白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー8

2019年10月26日 | 日記・エッセイ・コラム
ぶらりと映画館に立ち寄るジュネ。スクリーンにはフランス軍兵士とドイツ軍に協力した対独協力義勇兵との過酷な戦闘シーンが映し出されている。生前のジャンに似たフランス軍兵士が対独協力義勇兵に射殺される場面。ジャンはこうおもう。

「ジャンを殺(や)ったのは、たぶん、この男だ。私はこの男がほしかった。ジャンの死を嘆き悲しむあまり、その憶い出を払いのけるためなら私はいかなる手段をも辞さぬ覚悟だった」(ジュネ「葬儀・P.61~62」河出文庫)

理由はジュネが自分の手で精細に叙述している。

「その手先として若者を差しむけた、運命という名で呼ばれる兇悪な輩を相手に私が用いうる最良の策略、またこの若者にたいする最良の策略は、その犠牲者にたいして寄せる愛を彼に託すること以外にないだろう。その若衆の映像に向かって私は訴えるのだった。『彼を殺(や)ったのはきみであってほしい!』ーーー『彼を殺してくれ、リトン、ジャンをきみにやる』」(ジュネ「葬儀・P.62」河出文庫)

ジャンの敵である対独協力義勇兵リトンに向けてジュネの性的リビドー備給は急旋回する。美少年でありなおかつフランスレジスタンス運動の闘士であるジャンを射殺したのは対独協力義勇兵リトンでなければならない。なぜなら、リトンはとても美しい美少年だったから。銃撃戦のさなか、ほかにも多数の兵士たちがいたはずだが、とりわけジュネの身体において、ジャンとリトンとは等価性を得ている。ジュネ固有の倫理的基準で計測されるかぎり、ジャンはリトンによってのみ射殺されるに値し、リトンのみがジャンを射殺するに値する。そしてもしさらなる美少年が登場してきたとするなら、それぞれがどれも等価関係にある美少年の系列が出現することになる。次のように。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.118~120」国民文庫)

ところが、その均衡状態にジュネ固有の「裏切りへの意志」が加わる。すると天秤はフランスにとって裏切り者であるリトンの側、ナチスドイツを支持するフランスの対独協力義勇兵の側を支援する方向へ傾く。神の天秤はことのほか「裏切り者」を愛するように出来上がっているらしい。聖書にもある。

「わたしはあなた達に言う、敵を愛せよ。自分を迫害する者のために祈(いの)れ」(「新約聖書・マタイ福音書・第五章・P.81」岩波文庫)

「あなた達に言う、敵(てき)を愛(あい)せよ。自分を憎む者に親切(しんせつ)をつくし、呪(のろ)う者に神の祝福(しゅくふく)を求め、いじめる者のために祈れ。あなたの頬(ほお)を打つ者には、ほかの頬をも差し出し、上着(うわぎ)を奪(うば)おうとする者には、下着(したぎ)をこばむな」(「新約聖書・ルカ福音書・第六章・P.194」岩波文庫)

なお誤解のないよう注釈しておこう。「上着(うわぎ)を奪(うば)おうとする者には、下着(したぎ)をこばむな」、とある箇所。上着を必要としている人々には上着を与えることを拒否してはいけないが、もし相手が下着にも困っていた場合にかぎり、下着をも与えることを拒否してはいけない、ということを意味する。だから、あたかも性暴力加害者の主張のように、「上着を奪おうとしたら拒否されたので仕方なく下着を奪った」、という論理は通用しない。

ところで、ジャンはリトンが有する「裏切りへの意志」によって射殺されることでなおのこと力能を増す。これらの一部始終を「ジュネは生きる」ということも可能だ。

「ジャンが嫌いになったわけではない。リトンを愛したいのだ。(どうしてかは自分でも分らないが、《いつの間にか》、私はその見知らぬ若い対独協力義勇兵をリトンという名前で呼んでいる)床の上にひざまずいてにじり寄らんばかりに、私はかさねて嘆願する。『彼を殺してくれ!』」(ジュネ「葬儀・P.62~63」河出文庫)

この映画のワンシーンの描写はジュネ作品でしばしば見られる特徴として著しく長い。スローモーション的手法が用いられている。ジュネは残酷なシーンを事細かに述べる。だがジュネの場合、そうすること自体に「手応え」という「力への意志」を感じ取り、小説を書く力へ変換しているかのようだ。この作業はしかし、映画を見る側として、ジュネの「意識の流れ」をたいへん冷静沈着に映し出してくれる。ジュネはスクリーンの平面を縦横無尽に運動する「映像の全体じたい」に《なる》。

さて、アルトー。宗教的儀式化されたものへの抵抗としての「解体への意志」。凝固し固定化されたステレオタイプな社会への「抵抗としての微粒子化」。「人間《という》鋳型(いがた)」からの解放としての「流動性への意志」。

「そこには血だけが存在し 骸骨の鉄くずだけが存在し かちとるべき存在などはなく 生を失うだけでよかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.21」河出文庫)

しかしなぜ宗教はこんなにも血を欲するのか。血を象徴化したがるのか。聖書にもこうある。

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取りなさい、これはわたしの体(からだ)である』。皆がそれを受け取って食べた。また杯(さかずき)を取り、神に感謝したのち彼らに渡されると、皆がその杯から飲んだ。彼らに言われた、『これは多くの人のために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マルコ福音書・第十四章・P.57」岩波文庫)

「彼らが食事をしているとき、イエスはいつものようにパンを手に取り、神を賛美(さんび)して裂(さ)き、弟子たちに渡して言われた、『取って食べなさい、これはわたしの体(からだ)である』。また杯(さかずき)を取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、彼らに渡して言われた、『皆この杯から飲みなさい。これは多くの人の罪を赦(ゆる)されるために流す、わたしの《約束(やくそく)の血(ち)》である』」(「新約聖書・マタイ福音書・第二十六章・P.155~156」岩波文庫)

「いつものように杯(さかずき)を受け取り、神に感謝(かんしゃ)したのち、弟子たちに言われた、『これを取って、みなで回(まわ)して飲みなさい。わたしは言う、今からのち神の国が来るまで、わたしは決して葡萄(ぶどう)の木から出来たものを飲まないのだから』。またパンを手に取り、感謝して裂(さ)き、彼らに渡して言われた、『これはわたしの体(からだ)である』」「新約聖書・ルカ福音書・第二十二章・P.261」岩波文庫)

人間が人間になるためには自然との新陳代謝を通して《獣性》を獲得しなければならない。とすれば宗教的儀式としての食事とはなんのことを言うのか。

「そこで人間は退却し逃亡したのだ。だから獣たちが人間を食べてしまった。それは蛮行ではなかった、人間が猥雑な食事に身を委ねたのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.22」河出文庫)

「獣あるいは自然」は人間を食べる。自然の力はつねに人間を追いつめ飲み込み消化する脅威である。その過程を通して「獣あるいは自然」は人間と一体化する。解体があり新陳代謝があり流動する。人間は「自然の力」に対して暴力的に一体化されるほかない。だから、人間は全自然あるいは全宇宙と共演しているということができる。

「《道徳的》観点は局限されているーーー。各個人は宇宙の全実在と共演しているのだ、ーーー私たちがそのことを知ろうが知るまいが、ーーー私たちがそのことを欲しようが欲しまいが!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一二三一・P.656」ちくま学芸文庫)

そしてグローバル資本主義の成立は、主に多国籍企業と流動するマイノリティのさらなる差異化=微分化というリゾーム的運動形態の実現でもある。資本主義は全世界をいつも交通=流通の坩堝(るつぼ)に叩き込みつつ流動している。ニーチェのいう世界的交通の実現は、以前には個々別々に存在していた国家・国民という壁を超克し、つねに開かれた世界的共同体建設を可能にした。

「交通の自由が保証されていれば、《同種の》人間たちの《集団》が連合して、共同体を建設することができる。《国民を超克すること》」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・一一九四・P.638」ちくま学芸文庫)

したがって国境線はますます不透明になり抹消されていく。ところがマイノリティの安易なマジョリティ化(政治的白人化)には注意しなければならない。マイノリティは国家の側からマジョリティ(支配者層)の一部として公理系化されると、逆にマジョリティ(政治的白人)の側に立ってマジョリティ(政治的白人)の資本主義的倫理的法則を支援し、他のマイノリティ(非白人)を社会から排除する暴力的権力者集団と化してしまう恐れがあるからだ。

先進国の中でいえば日本ではしつこく残っている男社会。だがそれはよりいっそう資本主義が加速することでいずれ崩壊する。資本主義本来の均質化、平板化、記号化作用の貫徹によって、そんなことはもはや自明の理となった。とはいえ、これまでマイノリティ(非白人)だった女性であっても、マジョリティ(政治的白人)としてモル化してしまうと、それはもうこれまでのマジョリティ(政治的支配者層)と違わなくなってしまう。ドゥルーズとガタリはいう。

「一つのマイノリティは、多数でもあれば無数でもありうる。これはマジョリティに関しても同様である。マイノリティとマジョリティの区別とは、マジョリティの場合、数との内的関係は、無限であれ有限であれ、数えられる集合をなすのに対し、マイノリティの場合は、その要素の数にかかわらず、数えられない集合として定義されることだ。そして数えられないものを特徴づけるのは、集合でも要素でもなく、むしろ《連結》つまり『と』であり、要素と要素のあいだ、集合と集合のあいだに発生し、両者のいずれにも属すことなく、それらを逃れ、逃走線を形成するものなのだ。ところで公理系が扱うのは、たとえ無限であっても、要素が数えられる集合でしかないが、マイノリティが構成するのは、数えられず公理系化できない『ファジー』集合、要するに、逃走または流れからなる『大衆』であり、多様体なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.238~239」河出文庫)

ところで人間は人間になるため実際に様々な動物を食べる。動物の「肉」を食べる。動物を捕獲し、捕獲した動物を食べ、動物と一体化し、動物に《なる》。

「彼はそれに味をしめ、動物になること 巧妙に 鼠を食べることを 自分で覚えた」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.22~23」河出文庫)

動物を食べること。動物と一体化すること。そうして動物に顕著な《獣性》を獲得し、代わりに「血の報酬」を持ってきて《獣性》を正当化した人間は、人間自身、「獣として《も》」生きていくことを欲望し選択した。人間は、ただ単なる欲望を更新した。欲望を加工=変造して絶え間なく「欲望を生産する諸機械」へと転化させ、肉化、地層化、領土化、脱領土化、再領土化に、成功した。いついかなる時も、肉として糞として地層として領土として貨幣として商品として流動するようになった。したがって人間は、時として「アメリカ人」であり、時として「スターリンのロシア人」であり、時として「沖縄」であり、ーーー等々でもある。再生産された労働力商品としては時として「野菜」の部分であり、時として「原子力潜水艦」の部分であり、時として「排水ポンプ」の部分であり、時として「テレビ画面」の部分であり、ーーー等々でもある。しかしそれらはどれも或る強度として常に既に流動している。

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM