113~115」岩波文庫)
また、カスタネダの報告にこうある。ヤキ・インディアンの老師ドンファンの言葉だ。
「中央メキシコの山の深い森にいるときだった、急にきれいな笛の音が聞こえてきたーーーどこから聞こえてくるのかもわからなかった、まるであっちこっちから聞こえてくるように思えたーーーたぶんまだ知らない動物の群れに囲まれとるんだろうと思った。すると、またこのじれったい音が聞こえてきた、そこいらじゅうから聞こえるような気がした。そのとき、ーーーそれが不思議な生き物、シカだってことがわかったんだ。それにわしは、シカってやつはふつうの人間や狩人の習性を知っとることもわかった。ーーーどうしたかというと、大急ぎで逆立ちをしてやさしく泣き声をだしたのさ。本当に涙を出していたし、あんまり長いことすすり泣いていたんで、あやうく気が遠くなるところだった。すると突然、やわらかいそよ風を感じたんだ。右耳の後ろの髪を、何かがクンクンやってるんだよ。わしはそれがなんだか見ようと思って首をまわそうとしたんだが、倒れてすわりこんじまったんだ。すると、輝くばかりの生き物がわしを見つめとった。そのシカがわしを見つめとるから、わしは、なにもしないよ、と言ってやった。そしたら、シカもわしに話しかけてきたんだ」(カスタネダ「呪師に成る・P.119~120」二見書房)
ここでもまたドゥルーズとガタリによる説明が有効かもしれない。
「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)
クレルはアルコールの酩酊のうちに隠されたまま「女性に《なる》」。「女性《への》生成変化」を遂げる。生成変化には「勝ち負け」という価値概念などまったくない。強度の流動だけがある。しかし当時(一九三〇年代)のフランスの海軍士官であったセブロンの価値観にしたがえば、クレルの女性化はほかならぬセブロン中尉の側の完全な勝利なのだ。クレルは敗北したわけだ。けれども、ひとことで敗北といってもその類型は実に多様だ。それこそ星の数ほどある。クレル自身、今後はセブロンに対しておそらく海軍に所属しているあいだは、さらに除隊したとしてもなお、これからは男性同性愛者として女性の側を演じることになっていくだろう。それをおもうと、クレルは今後ずっとありとあらゆる屈辱的姿勢で自分の尻をセブロンとその類似性を共有する男性たちに捧げつづける「飼犬」に《なる》のは決定的といわねばならない。とはいえ、言葉が同じというだけのことでクレルが「凋落、汚れ、困難な致命傷」を負ったと感じたとしても、クレル自身は実のところほとんど何ら傷ついていない。なぜなら、「凋落、汚れ、困難な致命傷」というのは、クレルが属している世界とは違う世界、いわゆる世間一般の価値観から見るかぎりでの「凋落、汚れ、困難な致命傷」に過ぎないからである。むしろ次の文章にあるように、クレルはこのシーンで明確に描かれている屈辱的転倒について、その事態を「微笑」とともに受け入れる。多少の苦さは残るかもしれない。しかしそれは性倒錯の苦さではまったくないのだ。もともとクレルは「倒錯者《への》意志」を潜在させていた。それが現実化したに過ぎない。さらに「敗北」といってもそれは、両者の力関係において軍隊内での「階級」に限っていえばなるほどセブロンは中尉ゆえに上回っていたけれども、ほかならなぬ「実質的権力」はこれまで圧倒的にクレルの側にあったということが一つ。次に、「肉体美」という両者に共通の価値観の上でいえば、今なお「勝利」はあくまでクレルの側にあるにもかかわらず、という意味で「敗北」したと言えることでもあるからだ。さらにこの苦さは、これまでクレルを上回る男が出現してこなかったからというだけのことであって、セブロンがクレルを上回った以上、この転倒は性倒錯者たちにとってはごくありふれた自然な転倒として感じられるだろう。
「というのは、少尉の首のまわりにめぐらされた、花束よりもっと魅力的な花籠であることを意識した、この筋肉のたくましい腕は、その通常の意味をあえて剥奪して、その真の本質を指し示す何か別の意味をおびていたからである。クレルは、もはやそこから引返すことはできず、そこで心の平和を見出さねばならない恥辱の近くに自分がきていることを思って、微笑を浮べた。自分がまことに無力な、みごとに敗北した人間であるという意識が、彼の心にこんな思いになって表われた。それは彼に凋落、汚れ、困難な致命傷といったことを思い出させるものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.391」河出文庫)
今後、クレルにとってセブロンは、セブロンとその系列として出現することになるであろう。プルースト作品におけるアルベルチーヌの無限の系列のように。
「私の内部に相ついで刻々立ちあらわれる想像のアルベルチーヌの無限の系列」(プルースト「失われた時を求めて3・P.285」ちくま文庫)
「さまざまのアルベルチーヌは、投光機(プロジェクター)から出てくるライトの無数に変わるたわむれのままに、その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがっていた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.434」ちくま文庫)
そしてまた、セブロンからクレルを見た場合、今後のクレルは植物へも変化を遂げていくだろう。そんなとき、クレルは植物に《なる》。次のように。
「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫)
一方、淫売屋の女将リジアーヌは総括的に回想する。だがその前にニーチェの言葉をもう一度思い出しておきたい。
「性欲の妄想は、それが引き裂かれるなら、つねにおのずからふたたび編まれる一つの網である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八七五・P.485」ちくま学芸文庫)
回帰するのだ。どんどん相手を取り換えていきつつ性愛という「力《への》意志」は留まるところを知らない。無方向的に放出されるアナーキーなものだからだ。しかし差し当たり、リジアーヌにとっての問題はロベールとクレルという兄弟の関係であり、兄弟のあいだで可愛がられていてまるで二人の子供のように見えるロジェのことである。リジアーヌはおもう。
「《たとえ離れていても、あの二人は世界の端と端から互いに呼び交わしているんだわーーー》
《兄が航海をはじめれば、ロベールの顔はいつも西の方を向いていることになるだろう。あたしは日まわりの花と結婚しなければなるまいーーー》
《微笑と悪罵が投げ交わされ、二人のまわりに巻きつき、二人を結びつけ縛りあげてしまう。二人のうち、どちらが強いかは誰にも分らない。そして彼らの子供は、二人のあいだを自由に通り過ぎるけれども、少しの邪魔にはならないんだわーーー》
何ものも切り離すことのできない二人の恋人の秘密の物語に、彼女は立会っているのだった。彼らの喧嘩は微笑でいっぱいになり、彼らの遊びは侮辱で飾られている。微笑と侮辱はその意味を変える。彼らは笑いながら罵り合う」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.392~393」河出文庫)
ところでなぜ「微笑と侮辱はその意味を変える」のか。両者はどのようにして等価性の獲得と同時に意味の置き換えを成就させることができるのか。彼らはそれを知ってはいない。「しかし、それを行う」のだ。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
言い方を変えてみよう。異種のものを始めから等価物として交換し合えるわけがない。そうではなく、「異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値する」からこそ、そしてそうするやいなや、等価関係は多少なりとも暴力的に貫徹されるのである。もっとも、この種の暴力は殴る蹴るといった暴力ではないので目には見えないが。あるいはヴァージニア・ウルフ作品の場合。トンネルを抜ける列車の窓に映る異性の姿を見て、異性の側もこちらが見えているという前提で、それを「社交」と呼んでいる。女子学生ジニーの言葉。
「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』。ーーー『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)
リジアーヌに戻ろう。
「恋人たちのことを考えながら、彼女は、《彼らは歌っている》という文字を眺めていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.393」河出文庫)
男たちは「歌っている」とおもう。どんな歌詞だろうか。頁を巻き戻さなければならない。まだクレルに対して卑屈な態度しか取ることのできなかったセブロン中尉。その或る夜の海岸でのエピソード。激烈な怒りの込もったセブロンの心の叫びとして記述されている。
「彼は自分の内部に向けた、声にならない声でこう言った、《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》ブレストのこの特殊な地点から霧の中心へ向って、海にそそり出た道路や倉庫に向って、軽やかな風が、サーディの薔薇の花びらよりもっとやわらかな香り高いセブロン少尉の湿気を、世界中にまき散らすのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.379」河出文庫)
天上の音楽への上昇。しかしその歌詞は《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》でなければならない。とはいえ、セブロンが社会から排除されつつ生まれてきたジュネの分身にほかならないから、というだけの理由からだけではおそらくない。ジュネは言語を意識しつつ当然のことながら常に無意識とは何かという難問に挑んでいたにちがいないからだ。ジュネたちにとって社会一般の価値観は転倒して見えているのである。現代社会でいえば、なぜ「祝福される」結婚と「祝福されない」結婚とがあるのか。そもそも「祝福」とはなんなのか。結婚もまた社会的「制度」というに過ぎないではないか。さらに性愛の多様性である。なぜ一人の男と一人の女でなければならない、ということになっているのか。それこそただ単なる嫉妬ではないか。実際の性愛はもっとはるかに奔放だというのに。自由を求めて逆に不自由に転倒しているのは世間一般の側ではないのか。性愛の事実はもっと醜悪でなおかつ美しいものなのではないのか。その繊細巧緻な暴力性、卑劣さ、巧妙さ、思いがけなさ、醜さ、舌を擦り付け合ったり、噛み合ったり、爪を立て合ったり、お互いの醜い性器をとことん押し付け擦り付け合ったり、突き貫き合ったりして、できる限り深く長く快楽の悦びとその延長を味合い尽くそうと、これ以上ないほど汚れて穢れきった性欲の極致へ必死になって到達したがる。しかもなお、それら淫猥さの極致を越えたとき始めて聴くことができる音楽があるのではないのか。セブロンの主張が《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》でなければならないのは、その醜悪ぶりの中心へどっぷり没入することが、事実上「《こうした醜いものに快感をおぼえた》」ということ、「美そのもの」を生きたということではないのか、という問いに対する絶望的欲望による返答にほかならないからにちがいない。ニーチェはいう。
「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫)
「当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどうけとばされても、いっこうに感じなかった。あまりにも無気力で、だらけきってしまっていた。だから、ランチエは完全に彼女を見放していた。もう形の上だけでも抱こうとはしなかった」(ゾラ「居酒屋/P.505」新潮文庫)
しかしゾラ「居酒屋」の続編「ナナ」で、ナナは何として登場し、何として機能するだろうか。プライドが高く自尊心も自立心も旺盛だったジェルヴェーズ。周囲への気配りあるいは面倒見のよさにもかかわららず、というより面倒見のよさゆえに、力尽きて堕落しきっってしまったジェルヴェーズ。その娘ナナ。しかしナナは持ち前の明るさゆえに社交界で評判の娘になる。社会的最底辺にまで失墜した母の娘であるにもかかわらず、というべきだろうか。そうではない。むしろ持ち前の明るさゆえに、ナナの社交界の中でのすべての振る舞いあるいは社交という雑多で猥雑な交わり合いは、母を取り返しのつかない失墜へと導いてしまったフランス社交界に対して発揮される《獣性》そのものにほかならなくなる。ありとあらゆる雑多で猥雑な交わり合い、その談笑、その奔放、その懶惰、その伝染病、等々を、大都会における社交的交合を通して媒介しまき散らし拡大再生産するのである。無意識の裡(うち)に。
BGM
「人は、このような軟弱な性質の集合が、鉱物の結晶に比すべき鋭い稜角(りょうかく)を形成するということを不思議に思うだろう。また、わたしがーーー行為ではなしにーーーもろもろの行為の倫理的表現を具象的世界の属性に譬(たと)えることをも意外とするだろう。しかし、わたしは、今、わたしが夢中にさせられると言った、この夢中(ファシネ)という語はそれ一つの中に束(フェソー)という観念をーーーそして、よりいっそう、水晶のまばゆい輝きに類する光線の束という観念を含んでいる」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
さしあたり、「夢中」「束」という言語に関して訳注を参照するのがいいとおもう。こうある。「原語fascine〔夢中〕からアクサンテーギュを除いたfascineという語は束柴を意味し、束faisceauと同じ語源fascisから派生した語である」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)、と。
だから要するに、「夢中」という言葉の綴りの中には、語源的に、「束」という言葉が含まれている。したがって「夢中」は「束」を含んでいるかぎりで、それは様々な諸要素の水晶〔あるいは結晶〕として「まばゆい輝きに類する光線の束という観念を《も》含」む、とジュネはいいたがっているにちがいない。ジュネ固有の言語の活用方法と考えてよいとおもわれる。
「そしてこの水晶などの輝きは、それを形づくるいくつかの断面の一定の組合せの結果なのである。わたしはジャヴァにおける、意気地無さ、卑劣さ、等々が形成する新しい美質ーーー功力ーーーを、この結晶体の光輝(炎)に比するのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
もちろん「水晶などの輝き」はいつも必ず光り輝いて止まないものではない。むしろ本来的にばらばらなものだ。ところが或る条件が揃ったとき、ジュネのいう「いくつかの断面の一定の組合せ」が揃うやいなや、それはいきなり「光輝(炎)に比する」べきものと《なる》。たとえばヘンリー・ミラーはそのような瞬間に出現するものを「一種の熱帯性植物」と呼んでこう述べる。
「病める卵巣という考えから、電光のような一瞬のうちに、あれやこれやおよそ雑多なよせ集めからなる一種の熱帯性植物が生育しはじめた」(ヘンリー・ミラー「南回帰線・P.71」講談社文芸文庫)
ドゥルーズとガタリでは、それを多様体の変化として次のように述べる。
「多様体が分割され、次元を一つでも失ったり獲得したりすると、《必ず多様体の性質が変化する》。そして次元数の変化は多様体に内在するため、《個々の多様体が、共生するたがいに異質な項によって構成されていると考えても、あるいは個々の多様体はその閾と戸口に応じて他の一連の多様体に入り込んで休みなく変化していると考えても、結局は同じことなのだ》」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.182~183」河出文庫)
そしてその「功力(くりき)」は特定の「名を持たない」。仮にその「力」を「放散する者の名前」について世間では一般的かつ制度的にジャヴァと呼ぶことになっている、というだけのことに過ぎない。むしろそれはつねに変化過程にある燃え上がる炎(光輝)というべきものであって、いつも揺れ動く動的状態を保持しており、諸条件が整うやいなや瞬発的かつ衝撃的に放射されるものだ。だから名がない。しかしもしあえて名づけるとすれば、固有名詞を通り越してただ「愛」とだけ呼ばれるほかないような流動する強度としてのみである。「ジャヴァ」という固有名詞はあくまで仮の社会的制度上の名前であるに過ぎない。
「この功力は名を持たない、それを放散する者の名前のほかは。そして、その者から出るやいなや、この放射された炎(光輝)は、わたしというそれが燃やしうる物質に出くわして、わたしを燃えあがらせる、ーーーそれが愛なのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365」新潮文庫)
ドゥルーズとガタリは次のように説明している。それはほとんど「不意打ち」といってよいし、そもそも「不意打ち的」で衝動的な一瞬の閃光としてしか把握できない。
「固有名というものは、一個人を指示するのではない。ーーー個人が自分の真の名を獲得するのは、逆に彼が、およそ最も苛酷な非人称化の鍛錬の果てに、自己をすみずみまで貫く多様体に自己を開くときなのである。固有名とは、一つの多様体の瞬間的な把握である。固有名とは、一個の強度の場においてそのようなものとして理解(包摂)された純粋な不定法の主体なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.88」河出文庫)
前回述べた。重要なのは、もろもろの諸要素のばらばらに列挙された部分ではなく、諸要素の融合する「合金のごときもの」として、それらすべての「ジャヴァ《における》出会い」が、ジュネを「夢中にする」ということでなくてはならない、と。その瞬間、そしてその瞬間にかぎり、ジャヴァは「光り煌(きら)めく」しジュネは「燃える」。
「わたしは、わたしの内部におけるこの可燃の物質に比すべきものを探究することに努めてきたので、わたしは反省によって、それらの諸性質の欠如を獲得するのである。ジャヴァという人間における、それら諸性質の出会いがわたしを眩惑する。彼は光り煌(きら)めく。わたしは燃える、彼がわたしを燃やすから」(ジュネ「泥棒日記・P.365~366」新潮文庫)
そして「彼がわたしを燃やすから」。なぜジュネは自分が燃えていると知ることができるのか。「泥棒日記」冒頭部にあるように、二人の行為がジュネの身体を「歌わせる」から、ということでなくてはならない。ジュネは音楽に《なる》。
「音楽へ《の》生成変化」を極めて簡略化して言い現わすとすれば、ただ、ひたする「創造《への》意志」に《なる》ということであるだろう。
「あらゆる創造は、一つの世界を表象する義務から自由になった、いわば突然変異性の抽象線だ。創造とは、新しいタイプの現実をアレンジする行為にほかならない」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.285」河出文庫)
したがって、次のようにジュネはいうわけだ。
「わたしが短い瞑想(めいそう)をしようとして書く手を休めるとき、わたしの脳裡(のうり)に押し寄せてくる言葉は、光と熱を想起させる語であり、ふつう人(ひと)が愛について語るときに用いるのを常とする言葉なのである、すなわち、眩惑とか、放射線とか、灼熱(しゃくねつ)、束線、熱中、火傷(やけど)、等である。それにもかかわらず、ジャヴァの諸性質ーーー彼の光輝(ほのお)を構成するものーーーはどれも氷のように冷たい。それらはどれも別々には、情熱的気質、熱の欠如を思わせるものなのである」(ジュネ「泥棒日記・P.365~366」新潮文庫)
列挙されたどの諸要素は、本来的に何の関係もないばらばらなものでしかない。が、或る条件のもとにかぎり、「水晶のまばゆい輝きに類する光線の束」としてジュネを「眩惑」(げんわく)すると同時にジュネは音楽に《なる》、という事情でなければならない。
さて、ブレスト出港直前の艦船。セブロン中尉が、クレルの規律違反とセブロンによるその黙許という二重の軍律背反ならびにその共犯を演じたために、セブロンは交錯した欲望の瞬間的独占を獲得したことは前回述べた。置いてけぼりにされたクレルは白昼堂々と娼婦たちをからかっていたわけで、セブロン中尉がクレルを規律に則って艦船に連れて帰ればその場でそれ以上のことは何も起こらなかったはずだった。けれども置いてけぼりになったクレルはただ単なる水兵の一人でしかない。商売道具である娼婦を思うがままにからかわれて怒らせてしまった娼婦の紐(ひも)でありふだんは街路のごろつきどもがクレルに近づいてきて色々と因縁をつけ始めた。だがクレルは一応は軍人でもあるので、ごろつきどもはクレルを暴行するわけにもいかない。で、言語による「因縁攻め」にした。今でいう言葉の暴力とか脅迫とかである。やけを起こしたクレルは何軒かの飲み屋を梯子した後、べろべろに酔っ払って艦船に戻ってくる。クレルの体はふらふらである。そしてセブロン中尉の部屋に勝手になだれ込む。もう夜だ。
「士官の首にぶら下がりながら、クレルがふたたび立ちあがろうとして示した動作は、しかし、今までにないほどの放埒さとしだらなさに満ちあふれたものだったので、どこから来たのか分らない女性的なものが波のように彼の内部に流れこみ、この彼の動作を、男性的な美の傑作たらしめた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.391」河出文庫)
クレルがセブロンに屈することになるシーン。ジュネはクレルの中に「女性的なものが波のように彼の内部に流れこみ」と書いている。二人の関係は男性同性愛的なものである。だからここで「女性的なもの」とあるのは、男性同性愛において女性の側を演じる人物として、クレルが女性に《なる》ということでなくてはならない。しかし重要なのは、或る種のものがまた別の種のものへと「流れこむ」とはどういうことかということであろう。ホフマンスタールはいう。
「とつぜん心のなかに、鼠の群の断末魔の苦しみにみちた地下室の情景が浮かびあがったのです。心のなかにはすべてがありました。甘く鼻をつく毒薬の香にみちみちた、冷たく息づまるような地下室の空気、黴(かび)くさい壁にあたってくだける断末魔の鋭い叫び、気を失って絡みあい痙攣(けいれん)する肉体、すてばちになり入り乱れて走りまわり、狂ったように出口を探し求めるさま、行きどまりの隙間で出会った二匹の冷たい怒りの眼つきーーー。鼠の魂がわたしの心のなかでおそろしい運命にむかって歯をむきだしたーーーですが、わたしの心を満たしたのが憐憫の情であったとはお考えにならないでください。それはなりません。もしそうなら、選んだたとえがひどくまずかったのです。あれははるかに憐憫以上のもの、また憐憫以下のものでした。それは恐るべきかかわりあいであり、これらの生き物のうちへと流れこんでゆくこと、あるいは、生と死、夢と覚醒、それらを貫いてとおる流体が、一瞬、これらの生き物のうちへとーーーどこからかはわかりませんがーーー流れこんだ、という感覚でした」(ホフマンスタール「チャンドス卿の手紙・P.113~115」岩波文庫)
また、カスタネダの報告にこうある。ヤキ・インディアンの老師ドンファンの言葉だ。
「中央メキシコの山の深い森にいるときだった、急にきれいな笛の音が聞こえてきたーーーどこから聞こえてくるのかもわからなかった、まるであっちこっちから聞こえてくるように思えたーーーたぶんまだ知らない動物の群れに囲まれとるんだろうと思った。すると、またこのじれったい音が聞こえてきた、そこいらじゅうから聞こえるような気がした。そのとき、ーーーそれが不思議な生き物、シカだってことがわかったんだ。それにわしは、シカってやつはふつうの人間や狩人の習性を知っとることもわかった。ーーーどうしたかというと、大急ぎで逆立ちをしてやさしく泣き声をだしたのさ。本当に涙を出していたし、あんまり長いことすすり泣いていたんで、あやうく気が遠くなるところだった。すると突然、やわらかいそよ風を感じたんだ。右耳の後ろの髪を、何かがクンクンやってるんだよ。わしはそれがなんだか見ようと思って首をまわそうとしたんだが、倒れてすわりこんじまったんだ。すると、輝くばかりの生き物がわしを見つめとった。そのシカがわしを見つめとるから、わしは、なにもしないよ、と言ってやった。そしたら、シカもわしに話しかけてきたんだ」(カスタネダ「呪師に成る・P.119~120」二見書房)
ここでもまたドゥルーズとガタリによる説明が有効かもしれない。
「性愛とは数かぎりない性を産み出すことであり、そのような性はいずれも制御不可能な生成変化となる。《性愛は、男性をとらえる女性への生成変化と、人間一般をとらえる動物への生成変化を経由する》。つまり微粒子の放出である。だからといって獣性の体験が必要なわけではない。性愛に獣性の体験が顔を出すことは否定できないし、精神医学の逸話にも、この点でなかなか興味深い証言が数多く含まれている。だがそれは極度の単純さから、いずれも婉曲で、愚かしいものになりさがっている。絵葉書の老紳士のように犬の『ふりをする』ことが求められているのではない。動物と交わることが求められているわけでもない。動物への生成変化を性格づけるのは何よりもまず異種の力能だ。なぜなら、動物への生成変化は、模倣や照応の対象となる動物にその現実性を見出すのではなく、みずからの内部には、つまり突如われわれをとらえ、われわれに<なること>をうながすものに現実性を見出していくからである。動物への生成変化の現実性は、《近傍の状態》や《識別不可能性》に求められる。それが動物から引き出すものは、馴化や利用や模倣をはるかに超えた、いわくいいがたい共通性だ。つまり『野獣』である」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・中・P.247~288」河出文庫)
クレルはアルコールの酩酊のうちに隠されたまま「女性に《なる》」。「女性《への》生成変化」を遂げる。生成変化には「勝ち負け」という価値概念などまったくない。強度の流動だけがある。しかし当時(一九三〇年代)のフランスの海軍士官であったセブロンの価値観にしたがえば、クレルの女性化はほかならぬセブロン中尉の側の完全な勝利なのだ。クレルは敗北したわけだ。けれども、ひとことで敗北といってもその類型は実に多様だ。それこそ星の数ほどある。クレル自身、今後はセブロンに対しておそらく海軍に所属しているあいだは、さらに除隊したとしてもなお、これからは男性同性愛者として女性の側を演じることになっていくだろう。それをおもうと、クレルは今後ずっとありとあらゆる屈辱的姿勢で自分の尻をセブロンとその類似性を共有する男性たちに捧げつづける「飼犬」に《なる》のは決定的といわねばならない。とはいえ、言葉が同じというだけのことでクレルが「凋落、汚れ、困難な致命傷」を負ったと感じたとしても、クレル自身は実のところほとんど何ら傷ついていない。なぜなら、「凋落、汚れ、困難な致命傷」というのは、クレルが属している世界とは違う世界、いわゆる世間一般の価値観から見るかぎりでの「凋落、汚れ、困難な致命傷」に過ぎないからである。むしろ次の文章にあるように、クレルはこのシーンで明確に描かれている屈辱的転倒について、その事態を「微笑」とともに受け入れる。多少の苦さは残るかもしれない。しかしそれは性倒錯の苦さではまったくないのだ。もともとクレルは「倒錯者《への》意志」を潜在させていた。それが現実化したに過ぎない。さらに「敗北」といってもそれは、両者の力関係において軍隊内での「階級」に限っていえばなるほどセブロンは中尉ゆえに上回っていたけれども、ほかならなぬ「実質的権力」はこれまで圧倒的にクレルの側にあったということが一つ。次に、「肉体美」という両者に共通の価値観の上でいえば、今なお「勝利」はあくまでクレルの側にあるにもかかわらず、という意味で「敗北」したと言えることでもあるからだ。さらにこの苦さは、これまでクレルを上回る男が出現してこなかったからというだけのことであって、セブロンがクレルを上回った以上、この転倒は性倒錯者たちにとってはごくありふれた自然な転倒として感じられるだろう。
「というのは、少尉の首のまわりにめぐらされた、花束よりもっと魅力的な花籠であることを意識した、この筋肉のたくましい腕は、その通常の意味をあえて剥奪して、その真の本質を指し示す何か別の意味をおびていたからである。クレルは、もはやそこから引返すことはできず、そこで心の平和を見出さねばならない恥辱の近くに自分がきていることを思って、微笑を浮べた。自分がまことに無力な、みごとに敗北した人間であるという意識が、彼の心にこんな思いになって表われた。それは彼に凋落、汚れ、困難な致命傷といったことを思い出させるものだった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.391」河出文庫)
今後、クレルにとってセブロンは、セブロンとその系列として出現することになるであろう。プルースト作品におけるアルベルチーヌの無限の系列のように。
「私の内部に相ついで刻々立ちあらわれる想像のアルベルチーヌの無限の系列」(プルースト「失われた時を求めて3・P.285」ちくま文庫)
「さまざまのアルベルチーヌは、投光機(プロジェクター)から出てくるライトの無数に変わるたわむれのままに、その色、その形、その性格を変えるダンサーの姿のように、一つ一つちがっていた」(プルースト「失われた時を求めて3・P.434」ちくま文庫)
そしてまた、セブロンからクレルを見た場合、今後のクレルは植物へも変化を遂げていくだろう。そんなとき、クレルは植物に《なる》。次のように。
「私がもどってくると、彼女は眠っていた、そして私がそばに立って見る彼女は、真正面になったとたんにいつもそうなったあのべつの女だった。しかしまたすぐその人が変ってしまったのは、私が彼女とならんでからだをのばし、彼女を横から見なおしたからであった。私は彼女の頭をかかえ、それをもちあげ、それを私の唇におしあて、彼女の両腕を私の首に巻きつけることができた。それでも彼女は眠りをつづけていて、あたかもとまっていない時計のようであり、どんな支柱をあてがってもその枝をのばしつづける蔓草か昼顔のようであった」(プルースト「失われた時を求めて8・P.191」ちくま文庫)
一方、淫売屋の女将リジアーヌは総括的に回想する。だがその前にニーチェの言葉をもう一度思い出しておきたい。
「性欲の妄想は、それが引き裂かれるなら、つねにおのずからふたたび編まれる一つの網である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八七五・P.485」ちくま学芸文庫)
回帰するのだ。どんどん相手を取り換えていきつつ性愛という「力《への》意志」は留まるところを知らない。無方向的に放出されるアナーキーなものだからだ。しかし差し当たり、リジアーヌにとっての問題はロベールとクレルという兄弟の関係であり、兄弟のあいだで可愛がられていてまるで二人の子供のように見えるロジェのことである。リジアーヌはおもう。
「《たとえ離れていても、あの二人は世界の端と端から互いに呼び交わしているんだわーーー》
《兄が航海をはじめれば、ロベールの顔はいつも西の方を向いていることになるだろう。あたしは日まわりの花と結婚しなければなるまいーーー》
《微笑と悪罵が投げ交わされ、二人のまわりに巻きつき、二人を結びつけ縛りあげてしまう。二人のうち、どちらが強いかは誰にも分らない。そして彼らの子供は、二人のあいだを自由に通り過ぎるけれども、少しの邪魔にはならないんだわーーー》
何ものも切り離すことのできない二人の恋人の秘密の物語に、彼女は立会っているのだった。彼らの喧嘩は微笑でいっぱいになり、彼らの遊びは侮辱で飾られている。微笑と侮辱はその意味を変える。彼らは笑いながら罵り合う」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.392~393」河出文庫)
ところでなぜ「微笑と侮辱はその意味を変える」のか。両者はどのようにして等価性の獲得と同時に意味の置き換えを成就させることができるのか。彼らはそれを知ってはいない。「しかし、それを行う」のだ。
「人間が彼らの労働生産物を互いに価値として関係させるのは、これらの物が彼らにとっては一様な人間労働の単に物的な外皮として認められるからではない。逆である。彼らは、彼らの異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値することによって、彼らのいろいろに違った労働を互いに人間労働として等値するのである。彼らはそれを知ってはいないが、しかし、それを行う」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.138」国民文庫)
言い方を変えてみよう。異種のものを始めから等価物として交換し合えるわけがない。そうではなく、「異種の諸生産物を互いに交換において価値として等値する」からこそ、そしてそうするやいなや、等価関係は多少なりとも暴力的に貫徹されるのである。もっとも、この種の暴力は殴る蹴るといった暴力ではないので目には見えないが。あるいはヴァージニア・ウルフ作品の場合。トンネルを抜ける列車の窓に映る異性の姿を見て、異性の側もこちらが見えているという前提で、それを「社交」と呼んでいる。女子学生ジニーの言葉。
「『轟々いうこの急行列車に乗って。それにとってもすっすと走るもんだから、生垣が平らに見えたり、丘などが長っぽく見えたり』。ーーー『あの紳士が新聞を下げるのが見える。トンネルで反射して、映っている私に笑っているわ。私の身体は、見つめられて、わざときどっているの。私の身体はそれ自身の生涯を生きているんだわ。あら。又黒い窓ガラスが緑になったわ。トンネルを出てしまったの。あの人は新聞を読んでるわ。でも私たちはお互いに姿を見合ってまずいいと思ってしまったんだわ。それで身体と身体との、お互いのすばらしい社交があるわけ』」(ヴァージニア・ウルフ「波・P.60」角川文庫)
リジアーヌに戻ろう。
「恋人たちのことを考えながら、彼女は、《彼らは歌っている》という文字を眺めていた」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.393」河出文庫)
男たちは「歌っている」とおもう。どんな歌詞だろうか。頁を巻き戻さなければならない。まだクレルに対して卑屈な態度しか取ることのできなかったセブロン中尉。その或る夜の海岸でのエピソード。激烈な怒りの込もったセブロンの心の叫びとして記述されている。
「彼は自分の内部に向けた、声にならない声でこう言った、《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》ブレストのこの特殊な地点から霧の中心へ向って、海にそそり出た道路や倉庫に向って、軽やかな風が、サーディの薔薇の花びらよりもっとやわらかな香り高いセブロン少尉の湿気を、世界中にまき散らすのであった」(ジュネ「ブレストの乱暴者・P.379」河出文庫)
天上の音楽への上昇。しかしその歌詞は《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》でなければならない。とはいえ、セブロンが社会から排除されつつ生まれてきたジュネの分身にほかならないから、というだけの理由からだけではおそらくない。ジュネは言語を意識しつつ当然のことながら常に無意識とは何かという難問に挑んでいたにちがいないからだ。ジュネたちにとって社会一般の価値観は転倒して見えているのである。現代社会でいえば、なぜ「祝福される」結婚と「祝福されない」結婚とがあるのか。そもそも「祝福」とはなんなのか。結婚もまた社会的「制度」というに過ぎないではないか。さらに性愛の多様性である。なぜ一人の男と一人の女でなければならない、ということになっているのか。それこそただ単なる嫉妬ではないか。実際の性愛はもっとはるかに奔放だというのに。自由を求めて逆に不自由に転倒しているのは世間一般の側ではないのか。性愛の事実はもっと醜悪でなおかつ美しいものなのではないのか。その繊細巧緻な暴力性、卑劣さ、巧妙さ、思いがけなさ、醜さ、舌を擦り付け合ったり、噛み合ったり、爪を立て合ったり、お互いの醜い性器をとことん押し付け擦り付け合ったり、突き貫き合ったりして、できる限り深く長く快楽の悦びとその延長を味合い尽くそうと、これ以上ないほど汚れて穢れきった性欲の極致へ必死になって到達したがる。しかもなお、それら淫猥さの極致を越えたとき始めて聴くことができる音楽があるのではないのか。セブロンの主張が《臭くしてやる!臭くしてやる!臭くしてやる!》でなければならないのは、その醜悪ぶりの中心へどっぷり没入することが、事実上「《こうした醜いものに快感をおぼえた》」ということ、「美そのもの」を生きたということではないのか、という問いに対する絶望的欲望による返答にほかならないからにちがいない。ニーチェはいう。
「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫)
「当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどうけとばされても、いっこうに感じなかった。あまりにも無気力で、だらけきってしまっていた。だから、ランチエは完全に彼女を見放していた。もう形の上だけでも抱こうとはしなかった」(ゾラ「居酒屋/P.505」新潮文庫)
しかしゾラ「居酒屋」の続編「ナナ」で、ナナは何として登場し、何として機能するだろうか。プライドが高く自尊心も自立心も旺盛だったジェルヴェーズ。周囲への気配りあるいは面倒見のよさにもかかわららず、というより面倒見のよさゆえに、力尽きて堕落しきっってしまったジェルヴェーズ。その娘ナナ。しかしナナは持ち前の明るさゆえに社交界で評判の娘になる。社会的最底辺にまで失墜した母の娘であるにもかかわらず、というべきだろうか。そうではない。むしろ持ち前の明るさゆえに、ナナの社交界の中でのすべての振る舞いあるいは社交という雑多で猥雑な交わり合いは、母を取り返しのつかない失墜へと導いてしまったフランス社交界に対して発揮される《獣性》そのものにほかならなくなる。ありとあらゆる雑多で猥雑な交わり合い、その談笑、その奔放、その懶惰、その伝染病、等々を、大都会における社交的交合を通して媒介しまき散らし拡大再生産するのである。無意識の裡(うち)に。
BGM