紀州の「姫蟹」について以前に二度ほど述べた。
「本邦で山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆赭褐色、光沢あり、行歩緩慢で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)
姫蟹の名にはなぜ「姫」とあるのだろう。差し当たり「蟹の恩返し」というべき説話については既に論じた。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/「だいにっつぁん」と紀州姫蟹
童女は常日頃から蟹に米粒を与えていた。さらにいつも弱い立場に置かれている蟹の窮地を救ってくれた童女を大蛇の襲撃から守るため、約束の期日の夜に童女を襲いにやってきた蛇をばらばらに切り刻んで救ってやる。
とはいうものの中には強力な鋏を持って一定地域を我が物顔で占領している大型の蟹もいる。次に上げる昔話は隠岐島(おきのしま)に残されていたもの。
或る老樵(きこり)が登場する。樵は常に山岳地帯で暮らす山人ではなく戦後しばらくの間も東北地方の数カ所に残っていたマタギでもない。マタギは山間部に入って狩猟を主な生業とする人々。樵は山間部に入って伐った木を村に持ち帰り、薪にしたり材木として販売し生計を立てる。
さて、一人の老いた樵が川沿いに山中の奥まで入って木を伐っていたところ、誤って斧を川の滝壺に落してしまった。するとにわかに周囲が真っ暗になった。とともに、落した斧で切断されたと思われる黒い棘(とげ)の生えた棒のようなものが水中から浮かび上がってきた。周囲が真っ暗になるのは怪異譚の定石通りである。怖れを感じた樵がその場から村へ引き帰そうとすると、後ろから童女の声が聞こえて樵を引き止めた。「若いお姫様」=「童女」はいう。いつ頃からかこの淵に巨大な蟹が住み着くようになった。それからは安心して水の中で暮らすことができないでいる。ところが今、樵の爺が落してくれた斧が巨大蟹の両方の鋏の一本を切断してくれた。ありがたいことです。でも蟹にはまだもう一方の鋏が残っています。どうかもう一度斧を落して蟹の鋏を両方とも切断してくれませんか、と。
「後からまことに優しい声で、爺よ、少し待っておくれという人があります。振り返って見ると、絵にあるような美しい若いお姫様が、ちょうどその滝の所に立っておられました。私は安長姫といって、昔から、この淵に住む者だが、何時(いつ)の頃よりかここには大きな蟹が来て住むことになって、夜も昼も私を苦しめていた。今日はそなたが斧を落としてくれたによって、悪い蟹は片腕を切り落されて弱っている。今大きな刺の生えたその腕が、流れて行ったのを見たであろう。そのお礼を言わなければならぬが、まだ片方の腕が残っているので、安心をしていることが出来ぬ。蟹は今淵の底の横穴の中で、腕の痛みで唸(うな)っている。どうかもう一度この斧を、滝の上から落しておくれと言って、さっき水に沈めた斧を手渡しました」(柳田國男「蟹淵と安長姫」『日本の昔話・P.52』新潮文庫)
樵にすれば水中から出現した「若いお姫様」なのでその正体は当然「水の神」だと考える。村落共同体にとって水の神は何より大切な神だ。もし旱魃が続いて水を得られなければその村全体はたちまち絶滅に直面する。島の農耕は一挙に壊滅する。樵は水の神を助けなければと思い、もう一度高い所から滝壺目がけて斧を投げ込む。姫神はたいそう喜んでお礼を述べる。樵は村に戻るとこんなことがあったと村人に語った。樵の言う話はあまり信じてもらえなかったが何日かすると川の河口付近で、両方の鋏を失った巨大な蟹の死体が海へ流れ出されていくのを村人が目撃した。それ以来、その川は水の神が自身の名を「安長姫」(やすながひめ)と名乗った通り「安長川」(やすなかがわ)と命名し、「安長姫」(やすながひめ)を不安に陥れていた蟹がいた滝壺を「蟹淵」(かにぶち)と呼ぶようになった。
「それから幾日かの後、甲羅の周りの一丈もある蟹の、大爪の両方ともないのが、死んで海の口へ流れて出たのを、村の人が見つけまして、樵の爺の言った話を、本当だと思いました。そうして川の名を安長川、滝壺を蟹淵と呼ぶようになったのだそうです。この川の流れはどんな旱(ひでり)の年でも水が絶えませぬ」(柳田國男「蟹淵と安長姫」『日本の昔話・P.53』新潮文庫)
それ以来、「安長姫」(やすながひめ)は水の神として村への水の供給を絶やすことがないように取り計らった。山間部の川の淵にいたことから、この水の神はそもそも山の神として考えられる。さらに樵は常日頃から山間部で林業を営む杣人(そまびと)でなくてもよいのであって、決定的なのは樵がいつも持っている「斧」(おの)だ。斧は鉄製品の中でも特に山間部での必需品である。それは弁慶の七つ道具と非常に似ている。弁慶の七つ道具のうち決定的な三種のものは「義経記」に出てくる。
「武蔵房は弓を持たず、四尺二寸(約1.27メートル)の柄に鶴(つる)の装飾を施(ほどこ)した太刀を持ち、岩透(いわとお)しと呼ばれる脇差(わきざし)を腰に差していた。そして猪(いのしし)の目を彫(ほ)った鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)を添えて舟の中に投げ入れた。そしていつも身から放さぬ一丈二尺(約3.6メートル)の棒に、筋金(すじがね)を蛭巻(ひるま)きにして尖端(せんたん)を金具で包(つつ)んだ櫟(いちい)の打ち棒を小脇に抱えて小舟に飛び乗った」(「〔現代語〕義経記・巻第四・住吉大物二ヶ所合戦のこと・P.186」勉誠出版)
とあるように「鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)」である。戦記物としてばかり見ているとその意味はわからない。弁慶は京の都を出たあと、摂津国河尻(かわじり・兵庫県尼崎市)まで船を下り明石(兵庫県明石市)の浦へ着く。そこから海を渡り四国の阿波国(徳島県)へ上陸、焼山(やけやま・徳島県名西郡の焼山寺か)の剣山(つるぎさん)を礼拝、讃岐(さぬき)の志度(香川県大川郡)から伊予(いよ)の菅生寺(すがおでら・愛媛県上浮穴郡久万町、現・大宝寺)に参詣、さらに土佐の幡多(はた・高知県幡多郡)にある泰泉寺(たいせんじ)へと修験道場を次々と参拝する。修験道における山岳地帯は山神の聖地である。山神の聖地を駆け巡る弁慶の「鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)」は、ただ単なる護身具でしかないと考えると大変な勘違いになる。それらはただ単なる護身具である前に修験道における「神事」のための神器でなくてはならない。そのような次第があって始めて鉄製品としての「斧」は山間部で生業を営む樵にとってもまた山神の神器の意味を持つ。山神の神器としての「斧」ゆえに同じく山神としての水神は「斧」によって守られたわけだ。
ここで取り上げた「蟹淵と安長姫」の伝説は隠岐周吉(すき)郡に残されていたものを柳田國男が採集した。一九六九年(昭和四十四年)、島根県隠岐郡に合併編入され周吉(すき)郡は消滅した。
なお、十二月二十四日、二十五日と幾つかのニュース報道に目を通したけれども、新自由主義全面導入により二〇〇〇年代に入って出現した新しい貧困格差問題には何ら触れていない異様なニュースばかりだった点を重点的に指摘しておかなければならない。このペースで貧困世帯並びに貧困ビジネスがますます増えるとすれば、二十世紀後半、日本の高度経済成長期に裁判基準として採用されていた「永山基準」の復活さえ日程に上ってくる可能性を排除できなくなるだろう。
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「本邦で山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆赭褐色、光沢あり、行歩緩慢で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)
姫蟹の名にはなぜ「姫」とあるのだろう。差し当たり「蟹の恩返し」というべき説話については既に論じた。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/「だいにっつぁん」と紀州姫蟹
童女は常日頃から蟹に米粒を与えていた。さらにいつも弱い立場に置かれている蟹の窮地を救ってくれた童女を大蛇の襲撃から守るため、約束の期日の夜に童女を襲いにやってきた蛇をばらばらに切り刻んで救ってやる。
とはいうものの中には強力な鋏を持って一定地域を我が物顔で占領している大型の蟹もいる。次に上げる昔話は隠岐島(おきのしま)に残されていたもの。
或る老樵(きこり)が登場する。樵は常に山岳地帯で暮らす山人ではなく戦後しばらくの間も東北地方の数カ所に残っていたマタギでもない。マタギは山間部に入って狩猟を主な生業とする人々。樵は山間部に入って伐った木を村に持ち帰り、薪にしたり材木として販売し生計を立てる。
さて、一人の老いた樵が川沿いに山中の奥まで入って木を伐っていたところ、誤って斧を川の滝壺に落してしまった。するとにわかに周囲が真っ暗になった。とともに、落した斧で切断されたと思われる黒い棘(とげ)の生えた棒のようなものが水中から浮かび上がってきた。周囲が真っ暗になるのは怪異譚の定石通りである。怖れを感じた樵がその場から村へ引き帰そうとすると、後ろから童女の声が聞こえて樵を引き止めた。「若いお姫様」=「童女」はいう。いつ頃からかこの淵に巨大な蟹が住み着くようになった。それからは安心して水の中で暮らすことができないでいる。ところが今、樵の爺が落してくれた斧が巨大蟹の両方の鋏の一本を切断してくれた。ありがたいことです。でも蟹にはまだもう一方の鋏が残っています。どうかもう一度斧を落して蟹の鋏を両方とも切断してくれませんか、と。
「後からまことに優しい声で、爺よ、少し待っておくれという人があります。振り返って見ると、絵にあるような美しい若いお姫様が、ちょうどその滝の所に立っておられました。私は安長姫といって、昔から、この淵に住む者だが、何時(いつ)の頃よりかここには大きな蟹が来て住むことになって、夜も昼も私を苦しめていた。今日はそなたが斧を落としてくれたによって、悪い蟹は片腕を切り落されて弱っている。今大きな刺の生えたその腕が、流れて行ったのを見たであろう。そのお礼を言わなければならぬが、まだ片方の腕が残っているので、安心をしていることが出来ぬ。蟹は今淵の底の横穴の中で、腕の痛みで唸(うな)っている。どうかもう一度この斧を、滝の上から落しておくれと言って、さっき水に沈めた斧を手渡しました」(柳田國男「蟹淵と安長姫」『日本の昔話・P.52』新潮文庫)
樵にすれば水中から出現した「若いお姫様」なのでその正体は当然「水の神」だと考える。村落共同体にとって水の神は何より大切な神だ。もし旱魃が続いて水を得られなければその村全体はたちまち絶滅に直面する。島の農耕は一挙に壊滅する。樵は水の神を助けなければと思い、もう一度高い所から滝壺目がけて斧を投げ込む。姫神はたいそう喜んでお礼を述べる。樵は村に戻るとこんなことがあったと村人に語った。樵の言う話はあまり信じてもらえなかったが何日かすると川の河口付近で、両方の鋏を失った巨大な蟹の死体が海へ流れ出されていくのを村人が目撃した。それ以来、その川は水の神が自身の名を「安長姫」(やすながひめ)と名乗った通り「安長川」(やすなかがわ)と命名し、「安長姫」(やすながひめ)を不安に陥れていた蟹がいた滝壺を「蟹淵」(かにぶち)と呼ぶようになった。
「それから幾日かの後、甲羅の周りの一丈もある蟹の、大爪の両方ともないのが、死んで海の口へ流れて出たのを、村の人が見つけまして、樵の爺の言った話を、本当だと思いました。そうして川の名を安長川、滝壺を蟹淵と呼ぶようになったのだそうです。この川の流れはどんな旱(ひでり)の年でも水が絶えませぬ」(柳田國男「蟹淵と安長姫」『日本の昔話・P.53』新潮文庫)
それ以来、「安長姫」(やすながひめ)は水の神として村への水の供給を絶やすことがないように取り計らった。山間部の川の淵にいたことから、この水の神はそもそも山の神として考えられる。さらに樵は常日頃から山間部で林業を営む杣人(そまびと)でなくてもよいのであって、決定的なのは樵がいつも持っている「斧」(おの)だ。斧は鉄製品の中でも特に山間部での必需品である。それは弁慶の七つ道具と非常に似ている。弁慶の七つ道具のうち決定的な三種のものは「義経記」に出てくる。
「武蔵房は弓を持たず、四尺二寸(約1.27メートル)の柄に鶴(つる)の装飾を施(ほどこ)した太刀を持ち、岩透(いわとお)しと呼ばれる脇差(わきざし)を腰に差していた。そして猪(いのしし)の目を彫(ほ)った鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)を添えて舟の中に投げ入れた。そしていつも身から放さぬ一丈二尺(約3.6メートル)の棒に、筋金(すじがね)を蛭巻(ひるま)きにして尖端(せんたん)を金具で包(つつ)んだ櫟(いちい)の打ち棒を小脇に抱えて小舟に飛び乗った」(「〔現代語〕義経記・巻第四・住吉大物二ヶ所合戦のこと・P.186」勉誠出版)
とあるように「鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)」である。戦記物としてばかり見ているとその意味はわからない。弁慶は京の都を出たあと、摂津国河尻(かわじり・兵庫県尼崎市)まで船を下り明石(兵庫県明石市)の浦へ着く。そこから海を渡り四国の阿波国(徳島県)へ上陸、焼山(やけやま・徳島県名西郡の焼山寺か)の剣山(つるぎさん)を礼拝、讃岐(さぬき)の志度(香川県大川郡)から伊予(いよ)の菅生寺(すがおでら・愛媛県上浮穴郡久万町、現・大宝寺)に参詣、さらに土佐の幡多(はた・高知県幡多郡)にある泰泉寺(たいせんじ)へと修験道場を次々と参拝する。修験道における山岳地帯は山神の聖地である。山神の聖地を駆け巡る弁慶の「鉞(まさかり)と薙鎌(なぎかま)、それに熊手(くまで)」は、ただ単なる護身具でしかないと考えると大変な勘違いになる。それらはただ単なる護身具である前に修験道における「神事」のための神器でなくてはならない。そのような次第があって始めて鉄製品としての「斧」は山間部で生業を営む樵にとってもまた山神の神器の意味を持つ。山神の神器としての「斧」ゆえに同じく山神としての水神は「斧」によって守られたわけだ。
ここで取り上げた「蟹淵と安長姫」の伝説は隠岐周吉(すき)郡に残されていたものを柳田國男が採集した。一九六九年(昭和四十四年)、島根県隠岐郡に合併編入され周吉(すき)郡は消滅した。
なお、十二月二十四日、二十五日と幾つかのニュース報道に目を通したけれども、新自由主義全面導入により二〇〇〇年代に入って出現した新しい貧困格差問題には何ら触れていない異様なニュースばかりだった点を重点的に指摘しておかなければならない。このペースで貧困世帯並びに貧困ビジネスがますます増えるとすれば、二十世紀後半、日本の高度経済成長期に裁判基準として採用されていた「永山基準」の復活さえ日程に上ってくる可能性を排除できなくなるだろう。
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