白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/蛇神と稲作文化圏

2020年12月09日 | 日記・エッセイ・コラム
俵藤太の蜈蚣(むかで)退治のエピソードについて。その原型と考えられる説話が「今昔物語」にある。舞台は加賀国(かがのくに)能登半島近海。七人の漁師が海に出てしばらくすると天候が急変し暴風に巻き込まれる。流されるままに漂着した未知の島で食糧を探していると二十歳くらいに見える美男子が登場した。

「年二十余(はたちあまり)ハ有(あら)ント見ユル男ノ糸(いと)清気(きよげ)ナル、歩ミ出(いで)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.44」岩波書店)

美男子は漁師たちに豊富な食料を提供し歓待する。その上で実は相談があるのだが、と巨大な蜈蚣退治のために応戦してほしいという主旨を語る。たくさんのご馳走にありつけさせてもらいさらに酒もたらふく飲ませてもらった。だからお礼を込めて漁師たちは蜈蚣退治の援軍役を引き受ける。約束の時間になると島の周囲の海面が異様な色に染まってきた。さらに島の山の側もただならぬ雰囲気を帯び出した。そしていずれの側にも怪物か何かの目と思われる二つの火が煌々と輝いている。

「而(しか)ル間、来(きたら)ント云(いひ)シ方(かた)ヲ見遣(みやり)タレバ、風打吹(うちふき)テ、海ノ面(おもて)奇異(あさまし)ク怖(おそろ)シ気(ゲ)也、ト見(みる)程ニ、海ノ面サヲ(青)ニ成テ、光ル様(やう)ニ見ユ。其(その)中ヨリ、大キナル火二ツ出来(いでき)タリ。何(いか)ナル事ニカト見(みる)程ニ、出来合(いできあ)ハント云(いひ)シ方(かた)ヲ見上(みあげ)タレバ、其(そこ)モ山ノ気色異(あやし)ク怖シ気(げ)ニ成(なり)テ、草靡(なび)キ木葉(このは)モ騒ギ、音(こゑ)高クノノシリ合(あひ)タル中ヨリ、亦、火二ツ出来(いでき)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.46」岩波書店)

海の側から三十メートルほどもある蜈蚣(むかで)が泳ぎながら島の海岸へ向けて出現。眼が赤い光を発している。また島の山の上には同じほど長い蛇がおり、海岸へ近づいてくる巨大蜈蚣を見据えている。

「澳ノ方ヨリ近ク寄来(よりきた)ルヲ見レバ、蜈(むかで)ノ十丈許(ばかり)アル、游(およぎ)来(きた)ル。上ハサヲ(青)ニ光(ひかり)タリ。左右ノ喬(そば)ハ赤ク光タリ。上ヨリ、見レバ、同(おなじ)長サ許(ばかり)ナル蛇(へみ)ノ臥(ふし)長(たけ)一把(ひといだき)許ナル、下向(くだりむか)フ。舌嘗(したなめ)ヅリヲシテ向ヒ合(あひ)タリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.46」岩波書店)

両者の戦闘は熾烈を極める。蜈蚣も蛇もどちらも血まみれになって殺し合う。約束通り蛇の目配せを待っていた七人の漁師たちは蜈蚣が山を登って全身を晒したところを目掛けて一斉に矢を射る。用意しておいたすべての矢を蜈蚣の全身に深々と射込むと、とうとう蜈蚣は倒れた。さらに蜈蚣をばらばらに切り殺し、その屍を焼いて灰と骨とをできるだけ遠くへ捨てた。やがて美男子が再び現れた。今度は全身傷だらけであちこちに血の跡も生々しく足を引きずってもいる。そして七人の漁師たちに礼をいう。この島は食料豊富で田畑を作るのにも大変適している。ここで暮らしてみてはどうかと。

「我、其コ達ノ御徳(とく)ニ、此(この)島ヲ平(たひら)カニ領(りやう)ゼム事、極(きはめ)テ喜(うれ)シ。此(この)島ニハ、田可作(つくるべき)所多カリ。畠(はたけ)無量(はかりなし)。生物(なりもの)ノ木員不知(かずしらず)。然レバ、事ニ触(ふれ)テ便(たより)有(ある)島也。其達、此(この)島ニ来テ住(すま)メト思フヲ、何(いか)ニカ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.47」岩波書店)

美男子の正体はこの島の神・大蛇だった。「田可作(つくるべき)所多カリ。畠(はたけ)無量(はかりなし)」とある。この島では蛇が農耕神であり、要するに田畑を潤す水の神でもある。柳田國男は農耕神としての水神が季節によって里に出て稲作を守護する点について次のように述べている。

「春は山の神が里に降(くだ)って田の神となり、秋の終りにはまた田から上って、山に還って山の神となるという言い伝え、これはそれ一つとしては何でもないような雑説のようであるが、日本全国北から南の端々までそういう伝えのない処の方が少ないと言ってもよいほど、弘く行われているというのが大きな事実であって、しかもそれにはまだ心付かぬ者が多い。我々の山の神は大山祇(おおやまつみ)、または木花開耶姫神(このはなさくやひめのかみ)ときまっているように学者だけは言うが、実際は祭る者が猟夫であり杣樵(そまきこり)であり、また海上を往来する船の者であるによって、信仰も異なり神徳の表現も違っていたのである。同じ一つの山神を共同に拝んでいるというのは、たいていは新しい御社であって、それもまた別種の信仰に基いている。農民の山の神は一年の四分の一だけ山に御憩いなされ、他の四分の三は農作の守護のために、里に出て田の中または田のほとりにおられるのだから、実際は冬の間、山に留まりたまう神というに過ぎない」(柳田國男「先祖の話・田の神と山の神」『柳田國男全集13・P.78』ちくま文庫)

蛇は鼠から稲を守ってくれる。言われてみれば単純な話ではある。だが、そのような伝説と実際の効用とを全国各地へ伝えたのはどのような人々だったか。

「水土(みずち)の神の蛇体は、仏教の方では琵琶を持つ女神で、かつ早くから琵琶を弾く者の保護者であった。座頭の地神経はその神徳をたたえた詞(ことば)である。農家が四季の土用に彼を招いて琵琶を奏せしめたのも、最初の目的はその仲介によって、神の御機嫌をとり結ぼうためであった」(柳田國男「一つ目小僧その他・鹿の耳・盲の効用」『柳田國男全集6・P.345』ちくま文庫)

また、フレイザーが報告しているように、世界各地には様々な農耕神が伝統的に語り伝えられている。

「他に穀物霊が化身する動物には、牡鹿、ノロ、羊、熊、ロバ、キツネ、ネズミ、コウノトリ、ハクチョウ、トビがある。なぜ穀物霊が動物の姿で、しかもこれほど多くの種類の動物の姿で現れると考えられるのか、という問いに対しては、つぎのように答えることができよう。未開人にとって、畑の中に動物や鳥が現れることは、おそらくそれだけで、動物や鳥と畑の穀物の神秘的な関係を示唆するに十分であった、そして、昔畑が柵で囲まれる以前は、あらゆる種類の動物が自由に畑をうろつき回っていたという点を思い起こせば、馬や牛という、今日では例外的な事故でもない限り畑の中に迷い込むことなどあり得ないような大型の動物でさえ、穀物霊とみなされたことは驚くに値しない。この説明は、穀物霊の化身である動物が最後に刈り残された穀物の中に潜んでいるという、非常によく見られる信仰に、とりわけうまく当てはまる。というのも収穫の際には、畑で穀物の残っている最後の区画がつぎつぎと刈り取られてゆけば、数多くの野生動物ーーーウサギや野ウサギやヤマウズラなどーーーはつぎつぎと追い立てられ、ついにすべてが刈り取られると、動物もそこから逃げ出すことになる。そこで刈り手たちは、しばしば棒や銃を手にして最後の区画の周りを囲み、畑の最後の隠れ家から飛び出してくる動物たちを殺す、ということが規則的に行われるようになる。一方未開人にとって、何かが魔法のように姿を変えるということはごく普通に信じられる事態であるから、穀物霊は穀物という住処(すみか)から追い出されるのだ、手鎌で刈り倒されてゆく最後の区画から、動物に姿を変えて逃走して行くのだ、という考え方はきわめて自然に導き出される。したがって、動物を穀物霊とみなすことと、通りすがりの異邦人を穀物霊とみなすことは、同じ発想に基づいている。見知らぬ人間が収穫の畑や脱穀場の近くに突然現れれば、これは未開人にとって、その人物を、刈られた穀物、脱穀された穀物から逃れた穀物霊とみなすに十分なできごとである。同様に、刈られた穀物から突然動物が飛び出してくれば、それだけで十分に、この動物は壊された住処から逃げ出した穀物霊とみなされることになる」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十節・P.42~43」ちくま学芸文庫)

農耕の守護神としての蛇。傷つき果てながらその美男子は語る。もしこの島で暮らそうという気持ちが湧いたとしても、妻子がいるならいったん能登に戻ることになるだろう。一緒に連れてこられるがよい。準備が整ってこの島に来たいと思われる方々は「加賀ノ国ニ御(おは)スル熊田(くまた)ノ宮ト申ス社(やしろ)」で祭りを催して祈願すれば、この島へ向かう風が吹くと。

「彼方(かなた)ニ渡(わたら)ンニハ、此方(こなた)ノ風ヲ吹(ふか)セテ、送ラン。彼方ヨリ此方ニ来(きた)ランニハ、加賀ノ国ニ御(おは)スル熊田(くまた)ノ宮ト申ス社(やしろ)ハ、我ガ別レノ御(おは)スル也、此方ニ来(きた)ラント思ハン時ニハ、其(その)宮ヲ祭リ奉ラバ、輒(たやす)ク此方ニ可来(きたるべき)也」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.47~48」岩波書店)

家族を連れて移住することにした七人の漁師たち。それぞれ七艘の船を整えて島へ渡った。田畑を広げるには大変適した気候風土で栄えた。その島の名は「猫ノ島トゾ云(いふ)」。

「其(その)後、其(その)七人ノ者共、ソノ島ニ居テ、田畠(でんばく)ヲ作リ居弘(ひろ)ゴリテ、員不知(かずしらず)人多ク成(なり)テ、今有(いまにある)也。其(その)島ノ名ヲバ、猫ノ島トゾ云(いふ)ナル」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第九・P.48」岩波書店)

ちなみに「猫の島」は今の「石川県輪島市舳倉(へぐら)島」。輪島の北方五十キロほどにあり、別名「沖つ島」とも。

熊楠が「太平記」に載っている原典としてわざわざ「今昔物語」のエピソードを取り上げたのは、蛇と蜈蚣とが問題だったわけでは必ずしもない。前回「観音に仕りし人、竜宮に行きて富を得たる語(はなし)」と同様、一方の救われた側が「債務者」となり、もう一方の、救ったことで「債権者」に変貌した側との《あいだ》でそれ相応の交換関係を取り結んだという点が重要である。ニーチェはいう。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

このような関係は小林秀雄が「ノアの方舟以前からある」と言っているように、先史時代からあったことは間違いない。

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