熊楠は植物研究ばかりしていたわけでは何らない。むしろ生物の研究は人間の性に関する多様な思想的経験を必然的なものにする。今になってようやく性的多様性は人々の生き方の一つとして徐々に認識されてきたように見える。けれども明治時代以前に戻ってみると多様な性の側こそすでにごく自然な生として疑えない生き方の一つだった。言い換えれば、性は変換可能なものだと。それこそ当たり前の世の中だった。日本最古の説話集「日本霊異記」にも様々な記述が残されている。熊楠はいう。
「肥後の比丘尼舎利菩薩は美女ながら女根なく尿道のみあった(『日本霊異記』下、『本朝法華験記』下)」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.270』河出文庫)
舞台は「肥後国(ひごのくに)八代郡(やつしろのこほり)豊服(とよふく)の郷(さと)」(今の熊本県宇城市松橋町)。「宝亀の二年辛亥(かのとゐ)」は光仁天皇二年に当たる。桓武天皇の前で奈良時代最後の天皇。その頃、「八代郡(やつしろのこほり)豊服(とよふく)の郷(さと)」で一人の嬰児が生まれた。嬰児は全身を膜に包まれており、見た目はただ単なる肉塊にしか見えなかった。両親は何か不吉なことの前兆かもしれないと思い、竹籠に入れて山中の石のあいだに隠しておいた。七日ばかりして見に行くと膜はすでに開いて幼児の姿をしている。母は乳は飲ませて育てることにした。一方、世間の噂は早いもので、怪しげな話があるものだと言い合った。
「肥後国(ひごのくに)八代郡(やつしろのこほり)豊服(とよふく)の郷(さと)の人、豊服広公(とよふくのひろぎみ)の妻(め)懐妊(はら)みて、宝亀の二年辛亥(かのとゐ)の冬の十一月十五日の寅(とら)の時に、一つの肉団(ししむら)を産み生(な)しき。その姿(かたち)卵(かひこ)の如し。夫妻謂(おも)ひて祥(よきしるし)に非(あら)じとして、笥(をけ)に入れて山の石の中に蔵(をさ)め置く。七日経(へ)て往きて見れば、肉団(ししむら)の殻(かひこ)開きて、女子(をみな)を生めり。父母取りて、更に乳(ち)を哺(ふふ)めて養(ひだ)しき。身聞く人、合国(くにしかしながら)、奇(あや)しびずといふこと無かりき」(「日本霊異記・下・産み生せる肉団の作れる女子の善を修し人を化せし縁・第十九・P.137」講談社学術文庫)
生まれて八ヶ月ほど経った。するともう「身の長(たけ)三尺五寸なり」。ただ、顎(おとがひ)=(あご)と思われる部分がなく通例の子供とは身体の形が違っている。その一方、学習能力の高さには目を見張るものがあり、七歳になる前すでに当時の教科書類を次々読破し暗記してしまった。群を抜いて聡明な頭脳の持ち主なのだがまったく自慢しない。黙って勉学に励んでいるばかり。さらに何をおもったのかわからないが、或る日、出家したいと言い出した。そこでとっとと頭を丸め袈裟を身にまとい僧侶として人々の前で講義することになった。たいへんよく響き渡る朗々と澄んだ声をしており、一挙に人心を掴んだ。講義には人々が殺到し、一躍人気者となった。しかし本文に「女子」とあるものの、女性器はなく、ところが尿道はある。だから「女子」なのかどうかは断定できないと考えられる。
「八箇月経て、身俄(にはか)に長大(ひととな)り、頭頸(かしらくび)成り合ひ、人に異(ことな)りて、顎(おとがひ)無し。身の長(たけ)三尺五寸なり。生(うまれながら)知り利口(りこう)にして、自然(うまれながら)に聡明なり。七歳より以前(さき)に、法華八十花厳(けごん)を転読せり。黙然(もだ)ありて逗(ほこ)らず。終(つひ)に出家を楽(ねが)ひ、頭髪を剃除し、袈裟(けさ)を著(き)て、善を修し人を化(け)す。人として信ぜずといふこと無かりき。其(そ)の音(こゑ)多い出(い)で、聞く人哀(あはれ)びを為す。其の体人に異(ことな)り。クボ無くして嫁(とつ)ぐこと無し。唯(ただ)し尿(ゆまり)を出す穴(あな)有り」(「日本霊異記・下・産み生せる肉団の作れる女子の善を修し人を化せし縁・第十九・P.137」講談社学術文庫)
熊楠は「美女」としている。とはいえ、ここで熊楠がさりげなく強調しているのは生物学的な男女の性別ではなく、性というものの多様性にほかならない。そしてまた、通例の身体と異なる人々が幾つかの非凡な能力を発揮するような場合、なぜか途轍もない信仰を集める点である。さらに、通例と異なるというのが事実であれば、その人間はもうそれだけで既に非凡であると言えるだろう。
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「肥後の比丘尼舎利菩薩は美女ながら女根なく尿道のみあった(『日本霊異記』下、『本朝法華験記』下)」(南方熊楠「鳥を食うて王になった話」『浄のセクソロジー・P.270』河出文庫)
舞台は「肥後国(ひごのくに)八代郡(やつしろのこほり)豊服(とよふく)の郷(さと)」(今の熊本県宇城市松橋町)。「宝亀の二年辛亥(かのとゐ)」は光仁天皇二年に当たる。桓武天皇の前で奈良時代最後の天皇。その頃、「八代郡(やつしろのこほり)豊服(とよふく)の郷(さと)」で一人の嬰児が生まれた。嬰児は全身を膜に包まれており、見た目はただ単なる肉塊にしか見えなかった。両親は何か不吉なことの前兆かもしれないと思い、竹籠に入れて山中の石のあいだに隠しておいた。七日ばかりして見に行くと膜はすでに開いて幼児の姿をしている。母は乳は飲ませて育てることにした。一方、世間の噂は早いもので、怪しげな話があるものだと言い合った。
「肥後国(ひごのくに)八代郡(やつしろのこほり)豊服(とよふく)の郷(さと)の人、豊服広公(とよふくのひろぎみ)の妻(め)懐妊(はら)みて、宝亀の二年辛亥(かのとゐ)の冬の十一月十五日の寅(とら)の時に、一つの肉団(ししむら)を産み生(な)しき。その姿(かたち)卵(かひこ)の如し。夫妻謂(おも)ひて祥(よきしるし)に非(あら)じとして、笥(をけ)に入れて山の石の中に蔵(をさ)め置く。七日経(へ)て往きて見れば、肉団(ししむら)の殻(かひこ)開きて、女子(をみな)を生めり。父母取りて、更に乳(ち)を哺(ふふ)めて養(ひだ)しき。身聞く人、合国(くにしかしながら)、奇(あや)しびずといふこと無かりき」(「日本霊異記・下・産み生せる肉団の作れる女子の善を修し人を化せし縁・第十九・P.137」講談社学術文庫)
生まれて八ヶ月ほど経った。するともう「身の長(たけ)三尺五寸なり」。ただ、顎(おとがひ)=(あご)と思われる部分がなく通例の子供とは身体の形が違っている。その一方、学習能力の高さには目を見張るものがあり、七歳になる前すでに当時の教科書類を次々読破し暗記してしまった。群を抜いて聡明な頭脳の持ち主なのだがまったく自慢しない。黙って勉学に励んでいるばかり。さらに何をおもったのかわからないが、或る日、出家したいと言い出した。そこでとっとと頭を丸め袈裟を身にまとい僧侶として人々の前で講義することになった。たいへんよく響き渡る朗々と澄んだ声をしており、一挙に人心を掴んだ。講義には人々が殺到し、一躍人気者となった。しかし本文に「女子」とあるものの、女性器はなく、ところが尿道はある。だから「女子」なのかどうかは断定できないと考えられる。
「八箇月経て、身俄(にはか)に長大(ひととな)り、頭頸(かしらくび)成り合ひ、人に異(ことな)りて、顎(おとがひ)無し。身の長(たけ)三尺五寸なり。生(うまれながら)知り利口(りこう)にして、自然(うまれながら)に聡明なり。七歳より以前(さき)に、法華八十花厳(けごん)を転読せり。黙然(もだ)ありて逗(ほこ)らず。終(つひ)に出家を楽(ねが)ひ、頭髪を剃除し、袈裟(けさ)を著(き)て、善を修し人を化(け)す。人として信ぜずといふこと無かりき。其(そ)の音(こゑ)多い出(い)で、聞く人哀(あはれ)びを為す。其の体人に異(ことな)り。クボ無くして嫁(とつ)ぐこと無し。唯(ただ)し尿(ゆまり)を出す穴(あな)有り」(「日本霊異記・下・産み生せる肉団の作れる女子の善を修し人を化せし縁・第十九・P.137」講談社学術文庫)
熊楠は「美女」としている。とはいえ、ここで熊楠がさりげなく強調しているのは生物学的な男女の性別ではなく、性というものの多様性にほかならない。そしてまた、通例の身体と異なる人々が幾つかの非凡な能力を発揮するような場合、なぜか途轍もない信仰を集める点である。さらに、通例と異なるというのが事実であれば、その人間はもうそれだけで既に非凡であると言えるだろう。
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