熊楠「人魚の話」の中で「若狭小浜の空印寺に八百比丘尼の木像あり」と述べている。以前に少し触れた。
「『和漢三才図会』等に、若狭小浜の空印寺に八百比丘尼の木像あり。この尼(あま)、むかし当寺に住み、八百歳なりしも、美貌十五、六歳ばかりなりし。これ人魚を食いしに因(よ)る、と。嘘八百とはこれよりや始まりつらん。思うに儒艮(じゅごん)は暖地の産にて、若狭などにある物ならねど、海狗などの海獣、多少人に類せる物を人魚と呼び、その肉温補(おんぽ)の功あれば、長生の妙験ありなど言い伝えたるやらん」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.243~244』河出文庫)
柳田國男は次のようにいう。
「白比丘尼(しらびくに)はまたの名を八百比丘尼(はっぴゃくびくに)という。八百歳まで生存していたことを人が知っている。常に十六、七の娘のように肌の色が美しかったから白比丘尼ともよばれた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・白比丘尼の栽えた木」「柳田国男全集5・P.310」ちくま文庫)
白比丘尼とも呼ばれた理由について「八百歳まで生存していた」と同時に「常に十六、七の娘のように肌の色が美しかったから」だという二つの相反する伝説を上げている。そこで考えたいわけだが、相反する伝説を一身に引き受ける存在とはどのような人々だったか。
「比丘尼の生活の種は何であったか。自分の想像するところでは第一に祈祷と符籙(ふろく)の配布であったろう。頼まれれば吉凶を占い、婦女に近づきやすいために武家の家庭にも立ち入り、人の信心を起すために八百万(やおろず)の神仏の名を唱え縁起を説いたようである。かの熊野の比丘尼なども一方には三所権現(さんしょごんげん)の御札を配りながら、ある時は三世因果の絵巻物を繰りひろげて功徳を勧進しているあるいた。山鳥の尾羽(おばね)を手に持って地獄極楽の絵解(えとき)をして聞かせ、物悲しい節を附けて冥途(めいど)の淋しい旅物語に女や年寄の袖をしぼらせた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・昔の比丘尼」「柳田国男全集5・P.315」ちくま文庫)
熊野は記紀神話成立時すでに神話に満ちた場だったことはこれまで何度も繰り返し見てきた。柳田は男性の山伏(翁)が残している様々な伝説とともに、その一方で女性たちが残した「霊嫗(れいおう)伝説」も少なくないと述べている。
「熊野の信仰には昔から不可解なる特色が多かった。ことに奥羽西海の辺土に至っては伝道の路すがらさまざまの地方的色彩を附加して行ったようである。しこうしてこの事業の大半が婦女の手によって成し遂げられたらしいのはさらに注意すべきことである。いわゆる峯入(みねいり)の難行は古今ともに強壮なる男山伏の専業であったにもかかわらず、平野の邑落(ゆうらく)における熊野堂の創立には霊嫗(れいおう)伝説を伴なう者が決して少なくない」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・昔の比丘尼」「柳田国男全集5・P.316」ちくま文庫)
次の説話は塚に関するもの。なかなか上手くはかどらない堤防工事を何とかして完成させようと、通りがかりの或る比丘尼が人柱(ひとばしら)として生き埋めにされた名残りである。
「越前松岡の比丘尼塚は九頭竜(くずりゆう)川の岸にある。この堤があまりに崩れやすかったために旅の尼を捉えて生きながら築き籠(こ)めたという塚である」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・比丘尼塚」「柳田国男全集5・P.317」ちくま文庫)
さらに「笈埃随筆」からの引用だが、柳田はこの伝説を八百比丘尼と関連するものとして疑っていない。また注目したいのはここで「鹿島の要石(かなめいし)」と関連付けられている点である。
「越後柏崎の町の四辻に自然石の台石仏が立っている。腰より下は土中に埋まり、鹿島の要石(かなめいし)と同じくその深さを知らぬともいう(『笈埃随筆』)。この石にも大同二年(八〇七)八百比丘尼建立と刻んであるという噂である」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・八百比丘尼の年代」「柳田国男全集5・P.320」ちくま文庫)
越前にしても越後にしても山陰である。熊楠が「若狭小浜」と述べていることと関係する。だからこれらの人魚伝説は儒艮(じゅごん)と直接関係するわけではない。ジュゴンは沖縄周辺で崇敬されている。山陰地方の人魚伝説とは系統が異なると見られる。とはいえ、山陰地方で目撃される海獣はおそらく「海馬」(あしか)や「海狗」(おっとせい)であり、哺乳類であることからジュゴンとまったく違っているわけではない。
「人魚の動物学的研究は自分の任務ではないが、ここにはただ南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の説を附記しておく。人魚は琉球ではサンノイオともいう。魚とは称すれども実は胎生で漢名は儒艮(じゅごん)、シレン類に属する一種の海獣である。わが邦の海浜に寄ったという記事は『嘉元記』にも見えているが、本来暖地の海に住む物なれば日本海で捕ったというのは疑わしい。紀州で大灘魚(おおなうお)と称する美味なる魚を女魚(おんなうお)と謝り称する例もあれば、若狭や能登に現われたのはあるいは海狗か何かであろう云々。人魚が寒潮に住み得ぬことは事実としても無形の伝説のみはこれを移すに差支えがない。この物を保命長生の薬にするのは元は南支那などの風であったかも知れぬが、その信仰に至っては久しい昔からわが邦一般の所有であったらしい。喜谷の実母散などは今日までも人魚を看板にしている。同じ若狭国にも八百比丘尼と無関係に別に一の人魚談がある。この国大飯(おおい)郡の御山(みせん)という山はいわゆる魔所として八分目以上には登る者がなかった。この山の明神の使者は人魚であった。昔宝永年中に内浦村大字音海(おとみ)の漁夫漁に出でて怪しい物を見た。頭は人間にして襟に鶏冠(とさか)のごとくひらひらと赤き物を纏(まと)い、それから下は魚の形をした物が岩の上に寝ておった。櫂(かい)をもって打ち殺し海へ投げ入れて帰ったところ、その日より大風が吹き出し海の鳴ること十七日、三十日の後には大地震があって地面が裂けて一村ことごとく陥没したという」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・人魚のこと」「柳田国男全集5・P.324~325」ちくま文庫)
だがしかし、なぜ人魚伝説と八百比丘尼とが「鹿島の要石(かなめいし)」と関係するのか。鹿島以北の古い信仰を参照してみよう。この信仰の主人公は紛れもなく女性である。そしてその特徴として或る時は十七歳の少女であり、また或る時は五、六十歳の年配女性にもなる。さらには歯が欠けて白髪にもなる。
「鹿島の信仰はかつて関東以北の田舎を支配していたことがあって、その御女神(みこがみ)の御社というものが、古史以来引き続いて今も崇敬されている。すなわちいわゆる神のもろふしを出すのを家の光栄と感じ、一族門党の安泰をたった一人の女性に繋(か)ける思想は、その行く先々の勧請地(かんじようち)にもあったらしいのである。栃木県の箕和田良弥君の祖母、年九十になる人がこんな話をしている。曰く、
鹿島さまのおめかけになると、いつまでも十七の姿でいたってなァ。それで鹿島様からおひまが出ると、急に五十にも六十にもなって、歯がおっかけたり白髪になったりしたってなァ」(柳田國男「妹の力・玉依彦の問題」『柳田國男全集11・P.57』ちくま文庫)
八百比丘尼が八百歳を生きたという伝説について熊楠は「嘘八百」と言いのけているのは生物学上あり得ないからだ。しかし熊楠は同時に熊野の王子社について永遠に若い王子信仰を見ている。さらに熊楠は古典文献の中から永遠に年を取らずに生き続ける蛇に注目していることを忘れてはならない。熊野九十九社の王子たちはなぜ永遠に若いのか。そして蛇に注目しなければならないのか。なぜなら、蛇は脱皮するからだ。新しく生まれ変わる。そのたびに再び若返る。その意味で熊野九十九社の王子たちは熊楠から見てどれもみな若さの象徴だった。熊野比丘尼にも同様の傾向が見られる。先に述べたように、永遠に若いこと、同時に何百年も生きるということ。要するに若さの秘訣は繰り返される蛇の脱皮にも似た永遠の生なのだ。柳田が上げる次の文章に目を通してみよう。「若狭の八百比丘尼(はつぴやくびくに)」が出てくる。
「トラがまさしく二人以上あった証拠は、近江の虎姫山(とらごぜやま)に関する伝説である。そのほかにも例を求めるならば、虎女の魂が石に入って虎子石と化(な)ったということ、及び虎が夫の面影を慕って、逢いに来て空しく引き返したという話と、ある程度までの共通点を有する、霊山の境石に伴う口碑が、越中立山の中腹においては、これを登宇呂(とうろ)の姥の話と称し、あるいはこれを若狭の八百比丘尼(はつぴやくびくに)とて、やはり非凡なる諸国行脚の女と同人と見る話もあり、加賀の白山においては融(とおる)の婆(ばば)といって、ほとんど瓜二つの物語を留め、さらに古いところでは大和の金峯山(きんぷせん)の女人結界に、禁制を破って押して登ろうとした偉い巫女の名を、都藍尼(とらんに)と伝えている事実などに比べてみて、これらの信仰生活に携わる婦人の名に、おとらは何か深い由緒のあったものと、考えてもよろしいように思うのである」(柳田國男「おとら狐の話・おとらという狐の名」『柳田國男全集6・P.577』ちくま文庫)
そしてまた八百比丘尼は実際、熊野信仰勧進を掲げて全国各地を精力的に歩き廻った旅する女性らの一群でもあった。勧進のため、まず考えるのは誰しも京の都である。
「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)
時代が降るに従って遊女化した女性も少なくないが、それは世界中どこにでもごろごろ転がっている話であって、特に珍しくも何ともない。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
時に十六、七歳の若い女性、時に八十歳くらいに見える老婆。この相反するパラドックスを一身に引き受けて生きた女性たちは、もちろん、親から子へ、子から孫へと職業ととも相続されたに違いない。その都度、あたかも蛇が脱皮して新しく生まれ変わるかのように八十歳の老婆からいきなり十代の少女の姿が出現するという系譜が続いた。それが「海馬」(あしか)や「海狗」(おっとせい)を食べたからに違いないという神話と結びついた。というのは、例えば「海狗」(おっとせい)の身体からは強力な精力剤が取れるため、「海狗」(おっとせい)の生息域である古代中国海浜部や日本列島各地でとりわけ珍重されたからである。日本では戦後になってなお千葉県の海辺に打ち上げられたりしている。北方ではオホーツク海を回遊する。ましてや山陰地方の海岸ではなおさらのことだ。特に京に都があった頃、漁業の拠点だった若狭湾沿岸は、その「若狭=若さ」という語呂合わせと相まって伝説は途方もなく大きく膨らんだに違いない。次の箇所で西鶴は江戸時代の宝物の一つに「人魚(にんぎょ)の塩引(しほびき)」を入れている。「塩引」は「塩漬け」のこと。
「庭蔵(にはくら)見れば、元渡(もとわた)りの唐織(からおり)山をなし、伽羅(きやら)掛木(かけぎ)のごとし。珊瑚殊(さんごじゆ)は一刄五分から百三十目までの無疵(むきず)の玉千二百三十五、柄鮫(つかざめ)、青磁(せいじ)の道具限りもなく、飛鳥(あすか)川の茶入れ、かやうの類ごろつきて、めげるをかまはず、人魚(にんぎょ)の塩引(しほびき)、瑪瑙(めなう)の手桶(ておけ)、邯鄲(かんたん)の米かち杵(ぎね)、浦島(うらしま)が包丁箱(はうちやうばこ)、弁才天(べんざいてん)の前巾着(まへきんちやく)、福禄寿(ふくろくじゆ)の剃刀(かみそり)、多聞天(たもんてん)の枕鑓(まくらやり)、大黒殿(だいこくどの)の千石通(せんごくどほ)し、恵比寿殿(えびすどの)の小遣帳(こづかひちやう)、覚えがたし」(日本古典文学全集「好色五人女・巻五・五・金銀も持ちあまつて迷惑」『井原西鶴集1・P.423』小学館)
ただ、残念なことに、「人魚(にんぎょ)の塩引(しほびき)」から「恵比寿殿(えびすどの)の小遣帳(こづかひちやう)」まで列挙された宝物はいずれも伝説上の宝物。しかし二〇二〇年にもなってなおパンデミック収束のためのワクチンがただ単なる伝説上の医薬品であっては極めて困るのである。残念では済まされない。しかもワクチンが高価なものであっては五輪開催はなおのこと世界中がいずれ破滅へ向かって歩み始めるほか考えようがないのである。世界は経済大国だけで成り立っているわけでは全然ない。途上国の安価な労働力を酷使することで始めてG20などというふざけきった枠組みが薄氷の上を漂っているに過ぎない。便利なものをどれほど大量生産したとしても現役世代の労賃が据え置きのままでは、商品はただ単にごみ箱行きになるほかない。余計な消費に廻す資金など今やとてもではないが考えられもしない。
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「『和漢三才図会』等に、若狭小浜の空印寺に八百比丘尼の木像あり。この尼(あま)、むかし当寺に住み、八百歳なりしも、美貌十五、六歳ばかりなりし。これ人魚を食いしに因(よ)る、と。嘘八百とはこれよりや始まりつらん。思うに儒艮(じゅごん)は暖地の産にて、若狭などにある物ならねど、海狗などの海獣、多少人に類せる物を人魚と呼び、その肉温補(おんぽ)の功あれば、長生の妙験ありなど言い伝えたるやらん」(南方熊楠「人魚の話」『浄のセクソロジー・P.243~244』河出文庫)
柳田國男は次のようにいう。
「白比丘尼(しらびくに)はまたの名を八百比丘尼(はっぴゃくびくに)という。八百歳まで生存していたことを人が知っている。常に十六、七の娘のように肌の色が美しかったから白比丘尼ともよばれた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・白比丘尼の栽えた木」「柳田国男全集5・P.310」ちくま文庫)
白比丘尼とも呼ばれた理由について「八百歳まで生存していた」と同時に「常に十六、七の娘のように肌の色が美しかったから」だという二つの相反する伝説を上げている。そこで考えたいわけだが、相反する伝説を一身に引き受ける存在とはどのような人々だったか。
「比丘尼の生活の種は何であったか。自分の想像するところでは第一に祈祷と符籙(ふろく)の配布であったろう。頼まれれば吉凶を占い、婦女に近づきやすいために武家の家庭にも立ち入り、人の信心を起すために八百万(やおろず)の神仏の名を唱え縁起を説いたようである。かの熊野の比丘尼なども一方には三所権現(さんしょごんげん)の御札を配りながら、ある時は三世因果の絵巻物を繰りひろげて功徳を勧進しているあるいた。山鳥の尾羽(おばね)を手に持って地獄極楽の絵解(えとき)をして聞かせ、物悲しい節を附けて冥途(めいど)の淋しい旅物語に女や年寄の袖をしぼらせた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・昔の比丘尼」「柳田国男全集5・P.315」ちくま文庫)
熊野は記紀神話成立時すでに神話に満ちた場だったことはこれまで何度も繰り返し見てきた。柳田は男性の山伏(翁)が残している様々な伝説とともに、その一方で女性たちが残した「霊嫗(れいおう)伝説」も少なくないと述べている。
「熊野の信仰には昔から不可解なる特色が多かった。ことに奥羽西海の辺土に至っては伝道の路すがらさまざまの地方的色彩を附加して行ったようである。しこうしてこの事業の大半が婦女の手によって成し遂げられたらしいのはさらに注意すべきことである。いわゆる峯入(みねいり)の難行は古今ともに強壮なる男山伏の専業であったにもかかわらず、平野の邑落(ゆうらく)における熊野堂の創立には霊嫗(れいおう)伝説を伴なう者が決して少なくない」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・昔の比丘尼」「柳田国男全集5・P.316」ちくま文庫)
次の説話は塚に関するもの。なかなか上手くはかどらない堤防工事を何とかして完成させようと、通りがかりの或る比丘尼が人柱(ひとばしら)として生き埋めにされた名残りである。
「越前松岡の比丘尼塚は九頭竜(くずりゆう)川の岸にある。この堤があまりに崩れやすかったために旅の尼を捉えて生きながら築き籠(こ)めたという塚である」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・比丘尼塚」「柳田国男全集5・P.317」ちくま文庫)
さらに「笈埃随筆」からの引用だが、柳田はこの伝説を八百比丘尼と関連するものとして疑っていない。また注目したいのはここで「鹿島の要石(かなめいし)」と関連付けられている点である。
「越後柏崎の町の四辻に自然石の台石仏が立っている。腰より下は土中に埋まり、鹿島の要石(かなめいし)と同じくその深さを知らぬともいう(『笈埃随筆』)。この石にも大同二年(八〇七)八百比丘尼建立と刻んであるという噂である」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・八百比丘尼の年代」「柳田国男全集5・P.320」ちくま文庫)
越前にしても越後にしても山陰である。熊楠が「若狭小浜」と述べていることと関係する。だからこれらの人魚伝説は儒艮(じゅごん)と直接関係するわけではない。ジュゴンは沖縄周辺で崇敬されている。山陰地方の人魚伝説とは系統が異なると見られる。とはいえ、山陰地方で目撃される海獣はおそらく「海馬」(あしか)や「海狗」(おっとせい)であり、哺乳類であることからジュゴンとまったく違っているわけではない。
「人魚の動物学的研究は自分の任務ではないが、ここにはただ南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の説を附記しておく。人魚は琉球ではサンノイオともいう。魚とは称すれども実は胎生で漢名は儒艮(じゅごん)、シレン類に属する一種の海獣である。わが邦の海浜に寄ったという記事は『嘉元記』にも見えているが、本来暖地の海に住む物なれば日本海で捕ったというのは疑わしい。紀州で大灘魚(おおなうお)と称する美味なる魚を女魚(おんなうお)と謝り称する例もあれば、若狭や能登に現われたのはあるいは海狗か何かであろう云々。人魚が寒潮に住み得ぬことは事実としても無形の伝説のみはこれを移すに差支えがない。この物を保命長生の薬にするのは元は南支那などの風であったかも知れぬが、その信仰に至っては久しい昔からわが邦一般の所有であったらしい。喜谷の実母散などは今日までも人魚を看板にしている。同じ若狭国にも八百比丘尼と無関係に別に一の人魚談がある。この国大飯(おおい)郡の御山(みせん)という山はいわゆる魔所として八分目以上には登る者がなかった。この山の明神の使者は人魚であった。昔宝永年中に内浦村大字音海(おとみ)の漁夫漁に出でて怪しい物を見た。頭は人間にして襟に鶏冠(とさか)のごとくひらひらと赤き物を纏(まと)い、それから下は魚の形をした物が岩の上に寝ておった。櫂(かい)をもって打ち殺し海へ投げ入れて帰ったところ、その日より大風が吹き出し海の鳴ること十七日、三十日の後には大地震があって地面が裂けて一村ことごとく陥没したという」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・人魚のこと」「柳田国男全集5・P.324~325」ちくま文庫)
だがしかし、なぜ人魚伝説と八百比丘尼とが「鹿島の要石(かなめいし)」と関係するのか。鹿島以北の古い信仰を参照してみよう。この信仰の主人公は紛れもなく女性である。そしてその特徴として或る時は十七歳の少女であり、また或る時は五、六十歳の年配女性にもなる。さらには歯が欠けて白髪にもなる。
「鹿島の信仰はかつて関東以北の田舎を支配していたことがあって、その御女神(みこがみ)の御社というものが、古史以来引き続いて今も崇敬されている。すなわちいわゆる神のもろふしを出すのを家の光栄と感じ、一族門党の安泰をたった一人の女性に繋(か)ける思想は、その行く先々の勧請地(かんじようち)にもあったらしいのである。栃木県の箕和田良弥君の祖母、年九十になる人がこんな話をしている。曰く、
鹿島さまのおめかけになると、いつまでも十七の姿でいたってなァ。それで鹿島様からおひまが出ると、急に五十にも六十にもなって、歯がおっかけたり白髪になったりしたってなァ」(柳田國男「妹の力・玉依彦の問題」『柳田國男全集11・P.57』ちくま文庫)
八百比丘尼が八百歳を生きたという伝説について熊楠は「嘘八百」と言いのけているのは生物学上あり得ないからだ。しかし熊楠は同時に熊野の王子社について永遠に若い王子信仰を見ている。さらに熊楠は古典文献の中から永遠に年を取らずに生き続ける蛇に注目していることを忘れてはならない。熊野九十九社の王子たちはなぜ永遠に若いのか。そして蛇に注目しなければならないのか。なぜなら、蛇は脱皮するからだ。新しく生まれ変わる。そのたびに再び若返る。その意味で熊野九十九社の王子たちは熊楠から見てどれもみな若さの象徴だった。熊野比丘尼にも同様の傾向が見られる。先に述べたように、永遠に若いこと、同時に何百年も生きるということ。要するに若さの秘訣は繰り返される蛇の脱皮にも似た永遠の生なのだ。柳田が上げる次の文章に目を通してみよう。「若狭の八百比丘尼(はつぴやくびくに)」が出てくる。
「トラがまさしく二人以上あった証拠は、近江の虎姫山(とらごぜやま)に関する伝説である。そのほかにも例を求めるならば、虎女の魂が石に入って虎子石と化(な)ったということ、及び虎が夫の面影を慕って、逢いに来て空しく引き返したという話と、ある程度までの共通点を有する、霊山の境石に伴う口碑が、越中立山の中腹においては、これを登宇呂(とうろ)の姥の話と称し、あるいはこれを若狭の八百比丘尼(はつぴやくびくに)とて、やはり非凡なる諸国行脚の女と同人と見る話もあり、加賀の白山においては融(とおる)の婆(ばば)といって、ほとんど瓜二つの物語を留め、さらに古いところでは大和の金峯山(きんぷせん)の女人結界に、禁制を破って押して登ろうとした偉い巫女の名を、都藍尼(とらんに)と伝えている事実などに比べてみて、これらの信仰生活に携わる婦人の名に、おとらは何か深い由緒のあったものと、考えてもよろしいように思うのである」(柳田國男「おとら狐の話・おとらという狐の名」『柳田國男全集6・P.577』ちくま文庫)
そしてまた八百比丘尼は実際、熊野信仰勧進を掲げて全国各地を精力的に歩き廻った旅する女性らの一群でもあった。勧進のため、まず考えるのは誰しも京の都である。
「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)
時代が降るに従って遊女化した女性も少なくないが、それは世界中どこにでもごろごろ転がっている話であって、特に珍しくも何ともない。
「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)
時に十六、七歳の若い女性、時に八十歳くらいに見える老婆。この相反するパラドックスを一身に引き受けて生きた女性たちは、もちろん、親から子へ、子から孫へと職業ととも相続されたに違いない。その都度、あたかも蛇が脱皮して新しく生まれ変わるかのように八十歳の老婆からいきなり十代の少女の姿が出現するという系譜が続いた。それが「海馬」(あしか)や「海狗」(おっとせい)を食べたからに違いないという神話と結びついた。というのは、例えば「海狗」(おっとせい)の身体からは強力な精力剤が取れるため、「海狗」(おっとせい)の生息域である古代中国海浜部や日本列島各地でとりわけ珍重されたからである。日本では戦後になってなお千葉県の海辺に打ち上げられたりしている。北方ではオホーツク海を回遊する。ましてや山陰地方の海岸ではなおさらのことだ。特に京に都があった頃、漁業の拠点だった若狭湾沿岸は、その「若狭=若さ」という語呂合わせと相まって伝説は途方もなく大きく膨らんだに違いない。次の箇所で西鶴は江戸時代の宝物の一つに「人魚(にんぎょ)の塩引(しほびき)」を入れている。「塩引」は「塩漬け」のこと。
「庭蔵(にはくら)見れば、元渡(もとわた)りの唐織(からおり)山をなし、伽羅(きやら)掛木(かけぎ)のごとし。珊瑚殊(さんごじゆ)は一刄五分から百三十目までの無疵(むきず)の玉千二百三十五、柄鮫(つかざめ)、青磁(せいじ)の道具限りもなく、飛鳥(あすか)川の茶入れ、かやうの類ごろつきて、めげるをかまはず、人魚(にんぎょ)の塩引(しほびき)、瑪瑙(めなう)の手桶(ておけ)、邯鄲(かんたん)の米かち杵(ぎね)、浦島(うらしま)が包丁箱(はうちやうばこ)、弁才天(べんざいてん)の前巾着(まへきんちやく)、福禄寿(ふくろくじゆ)の剃刀(かみそり)、多聞天(たもんてん)の枕鑓(まくらやり)、大黒殿(だいこくどの)の千石通(せんごくどほ)し、恵比寿殿(えびすどの)の小遣帳(こづかひちやう)、覚えがたし」(日本古典文学全集「好色五人女・巻五・五・金銀も持ちあまつて迷惑」『井原西鶴集1・P.423』小学館)
ただ、残念なことに、「人魚(にんぎょ)の塩引(しほびき)」から「恵比寿殿(えびすどの)の小遣帳(こづかひちやう)」まで列挙された宝物はいずれも伝説上の宝物。しかし二〇二〇年にもなってなおパンデミック収束のためのワクチンがただ単なる伝説上の医薬品であっては極めて困るのである。残念では済まされない。しかもワクチンが高価なものであっては五輪開催はなおのこと世界中がいずれ破滅へ向かって歩み始めるほか考えようがないのである。世界は経済大国だけで成り立っているわけでは全然ない。途上国の安価な労働力を酷使することで始めてG20などというふざけきった枠組みが薄氷の上を漂っているに過ぎない。便利なものをどれほど大量生産したとしても現役世代の労賃が据え置きのままでは、商品はただ単にごみ箱行きになるほかない。余計な消費に廻す資金など今やとてもではないが考えられもしない。
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