ジャンのための喪の作業は続いている。だがジュネの愛人でありナチス党員であるエリックと向かい合ってみて、ジュネはおもう。エリックの肉体美を眼前にしてジュネは湧き溢れる欲望を抑えきれない。だがエリックはあくまでジャンを射殺した側である事実も動かせない。欲望と倫理とのあいだでダブルバインド(板ばさみ)になるジュネ。しかしこの「苦しみ」「痛み」は「ねじくれた」「苦しみ」「痛み」であり、いわば「愛撫」のようだと快感を覚える。
「だけど、ジャンを見捨てるというのか、その仇敵にこれほど好意を示すということは、後悔が忍び込んだ私の心を微妙に苦しめ、痛めつけるのだった、それもごくやんわりと、いうなればねじくれた、愛撫に近い仕ぐさで」(ジュネ「葬儀・P.44」河出文庫)
「泥棒日記」の前半でも重要な意義を込めて言及されている「虱」(しらみ)が登場する。ジャンが「どこかの淫売婦からもらってきた」であろう虱がジュネの身体にはまだ巣食っている。それをジャンの貴重な思い出として自分の身体の中でたいせつに育てていこうと気を配るジュネ。
「その魂がまだ安息を見出していない若者を見捨てるべきでないことはわかっていた。彼のちからになるべきだった。形見としては、彼がたぶんどこかの淫売婦からもらってきた毛虱が何匹か私のなかに残っていた。その虫けらどもは、全部とまではいわないがすくなくともそのうちの一匹くらいは彼の身体(からだ)の上で生きていたことは確かであり、そしてそれが産みつけた卵は、私の毛のなかに忍び込んで群落をつくり、ますます増えて、睾丸の皮膚のひだの中で死んでいくのだ。それらがその個所とその周囲にとどまるよう私は気を配っていた」(ジュネ「葬儀・P.44~45」河出文庫)
虱はジャンの肉体から血を吸ったことのあるまぎれもない生きものだ。だからジュネにとってそれら虱たちは「まさしくわが友の生ける形見」であるといえる。
「以前その血を吸ったジャンの肉体の同じ個所をそれらがおぼろげに記憶していると考えるのは私にとって楽しいことだった。小さな人目につかぬ修験者(しゅげんじゃ)として、彼らはその森の奥で若くして死んだ男の想い出を保ちつづける任務を負わされているのだ。彼らはまさしくわが友の生ける形見だった」(ジュネ「葬儀・P.45」河出文庫)
ジュネの性的リビドー備給は今後これら虱たちを自分の身体の中で「興味と愛情をこめて、しばらく間近で観察し、また私のちぢれ毛のなかにもどしてやる」ことになる。
「できるだけ私は、彼らに気を配り、身体を洗うことすら、引っ掻くことすらさしひかえるのだった。ときにはそのなかの一匹をむしり取り、爪と皮膚のあいだに挟んでつまみ出してみることもあった。興味と愛情をこめて、しばらく間近で観察し、また私のちぢれ毛のなかにもどしてやるのだった」(ジュネ「葬儀・P.45」河出文庫)
ちなみに「泥棒日記」で大変重要な意義を与えられていた虱。なぜ重要だったのか。そしてなぜ、ほかでもない「虱」で「なければならなかった」のか。少しばかり引いておこう。
「虱どもは我々を棲家(すみか)としていた。この一族は我々の衣服に活気と賑わいとを与えていて、もしそれが無くなると、我々の衣服はたちまち死んだものに感じられるのだった。ーーー虱は我々の繁栄の唯一の表徴だったのだーーーむろんそれは繁栄のまさに正反対のものの表徴ではあったが、しかし、我々の境涯に対してそれを是(ぜ)とする復権の操作を加えた以上、それと同時にその表徴をも是としたことは、論理上当然のことだろう。成功とよばれるものを味わうための宝石と同じように、我々の零落を確(しか)と味わうために役だつものとなって以来、虱は貴重な存在であった」(ジュネ「泥棒日記・P.29~30」新潮文庫)
というように、たった一匹の虱でさえも有効に活用するジュネ。虱はジュネたちにとってその「繁栄」の証明として貴重な「象徴」と化していた。「虱ども」は「我々の衣服に活気と賑わいとを与えてい」た。同時に虱が繁栄すればするほど、それは蓄積される「宝石」と同様の役割を果たす。要するに「我々の零落を確(しか)と味わうために役だつ」。言語構造が極めて柔軟かつ活きいきと活用されているといえる。
さて、アルトー。「存在」というのはステレオタイプ(固定観念)化され凝固することを宿命づけられた人間、という或る種の窮屈な身体に過ぎない。だからアルトーは当然次のようにいう。
「糞の臭うところには 存在が臭う」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
ステレオタイプ(固定観念)として凝固した有機体として「存在」するとは、あらかじめ恣意的に決定づけられた身体としてのみ生きていくことが許可されている状態だ。そこはいつも「糞の臭うところ」である。
「人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ、肛門の袋を開かぬこともできた、しかし彼は糞をすることを選んだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
そもそも人間がもっと能率的な方法を選択する生きものだったとすればバロウズのいうような身体を選択することもできたであろう。
「人間の身体はまったく腹立たしいくらい非能率的だ。どうして調子の狂う口と肛門のかわりに、物を食べる《とともに》排出するようなすべての目的にかなう万能の穴があってはいけないのだ?鼻や口は密閉し、胃は詰め物をしてふさぎ、どこよりも第一にそれはそうあるべきはずの肺臓にじかに空気孔を作ることができるはずだ」(バロウズ「裸のランチ・P.183~184」河出書房新社)
しかしなぜ人間はそうしなかったのだろう。
「死んだまま生きることには同意せず 生きることを選んだからであろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
常に既に流動している身体ではなく逆に固定した有機体として存在することを選んだということだ。人間は倒錯することを選択したわけだ。あるいは倒錯することを「神」〔慣習によってステレオタイプ化した社会的規範〕によって押し付けられたといえる。
「つまり糞をしないためには、存在しないことに 同意しなければならなかったのだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
人間は糞をしない浮遊状態でいるよりは確実に糞をする存在になりたいと欲した。しかし人間の身体は「固定した存在」としては存在しない。いつもすでに流動する強度としてしか存在しない。ニーチェはいう。
「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫)
さらに人間の身体の可変性についてこうもいう。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
ニーチェにとって身体は、けっしてステレオタイプ(固定観念)へと凝固した死物などではまったくない。いつも全宇宙と共演し流動する強度の多様性だ。
「けれど彼は存在を 失ってもいいとは思わなかった、つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19~20」河出文庫)
人間は「臭い」。無味無臭の人間などどこにもいない。しかしなぜ人間はそもそも「臭い」ものでなければならないと欲したのか。強烈なまでに「臭いに《気を配る》」のか。あくなき「臭さ《への》意志」であろうと加速するのか。
「存在の中には 人間を 特にひきつけるものがあるのだが それはまさに 《糞》なのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
フロイトから。
「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)
「臭い」だけではない。「吐き気」にも異様なまでの執着を見せる。そしてそれを物事の判断基準にまで用いている。
「悪は、それが低劣で吐きけを催させるものと取り違えられるときに初めて、不評を招く。そのときまでは悪は心をひきつけて、模倣するよう刺激する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四六七・P.276〜277」ちくま学芸文庫」)
さらに、人間は多少なりとも醜悪なものに惹きつけられるという傾向を持つ。年齢性別国籍問わず、覗き見したり、陰部を舐めあったり、性行為に耽ったり。人間は醜悪な行為がとにかく好きだ。なぜなのか。
「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫)
ゾラから。
「当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどうけとばされても、いっこうに感じなかった。あまりにも無気力で、だらけきってしまっていた。だから、ランチエは完全に彼女を見放していた。もう形の上だけでも抱こうとはしなかった」(ゾラ「居酒屋/P.505」新潮文庫)
ちなみに、個人的には、ゾラ作品はなかなか面白いし興味深くもあると言っておきたい。さて前回、刑務所の看守と囚人との関係を民主主義に喩えたニーチェのエピソードを紹介した。では今回は、そもそも刑務所の中の「囚人《という》比喩」は、社会的なステレオタイプ(固定観念)との関係において、どういう状態を指すのかという部分を引いておこう。
「《刑務所の中で》。ーーー私の眼は、どれほど強かろうと弱かろうと、ほんのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかのところで私は活動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、中心点をもち、しかもこの存在に固有であるような、ひとつの同心円がある。同様に、耳がわれわれをひとつの小さな空間の中に閉じ込める。触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感覚がわれわれの一人一人を閉じ込めるこの地平線に《従って》、われわれは今や世界を《測定する》。われわれは、これは近くあれは遠い、これは大きくあれは小さい、これは堅くあれは柔らかい、と叫ぶ。この《測定》をわれわれは感覚と呼ぶ。ーーー何もかも誤謬それ自体である!われわれにとって平均してある時点に可能である多くの体験や刺激に従って、われわれは自分の生を、短いとか長いとか、貧しいとか富んだとか、充実しているとか空虚であるとか、測定する。そして平均的な人間の生に従って、われわれはすべての他の生物の生を測定する。ーーー何もかも誤謬それ自体である!われわれが近いところに対して百倍も鋭い眼をもつとすれば、人間は途方もなく高く見えることであろう。そればかりか、それによると人間が測定されないと感じられるような器官を考えることができる。他方、太陽系全体が狭まり、絞めつけられて、たったひとつの細胞のように感じられるような性質を、器官がもつこともありうるであろう。そしてそれと反対の組織をもった存在にとっては、人間の身体のひとつの細胞は、運動や、構造や、調和の点で、一個の太陽系であることを示しうるであろう。われわれの感覚器官の習慣は、われわれを感覚の欺瞞に紡ぎこんだ。これらの感覚器官は、再びわれわれのすべての判断と『認識』の基礎である。ーーー《現実の世界》への逃走も、すりぬける道も、抜け道も、全くない!われわれは自らの網の中にいるのだ、われわれ蜘蛛は。そしてわれわれがそこで何をつかまえようとも、まさしく《われわれの》網でつかまえられるもの以外には、何もつかまえることができない」(ニーチェ「曙光・一一七・P.139~140」ちくま学芸文庫)
とはいえ、資本主義は社会的規模で状況が変わると「社会=刑務所」の様相は現実的な変更を受ける。「囚人《という》比喩」はなるほど有効だが、有効であるがゆえ、「《われわれの》網でつかまえられるもの」もまた変化する。マルクス参照。
「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
BGM
「だけど、ジャンを見捨てるというのか、その仇敵にこれほど好意を示すということは、後悔が忍び込んだ私の心を微妙に苦しめ、痛めつけるのだった、それもごくやんわりと、いうなればねじくれた、愛撫に近い仕ぐさで」(ジュネ「葬儀・P.44」河出文庫)
「泥棒日記」の前半でも重要な意義を込めて言及されている「虱」(しらみ)が登場する。ジャンが「どこかの淫売婦からもらってきた」であろう虱がジュネの身体にはまだ巣食っている。それをジャンの貴重な思い出として自分の身体の中でたいせつに育てていこうと気を配るジュネ。
「その魂がまだ安息を見出していない若者を見捨てるべきでないことはわかっていた。彼のちからになるべきだった。形見としては、彼がたぶんどこかの淫売婦からもらってきた毛虱が何匹か私のなかに残っていた。その虫けらどもは、全部とまではいわないがすくなくともそのうちの一匹くらいは彼の身体(からだ)の上で生きていたことは確かであり、そしてそれが産みつけた卵は、私の毛のなかに忍び込んで群落をつくり、ますます増えて、睾丸の皮膚のひだの中で死んでいくのだ。それらがその個所とその周囲にとどまるよう私は気を配っていた」(ジュネ「葬儀・P.44~45」河出文庫)
虱はジャンの肉体から血を吸ったことのあるまぎれもない生きものだ。だからジュネにとってそれら虱たちは「まさしくわが友の生ける形見」であるといえる。
「以前その血を吸ったジャンの肉体の同じ個所をそれらがおぼろげに記憶していると考えるのは私にとって楽しいことだった。小さな人目につかぬ修験者(しゅげんじゃ)として、彼らはその森の奥で若くして死んだ男の想い出を保ちつづける任務を負わされているのだ。彼らはまさしくわが友の生ける形見だった」(ジュネ「葬儀・P.45」河出文庫)
ジュネの性的リビドー備給は今後これら虱たちを自分の身体の中で「興味と愛情をこめて、しばらく間近で観察し、また私のちぢれ毛のなかにもどしてやる」ことになる。
「できるだけ私は、彼らに気を配り、身体を洗うことすら、引っ掻くことすらさしひかえるのだった。ときにはそのなかの一匹をむしり取り、爪と皮膚のあいだに挟んでつまみ出してみることもあった。興味と愛情をこめて、しばらく間近で観察し、また私のちぢれ毛のなかにもどしてやるのだった」(ジュネ「葬儀・P.45」河出文庫)
ちなみに「泥棒日記」で大変重要な意義を与えられていた虱。なぜ重要だったのか。そしてなぜ、ほかでもない「虱」で「なければならなかった」のか。少しばかり引いておこう。
「虱どもは我々を棲家(すみか)としていた。この一族は我々の衣服に活気と賑わいとを与えていて、もしそれが無くなると、我々の衣服はたちまち死んだものに感じられるのだった。ーーー虱は我々の繁栄の唯一の表徴だったのだーーーむろんそれは繁栄のまさに正反対のものの表徴ではあったが、しかし、我々の境涯に対してそれを是(ぜ)とする復権の操作を加えた以上、それと同時にその表徴をも是としたことは、論理上当然のことだろう。成功とよばれるものを味わうための宝石と同じように、我々の零落を確(しか)と味わうために役だつものとなって以来、虱は貴重な存在であった」(ジュネ「泥棒日記・P.29~30」新潮文庫)
というように、たった一匹の虱でさえも有効に活用するジュネ。虱はジュネたちにとってその「繁栄」の証明として貴重な「象徴」と化していた。「虱ども」は「我々の衣服に活気と賑わいとを与えてい」た。同時に虱が繁栄すればするほど、それは蓄積される「宝石」と同様の役割を果たす。要するに「我々の零落を確(しか)と味わうために役だつ」。言語構造が極めて柔軟かつ活きいきと活用されているといえる。
さて、アルトー。「存在」というのはステレオタイプ(固定観念)化され凝固することを宿命づけられた人間、という或る種の窮屈な身体に過ぎない。だからアルトーは当然次のようにいう。
「糞の臭うところには 存在が臭う」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
ステレオタイプ(固定観念)として凝固した有機体として「存在」するとは、あらかじめ恣意的に決定づけられた身体としてのみ生きていくことが許可されている状態だ。そこはいつも「糞の臭うところ」である。
「人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ、肛門の袋を開かぬこともできた、しかし彼は糞をすることを選んだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
そもそも人間がもっと能率的な方法を選択する生きものだったとすればバロウズのいうような身体を選択することもできたであろう。
「人間の身体はまったく腹立たしいくらい非能率的だ。どうして調子の狂う口と肛門のかわりに、物を食べる《とともに》排出するようなすべての目的にかなう万能の穴があってはいけないのだ?鼻や口は密閉し、胃は詰め物をしてふさぎ、どこよりも第一にそれはそうあるべきはずの肺臓にじかに空気孔を作ることができるはずだ」(バロウズ「裸のランチ・P.183~184」河出書房新社)
しかしなぜ人間はそうしなかったのだろう。
「死んだまま生きることには同意せず 生きることを選んだからであろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
常に既に流動している身体ではなく逆に固定した有機体として存在することを選んだということだ。人間は倒錯することを選択したわけだ。あるいは倒錯することを「神」〔慣習によってステレオタイプ化した社会的規範〕によって押し付けられたといえる。
「つまり糞をしないためには、存在しないことに 同意しなければならなかったのだろう」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19」河出文庫)
人間は糞をしない浮遊状態でいるよりは確実に糞をする存在になりたいと欲した。しかし人間の身体は「固定した存在」としては存在しない。いつもすでに流動する強度としてしか存在しない。ニーチェはいう。
「私たちは推定上の、《出来事の絶対的流動》を見てとるに足るほど《繊細》ではない、言いかえれば、《持続するもの》は私たちの総括し平板化する粗雑な諸機関によって現存するにすぎず、そういったものは実は何ひとつとして現存しないのだ、と。樹木はあらゆる瞬間ごとに何か《新しいもの》である。〔樹木の〕《形式》といったものが私たちによって主張されるのは、私たちが最も微細な絶対的運動を知覚することができないからである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三・P.53~54」ちくま学芸文庫)
さらに人間の身体の可変性についてこうもいう。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させるのである」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
ニーチェにとって身体は、けっしてステレオタイプ(固定観念)へと凝固した死物などではまったくない。いつも全宇宙と共演し流動する強度の多様性だ。
「けれど彼は存在を 失ってもいいとは思わなかった、つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.19~20」河出文庫)
人間は「臭い」。無味無臭の人間などどこにもいない。しかしなぜ人間はそもそも「臭い」ものでなければならないと欲したのか。強烈なまでに「臭いに《気を配る》」のか。あくなき「臭さ《への》意志」であろうと加速するのか。
「存在の中には 人間を 特にひきつけるものがあるのだが それはまさに 《糞》なのである」(アルトー「神の裁きと訣別するため・P.20」河出文庫)
フロイトから。
「糞便は最初の《贈物》であり、子供の身体の一部なのである。ーーーおそらく糞便への興味が進展するつぎの意味は、《金-金銭》ではなく《贈物》という意味なのであろう。子供はあたえられたもの以外には金銭を知らず、自分で儲けたり自己の相続した金銭も知らない。糞便は子供の最初の贈物であるから、子供の興味は、この糞便から生涯のなかでもっとも大事な贈物として彼を迎えるあらゆる新しい材料へと、たやすく移るのである」(フロイト「欲動転換、とくに肛門愛の欲動転換について」『フロイト著作集5・P.388』人文書院)
「臭い」だけではない。「吐き気」にも異様なまでの執着を見せる。そしてそれを物事の判断基準にまで用いている。
「悪は、それが低劣で吐きけを催させるものと取り違えられるときに初めて、不評を招く。そのときまでは悪は心をひきつけて、模倣するよう刺激する」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・四六七・P.276〜277」ちくま学芸文庫」)
さらに、人間は多少なりとも醜悪なものに惹きつけられるという傾向を持つ。年齢性別国籍問わず、覗き見したり、陰部を舐めあったり、性行為に耽ったり。人間は醜悪な行為がとにかく好きだ。なぜなのか。
「しかしゾラは?しかしゴンクール兄弟は?ーーー彼らが示す事物は、醜い。しかし、彼らがこれらのものを示すという《事実》は、彼らが《こうした醜いものに快感をおぼえた》ということにもとづいているーーー諸君がこれとは別の主張をするなら、自己欺瞞(ぎまん)にかかっている」(ニーチェ「権力への意志・第三書・八二一・P.337」ちくま学芸文庫)
ゾラから。
「当然ここまで落ちぶれれば、女としてのどんな誇りもふっとんでしまう。ジェルヴェーズはかつての気位の高さも気どりも、愛情、礼節、尊敬にたいする欲求も、すっかりどこかへ置き忘れてしまった。前からでもうしろからでも、どこをどうけとばされても、いっこうに感じなかった。あまりにも無気力で、だらけきってしまっていた。だから、ランチエは完全に彼女を見放していた。もう形の上だけでも抱こうとはしなかった」(ゾラ「居酒屋/P.505」新潮文庫)
ちなみに、個人的には、ゾラ作品はなかなか面白いし興味深くもあると言っておきたい。さて前回、刑務所の看守と囚人との関係を民主主義に喩えたニーチェのエピソードを紹介した。では今回は、そもそも刑務所の中の「囚人《という》比喩」は、社会的なステレオタイプ(固定観念)との関係において、どういう状態を指すのかという部分を引いておこう。
「《刑務所の中で》。ーーー私の眼は、どれほど強かろうと弱かろうと、ほんのわずかしか遠くを見ない。しかもこのわずかのところで私は活動する。この地平線は私の身近な大きな宿命や小さな宿命であり、私はそこから脱走することができない。どんな存在のまわりにも、中心点をもち、しかもこの存在に固有であるような、ひとつの同心円がある。同様に、耳がわれわれをひとつの小さな空間の中に閉じ込める。触覚も同じことである。刑務所の壁のように、われわれの感覚がわれわれの一人一人を閉じ込めるこの地平線に《従って》、われわれは今や世界を《測定する》。われわれは、これは近くあれは遠い、これは大きくあれは小さい、これは堅くあれは柔らかい、と叫ぶ。この《測定》をわれわれは感覚と呼ぶ。ーーー何もかも誤謬それ自体である!われわれにとって平均してある時点に可能である多くの体験や刺激に従って、われわれは自分の生を、短いとか長いとか、貧しいとか富んだとか、充実しているとか空虚であるとか、測定する。そして平均的な人間の生に従って、われわれはすべての他の生物の生を測定する。ーーー何もかも誤謬それ自体である!われわれが近いところに対して百倍も鋭い眼をもつとすれば、人間は途方もなく高く見えることであろう。そればかりか、それによると人間が測定されないと感じられるような器官を考えることができる。他方、太陽系全体が狭まり、絞めつけられて、たったひとつの細胞のように感じられるような性質を、器官がもつこともありうるであろう。そしてそれと反対の組織をもった存在にとっては、人間の身体のひとつの細胞は、運動や、構造や、調和の点で、一個の太陽系であることを示しうるであろう。われわれの感覚器官の習慣は、われわれを感覚の欺瞞に紡ぎこんだ。これらの感覚器官は、再びわれわれのすべての判断と『認識』の基礎である。ーーー《現実の世界》への逃走も、すりぬける道も、抜け道も、全くない!われわれは自らの網の中にいるのだ、われわれ蜘蛛は。そしてわれわれがそこで何をつかまえようとも、まさしく《われわれの》網でつかまえられるもの以外には、何もつかまえることができない」(ニーチェ「曙光・一一七・P.139~140」ちくま学芸文庫)
とはいえ、資本主義は社会的規模で状況が変わると「社会=刑務所」の様相は現実的な変更を受ける。「囚人《という》比喩」はなるほど有効だが、有効であるがゆえ、「《われわれの》網でつかまえられるもの」もまた変化する。マルクス参照。
「一つの社会構成は、すべての生産諸力がそのなかではもう発展の余地がないほどに発展しないうちは崩壊することはけっしてなく、また新しいより高度な生産諸関係は、その物質的な存在諸条件が古い社会の胎内で孵化しおわるまでは、古いものにとってかわることはけっしてない。だから人間が立ちむかうのはいつも自分が解決できる課題だけである、というのは、もしさらにくわしく考察するならば、課題そのものは、その解決の物質的諸条件がすでに現存しているか、またはすくなくともそれができはじめているばあいにかぎって発生するものだ、ということがつねにわかるであろうから」(マルクス「序言」『経済学批判・P.14』岩波文庫)
さらに、当分の間、言い続けなければならないことがある。
「《自然を誹謗する者に抗して》。ーーーすべての自然的傾向を、すぐさま病気とみなし、それを何か歪めるものあるいは全く恥ずべきものととる人たちがいるが、そういった者たちは私には不愉快な存在だ、ーーー人間の性向や衝動は悪であるといった考えに、われわれを誘惑したのは、《こういう人たち》だ。われわれの本性に対して、また全自然に対してわれわれが犯す大きな不正の原因となっているのは、《彼ら》なのだ!自分の諸衝動に、快く心おきなく身をゆだねても《いい》人たちは、結構いるものだ。それなのに、そうした人たちが、自然は『悪いもの』だというあの妄念を恐れる不安から、そうやらない!《だからこそ》、人間のもとにはごく僅かの高貴性しか見出されないという結果になったのだ」(ニーチェ「悦ばしき知識・二九四・P.309~340」ちくま学芸文庫)
ニーチェのいうように、「自然的傾向を、すぐさま病気とみなし」、人工的に加工=変造して人間の側に適応させようとする人間の奢りは留まるところを知らない。今回の豪雨災害にしても防災のための「堤防絶対主義」というカルト的信仰が生んだ人災の面がどれほどあるか。「原発」もまたそうだ。人工的なものはどれほど強力なものであっても、むしろ人工的であるがゆえ、やがて壊れる。根本的にじっくり考え直されなければならないだろう。日本という名の危機がありありと差し迫っている。
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