白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー4

2019年10月22日 | 日記・エッセイ・コラム
変身する棺桶の系列。ジュネの想像力は疲れ知らずだ。というべきだろうか。むしろ逆に世間一般の側が自分でもやっているのに気づいていないだけのことに過ぎないのではなかろうか。宗教的形式的な「形見分け」などはその変種でしかない。ジュネの側がよりいっそう事実に近い。

「ポケットのなかに私は彼の柩を持ち歩いていた。その棺桶の雛型は真物(ほんもの)である必要はなかった。厳粛な葬いの柩がそのちっぽけな品物の上に威力をおしつけていた」(ジュネ「葬儀・P.34」河出文庫)

姿形のアナロジー(類似、類推)は、たとえば素人名人芸で、どれほど歌が上手くても、歌が上手いだけでなく声まで似ている人には勝てないという状況に似ている。さらにジュネの場合、ポケットの中で棺に見立てたマッチ箱を持っておくだけでなく、いつも性愛を込めて全力で愛撫するという「真心という名の強度」が込もっている。他の友人知人の葬儀の方法とは桁が違う、少なくともキリスト教の「彌撒(ミサ)にもひけをとらず有効で、道理にかなったものだった」。

「ポケットの中の、私の手が愛撫するその小箱の上で、私は葬儀の雛型を執り行なっていた。それは奥まった礼拝堂の祭壇の向こうで、黒布をかぶせた偽物の柩と相対して、死者たちの霊魂のために唱えられる彌撒(ミサ)にもひけをとらず有効で、道理にかなったものだった」(ジュネ「葬儀・P.34」河出文庫)

ゆえにこう言うことができる。

「私の小箱は神聖だった。それはジャンの肉体の一きれすら納めているわけではないのだが、ジャンの全体を納めていた」(ジュネ「葬儀・P.34」河出文庫)

戦後の残骸処理も生々しい時期に執り行われたジャンの葬儀。当然こじんまりした簡素なものだった。しかし逆にジャンの葬儀を国事行為として華々しく執り行うことも不可能ではない。可能である。可能にするには次のような条件があればよい。

「たとえば、この人が王であるのは、ただ、他の人々が彼にたいして臣下としてふるまうからでしかない。ところが、彼らは、反対に、彼が王だから自分たちは臣下なのだと思うのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.111」国民文庫)

そしてジュネの用いた方法。棺のマッチ箱化というような方法が宗教的には正式な方法から逸脱した「裏切り的」な葬儀の方法であったとしてもなお、ジュネにしてみれば「優雅」でなおかつ「美しい」行為だと十分にいいうる。

「わたしは初めのほうで、それが優雅であるかどうかが行為の価値を決める唯一の基準だといった。わたしが裏切り行為を選びとるということを確言しても、それは上の言葉と決して矛盾しない。裏切るということは、神秘的な力と優美さとからなる、優雅な、美しい行為でありうる」(ジュネ「泥棒日記・P.355」新潮文庫)

さて、アルトー。「精液」という言語が現わしている様々な出来事について。ずいぶん時間が経過したものだとおもう。始めの部分で登場した「人工授精工場の精液」というものは何かと。もちろんこの系列は今やどこまでも延長して考えることができるようになった。戦争機械を生産するための身体の生産に必要な作業一切の再生産過程。しかしさらに人間の身体じたいがすでに戦争機械の部分でもある。どの国家であるにせよ、人間は、或る国家の一員として登録されているかぎり、そうではないと言うことは誰にもできない。遺伝子操作の結果出現した人間はもちろん例外とは認められない。生まれる以前にシステム=制度に対する同意という形で登録されるほうが先だからだ。

「どうしてもいたる所に生まれてくるあらゆる競争相手からこの気違いじみた人工的操作を防衛するには、兵士と、軍隊と、飛行機と、戦艦が必要であり、そこでアメリカ政府が大胆にも考えついたらしいこの精液も必要になってくる」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

だから「この精液」とは、人間が生産するすべての強度として加工=変造される人間とその労働力による諸商品の全系列へと延長される。資本もまたそこから利子が生まれるすべての労働力を調整する貯蔵庫として、巨大な一種の強度の塊でありなおかつそれはいつも変動相場制とともに流動している。

「なぜなら息子よ、われわれ生まれながらの資本主義者にとって、待ち伏せている敵は、数えきれない」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11」河出文庫)

資本が資本として流動するためには、地球上の誰もが「生まれながらの資本主義者」とされなくてはならない。資本主義社会の中でいっときでも生きていること、何かをなすこと、思考すること、行為すること、要するに生産すること、等々はすべて、資本主義を支援していることと違わない。だから思想信条の自由が保障されている民主主義国家においてですら、「待ち伏せている敵は」しばしば自分自身である。

「そしてこれらの敵のあいだには スターリンのロシアがいて これも軍事力には事欠かない。こうしたことはみんな申し分のないことだ、それにしても私はアメリカ人たちがこんなにも好戦的な民だとは知らなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.11~12」河出文庫)

次の文章から本格的にベトナム戦争にも当てはまってくるだろう。彼ら彼女らはいつも現地の人間たちを巧妙に利用して地域紛争を激化させ、さらなる新機軸を打ち出した軍事産業を発展させることでぐんぐん収益を上げていたからである。「アメリカ人たち」そして「スターリン化したロシア人たち」だけでなく、韓国軍や沖縄の米軍基地を提供した日本政府も。ベトナムは両陣営から「盾に」された。

「戦闘するには打ちのめされなくてはならない そして私はたぶん多くのアメリカ人たちが戦争するのを見たはずだ しかし彼らはいつも前方に戦車、飛行機、戦艦の途方もない軍団をもち それを盾にしていた」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.12」河出文庫)

とはいえ、たった二つの陣営だけがあったわけではない。信じがたいことに旧フランス王朝植民地時代支持層なども残存していたし、詳細をいえばもっと細分化される。

「私は多くの機械が戦闘するのを見た しかし機械を操縦する人間たちは、はるか後方にしか見えなかった」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.12」河出文庫)

だからこの詩は、とりわけこの箇所は何一つ難解でない。戦争機械を「操縦する人間たち」は常に既に「はるか後方にしか」いない。資本の人格化としての資本家とその仲間たちによって作られている国家あるいは産官学共同体でしかないからである。ドゥルーズとガタリはいう。

「戦争機械の自立化、オートメーション化が現実的な効果を発揮し始めたのは第二次大戦以後のことである。戦争機械は、それに作用する新しい対立の結果、もはや戦争を唯一の対象とせず、平和、政治、世界秩序をもにない、これらを対象とするにいたり、要するに目的であったものも一つの対象とするにいたる。ここにおいてクラウゼヴィッツの公式は転倒される。政治はただ戦争を継続させるものとなり、《平和が無限の物質的プロセスを全面戦争から技術的に解放するのである》。戦争はもはや戦争機械の具体化ではなく、《具体化された戦争となるのは戦争機械そのものである》。この意味でもはやファシズムは不要となった。ファシストたちは前兆としての子供でしかなかったのであり、生き残りのための絶対的な平和は全面戦争が達成できなかったものを完成させた」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・P.233~234」河出文庫)

しかし先進諸国家はただちにその首長を置き換えることができる。少なくとも、先進諸国が取り入れた民主主義が可能にしたことはそういうことだ。そうしてフランスやイギリスやアメリカなどはダイナミックに流動する社会形態を手に入れた。ところがドイツでは首長を置き換えてみてもさほど社会は変化しないという現象が起こってきた。そのため、たとえばドイツでは社会が余りにも変化しないため、国家としての新陳代謝が思ったようになされないため、逆に窒息しそうな雰囲気ばかりが沈潜するため、ドイツ社会全体にたちまち閉塞感が生じてきた。市民のあいだで受動的ニヒリズムが蔓延するという事態にまで発展した。そしてこの現象はドイツのみならず全ヨーロッパをも蝕んでいくことになる。第一次世界大戦前夜。刑務所で看守が変わっても囚人の生活は変わらない閉塞状況というエピソードを用いてニーチェは次のようにコミカルに諷している。

「《囚人たち》。ーーーある朝、囚人たちは作業庭のなかへ入っていった。そのとき牢番はいなかった。彼らのうちの或る連中は彼らなりにすぐに仕事にとりかかったが、ほかの連中は働かずに突っ立って、反抗的にあたりを見まわしていた。そこへ一人の男が現われて、大声でこう言った、『好きなだけ働けがいい、でなかったら何もしないがいい。どちらにしても同じことだ。お前たちの秘密の陰謀が露顕したのだ。牢番は最近お前たちの話を盗み聞きした。そして近日中にお前たちを恐ろしい審判にかけようとしている。お前たちの知ってのとおり、彼は峻烈だし、執念深い心の持ち主だ。だが、よく聴け、お前たちはいままでおれを誤解していた。おれは見かけ以上の者なのだ。おれは牢番の息子で、おれの言うことは彼に何でも通るのだ。おれはお前たちを救うことができるし、また救ってやるつもりだ。だが、よく聴くがいい、お前たちのなかでおれが牢番の息子であることを《信ずる》者たちだけだぞ。そうでない者たちは、自分の不信仰の実を刈りいれるがいいのだ』。しかも父親を思いどおり動かすことができるのだ。私はおまえたちを救うことができるし、救いたいとも考えている。ただし、むろんのこと、救ってやるのは、おまえたちのうちで私が看守の息子であることを<信じる>者だけだ。信じようとしない者たちは、その不信心の報いを受ければよい』。『だが』としばらくの沈黙のあとをうけてひとりの年配の囚人が言った、『われわれがお前さんのことを信じようと信じまいと、それがお前さんにどれだけ大切だというのだい?お前さんが本当に息子で、お前の言うとおりのことができるのなら、おれたちみんなのために取りなしをしてくれ。それこそお前さんのほんとうの思いやりというものだ。だが、信ずるとか信じないとかのお談義はよししてくれ!』『そして』とひとりの若い男が口をはさんで叫んだ、『おれもあいつを信じないよ。あいつは何か妙な空想をしているだけなんだ。おれは賭けてもいい、一週間たったっておれたちは今日とまったく同じにここにいるのさ、そして牢番は《何も》知っては《いない》のだ』。『いままでは何か知っていたにしても、いまはもう何も知ってはいない』と、いま庭へ出てきたばかりの最後の囚人が言った、『牢番はたったいま急に死んだのだ』。ーーー『おーい』と幾人かの者がごっちゃに叫んだ、『おーい!息子さん、息子さん、遺産のほうはどうなんだね?われわれは、どうやらいまは《お前さん》の囚人なんだね?』ーーー『おれがお前たちに言ったとおりだ』と、呼びかけられた男は穏やかに答えた。『おれはおれを信ずるすべての者たちを解放するだろう、おれの父がまだ生きているのと同じ確実さで』。ーーー囚人たちは笑わなかった、しかし肩をすくめてから、立ちどまる彼を残して、立ち去った」(ニーチェ「人間的、あまりに人間的2・第二部・八四・P.337~338」ちくま学芸文庫)

さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。

BGM