「梅若」=「梅王子」について。熊野王子信仰と古代日本の幼子(おさなご)との密接不可分な関係について謡曲「角田川」のあらすじを追い、また「花祭り」にも言及した。熊楠はもちろん柳田國男もまた明治近代四十年の児童教育が割り込んできた同時代の研究者だった。とりわけ熊楠はその「考古学的」意味について突然激怒したかと思われるほど強調の態度を示している。なぜ激怒するのか。熊楠は性質上許しがたいこととして語っているためいちいち理由を述べていないが、柳田は中央官庁にいたので、日本の子どもが近代四十年をかけて「児童」と「大人」とに分割された経緯と、かつての子どもたちの暮らしが早くも「忘れられた」ことについて少し詳しく述べている。近代以前、子どもはたくさんいたが、一方、「児童」というものは存在しなかった。柳田はまず近代化以前の村落共同体における子供の扱いについて述べる。
「児童に遊戯を考案して与えるということは、昔の親たちはまるでしなかったようである。それが少しも彼らを寂しくせず、元気に精いっぱい遊んで大きくなっていたことは、不審に思う人がないともいわれぬが、前代のいわゆる児童文化には、、今とよっぽど違った点があったのである。第一には小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子供が世話を焼く場合が多かった。彼らはこれによって自分たちの成長を意識し得たゆえ、悦(よころ)んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加わろうとして意気ごんでいた。この心理はもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引き継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、お蔭でいろいろの珍しいものの伝わっていることをわれわれ大供(おおども)も感謝するのである。第二には小児の自治、かれらが自分で思いつき考えだした遊び方、物の名や歌ことばや慣行の中には、何ともいえないほど面白いものがいろいろあって、それを味わっていると浮世を忘れさせるが、それはもっと詳しく説くために後まわしにする。第三には今日はあまり喜ばれぬ大人の真似、小児にはその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であった。昔の大人は自分も単純で隠しごとが少なく、じっと周囲に立って視(み)つめていると、自然に心持の小児にもわかるようなことばかりをしていた。それに遠からず彼らにもやらせることだから、見せておこうという気もなかったとはいえない。共同の仕事にはもとの青年の役が多く、以前の青年はことに子供から近かった。ゆえに十二、三歳にもなると、子供はもうそろそろ若者入りの支度(したく)をする。一方はまたできるだけ早く、そういう仕事は年下の者に渡そうとしたのである。今でも九州や東北の田舎で年に一度の綱曳(つなひき)という仕事などは、ちょうどこの子供遊びとの境目に立っている。もとは真面目な年占いの一つで、その勝ち負けの結果を気にかけるくせに、夜が更けてくると親爺(おやじ)まで出て曳くが、宵のうちは子供に任せておいて、よほどの軽はずみでないと青年も手を出さない。村の鎮守の草相撲や盆の踊りなどもみなそれで、だから児童はこれを自分たちの遊びと思い、後にはそのために、いよいよ成人が後へ退いてしまうのである」(柳田國男「こども風土記・大人から子供へ」『柳田國男全集23・P.39~40』ちくま文庫)
大人たちは子どもたちをけっして「児童扱い」していない。むしろ村落共同体の日々の作業の中へ積極的に参加させており、また大人自身の日頃の振る舞いについて子どもたちに隠しごとをしようとはしない。性的行為についてもまた同様である。近代化を経て作られた密閉空間などなかった時代。だから何もかも隠し事にしておくより、いずれ子どもたちも経験することがわかりきったことなので、多少なりとも子どもたちに知れるような空間でのあらゆる行為は残して見えるように取り計らった。地域的な違いを見せつつ子供を子供扱いしない風土がかろうじて残された。「児童扱い」しないというのはそういうことでもある。子どもは「児童という密室」から突然「大人」へ転倒するわけではなく、段階的ではあるものの大人たちに立ち混じり、子どもが一人前になるまでに一度ならず二度三度と通ってきた試練を同じように経験させてじっくり大人になるわけである。そのため大人はどこの村落共同体でも子供にはあまり干渉せず、子供たちが思い考えるような自治をある程度経験させることが重要な年中行事として残されていた。明治近代化以前、どんな大人たちも「みんな一度は通ってきた関門」を子供たち自身の自治において、それがどれほど稚拙に見えようとも、自主的に経験させると同時に考えさせる機会をいつも与えていた。
「正月小屋の中では、おかしいほどまじめな子供の自治が行われていた。あるいは年長者のすることを模倣したのかも知れぬが、その年十五になった者を親玉または大将と呼び、以下順つぎに名と役とがある。去年の親玉は尊敬せられる実力はなく、これを中老だの隠居だのといっている。指揮と分配とはいっさいが親玉の権能で、これに楯(たて)つく者には制裁があるらしい。七つ八つの家では我儘(わがまま)な児でも、ここへ来ると欣々然(きんきんぜん)として親玉の節度に服している。これをしおらしくもけなげにも感ずるためか、年とった者は少しでも干渉せず、実際にまた一つの修練の機会とも認めていたようである。この子供組の最もよく発達しているのは、信州北部から越後へかけてであるが、他にも飛び飛びにこれが見られる土地は多い。古くからあったものの消え残りのようにも考えられるが、それにしてはあまりに他の地方に痕跡(こんせき)がなさ過ぎる。何か基くところはあったにしても、それがこの程度まで制度化したのには、別に新たな原因が加わっているのではないか。興味の深い問題だと思う。一つの想像は青年団の影響である。十五は昔から男が一人前になる年であったが、若い衆の資格がおいおいとむつかしくなっても、実際はまだ何年間かの準備期間が必要であった。中老などと子供組ではいばっていても、若連中に入っては使い走り、だまって追いまわされていていっこうに頭が挙(あが)らない。かれらの側からいうと、ここでまた一回の努力がいるのである。そう思って見るときは、子供組の活躍が何か若連中に加わる目的にばかり、集中しているようにも見られぬことはないのである。かれらが無心なる年少者の群と、正月十五日の自由とを利用して、成人を笑わせようとする歌言葉の中にも、そういう形跡はたしかにある。正月は花やかに笑うべき月であり、また笑うとすればいずれこの辺のところに落ちるだろうが、かれらは思い切って成長した男女の問題を、大きな声でわめこうとしていたのである。すでに一人前の知識・感覚を持っているぞということを示そうとする態度がよく見られる。穏当でないかも知らぬが親も祖父も、みんな一度は通ってきた関門であった」(柳田國男「こども風土記・子供組」『柳田國男全集23・P.59~60』ちくま文庫)
問題が生じたのは政府主導によって明治二十年代から明治三十年代の間に一挙に押し進められた言文一致運動と「あるべき児童」というイデオロギーの創設である。それまで自然生態系の中で生きてきた子供たちに「理想的な児童」の精神を押し付け与えようとする一方的教育者としての大人たちの熱心な介入。そのとき始めて子供たちは「大人」と「児童」とに分割された。分割されて育った「理想的な児童」はそのあと何をしでかし何を理想と見るようになったか。ナチスドイツとの軍事協力、太平洋戦争、心底からの女性差別、「千人斬り」自慢、極東軍事裁判での責任のなすり付け合い。
以前は同年代の子供たち同士で考え合い、一つずつ学んでは失敗し、しゅんと落ち込みはするものの、また一つずつやり直し、十二、三歳にもなるとさらなる大人の仕事をこなしていくために一段階上の試練へ上がっていく。そうして大人になる。言い換えれば、子どもたちは始めから小さな大人として生まれるのであって、子供扱いされて自尊心を打ち砕かれるために生まれてきたわけではない。少しずつ本格的な大人の次元へ、村落共同体の本格的な自治へ、近づけば近づくほど、もう子供たち同士で経験し考え合う子供組に口を挟んで余計な指導やいやがらせを行ったりはしない。
前提として、近代以前の大人は子供のことを「児童」とは見ていない。ましてや「理想的な児童」へ加工=変造するための材料に過ぎないとは考え及びもしていない。日常生活は文学でもなければ美学でもない。政府主導の「理想的な児童」へ加工=変造するために子供を産むわけでは全然ない。言文一致運動を起点として始まった「ロマン主義文学製造」のための小道具などでは決してないのである。逆に子供を子供扱いするということは子供の自尊心を傷つけるばかりだ。子供は大人たちが犯してきた数々の失敗を取り戻させるためのロマン主義文学の登場人物ではないし、大人たちの尻拭いのための小道具でもない。ところが江戸時代末期、大人の側に何らかの「負い目」(ルサンチマン)が生じた。すると打ちのめされた大人たちは復讐を遂げるため、子供たちを用いて大人たちの名誉挽回のための機械装置へ加工=変造する国家教育を選択した。明治国家は児童向け「童話」製造を通してその前段階を実施し、また地域ごとに異なる民話・説話・民間伝承を統合して児童向け「童話」へと改変、「理想的な児童」とはこうあるべきだとする児童教育を推し進めた。幕末、欧米諸国の先進度を目の当たりにして多くの大人たちが負った「負い目・敗北感」(ルサンチマン)と復讐根性は、自分の子供たちを「理想的な児童」へ加工=変造して帝国主義化し他国を叩き潰して見返すことで清算してしまえという、驚くべき短絡的思考に陥ったのである。大量生産された数々の「童話」。児童はこうあるべきだ、児童はこのように考え行動してこそ親たちは涙して喜ぶのだ、という甘い言葉が語りかけ誘惑する国家的洗脳教育。子供たちはその未知数の可能性をあらかじめ奪われることを前提として生産されることになる。
生まれたばかりの子供の持つ無限の可能性について熊楠は当たり前のように語る。それは欧米留学経験のある熊楠だからこそ直感的にわかっていることであって、しかし他の日本の知識人のみならず政治家らにはそのことがさっぱりわからない。帰国後の熊楠はふるさと熊野の山地でほとんどまったくといっていいほど子供のように学術研究に打ち込むことができた。フロイトはいう。
「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院)
だから周囲から奇人・変人扱いされた。けれどもイギリスで知り合った亡命中の孫逸仙(のちの孫文)とは大変話が合い、孫文は中国革命の英雄として世界史に名を刻んだ後も、来日時にわざわざ熊楠の故郷・田辺市を訪れ旧交を暖め合っている。一方、中央にいた柳田の態度は極めて両義的であらざるを得ない。明治近代の国語教育を推し進めた第一人者の一人でもあったからだ。しかし第一人者ゆえ知っていることがあった。それは近代「児童」教育以前の、つい最近まで残されていたような、子供が子供扱いされるようになる前の生き生きした子供たちの姿だ。柳田は暇を見てそれらを書き残していた。例えば、子供たちの「遊戯」について、「ままごと」、「鬼ごと」、などに見られる「コト」に着目。言葉(コトバ)、諺(コトワザ)、「ワザ・オコナイ・フルマイ」=「儀式もしくは祭典」の祭祀性。「法事・仏事・持斎」との深い関係。しかしこうも言う。もはやそれらがかつて担った「理由」は「忘れられているだろう」。
「遊戯にはままごと・鬼ごとに限らず、下にコトという語を添えるものが多い。今ではゴッコ・ゴク・ゴとなり、またはナコ・ナンドなどにも変化しているが、コトの本来の意味はワザ・オコナイ・フルマイも同様に、儀式もしくは祭典ということだったと思うがどうだろうか。子供の生活を離れて一っぺん考えてみたいものである。青森県のままごと方言はいろいろあるが、だいたいに南部領はオフルメヤコ、津軽領はオヒルマイコまたはジサイコナコというのがひろい。ジサイコは津軽から秋田へかけて、中央でいう法事・仏事のことで、文字には持斎と書くべき語と言われている。すなわち、あの地方のままごとは、外形が法事とよく似ていたのである。加賀の金沢などではこの遊びをオジャコトといっている。御座は年忌でなくとも僧を請(しょう)じ、説教を聴聞する人寄せであるが、やはり法事のように食物が出たものと思われる。フルマイは今では物を食わせることのごとく解せられるが、やはり定まった吉凶行事のある日のことで、ただこれには必ず御馳走が伴っただけである。ままごとの地方名としては米沢でもオフルマエゴト、伊豆の半島でもフルミャッコ、遠く飛び離れて肥前の小値賀島(おじかしま)まで、ホンミヤナンドという語が行われている。そうして多分もうその理由が忘れられているだろう」(柳田國男「こども風土記・くばりごと」『柳田國男全集23・P.69~70』ちくま文庫)
制度としての近代が全国規模で確立されるやその起源は覆い隠され忘れられてしまう。それはその制度、ここでは「制度としての児童文学」というものがあたかも貨幣のような機能を全面的に獲得するや瞬時に起こる転倒として現われる。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
ところが近代以前、「童子」(どうじ)はそのようなただ単なる子供ではなかった。天皇が政治の表舞台に立っていた中世であってなお「童子」(どうじ)は明治維新以降に生じたような「子供扱い」はまったくされていない。「太平記」で天皇後醍醐がいったん奈良の笠置(かさぎ)へ宮を置いたとき、二人の童子が後醍醐の夢に出てきた。童子はいう。今はどこへ移動するのも危険な時期なのでしばらくの間、笠置の木陰の南側を向いたところの座席で味方の到来を待って静養してみてはと。
「元弘(げんこう)元年八月二十七日、主上(しゅしょう)、笠置へ臨幸なりて、本堂を皇居となさる。ーーー少し御まどろみありける御夢に、所は紫宸殿(ししいでん)の庭前(ていぜん)と覚えたる地に、大きなる常盤木(ときわぎ)あり。緑の陰(かげ)茂りて、南へ指したる枝、殊(こと)に栄(さか)えはびこり、その下に、三公(さんこう)、百官(ひゃっかん)位(くらい)によつて列座(れつざ)す。南へ向かひたる上座(しょうざ)に、御座(ぎょざ)の畳(たたみ)を高く布(し)いて、未だ座したる人はなし。主上(しゅしょう)、御夢心地(おんゆめごこち)に、誰(たれ)を設(もう)けんための座席やらんと、怪(あや)しみ思(おぼ)し召(め)して立たせ給ひたる処(ところ)に、鬢(びんずら)結ひたる童子二人(ににん)、忽然(こつぜん)として来たつて、主上の御前(おんまえ)に跪(ひざまず)いて、涙を袖にかけ、『一天下(いってんか)の間(あいだ)に、暫(しばら)くも御身(おんみ)を隠さるべき所なし。但し、かの木の陰(かげ)に、南へ向かへる座席あり。これ、御ために設けたる玉扆(ぎょくい)にて候へば、暫(しばら)くここにおはしまし候へ』と申して、童子は遥(はる)かに天に登り去りぬと御覧じて、御夢はやがて覚めにけり」(「太平記1・第三巻・1・笠置臨幸の事・P.137~138」岩波文庫)
後醍醐は夢に見た童子の言葉を考えてみる。「木の南」=「楠」(くすのき)?ーーー。よくわからないままに臣下に尋ねると大坂と奈良の県境にある金剛山の麓に楠正成(くすのきまさしげ)という弓矢の名手がいるらしいとのこと。夢に出てきたに過ぎない童子の言葉を天皇が神託かも知れないと捉えて考えてみる。中世とはいえ、それほど子供は時として大人よりも神に近い存在として考えられることもしばしばあった。というのは、柳田から引用したように、かつて彼ら子供たちは「正月十五日の自由とを利用して、成人を笑わせようとする歌言葉の中にも、そういう形跡はたしかにある。正月は花やかに笑うべき月であり、また笑うとすればいずれこの辺のところに落ちるだろうが、かれらは思い切って成長した男女の問題を、大きな声でわめこうとしていた」。熊楠のいう「猥語」だ。その透明な正直さ、フロイトのいう「子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいる」子供。フロイトはその「真剣さ」の反対に位置するのは「現実である」という。とすればまさしく子供こそが、社会全体に張り巡らされた見えない束縛を一気に突破する神にも似た力への意志を持つ存在にほかならないと考えられていた証拠である。ちなみに考古学的観点や歴史学的観点から行われたここ三十年ほどに渡るフィールドワークの成果を見直してみると、すでに多くの高齢者を抱える大阪市北部ばかりは「公」といえば「太閤秀吉」だが、同じく多くの高齢者に関する取り組みを独自に始めている大阪府南部から奈良県全域(なかでも山岳地帯)にかけて「公」といえば今なお「楠公」を指す。先日行われた「大阪都構想住民投票」の底深く蒼白い相貌をした底流のどす黒いアンダーグラウンドには、そのような歴然たる日本中世史の名残が今なおありありと見え隠れしたのは単なる幻だったと言えるだろうかと思い返される。豊臣秀吉か天皇後醍醐か。そういう問いが流れ星のように脳裏をかすめたのは決して大袈裟な洒落や冗談ではない部分があるのかも知れない。
話題を戻そう。「大人」と「児童」との分割はどこからやって来たか。アメリカからやって来た。戦後日本とアメリカとの関係についてはもう知らない柳田だが、皮肉にも次のように述べている。
「子供は人形を相手にして遊び出すと、急におしゃべりになるか、そうでないまでも言葉の楽しみを味わう力ができてくる。大人が傍にいるうちは黙っているが、それでも独言(ひとりごと)や心の中の言葉が数を増して、感情のようやく濃(こま)やかになって行くのがよくわかる。やたらに切り刻んだものを食べさせまいとする、衛生おかあ様の心遣いはなくとも、文化が進めばままごとは文芸化せざるを得なかったのである。私は実は人形の普及がこれを促した大きな力ではなかったかと思っているのだが、その説明をし出すとまた長たらしくなるから、今回は見合せておく。とにかくに日本の子供遊びは、全体に込み入ったものが多くなり、かつ文句が面白くまた繁くなって、言葉の楽しみというものが親たちの近頃の会話よりも大きかったのである」(柳田國男「こども風土記・くばりごと」『柳田國男全集23・P.75~76』ちくま文庫)
日本でも社会問題になっているが、もはやアメリカでは人形やコンピュータ相手にしか話しかけることができなくなってしまっている若年者が何百万人単位で引きこもっている現状がある。もっとも、人形に責任があるわけではない。ペットに責任があるわけでもない。「梅若」=「梅王子」に見える幼子の悲惨な死という問題系は今やもう少し指摘しておく必要性があるだろう。
BGM1
BGM2
BGM3
「児童に遊戯を考案して与えるということは、昔の親たちはまるでしなかったようである。それが少しも彼らを寂しくせず、元気に精いっぱい遊んで大きくなっていたことは、不審に思う人がないともいわれぬが、前代のいわゆる児童文化には、、今とよっぽど違った点があったのである。第一には小学校などの年齢別制度と比べて、年上の子供が世話を焼く場合が多かった。彼らはこれによって自分たちの成長を意識し得たゆえ、悦(よころ)んでその任務に服したのみならず、一方小さい方でも早くその仲間に加わろうとして意気ごんでいた。この心理はもう衰えかけているが、これが古い日本の遊戯法を引き継ぎやすく、また忘れがたくした一つの力であって、お蔭でいろいろの珍しいものの伝わっていることをわれわれ大供(おおども)も感謝するのである。第二には小児の自治、かれらが自分で思いつき考えだした遊び方、物の名や歌ことばや慣行の中には、何ともいえないほど面白いものがいろいろあって、それを味わっていると浮世を忘れさせるが、それはもっと詳しく説くために後まわしにする。第三には今日はあまり喜ばれぬ大人の真似、小児にはその盛んな成長力から、ことのほか、これをすることに熱心であった。昔の大人は自分も単純で隠しごとが少なく、じっと周囲に立って視(み)つめていると、自然に心持の小児にもわかるようなことばかりをしていた。それに遠からず彼らにもやらせることだから、見せておこうという気もなかったとはいえない。共同の仕事にはもとの青年の役が多く、以前の青年はことに子供から近かった。ゆえに十二、三歳にもなると、子供はもうそろそろ若者入りの支度(したく)をする。一方はまたできるだけ早く、そういう仕事は年下の者に渡そうとしたのである。今でも九州や東北の田舎で年に一度の綱曳(つなひき)という仕事などは、ちょうどこの子供遊びとの境目に立っている。もとは真面目な年占いの一つで、その勝ち負けの結果を気にかけるくせに、夜が更けてくると親爺(おやじ)まで出て曳くが、宵のうちは子供に任せておいて、よほどの軽はずみでないと青年も手を出さない。村の鎮守の草相撲や盆の踊りなどもみなそれで、だから児童はこれを自分たちの遊びと思い、後にはそのために、いよいよ成人が後へ退いてしまうのである」(柳田國男「こども風土記・大人から子供へ」『柳田國男全集23・P.39~40』ちくま文庫)
大人たちは子どもたちをけっして「児童扱い」していない。むしろ村落共同体の日々の作業の中へ積極的に参加させており、また大人自身の日頃の振る舞いについて子どもたちに隠しごとをしようとはしない。性的行為についてもまた同様である。近代化を経て作られた密閉空間などなかった時代。だから何もかも隠し事にしておくより、いずれ子どもたちも経験することがわかりきったことなので、多少なりとも子どもたちに知れるような空間でのあらゆる行為は残して見えるように取り計らった。地域的な違いを見せつつ子供を子供扱いしない風土がかろうじて残された。「児童扱い」しないというのはそういうことでもある。子どもは「児童という密室」から突然「大人」へ転倒するわけではなく、段階的ではあるものの大人たちに立ち混じり、子どもが一人前になるまでに一度ならず二度三度と通ってきた試練を同じように経験させてじっくり大人になるわけである。そのため大人はどこの村落共同体でも子供にはあまり干渉せず、子供たちが思い考えるような自治をある程度経験させることが重要な年中行事として残されていた。明治近代化以前、どんな大人たちも「みんな一度は通ってきた関門」を子供たち自身の自治において、それがどれほど稚拙に見えようとも、自主的に経験させると同時に考えさせる機会をいつも与えていた。
「正月小屋の中では、おかしいほどまじめな子供の自治が行われていた。あるいは年長者のすることを模倣したのかも知れぬが、その年十五になった者を親玉または大将と呼び、以下順つぎに名と役とがある。去年の親玉は尊敬せられる実力はなく、これを中老だの隠居だのといっている。指揮と分配とはいっさいが親玉の権能で、これに楯(たて)つく者には制裁があるらしい。七つ八つの家では我儘(わがまま)な児でも、ここへ来ると欣々然(きんきんぜん)として親玉の節度に服している。これをしおらしくもけなげにも感ずるためか、年とった者は少しでも干渉せず、実際にまた一つの修練の機会とも認めていたようである。この子供組の最もよく発達しているのは、信州北部から越後へかけてであるが、他にも飛び飛びにこれが見られる土地は多い。古くからあったものの消え残りのようにも考えられるが、それにしてはあまりに他の地方に痕跡(こんせき)がなさ過ぎる。何か基くところはあったにしても、それがこの程度まで制度化したのには、別に新たな原因が加わっているのではないか。興味の深い問題だと思う。一つの想像は青年団の影響である。十五は昔から男が一人前になる年であったが、若い衆の資格がおいおいとむつかしくなっても、実際はまだ何年間かの準備期間が必要であった。中老などと子供組ではいばっていても、若連中に入っては使い走り、だまって追いまわされていていっこうに頭が挙(あが)らない。かれらの側からいうと、ここでまた一回の努力がいるのである。そう思って見るときは、子供組の活躍が何か若連中に加わる目的にばかり、集中しているようにも見られぬことはないのである。かれらが無心なる年少者の群と、正月十五日の自由とを利用して、成人を笑わせようとする歌言葉の中にも、そういう形跡はたしかにある。正月は花やかに笑うべき月であり、また笑うとすればいずれこの辺のところに落ちるだろうが、かれらは思い切って成長した男女の問題を、大きな声でわめこうとしていたのである。すでに一人前の知識・感覚を持っているぞということを示そうとする態度がよく見られる。穏当でないかも知らぬが親も祖父も、みんな一度は通ってきた関門であった」(柳田國男「こども風土記・子供組」『柳田國男全集23・P.59~60』ちくま文庫)
問題が生じたのは政府主導によって明治二十年代から明治三十年代の間に一挙に押し進められた言文一致運動と「あるべき児童」というイデオロギーの創設である。それまで自然生態系の中で生きてきた子供たちに「理想的な児童」の精神を押し付け与えようとする一方的教育者としての大人たちの熱心な介入。そのとき始めて子供たちは「大人」と「児童」とに分割された。分割されて育った「理想的な児童」はそのあと何をしでかし何を理想と見るようになったか。ナチスドイツとの軍事協力、太平洋戦争、心底からの女性差別、「千人斬り」自慢、極東軍事裁判での責任のなすり付け合い。
以前は同年代の子供たち同士で考え合い、一つずつ学んでは失敗し、しゅんと落ち込みはするものの、また一つずつやり直し、十二、三歳にもなるとさらなる大人の仕事をこなしていくために一段階上の試練へ上がっていく。そうして大人になる。言い換えれば、子どもたちは始めから小さな大人として生まれるのであって、子供扱いされて自尊心を打ち砕かれるために生まれてきたわけではない。少しずつ本格的な大人の次元へ、村落共同体の本格的な自治へ、近づけば近づくほど、もう子供たち同士で経験し考え合う子供組に口を挟んで余計な指導やいやがらせを行ったりはしない。
前提として、近代以前の大人は子供のことを「児童」とは見ていない。ましてや「理想的な児童」へ加工=変造するための材料に過ぎないとは考え及びもしていない。日常生活は文学でもなければ美学でもない。政府主導の「理想的な児童」へ加工=変造するために子供を産むわけでは全然ない。言文一致運動を起点として始まった「ロマン主義文学製造」のための小道具などでは決してないのである。逆に子供を子供扱いするということは子供の自尊心を傷つけるばかりだ。子供は大人たちが犯してきた数々の失敗を取り戻させるためのロマン主義文学の登場人物ではないし、大人たちの尻拭いのための小道具でもない。ところが江戸時代末期、大人の側に何らかの「負い目」(ルサンチマン)が生じた。すると打ちのめされた大人たちは復讐を遂げるため、子供たちを用いて大人たちの名誉挽回のための機械装置へ加工=変造する国家教育を選択した。明治国家は児童向け「童話」製造を通してその前段階を実施し、また地域ごとに異なる民話・説話・民間伝承を統合して児童向け「童話」へと改変、「理想的な児童」とはこうあるべきだとする児童教育を推し進めた。幕末、欧米諸国の先進度を目の当たりにして多くの大人たちが負った「負い目・敗北感」(ルサンチマン)と復讐根性は、自分の子供たちを「理想的な児童」へ加工=変造して帝国主義化し他国を叩き潰して見返すことで清算してしまえという、驚くべき短絡的思考に陥ったのである。大量生産された数々の「童話」。児童はこうあるべきだ、児童はこのように考え行動してこそ親たちは涙して喜ぶのだ、という甘い言葉が語りかけ誘惑する国家的洗脳教育。子供たちはその未知数の可能性をあらかじめ奪われることを前提として生産されることになる。
生まれたばかりの子供の持つ無限の可能性について熊楠は当たり前のように語る。それは欧米留学経験のある熊楠だからこそ直感的にわかっていることであって、しかし他の日本の知識人のみならず政治家らにはそのことがさっぱりわからない。帰国後の熊楠はふるさと熊野の山地でほとんどまったくといっていいほど子供のように学術研究に打ち込むことができた。フロイトはいう。
「遊ぶ子供はこの世界を真剣に受け取ってはいないなどと思ったら、それは誤りである。どうしてどうして子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいるのである。そして遊びの反対は真剣ではない。ーーー現実である」(フロイト「詩人と空想すること」『フロイト著作集3・P.82』人文書院)
だから周囲から奇人・変人扱いされた。けれどもイギリスで知り合った亡命中の孫逸仙(のちの孫文)とは大変話が合い、孫文は中国革命の英雄として世界史に名を刻んだ後も、来日時にわざわざ熊楠の故郷・田辺市を訪れ旧交を暖め合っている。一方、中央にいた柳田の態度は極めて両義的であらざるを得ない。明治近代の国語教育を推し進めた第一人者の一人でもあったからだ。しかし第一人者ゆえ知っていることがあった。それは近代「児童」教育以前の、つい最近まで残されていたような、子供が子供扱いされるようになる前の生き生きした子供たちの姿だ。柳田は暇を見てそれらを書き残していた。例えば、子供たちの「遊戯」について、「ままごと」、「鬼ごと」、などに見られる「コト」に着目。言葉(コトバ)、諺(コトワザ)、「ワザ・オコナイ・フルマイ」=「儀式もしくは祭典」の祭祀性。「法事・仏事・持斎」との深い関係。しかしこうも言う。もはやそれらがかつて担った「理由」は「忘れられているだろう」。
「遊戯にはままごと・鬼ごとに限らず、下にコトという語を添えるものが多い。今ではゴッコ・ゴク・ゴとなり、またはナコ・ナンドなどにも変化しているが、コトの本来の意味はワザ・オコナイ・フルマイも同様に、儀式もしくは祭典ということだったと思うがどうだろうか。子供の生活を離れて一っぺん考えてみたいものである。青森県のままごと方言はいろいろあるが、だいたいに南部領はオフルメヤコ、津軽領はオヒルマイコまたはジサイコナコというのがひろい。ジサイコは津軽から秋田へかけて、中央でいう法事・仏事のことで、文字には持斎と書くべき語と言われている。すなわち、あの地方のままごとは、外形が法事とよく似ていたのである。加賀の金沢などではこの遊びをオジャコトといっている。御座は年忌でなくとも僧を請(しょう)じ、説教を聴聞する人寄せであるが、やはり法事のように食物が出たものと思われる。フルマイは今では物を食わせることのごとく解せられるが、やはり定まった吉凶行事のある日のことで、ただこれには必ず御馳走が伴っただけである。ままごとの地方名としては米沢でもオフルマエゴト、伊豆の半島でもフルミャッコ、遠く飛び離れて肥前の小値賀島(おじかしま)まで、ホンミヤナンドという語が行われている。そうして多分もうその理由が忘れられているだろう」(柳田國男「こども風土記・くばりごと」『柳田國男全集23・P.69~70』ちくま文庫)
制度としての近代が全国規模で確立されるやその起源は覆い隠され忘れられてしまう。それはその制度、ここでは「制度としての児童文学」というものがあたかも貨幣のような機能を全面的に獲得するや瞬時に起こる転倒として現われる。
「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫)
ところが近代以前、「童子」(どうじ)はそのようなただ単なる子供ではなかった。天皇が政治の表舞台に立っていた中世であってなお「童子」(どうじ)は明治維新以降に生じたような「子供扱い」はまったくされていない。「太平記」で天皇後醍醐がいったん奈良の笠置(かさぎ)へ宮を置いたとき、二人の童子が後醍醐の夢に出てきた。童子はいう。今はどこへ移動するのも危険な時期なのでしばらくの間、笠置の木陰の南側を向いたところの座席で味方の到来を待って静養してみてはと。
「元弘(げんこう)元年八月二十七日、主上(しゅしょう)、笠置へ臨幸なりて、本堂を皇居となさる。ーーー少し御まどろみありける御夢に、所は紫宸殿(ししいでん)の庭前(ていぜん)と覚えたる地に、大きなる常盤木(ときわぎ)あり。緑の陰(かげ)茂りて、南へ指したる枝、殊(こと)に栄(さか)えはびこり、その下に、三公(さんこう)、百官(ひゃっかん)位(くらい)によつて列座(れつざ)す。南へ向かひたる上座(しょうざ)に、御座(ぎょざ)の畳(たたみ)を高く布(し)いて、未だ座したる人はなし。主上(しゅしょう)、御夢心地(おんゆめごこち)に、誰(たれ)を設(もう)けんための座席やらんと、怪(あや)しみ思(おぼ)し召(め)して立たせ給ひたる処(ところ)に、鬢(びんずら)結ひたる童子二人(ににん)、忽然(こつぜん)として来たつて、主上の御前(おんまえ)に跪(ひざまず)いて、涙を袖にかけ、『一天下(いってんか)の間(あいだ)に、暫(しばら)くも御身(おんみ)を隠さるべき所なし。但し、かの木の陰(かげ)に、南へ向かへる座席あり。これ、御ために設けたる玉扆(ぎょくい)にて候へば、暫(しばら)くここにおはしまし候へ』と申して、童子は遥(はる)かに天に登り去りぬと御覧じて、御夢はやがて覚めにけり」(「太平記1・第三巻・1・笠置臨幸の事・P.137~138」岩波文庫)
後醍醐は夢に見た童子の言葉を考えてみる。「木の南」=「楠」(くすのき)?ーーー。よくわからないままに臣下に尋ねると大坂と奈良の県境にある金剛山の麓に楠正成(くすのきまさしげ)という弓矢の名手がいるらしいとのこと。夢に出てきたに過ぎない童子の言葉を天皇が神託かも知れないと捉えて考えてみる。中世とはいえ、それほど子供は時として大人よりも神に近い存在として考えられることもしばしばあった。というのは、柳田から引用したように、かつて彼ら子供たちは「正月十五日の自由とを利用して、成人を笑わせようとする歌言葉の中にも、そういう形跡はたしかにある。正月は花やかに笑うべき月であり、また笑うとすればいずれこの辺のところに落ちるだろうが、かれらは思い切って成長した男女の問題を、大きな声でわめこうとしていた」。熊楠のいう「猥語」だ。その透明な正直さ、フロイトのいう「子供は自分の遊びを非常に真剣に考えている。遊びというものにたいへんな情動量をそそいでいる」子供。フロイトはその「真剣さ」の反対に位置するのは「現実である」という。とすればまさしく子供こそが、社会全体に張り巡らされた見えない束縛を一気に突破する神にも似た力への意志を持つ存在にほかならないと考えられていた証拠である。ちなみに考古学的観点や歴史学的観点から行われたここ三十年ほどに渡るフィールドワークの成果を見直してみると、すでに多くの高齢者を抱える大阪市北部ばかりは「公」といえば「太閤秀吉」だが、同じく多くの高齢者に関する取り組みを独自に始めている大阪府南部から奈良県全域(なかでも山岳地帯)にかけて「公」といえば今なお「楠公」を指す。先日行われた「大阪都構想住民投票」の底深く蒼白い相貌をした底流のどす黒いアンダーグラウンドには、そのような歴然たる日本中世史の名残が今なおありありと見え隠れしたのは単なる幻だったと言えるだろうかと思い返される。豊臣秀吉か天皇後醍醐か。そういう問いが流れ星のように脳裏をかすめたのは決して大袈裟な洒落や冗談ではない部分があるのかも知れない。
話題を戻そう。「大人」と「児童」との分割はどこからやって来たか。アメリカからやって来た。戦後日本とアメリカとの関係についてはもう知らない柳田だが、皮肉にも次のように述べている。
「子供は人形を相手にして遊び出すと、急におしゃべりになるか、そうでないまでも言葉の楽しみを味わう力ができてくる。大人が傍にいるうちは黙っているが、それでも独言(ひとりごと)や心の中の言葉が数を増して、感情のようやく濃(こま)やかになって行くのがよくわかる。やたらに切り刻んだものを食べさせまいとする、衛生おかあ様の心遣いはなくとも、文化が進めばままごとは文芸化せざるを得なかったのである。私は実は人形の普及がこれを促した大きな力ではなかったかと思っているのだが、その説明をし出すとまた長たらしくなるから、今回は見合せておく。とにかくに日本の子供遊びは、全体に込み入ったものが多くなり、かつ文句が面白くまた繁くなって、言葉の楽しみというものが親たちの近頃の会話よりも大きかったのである」(柳田國男「こども風土記・くばりごと」『柳田國男全集23・P.75~76』ちくま文庫)
日本でも社会問題になっているが、もはやアメリカでは人形やコンピュータ相手にしか話しかけることができなくなってしまっている若年者が何百万人単位で引きこもっている現状がある。もっとも、人形に責任があるわけではない。ペットに責任があるわけでもない。「梅若」=「梅王子」に見える幼子の悲惨な死という問題系は今やもう少し指摘しておく必要性があるだろう。
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