白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

言語化するジュネ/流動するアルトー1

2019年10月19日 | 日記・エッセイ・コラム
アルマンに対する裏切りという実践へ踏み切ることに眩(まばゆ)く光り輝く抵抗できない誘惑を覚えるジュネ。ジュネは強度をスティリターノの側へ素早く移動させる。

「そのうえさらにすばらしいことは、わたしを愛していない、そしてわたしにとって裏切ることなど思いもよらないスティリターノが、そのことでわたしを援(たす)けてくれるということだった。スティリターノという人間の、鋭い性格は、心臓を刺し通す短剣、というイメージにこのうえなく相応(ふさ)わしかった。悪魔の力、その我々に対する威力は、彼の皮肉さにある」(ジュネ「泥棒日記・P.386」新潮文庫)

人間はなぜ「神」に祈るのだろう。なぜ「悪魔」に祈らないのだろう。たとえば日本でも、打ち続く豪雨災害に対して「悪魔のよう」だという人々がいる。それなら「悪魔」に対して慈悲を乞うのが妥当ではと考えないのはなぜなのか。「神」は何も約束しないし「悪魔」もまたそうだ。どちらも人間による創造物でしかない。そしてそれが悪魔に見えたのなら、なぜ悪魔に向かって許しを乞わないのだろうか。ジュネは興味深いことを述べている。

「ヘルメス(マーキュリー)は、ギリシャ・ローマ時代の泥棒たちの守護神であったということだ。つまり泥棒たちはいかなる力に加護を求めたらよいかを知っていたーーー。悪魔と盟約を結ぶことは、あまりにも自己をのっぴきならない立場に置くことである、それほど悪魔は、我々が最後の勝利者であることを知っている神に対立する存在なのだ。人殺しでさえも、悪魔に祈る勇気はあるまい」(ジュネ「泥棒日記・P.307」新潮文庫)

どちらがどちらなのかわからない、ということがようやく明確になってきた。要するに、神(秩序)は悪魔(無秩序)から生まれた。そして無秩序とは自然の猛威であり、秩序とは社会的な約束事の束である。ジュネはおもう。スティリターノはなぜ魅力的なのか。

「彼の魅力は、あるいは、彼の我々に対する冷淡さにほかならないのではあるまいか」(ジュネ「泥棒日記・P.386~387」新潮文庫)

スティリターノの冷淡さはアルマンの抵抗力よりも魅惑的なのだ。スティリターノは自然力に対して冷淡な態度を取る。アルマンはどうか。

「世間的道徳の掟(おきて)を否定した際のアルマンに見られた激しさ(フォルス)は、アルマン自身の力(フォルス)を証明すると共に、彼にのしかかっていたそれらの掟の強大な力をも証明していた」(ジュネ「泥棒日記・P.387」新潮文庫)

アルマンの場合、世間からの蔑視に対して全力で対抗する。それはアルマンの犯罪者としての自尊心がそうさせるからだ。しかしスティリターノは違っている。ジュネはアルマンとスティリターノとを簡略に比較して述べる。

「ところがスティリターノのほうは、そうした掟に対してただ薄笑いをもって対するだけだった。彼の皮肉さが、わたしをすっぽり魅了したのだった。彼の皮肉さは、そのうえ厚かましくも、世にも稀(まれ)な美しい顔の上に自己を表現していた」(ジュネ「泥棒日記・P.387」新潮文庫)

アルマンの持つ驚異的な精神的肉体的威力と比較してスティリターノの力はどこが異なっているのか。スティリターノが世間からの蔑視に対して見せている力。それはニーチェのいう「ニヒリスト」の態度なのだ。それがジュネを魅了した。

「《完全なニヒリスト》。ーーーニヒリストの眼は、《醜いものへと理想化し》、おのれの追憶に背信をおこなうーーー。すなわち、追憶が転落し凋落するにまかせ、遠いもの過ぎ去ったもののうえへと弱さのそそぐ屍色(かばねいろ)に追憶が色あせてゆくのをふせごうとはしない。そしてニヒリストは、おのれに対してなさぬこと、そのことを人間の全過去に対してもなすことはない、ーーー彼はそれを転落するにまかせる」(ニーチェ「権力への意志・第一書・二一・P.37」ちくま学芸文庫)

だがしかし、ニーチェのいうニヒリズムはここから先、二種類に区別される。「能動的ニヒリズム」と「受動的ニヒリズム」とにである。問題になるのは前者の「能動的ニヒリズム」である。それは《ディオニュソス的》「運命愛」を肯定する。この肯定は、自ら選択した次の次元へ意志する能動的通過の態度として考えることができる。

「《然りへの私の新しい道》。ーーー私がこれまで理解し生きぬいてきた哲学とは、生存の憎むべき厭(いと)うべき側面をもみずからすすんで探求することである。氷と沙漠をたどったそうした彷徨(ほうこう)が私にあたえた長いあいだの経験から、私は、これまで哲学されてきたすべてのものを、異なった視点からながめることを学んだ、ーーー哲学の《隠された》歴史、哲学史上の偉大なひとびとの心理学が、私には明らかとなったのである。『精神が、いかに多くの真理に《耐えうる》か、いかに多くの真理を《敢行する》か?』ーーーこれが私には本来の価値尺度となった。誤謬は一つの《臆病》であるーーー認識のあらゆる獲得は、気力から、おのれに対する冷酷さから、おのれに対する潔癖さから《結果する》ーーー私の生きぬくがごときそうした《実験哲学》は、最も原則的なニヒリズムの可能性をすら試験的に先取する。こう言ったからとて、この哲学は、否定に、否(いな)に、否への意志に停滞するというのではない。この哲学はむしろ逆のことにまで徹底しようと欲するーーーあるがままの世界に対して、差し引いたり、除外したり、選択したりすることなしに、《ディオニュソス的に然りと断言すること》にまでーーー、それは永遠の円環運動を欲する、ーーーすなわち、まったく同一の事物を、結合のまったく同一の論理と非論理を。哲学者の達しうる最高の状態、すなわち、生存へとディオニュソス的に立ち向かうということーーー、このことにあたえた私の定式が《運命愛》である」(ニーチェ「権力への意志・第四書・一〇四一・P517~518」ちくま学芸文庫)

さて、「葬儀」。

「私はジャンの死によって惹き起された苦しみを通して自分の恋慕に気づきつつあった、が、同時に、その恋慕は自分の外に熱中しうる対象を持たぬ以上、その情熱によって私を磨りへらし、すみやかに私の死を招くのではないかという恐ろしい不安が次第にはびこりだすのだった」(ジュネ「葬儀・P.27~28」河出文庫)

リビドー備給の逆転を恐れるジュネ。それは「私にけっきょく災害をもたらす」とほとんど確信に近い予感を持つ。

「その炎は(私の瞼の縁(へり)はすでに焼けこげていた)方向を逆転して、と私は考えるのだった、ジャンの面影をうちにとどめて、自分とひとつに溶け込ませている私にけっきょく災害をもたらすことになるだろう」(ジュネ「葬儀・P.28」河出文庫)

ではなぜ、リビドー備給の逆転は「私にけっきょく災害をもたらす」ことになるのだろうか。すでにジュネは「私の瞼の縁(へり)はすでに焼けこげていた」と述べているわけだが。

「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・P.99」岩波文庫)

この方向の転倒を回避することはできないのだろうか。或る程度なら或る方法で回避することができる。アルトーのいうように、社会的に作られた「神」=「ステレオタイプ」(固定観念)による力のベクトルに縛られないという態度を取ることによって。重要なのは、社会的規模であらかじめ与えられた諸条件に対する全面的な態度の変更である。

「私は強調する、その身体構造を作り直すため、と。人間は病んでいる、人間は誤って作られているからだ。決心して、彼を裸にし、彼を死ぬほどかゆがらせるあの極微動物を掻きむしってやらねばならぬ、

神、
そして神とともに
その器官ども。

私を監禁したいなら監禁するがいい、しかし器官ほどに無用なものはないのだ。

人間に器官なき身体を作ってやるなら、人間をそのあらゆる自動性から解放して真の自由にもどしてやることになるだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.44~45」河出文庫)

アルトーのいう「器官なき身体」についてドゥルーズとガタリは次のように述べる。

「われわれはしだいに、器官なき身体は少しも器官の反対物ではないことに気がついている。その敵は器官ではない。有機体こそがその敵なのだ。器官なき身体は器官に対立するのではなく、有機体と呼ばれる器官の組織化に対立するのだ。アルトーは確かに器官に抗して闘う。しかし彼が同時に怒りを向け、憎しみを向けたのは、有機体に対してである。《身体は身体である。それはただそれ自身であり、器官を必要とはしない。身体は決して有機体ではない。有機体は身体の敵だ》。器官なき身体は器官に対立するのではなく、編成され、場所を与えられねばならない『真の器官』と連帯して、有機体に、つまり器官の有機的な組織に対立するのだ。《神の裁き》、神の裁きの体系、神学的体系はまさに有機体、あるいは有機体と呼ばれる器官の組織を作り出す<者>の仕事なのだ」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・上・P.325」河出文庫)

前に触れた資本主義独特の平均化作用について。ほとんどすべての一般人は均質化され、平板化され、群畜化され、一般化される。均質化作用というのはどの個人もすべて同じものになるということを意味する。だからこれまでそれぞれに違った賃金を受け取ってきた賃金労働者は、均質化されることによってどの労働者も同じ価格の賃金を受け取ることになる、ということを必ずしも意味しない。むしろ雇主の側から見れば、質的に同一であるのなら、いっそのことAIにすべて任せ切ってしまえばわざわざ人間を雇って労賃を支払う義務から解放されると考えるのである。ただし過程は今なお進行中であって絶望的なまでに決定してしまったわけではない。とはいえ、条件がこれまでと同じであれば、高度テクノロジーの進歩が多くの労働者を労働現場から排除することに成功してきたように事態は進むにちがいない。

なお、神戸市の小学校で発覚した「いじめ教諭」問題。当局は「徹底的に調査する」という。けれども、「当局発表」という行為について、これまで何度も繰り返し裏切られてきた一般市民としては、容易に信じがたいと言わねばならない。さらに、どの語彙にしてもそうなのだが、繰り返し使用すればするほど、もし言葉に内容が伴っていなかった場合、言語としての価値を急速に喪失していく傾向がある。「徹底的」という言葉もまた例外ではない。たとえば、使用される言語が日本語であれば、それはただちに日本語に対する侮辱を意味する。日本語の主催者とされる天皇に対する侮辱でもある。ちなみに神戸市教育委員会は「カレー給食中止」を発表したが、あまりにも世間一般を舐めきった瞞着的措置であるとしかおもえない。神戸市教育委員会の中にはなるほど右派もいれば左派もいる。しかし一つの組織としては右派も左派も関係ない。すでに日本社会に対して侮辱的瞞着を加えただけでなく、日本語の主催者とされる天皇を侮辱したという点ではもはや決定的な一撃だったとおもえる。しかし自らの自主的判断でそうしたというのであれば、それはそれで「思想信条の自由」ではあり、法律によって保障されねばならない。しかし「思想信条の自由」からそうしたのでない場合、それはただ単に日本社会に対する侮辱でしかない。ところが、もし仮に本当に「徹底的な調査」の上で相当とされる刑罰が実施されるとしよう。刑罰には刑罰独特のトリックが内在されている。それはどういうことかというと、刑罰は《犯罪そのもの》を裁くのではなしに、わざと的を外して「犯罪《者》」を裁くという致命的見当違いである。

「わけても軽視してならないのは、犯罪者は裁判上および行刑上の処置そのものを見るというまさにそのことのために、自分の行為、自分の行状を《それ自体において》非難さるべきものと感じることをいかに妨げられるかということだ。というわけは、犯罪者は、それと全く同一の行状が正義のために行なわれ、そしてその場合は『よい』と呼ばれ、何らの疚(やま)しさを感じることもなく行われているのを見るからである。つまり彼は、探偵・奸策・買収・陥穽など、警官や検事側の弄する狡猾老獪な手管の全体、それからまた諸種の刑罰のうちに際立って示されているような、感情によっては恕(ゆる)されないが原則としては認められる褫奪・圧制・凌辱・監禁・拷問・殺害など、ーーーこれらすべての行為を、彼の裁判者たちは決して《それ自体において》非難され処罰さるべき行為としては行なわず、むしろ単にある種の顧慮から利用しているのを見るからである」(ニーチェ「道徳の系譜・P.95」岩波文庫)

《犯罪そのもの》を裁くのではなしに、わざと的を外して「犯罪《者》」を裁くという見当違い。この「ねじれ」。あまりにも長い間にわたって習慣化されてきたために「ねじれ」が「ねじれ」に見えないという悲喜劇。そして習慣はいったん成立してしまうとどのような事態をもたらすのか。マルクスはいう。

「社会的生産関係とそれに対応する生産様式との基礎をなす自然発生的で未発達な状態にあっては、伝統が優勢な役割を演ぜざるをえないということは、明らかである。さらに、現存の事物を法律として神聖化し、またこの事物に慣習と伝統とによって与えられた制限を法的制限として固定することは、ここでもやはり社会の支配者的部分の利益になることだということも、明らかである。ほかのことはすべて別として、とにかく、こういうことは、現存状態の基礎つまりこの状態の根底にある関係の不断の再生産が時のたつにつれて規律化され秩序化された形態をとるようになりさえすれば、おのずから起きるのである。そして、この規律や秩序は、それ自身、どの生産様式にとっても、それが社会的な強固さをもち単なる偶然や恣意からの独立性をもつべきものならば、不可欠な契機なのである。これこそは、それぞれの生産様式の社会的確立の形態であり、したがってまた単なる恣意や偶然からのその相対的な解放の形態である。どの生産様式も、生産過程やそれに対応する社会的関係が停滞状態にある場合には、それ自身の単なる反復的再生産によってこの形態に到達する。この形態がしばらく持続すれば、それは慣習や伝統として確立され、ついには明文化された法律として神聖化される」(マルクス「資本論・第三部・第六篇・第四十七章・P.296」国民文庫)

今後はもっと根本的な〔ラディカルな〕議論が必要とされるだろう。とはいえ、「根本的な〔ラディカルな〕」とはどのような態度を指すのか。

「ラディカルであるとは、事柄を根本において把握することである。だが、人間にとっての根本は、人間自身である」(マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」『ユダヤ人問題によせて・ヘーゲル法哲学批判序説・P.85』岩波文庫)

ところでニーチェのいう刑罰における「ある種の顧慮」とはどのような「顧慮」なのか。

「刑罰の『意味』がいかに不安定であり、いかに追補的であり、いかに偶然的であるか、同一の処分がいかに相違した目的に利用せられ、適用せられ、準用せられうるか、これについて少なくとも一つの見当を与えるために、比較的小さな偶然の材料に基づいて私自身に思い浮かんだ見本をここに並べてみよう。危害の除去、加害の継続の阻止としての刑罰。被害者に対する何らかの形における(感情の上の代償でもよい)損害賠償としての刑罰。均衡を紊(みだ)すものの隔離による騒擾の拡大防止としての刑罰。刑の決定者および執行者に対する恐怖心の喚起としての刑罰。犯罪者がこれまで享有してきた便益に対する一種の決済としての刑罰(例えば、犯罪者が鉱山奴隷として使用せられる場合)。退化的要素の除去としての(時としてはシナの法律におけるが如く、一族全体の除去としての、従って種族の純潔を維持し、または社会型式を固定する手段としての)刑罰。祝祭としての、換言すれば、ついに克服せられたる敵に対する暴圧や嘲弄としての刑罰。受刑者に対してであれーーーいわゆる『懲治』ーーー、処刑の目撃者に対してであれ、記憶をなさしめるものとしての刑罰。非行者を常軌を逸した復讐から保護する権力の側から取りきめた謝礼の支払いとしての刑罰。復讐が強力な種族によってなお厳として維持せられ、かつ特権として要求せられている場合、その復讐の自然状態との妥協としての刑罰。平和や法律や秩序や官憲の敵ーーー共同体にとっての危険分子として、共同体の前提たる契約の破棄者として、反逆者、裏切者として、また平和の破壊者として、あたかも戦争に用いられるような武器をもって打倒せらるべき敵ーーーに対する宣戦および作戦としての刑罰」(ニーチェ「道徳の系譜・P.93~94」岩波文庫)

だから人間はいつも国家によって利用されるだけ利用され、徹底的に利用され尽くしたあげく、ほとんどの場合ただ単に棄てられて終わる。そのような国家風土を作り上げている文化的条件とはどのような条件なのか。

「《悪用され雇い入れられている一種の文化》が存在しているーーー周りを見給え!今や最も活動的に文化を促進している諸力こそは、そうしながら下心を抱いているのであって、純粋な非利己的な心情において文化と交渉しているのではない。

第一に《営利者の利己心》があり、これが文化の援助を必要とし、その返礼のつもりで文化を助けてもいるのだが、しかしもちろん、その際同時に目標と尺度を指図したがっている。

第二に《国家の利己心》があるが、国家もまた文化のできるだけの普及と一般化を渇望し、そしてその願望を満足させるための極めて有効な道具を手にもっている。単に束縛を解くのみならず、また適当な時に軛(くびき)につなぎうる十分な力のあることが国家に分かっており、また国家の土台が教養の円天井をそっくりもちこたえるのに十分なほどしっかりし広大であると前提すれば、その場合には国民の間に教養を普及しておくことは他国と競争する際にも、いつも専(もっぱ)ら国家それ自身にとって有利である。現在『文化国家』について語られるあらゆる場合に、時代の精神力を、これが現存の制度に奉仕し役立ちうる範囲内で解放するという課題が国家に負わされているのが見られる。しかしまたただそういう範囲内においてのみであるが、これは森の流れが堰(せき)や篔(かけひ)を使って分けて引き込まれ、かなり小さな力で水車を廻すのと同様であるーーーもし流れの全力があたれば水車にとって有用であるよりもむしろ危険であろう。あの解放は同時にというよりはむしろはるかに多く束縛である。

第三に文化は、《醜いあるいは退屈な内容》を自覚しておりながら、これをいわゆる『《美しい形式》』によってたぶらかそうとするすべての人々によって促進されている。内なるものが外面に即して判定されるのが通例であることを前提にして、外面的なものによって、言葉、身振り、飾り、誇示、気取った作法によって観察者を強制して内容に関して誤った結論を下させるつもりなのである。近代人はお互いに際限なく退屈し合い、遂にあらゆる芸術の助けをかりて自分を興味あるものに仕立てる必要を感じているらしく私には時として思われる。そこで彼らは彼らの芸術家によって自分たちをぴりっとした、塩も利いている料理として食卓に出してもらう、そこで彼らは東洋西洋の全体にわたる香料を自分たちにふりかける、そして確かに!今や彼らはいかにも甚だ興味ある匂い、東洋風西洋風全体の匂いを放っている。そこで彼らはどんな趣味をも満足させるように準備する。だから、芳香を放つものであれ悪臭を放つものであれ、高尚なものであれ田舎風な粗末なものであれ、ギリシア風であれシナ風であれ、悲劇であれ劇化された猥談(わいだん)であれ、お好みのままに注文に応じますというわけだ」(ニーチェ「反時代的考察・第三篇・四・P.299~302」ちくま学芸文庫)

そしてまた、或る特定の地域において言語(あるいは言語的記号)の主催者が神格化されるという現象は何も日本にかぎったことではない。世界中のあちこちで古代からずっとあった。

「ローマ人やエトルリア人は、天空を、固定した数学的な線で以て切断し、このような具合に限界づけられた空間を神殿と見立てて、その中へ神を封じ込めたのだが、それと同じように、すべての民族は、このように数学的に分割された概念の天空を、自分の上にもっているのであって、今や真理の要求ということを、あらゆる概念の神は《その》領域のうちにのみ求められるものだというふうに、理解しているのである」(ニーチェ「哲学者の書・P.356~357」ちくま学芸文庫)

したがってこういえる。なるほど「見た目」はどのように変わって見えていても、その内実は、少なくとも現状では今だにそうだと。さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。

「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)

ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。

BGM