奈良時代の説話だ。讃岐国山田郡(さぬきのくにやまだのこほり)に布敷臣衣女(ぬのしきのおみきぬめ)という女性がいた。
「讃岐の国の女、冥途に行きしが、その魂還りてほかの身に付きける語(こと)」(南方熊楠「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」『南方民俗学・P.282』河出文庫)
と熊楠は「今昔物語」掲載のタイトルを挙げた上で、実はこの話の出どころはそもそも「日本霊異記」だと述べる。暴露というわけではない。今でいう「炎上商法」ではさらにない。むしろ近現代と比較して様々な引用やアレンジやパッチワークが遥かに自由になされ許された時代の貴重な風俗考証として引用されている。
讃岐国山田郡(さぬきのくにやまだのこほり)の衣女(きぬめ)は突然病に倒れる。おそらく死ぬだろう。そう思い、地獄からの使者である鬼を迎えるため山海の珍味をわんさと整えてしおらしく待っていた。予定通り鬼がやって来た。ところがこの鬼は今でいう中間管理職に等しい。上司に当たる地獄の王・閻魔に、一言、「行って来い」と言われて精一杯走り廻りようやく讃岐国山田郡の衣女を探し当てたばかりである。はなはだ疲れている。そこへ願ってもない歓待のための山海珍味をたんまり持った贅沢な料理にありつけたため、鬼は心変わりして考えた。讃岐国山田郡の衣女を救ってやり、同姓同名の女性を身代わりに地獄へ持って帰ろうと。
「衣女忽(にはか)に病を得たりき。時に偉(たたは)しく百味を備(まう)けて、門の左右に祭り、疫神(やくじん)に賂(まひな)ひて饗(あへ)しぬ。閻羅王の使(つかひ)の鬼、来(きた)りて衣女(きぬめ)を召す。其(そ)の鬼、走り疲(つか)れにて、祭の食を見て、おもねりて就(つ)きて受(う)く。鬼、衣女(きぬめ)に語りて言はく、『我、汝(なむぢ)の饗(あへ)を受くるが故に、汝の恩を報いぬ。若(も)し、同じ姓同じ名の人有りや』といふ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.189」講談社学術文庫)
讃岐国山田郡の衣女がすみやかに山海の珍味を贅沢に用意することができた理由は四国という土地柄が条件として大きく物をいっている。その点をを見逃すわけにはいかない。柳田國男は言っている。
「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」「柳田国男全集4・P.429」ちくま文庫)
熊楠と柳田との間で交わされた「山神・オコゼ」論争は最後まで決着を見ることができなかった。それはそれで構わない。二人の立場は異なる。熊楠は一民間研究者、柳田は中央官僚。さらに研究態度はまるで正反対というに等しい。だからむしろこの種の論争が口を揃えて一致を見たとすればそれこそおかしな話になる。ここで大事なのは日本列島について柳田が「山島に拠りて居をなせる」地理的条件に縛り付けられているという指摘である。この条件は四国のみならず紀州にも十分に当てはまる類似条件だった。逆に言えば、讃岐国山田郡の衣女はすみやかに山海の珍味を贅沢に用意することはできたが、山海の珍味「以外」の食材を用意するとすれば「贅沢」では決してなく極めて「貧弱」な「饗(あへ)」しか差し出せなかった可能性が大いにあった。ともかく鬼は心変わりする。そして「身代わり」の女性を地獄の上司・閻魔王の前に差し出して讃岐国山田郡の衣女を生かしてやろうと考えた。そこで「身代わり」としての条件が提示される。同姓同名であること。鬼は山田郡の衣女から「同じ国の鵜垂郡(うたりのこほり)に、同じ姓の衣女(きぬめ)有り」との情報提供を受ける。ちなみに山田郡は後の香川県木田郡。鵜垂郡は後の香川県綾歌郡。もっとも、平成の大合併の結果、もはや当時の面影を見ようとしてもさっぱりわけがわからなくなったため、木田郡と綾歌郡とが香川県内でさらに再編された時期以後は省略するほかない。
さて鬼は次に山田郡(やまだのこほり)の衣女に紹介された鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女の家に赴き、「緋(あけ)の嚢(ふくろ)より一尺の鑿(のみ)を出(いだ)して、額(ぬか)に打ち立て、即(すなは)ち召し将(ゐ)て去りぬ」。三十センチほどの「鑿(のみ)」で鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女(きぬめ)の額を打ち抜いて殺し、魂を奪い去って地獄へ送り届けた。
「衣女、答へて言はく、『同じ国の鵜垂郡(うたりのこほり)に、同じ姓の衣女(きぬめ)有り』といふ。鬼、衣女を率(ゐ)て、鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女の家に往きて対面し、即(すなは)ち緋(あけ)の嚢(ふくろ)より一尺の鑿(のみ)を出(いだ)して、額(ぬか)に打ち立て、即(すなは)ち召し将(ゐ)て去りぬ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.189~190」講談社学術文庫)
しかし鬼の上司・閻魔王の鏡を騙すことはできない。閻魔が地獄へ召喚したのは山田郡の衣女である。ついてはもう一度地上へ行って命令を果たせと鬼にいう。
「此(こ)は召せる衣女に非(あら)ず。誤(あやま)ちて召せるなり。然(しか)れば暫(しまら)く此(ここ)に留(とどま)れ。すみやかに往きて山田郡(やまだのこほり)の衣女を召せ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
仕方なく鬼は山田郡の衣女の命を奪い取り地獄へ連れてきた。閻魔は「間違いない」という。
「閻羅王待ち見て言はく、『当(まさ)に是(こ)れ召せる衣女ならむ』といふ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
しかしなぜ閻魔は鏡に映し出して検証するのか。人間は自ら自分は人間であると主張することはできるが、それを証拠立てることはできない。そこで地獄の閻魔といえども一度は鏡に映し出して検証してみるのである。ラカン「鏡像段階論」から。
「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。
この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします。
重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです。
このように、主体が幻影のなかでその能力を先取りするのは身体の全体的形態によってなのですが、この形態は《ゲシュタルト》としてのみ、すなわち、外在性においてのみ主体に与えられるものであって、そこではたしかにこの形態は構成されるものというより構成するものではありながら、とりわけこの形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体験するところの騒々しい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性のもとであらわれるのです。したがって、この《ゲシュタルト》について言えば、そのプレグナンツは、たとえその運動様式が無視できるにしても、種に関連していると考えなければならないわけで、ーーーその出現のこれら二つの局面によってこのゲシュタルトは、《わたし》の精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示するものです。さらにその《ゲシュタルト》はさまざまの対応をはらんでいますが、これによって、《わたし》は、いわば人間が彼を支配する幻影にみずからを投影する立像と一体化するわけであり、結局は、曖昧な関係のなかで世界がみずからを完成させようとする自動人形と一体化するわけなのです。
じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます。
鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。
《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~129』弘文堂)
主導権は人間にはなく逆に鏡に映し出された鏡像の側にある。また鏡像は最初こそ姿形なのだが、命名と同時にその人の名、言葉=言語の側が主導権を握る。だから人間はどんな人間であっても言葉の側から始めて自分の意味内容を受け取るという転倒から始まる。従ってもし同姓同名というケースが発生した場合、両者はいつでも置き換え可能性の中へ叩き込まれる。鬼が利用しようとしたのはこの「同性同名」という置き換え可能性だ。ところが鏡はただ単に人の名前だけを映し出すわけではない。姿形とその意味〔価値〕内容をも同時に映し出す。そこで、なるほど名前は同じでもその意味〔価値〕内容は別人ではないか、と閻魔は偽装工作を見破ることができたわけである。しかし三十センチほどの「鑿(のみ)」で額を打ち抜かれ殺されていた鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女(きぬめ)の死体は、三日ほど地上を留守にしていた際、既に親族のもとで火葬され荼毘に伏された後だった。となると鵜垂郡の衣女は帰るところがない。鵜垂郡の衣女は何とかしてほしいと閻魔に申し出る。
「鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女は、家に帰るに、三日の頃(あひだ)経て、鵜垂郡の衣女の身を焼き失へり。更に還(かへ)りて閻羅王に愁(うれ)へて白(まう)さく、『体(からだ)を失(うしな)ひつ。依(よ)りどころ无(な)し』とまうす」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
一方、山田郡の衣女は当初の予定通りもはや魂を奪い去られて死んでしまったが、その身体ばかりはまだ残っている。閻魔はいう。
「其(そ)を得て汝が身とせよ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
そういうわけで、生きている魂は鵜垂郡の衣女であり、にもかかわらずその身体=姿形は山田郡の衣女である。だから鵜垂郡の衣女は山田郡の衣女の姿形へ置き換えられて新しく「鵜垂郡の衣女」として甦ることになった。
「鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女の身と為(な)りて甦(よみがへ)りたり」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
甦ったのは間違いなく「鵜垂郡の衣女」である。しかし姿形は山田郡の衣女。なので安易にも見た目に従って山田郡に連れ戻される。けれども、ここは「我が家に非ず」と主張して聞き入れない。
「此(こ)は我が家に非ず。我が家は鵜垂郡に有り」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
山田郡の衣女の父母は見た目はまったく「我が子」なのにどうしてそんなに否定するのかと当惑する。
「汝は我が子なり。何の故にか然(しか)言ふ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
他方、鵜垂郡の衣女の父母は、すでに火葬したはずの「我が子」が改めて出現したと言われても姿形は全然違っているし、なぜ山田郡の衣女がやって来て鵜垂郡こそ私のふるさとだと言うのか理解に苦しむ。
「汝は我が子に非ず。我が子は焼き滅(ほろぼ)せり」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
そこで鵜垂郡の衣女はいったん気持ちを落ち着け、両方の親の前で、このようになった経緯を詳しく説明する。事情を聞かされた両方の親たちはなるほどそういうことがあったのかと納得。従って鵜垂郡の衣女は「四(よたり)の父母を得、二つの家の宝を得たり」となる。
「時に彼(か)の二つの郡の父母聞きて、諾(うべ)なりと信じて、二つの家の財(たから)を以て許可(ゆる)し付嘱(さづ)けぬ。故(ゆゑ)に、現在の衣女は、四(よたり)の父母を得、二つの家の宝を得たり」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190~191」講談社学術文庫)
ところで「日本霊異記」は日本最古の宗教説話である。なので説話から現代性を見るためにはいったん宗教色を取り除いて考えてみる必要がある。するとやおら立ち現われるものはずばり「遺産相続」というテーマだ。第一に財産分与に関し、故人の意思がどうであったか。それは「地獄/極楽」という宗教神話が信じられていた遠い古代に閻魔王が用いた鏡の機能を引き継いだ言語が、二〇二〇年の今なお「遺言」という形態で君臨している理由として十分な説得力を持つ。第二に二人の女性が入れ換わる条件として、ただ単に「同名」なだけでは意味をなさず「同姓」でなければならないという点。女性自身の意思は介在せず無視されており、婚姻関係は家と家との接続関係として考えられていたことだ。とともにこの説話一つ取ってみても、古代から、言葉というものがどれほど重要な具体性を与えられていたかがあらわになる。そこでなぜ熊野がミソギの地として尊ばれてきたかも明らかになるだろう。というのはこうだ。
ミソギの地としての条件。静寂にしてなおかつ鬼気迫る「幽遠性」。例えば「平家物語」。
「其比(そのころ)熊野参詣(クマノサンケイ)の事有けり。本宮(ホングウ)証誠殿(セウジヤウデン)の御前にて、夜もすがら敬白(ケイヒヤク)せられけるは、『親父(シンブ)入道相国の体(テイ)を見るに、悪逆無道(アクギヤクムダウ)にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛(シゲモリ)長子(チヤウシ)として、頻(シキリ)に諫(イサメ)をいたすといへ共(ども)、身(み)不肖(フセウ)の間、かれもッて服膺(フクヨウ)せず。そのふるまひを見るに、一期(いちご)の栄花(エイグハ)猶(なほ)あやうし。枝葉連続(シヨウレンゾク)して、親(シン)を顕(アラハ)し名(ナ)を揚(ア)げん事かたし。此時に当(アタツ)て、重盛(シゲモリ)いやしうも思へり。なまじひに列(レツ)して、世(ヨ)に浮沈(フチン)せん事、敢(アヘ)て良臣(リヤウシン)・孝子(カウシ)の法(ハウ)にあらず。しかじ名を逃(ノガ)れ身を退(シリゾイ)て、今生(コンジヤウ)の名望(メイバウ)を抛(ナゲス)て、来世の菩提(ボダイ)を求(モト)めんには。但(タダシ)凡夫薄地(ボンプハクヂ)、是非(ゼヒ)にまどへるが故に、猶(なほ)心ざしを恣(ホシイママ)にせず。南無(なむ)権現金剛童子(ゴンゲンゴンガウドウジ)、願(ネガハ)くは子孫繁栄(シソンハンエイ)たえずして、仕(ツカヘ)て朝廷(テウテイ)にまじはるべくは、入道の悪心を和(ヤハラ)げて、天下の安全(アンセン)を得(エ)しめ給へ。栄躍(エイヨウ)又一期(ゴ)をかぎッて、後混恥(コウコンハヂ)に及(ヲヨブ)べくは、重盛(シゲモリ)が運命(ウンメイ)をつづめて、来世の苦輪(クリン)を助(タス)け給へ。両カ(リヤウカ)の求願(ググハン)、ひとへに冥助(メイジヨ)を仰(アヲ)ぐ』と、肝胆(カンタン)を摧(クダイ)て祈念(キネン)せられけるに、灯籠(トウロ)の火のやうなる物の、大臣(おとど)の御身より出(いで)て、ばッと消(キユ)るがごとくして失(ウセ)にけり。人あまた見奉りけれ共(ども)、恐(ヲソ)れて是を申さず」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.169~170」岩波書店)
「下向(ゲカウ)の時、岩田川(イハダガハ)を渡られけるに、嫡子(チヤクシ)権亮(ゴンノスケ)少将維盛(コレモリ)以下(いげ)の公達(キンダチ)、浄衣(ジヤウエ)のしたに薄色(ウスイロ)のきぬを着(キ)て、夏(ナツ)の事なれば、なにとなう河の水に戯(タハブレ)給ふ程に、浄衣(ジヤウエ)のぬれてきぬにうつッたるが、偏(ヒトヘ)に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(チクゴノカミサダヨシ)、これを見とがめて、『何と候やらん、あの御浄衣(ヲンジヤウエ)のよにいまはしきやうに見えさせおはしまし候。召しかへらるべうや候らん』と申ければ、大臣(おとど)、『わが所願(シヨグハン)既(スデ)に成就(ジヤウジユ)しにけり。其浄衣(ジヤウエ)敢(アヘ)て改むべからず』とて、別(ベツ)して岩田川より熊野へ悦(ヨロコビ)の奉幣(ホウヘイ)をぞ立(たて)られける。人あやしと思ひけれ共(ども)、其心をえず。しかるに此公達(キンダチ)程なくまことの色を着給けるこそふしぎなれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.170」岩波書店)
「やうやうさし給ふ程に、日数(ひかず)ふれば岩田(イハダ)河にもかかりたまひけり。『此(この)河の流れを一度もわたる者は、悪業(アクゴウ)・煩悩(ボンナウ)・無始(ムシ)の罪障(ザイシヤウ)消(き)ゆなる物を』とたのもしうぞおぼしける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・熊野参詣・P.235」岩波書店)
さらに「太平記」。
「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・P.251~252」岩波文庫)
そしてまた「伽婢子」に見られる熊野の異質性。
「それより紀伊国、和歌・吹上の浦を過(すぎ)て、由良の湊(みなと)よりふねををりて、恋しき都をなげめやり、高野山にまうでて、滝口時頼(たきぐちときより)入道にあふて、案内せさせ、院々谷々おがみめぐり、これよりくま野に参詣すべしとて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より和歌のうら、吹上の浜、古木の杜(もり)、蕪坂(かぶらざか)・千里(ちさと)の浜のあたりちかく、岩代(いはしろ)の王子(わうじ)をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、
岩田川ちかひのふねにさほさしてしづむわが身もうかびぬるかな」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之二・十津川(とづがは)の仙境(せんきやう)・P.39~40」岩波書店)
すでに「万葉集」にも。
「中皇子(なかつすめらみこと)、紀の温泉に往(ゆ)く時の御歌(みうた)
君が代も我(わ)が代も知るや岩代(いはしろ)の岡(おか)の草根(くさね)をいざ結びてな」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第一・一〇・中皇子・P.70」小学館)
「磐代(いはしろ)の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けず古(いにしへ)思ほふ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第二・一四四・長忌寸奥麻呂・P.141」小学館)
中世真っ盛りの「玉葉和歌集」を見ると。
「熊野御幸三十二度の時、御前にて思召し続けさせ給うける
忘るなよ雲はみやこを隔つともなれて久しき三熊野の月」(「玉葉和歌集・卷第二十・後白河院・P.437」岩波文庫)
「熊野新宮にてよみ侍りける
天くだる神や願をみつしほの湊に近き千木のかたそぎ」(「玉葉和歌集・卷第二十・中原師光朝臣・P.439」岩波文庫)
「君が代を神もさこそはみ熊野のなぎの青葉のときはかきはに」(「玉葉和歌集・卷第二十・権大僧都清壽・P.439」岩波文庫)
政治的陰謀によってほどなく暗殺されるだろうと気付いていた源実朝は、自分の身が殺される場に位置していることを明確に意識しつつ、熊野への深い思いを詠んだ。
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)にぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
「五月雨(さみだれ)を幣(ぬさ)に手向(たむけ)てみ熊野の山時鳥(やまほととぎす)鳴(な)きとよむなり」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三八・P.208」岩波文庫)
「み熊野(くまの)の那智(なち)のお山に引(ひく)標(しめ)のうちはへてのみ落(お)つる瀧かな」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三九・P.208」岩波文庫)
「冬ごもり那智(なち)の嵐の寒ければ苔(こけ)の衣(ころも)のうすくや有(ある)らん」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六四〇・P.208」岩波文庫)
「万葉集」や「記紀神話」が編纂された時期すでに熊野は昼なお暗い森と霧とを延々と湛えつつ、冥土を巡るミソギのための条件に満ち溢れていたに違いない。あるいは熊野は目に見える冥土として考えられていたとも言える。その意味でフロイトのいう「エス」として機能した熊野の姿を見ることができる。
「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)
そして再びそこから還ってくることの重要性。数々の神話を生み出す場として知れ渡っていたのだろう。そうであって始めて熊野比丘尼らが京の都へ進出し全国各地へ足を運び、あちこちの場で堂々たる活躍ぶりを披露することも可能になった。地方へ行くとそこは必ずしも以前から歴史的に有名だとは限らない。むしろ無名な場合が多々あった。ところが彼らがそこへ登場し、或る意味とてつもなくアナーキーな活躍を見せたことで始めて、その場は歴史に残ることになったのである。京の都といっても彼らの活躍場所のほとんどは小さな路地や寺社の脇道ばかりだった。しかしほんの小さな路地の隅であっても、さらにそれから五〇〇年以上が経った今なお現存する町名とともに彼らの名は何ら恥じる必要などなく日本史に刻まれている。
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「讃岐の国の女、冥途に行きしが、その魂還りてほかの身に付きける語(こと)」(南方熊楠「睡人および死人の魂入れ替わりし譚」『南方民俗学・P.282』河出文庫)
と熊楠は「今昔物語」掲載のタイトルを挙げた上で、実はこの話の出どころはそもそも「日本霊異記」だと述べる。暴露というわけではない。今でいう「炎上商法」ではさらにない。むしろ近現代と比較して様々な引用やアレンジやパッチワークが遥かに自由になされ許された時代の貴重な風俗考証として引用されている。
讃岐国山田郡(さぬきのくにやまだのこほり)の衣女(きぬめ)は突然病に倒れる。おそらく死ぬだろう。そう思い、地獄からの使者である鬼を迎えるため山海の珍味をわんさと整えてしおらしく待っていた。予定通り鬼がやって来た。ところがこの鬼は今でいう中間管理職に等しい。上司に当たる地獄の王・閻魔に、一言、「行って来い」と言われて精一杯走り廻りようやく讃岐国山田郡の衣女を探し当てたばかりである。はなはだ疲れている。そこへ願ってもない歓待のための山海珍味をたんまり持った贅沢な料理にありつけたため、鬼は心変わりして考えた。讃岐国山田郡の衣女を救ってやり、同姓同名の女性を身代わりに地獄へ持って帰ろうと。
「衣女忽(にはか)に病を得たりき。時に偉(たたは)しく百味を備(まう)けて、門の左右に祭り、疫神(やくじん)に賂(まひな)ひて饗(あへ)しぬ。閻羅王の使(つかひ)の鬼、来(きた)りて衣女(きぬめ)を召す。其(そ)の鬼、走り疲(つか)れにて、祭の食を見て、おもねりて就(つ)きて受(う)く。鬼、衣女(きぬめ)に語りて言はく、『我、汝(なむぢ)の饗(あへ)を受くるが故に、汝の恩を報いぬ。若(も)し、同じ姓同じ名の人有りや』といふ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.189」講談社学術文庫)
讃岐国山田郡の衣女がすみやかに山海の珍味を贅沢に用意することができた理由は四国という土地柄が条件として大きく物をいっている。その点をを見逃すわけにはいかない。柳田國男は言っている。
「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」「柳田国男全集4・P.429」ちくま文庫)
熊楠と柳田との間で交わされた「山神・オコゼ」論争は最後まで決着を見ることができなかった。それはそれで構わない。二人の立場は異なる。熊楠は一民間研究者、柳田は中央官僚。さらに研究態度はまるで正反対というに等しい。だからむしろこの種の論争が口を揃えて一致を見たとすればそれこそおかしな話になる。ここで大事なのは日本列島について柳田が「山島に拠りて居をなせる」地理的条件に縛り付けられているという指摘である。この条件は四国のみならず紀州にも十分に当てはまる類似条件だった。逆に言えば、讃岐国山田郡の衣女はすみやかに山海の珍味を贅沢に用意することはできたが、山海の珍味「以外」の食材を用意するとすれば「贅沢」では決してなく極めて「貧弱」な「饗(あへ)」しか差し出せなかった可能性が大いにあった。ともかく鬼は心変わりする。そして「身代わり」の女性を地獄の上司・閻魔王の前に差し出して讃岐国山田郡の衣女を生かしてやろうと考えた。そこで「身代わり」としての条件が提示される。同姓同名であること。鬼は山田郡の衣女から「同じ国の鵜垂郡(うたりのこほり)に、同じ姓の衣女(きぬめ)有り」との情報提供を受ける。ちなみに山田郡は後の香川県木田郡。鵜垂郡は後の香川県綾歌郡。もっとも、平成の大合併の結果、もはや当時の面影を見ようとしてもさっぱりわけがわからなくなったため、木田郡と綾歌郡とが香川県内でさらに再編された時期以後は省略するほかない。
さて鬼は次に山田郡(やまだのこほり)の衣女に紹介された鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女の家に赴き、「緋(あけ)の嚢(ふくろ)より一尺の鑿(のみ)を出(いだ)して、額(ぬか)に打ち立て、即(すなは)ち召し将(ゐ)て去りぬ」。三十センチほどの「鑿(のみ)」で鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女(きぬめ)の額を打ち抜いて殺し、魂を奪い去って地獄へ送り届けた。
「衣女、答へて言はく、『同じ国の鵜垂郡(うたりのこほり)に、同じ姓の衣女(きぬめ)有り』といふ。鬼、衣女を率(ゐ)て、鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女の家に往きて対面し、即(すなは)ち緋(あけ)の嚢(ふくろ)より一尺の鑿(のみ)を出(いだ)して、額(ぬか)に打ち立て、即(すなは)ち召し将(ゐ)て去りぬ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.189~190」講談社学術文庫)
しかし鬼の上司・閻魔王の鏡を騙すことはできない。閻魔が地獄へ召喚したのは山田郡の衣女である。ついてはもう一度地上へ行って命令を果たせと鬼にいう。
「此(こ)は召せる衣女に非(あら)ず。誤(あやま)ちて召せるなり。然(しか)れば暫(しまら)く此(ここ)に留(とどま)れ。すみやかに往きて山田郡(やまだのこほり)の衣女を召せ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
仕方なく鬼は山田郡の衣女の命を奪い取り地獄へ連れてきた。閻魔は「間違いない」という。
「閻羅王待ち見て言はく、『当(まさ)に是(こ)れ召せる衣女ならむ』といふ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
しかしなぜ閻魔は鏡に映し出して検証するのか。人間は自ら自分は人間であると主張することはできるが、それを証拠立てることはできない。そこで地獄の閻魔といえども一度は鏡に映し出して検証してみるのである。ラカン「鏡像段階論」から。
「鏡像段階というのは、精神分析がこの用語にあたえる全き意味で《同一化のひとつとして》理解するだけで十分です。すなわち、主体が或る像〔を自分のものとして〕引き受ける時みずからに生ずる変形ということで、ーーーそれがこの時相の作用として予定されていることは、精神分析における《イマーゴ》という古い用語の慣用によって十分に示されています。
この、自由に動くこともできなければ、栄養も人に頼っているような、まだ《口のきけない》状態にある小さな子供が、自分の鏡像をこおどりしながらそれとして引き受けるということは、《わたし》というものが原初的な形態へと急転換していくあの象徴的母体を範例的な状況のなかで明らかにするようにみえるのですが、その後になって初めて《わたし》は他者との同一化の弁証法のなかで自分を客観化したり、言語活動が《わたし》にその主体的機能を普遍性のなかでとりもどさせたりします。
重要な点は、この形態が《自我》という審級を、社会的に決定される以前から、単なる個人にとってはいつまでも還元できないような虚像の系列のなかへ位置づけるということであり、ーーーあるいはむしろそれは、主体が《わたし》として自分自身の現実との不調和を解消しなければならないための弁証法的総合がうまく成功していようとも、主体の生成に漸近的にしか合致しないのです。
このように、主体が幻影のなかでその能力を先取りするのは身体の全体的形態によってなのですが、この形態は《ゲシュタルト》としてのみ、すなわち、外在性においてのみ主体に与えられるものであって、そこではたしかにこの形態は構成されるものというより構成するものではありながら、とりわけこの形態は、主体が自分でそれを生気づけていると体験するところの騒々しい動きとは反対に、それを凝固させるような等身の浮彫りとしてまたそれを逆転させる対称性のもとであらわれるのです。したがって、この《ゲシュタルト》について言えば、そのプレグナンツは、たとえその運動様式が無視できるにしても、種に関連していると考えなければならないわけで、ーーーその出現のこれら二つの局面によってこのゲシュタルトは、《わたし》の精神的恒常性を象徴すると同時にそれがのちに自己疎外する運命をも予示するものです。さらにその《ゲシュタルト》はさまざまの対応をはらんでいますが、これによって、《わたし》は、いわば人間が彼を支配する幻影にみずからを投影する立像と一体化するわけであり、結局は、曖昧な関係のなかで世界がみずからを完成させようとする自動人形と一体化するわけなのです。
じじつ、《イマーゴ》についていえば、そのヴェールに覆われた顔がわれわれの日常経験や象徴的有効性の半影のなかで輪郭をあらわすのを見てとるというのはわれわれの特権ですし、ーーー個人的特徴であれさらには弱点とか対象的投影であれ、要するに《自己身体のイマーゴ》が幻覚や夢のなかで呈する鏡像的配置をわれわれが信用している以上、あるいは、鏡という装置の役割を心的現実、しかも異質なそれの現われる《分身》の出現に認めている以上、鏡像は可視的世界への戸口であるようにみえます。
鏡像段階の明らかにする空間的な騙取のなかに、人間の自然的現実が有機体として不十分であることの結果を認めさせますーーー。けれども自然とのこうした関係は人間では生体内部の或る種の裂開によって、つまり生まれてから数ヶ月の違和感の徴候と共働運動の不能があわらにする<原初的不調和>によって変化させられます。
《鏡像段階》はその内的進行が不十分さから先取りへと急転するドラマなのですがーーーこのドラマは空間的同一化の罠にとらえられた主体にとってはさまざまの幻像を道具立てに使い、これら幻像はばらばらに寸断された身体像から整形外科的とでも呼びたいその全体性の形態へとつぎつぎに現われ、ーーーそしてついに自己疎外する同一性という鎧をつけるにいたり、これは精神発達の全体に硬直した構造を押しつけることになります」(ラカン「<わたし>の機能を形成するものとしての鏡像段階」『エクリ1・P.126~129』弘文堂)
主導権は人間にはなく逆に鏡に映し出された鏡像の側にある。また鏡像は最初こそ姿形なのだが、命名と同時にその人の名、言葉=言語の側が主導権を握る。だから人間はどんな人間であっても言葉の側から始めて自分の意味内容を受け取るという転倒から始まる。従ってもし同姓同名というケースが発生した場合、両者はいつでも置き換え可能性の中へ叩き込まれる。鬼が利用しようとしたのはこの「同性同名」という置き換え可能性だ。ところが鏡はただ単に人の名前だけを映し出すわけではない。姿形とその意味〔価値〕内容をも同時に映し出す。そこで、なるほど名前は同じでもその意味〔価値〕内容は別人ではないか、と閻魔は偽装工作を見破ることができたわけである。しかし三十センチほどの「鑿(のみ)」で額を打ち抜かれ殺されていた鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女(きぬめ)の死体は、三日ほど地上を留守にしていた際、既に親族のもとで火葬され荼毘に伏された後だった。となると鵜垂郡の衣女は帰るところがない。鵜垂郡の衣女は何とかしてほしいと閻魔に申し出る。
「鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女は、家に帰るに、三日の頃(あひだ)経て、鵜垂郡の衣女の身を焼き失へり。更に還(かへ)りて閻羅王に愁(うれ)へて白(まう)さく、『体(からだ)を失(うしな)ひつ。依(よ)りどころ无(な)し』とまうす」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
一方、山田郡の衣女は当初の予定通りもはや魂を奪い去られて死んでしまったが、その身体ばかりはまだ残っている。閻魔はいう。
「其(そ)を得て汝が身とせよ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
そういうわけで、生きている魂は鵜垂郡の衣女であり、にもかかわらずその身体=姿形は山田郡の衣女である。だから鵜垂郡の衣女は山田郡の衣女の姿形へ置き換えられて新しく「鵜垂郡の衣女」として甦ることになった。
「鵜垂郡(うたりのこほり)の衣女の身と為(な)りて甦(よみがへ)りたり」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
甦ったのは間違いなく「鵜垂郡の衣女」である。しかし姿形は山田郡の衣女。なので安易にも見た目に従って山田郡に連れ戻される。けれども、ここは「我が家に非ず」と主張して聞き入れない。
「此(こ)は我が家に非ず。我が家は鵜垂郡に有り」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
山田郡の衣女の父母は見た目はまったく「我が子」なのにどうしてそんなに否定するのかと当惑する。
「汝は我が子なり。何の故にか然(しか)言ふ」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
他方、鵜垂郡の衣女の父母は、すでに火葬したはずの「我が子」が改めて出現したと言われても姿形は全然違っているし、なぜ山田郡の衣女がやって来て鵜垂郡こそ私のふるさとだと言うのか理解に苦しむ。
「汝は我が子に非ず。我が子は焼き滅(ほろぼ)せり」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190」講談社学術文庫)
そこで鵜垂郡の衣女はいったん気持ちを落ち着け、両方の親の前で、このようになった経緯を詳しく説明する。事情を聞かされた両方の親たちはなるほどそういうことがあったのかと納得。従って鵜垂郡の衣女は「四(よたり)の父母を得、二つの家の宝を得たり」となる。
「時に彼(か)の二つの郡の父母聞きて、諾(うべ)なりと信じて、二つの家の財(たから)を以て許可(ゆる)し付嘱(さづ)けぬ。故(ゆゑ)に、現在の衣女は、四(よたり)の父母を得、二つの家の宝を得たり」(「日本霊異記・中・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.190~191」講談社学術文庫)
ところで「日本霊異記」は日本最古の宗教説話である。なので説話から現代性を見るためにはいったん宗教色を取り除いて考えてみる必要がある。するとやおら立ち現われるものはずばり「遺産相続」というテーマだ。第一に財産分与に関し、故人の意思がどうであったか。それは「地獄/極楽」という宗教神話が信じられていた遠い古代に閻魔王が用いた鏡の機能を引き継いだ言語が、二〇二〇年の今なお「遺言」という形態で君臨している理由として十分な説得力を持つ。第二に二人の女性が入れ換わる条件として、ただ単に「同名」なだけでは意味をなさず「同姓」でなければならないという点。女性自身の意思は介在せず無視されており、婚姻関係は家と家との接続関係として考えられていたことだ。とともにこの説話一つ取ってみても、古代から、言葉というものがどれほど重要な具体性を与えられていたかがあらわになる。そこでなぜ熊野がミソギの地として尊ばれてきたかも明らかになるだろう。というのはこうだ。
ミソギの地としての条件。静寂にしてなおかつ鬼気迫る「幽遠性」。例えば「平家物語」。
「其比(そのころ)熊野参詣(クマノサンケイ)の事有けり。本宮(ホングウ)証誠殿(セウジヤウデン)の御前にて、夜もすがら敬白(ケイヒヤク)せられけるは、『親父(シンブ)入道相国の体(テイ)を見るに、悪逆無道(アクギヤクムダウ)にして、ややもすれば君を悩まし奉る。重盛(シゲモリ)長子(チヤウシ)として、頻(シキリ)に諫(イサメ)をいたすといへ共(ども)、身(み)不肖(フセウ)の間、かれもッて服膺(フクヨウ)せず。そのふるまひを見るに、一期(いちご)の栄花(エイグハ)猶(なほ)あやうし。枝葉連続(シヨウレンゾク)して、親(シン)を顕(アラハ)し名(ナ)を揚(ア)げん事かたし。此時に当(アタツ)て、重盛(シゲモリ)いやしうも思へり。なまじひに列(レツ)して、世(ヨ)に浮沈(フチン)せん事、敢(アヘ)て良臣(リヤウシン)・孝子(カウシ)の法(ハウ)にあらず。しかじ名を逃(ノガ)れ身を退(シリゾイ)て、今生(コンジヤウ)の名望(メイバウ)を抛(ナゲス)て、来世の菩提(ボダイ)を求(モト)めんには。但(タダシ)凡夫薄地(ボンプハクヂ)、是非(ゼヒ)にまどへるが故に、猶(なほ)心ざしを恣(ホシイママ)にせず。南無(なむ)権現金剛童子(ゴンゲンゴンガウドウジ)、願(ネガハ)くは子孫繁栄(シソンハンエイ)たえずして、仕(ツカヘ)て朝廷(テウテイ)にまじはるべくは、入道の悪心を和(ヤハラ)げて、天下の安全(アンセン)を得(エ)しめ給へ。栄躍(エイヨウ)又一期(ゴ)をかぎッて、後混恥(コウコンハヂ)に及(ヲヨブ)べくは、重盛(シゲモリ)が運命(ウンメイ)をつづめて、来世の苦輪(クリン)を助(タス)け給へ。両カ(リヤウカ)の求願(ググハン)、ひとへに冥助(メイジヨ)を仰(アヲ)ぐ』と、肝胆(カンタン)を摧(クダイ)て祈念(キネン)せられけるに、灯籠(トウロ)の火のやうなる物の、大臣(おとど)の御身より出(いで)て、ばッと消(キユ)るがごとくして失(ウセ)にけり。人あまた見奉りけれ共(ども)、恐(ヲソ)れて是を申さず」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.169~170」岩波書店)
「下向(ゲカウ)の時、岩田川(イハダガハ)を渡られけるに、嫡子(チヤクシ)権亮(ゴンノスケ)少将維盛(コレモリ)以下(いげ)の公達(キンダチ)、浄衣(ジヤウエ)のしたに薄色(ウスイロ)のきぬを着(キ)て、夏(ナツ)の事なれば、なにとなう河の水に戯(タハブレ)給ふ程に、浄衣(ジヤウエ)のぬれてきぬにうつッたるが、偏(ヒトヘ)に色のごとくに見えければ、筑後守貞能(チクゴノカミサダヨシ)、これを見とがめて、『何と候やらん、あの御浄衣(ヲンジヤウエ)のよにいまはしきやうに見えさせおはしまし候。召しかへらるべうや候らん』と申ければ、大臣(おとど)、『わが所願(シヨグハン)既(スデ)に成就(ジヤウジユ)しにけり。其浄衣(ジヤウエ)敢(アヘ)て改むべからず』とて、別(ベツ)して岩田川より熊野へ悦(ヨロコビ)の奉幣(ホウヘイ)をぞ立(たて)られける。人あやしと思ひけれ共(ども)、其心をえず。しかるに此公達(キンダチ)程なくまことの色を着給けるこそふしぎなれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第三・医師問答・P.170」岩波書店)
「やうやうさし給ふ程に、日数(ひかず)ふれば岩田(イハダ)河にもかかりたまひけり。『此(この)河の流れを一度もわたる者は、悪業(アクゴウ)・煩悩(ボンナウ)・無始(ムシ)の罪障(ザイシヤウ)消(き)ゆなる物を』とたのもしうぞおぼしける」(新日本古典文学大系「平家物語・下・巻第十・熊野参詣・P.235」岩波書店)
さらに「太平記」。
「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・P.251~252」岩波文庫)
そしてまた「伽婢子」に見られる熊野の異質性。
「それより紀伊国、和歌・吹上の浦を過(すぎ)て、由良の湊(みなと)よりふねををりて、恋しき都をなげめやり、高野山にまうでて、滝口時頼(たきぐちときより)入道にあふて、案内せさせ、院々谷々おがみめぐり、これよりくま野に参詣すべしとて、三藤(とう)のわたり、藤代(ふぢしろ)より和歌のうら、吹上の浜、古木の杜(もり)、蕪坂(かぶらざか)・千里(ちさと)の浜のあたりちかく、岩代(いはしろ)の王子(わうじ)をうちこえ、岩田川にて垢離(こり)をとりて、
岩田川ちかひのふねにさほさしてしづむわが身もうかびぬるかな」(新日本古典文学体系「伽婢子・巻之二・十津川(とづがは)の仙境(せんきやう)・P.39~40」岩波書店)
すでに「万葉集」にも。
「中皇子(なかつすめらみこと)、紀の温泉に往(ゆ)く時の御歌(みうた)
君が代も我(わ)が代も知るや岩代(いはしろ)の岡(おか)の草根(くさね)をいざ結びてな」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第一・一〇・中皇子・P.70」小学館)
「磐代(いはしろ)の野中(のなか)に立てる結び松心も解(と)けず古(いにしへ)思ほふ」(日本古典文学全集「万葉集1・巻第二・一四四・長忌寸奥麻呂・P.141」小学館)
中世真っ盛りの「玉葉和歌集」を見ると。
「熊野御幸三十二度の時、御前にて思召し続けさせ給うける
忘るなよ雲はみやこを隔つともなれて久しき三熊野の月」(「玉葉和歌集・卷第二十・後白河院・P.437」岩波文庫)
「熊野新宮にてよみ侍りける
天くだる神や願をみつしほの湊に近き千木のかたそぎ」(「玉葉和歌集・卷第二十・中原師光朝臣・P.439」岩波文庫)
「君が代を神もさこそはみ熊野のなぎの青葉のときはかきはに」(「玉葉和歌集・卷第二十・権大僧都清壽・P.439」岩波文庫)
政治的陰謀によってほどなく暗殺されるだろうと気付いていた源実朝は、自分の身が殺される場に位置していることを明確に意識しつつ、熊野への深い思いを詠んだ。
「み熊野(くまの)の梛(なぎ)の葉しだり雪降(ふれ)ば神のかけたる四手(しで)にぞ有(ある)らし」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三七・P.207」岩波文庫)
「五月雨(さみだれ)を幣(ぬさ)に手向(たむけ)てみ熊野の山時鳥(やまほととぎす)鳴(な)きとよむなり」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三八・P.208」岩波文庫)
「み熊野(くまの)の那智(なち)のお山に引(ひく)標(しめ)のうちはへてのみ落(お)つる瀧かな」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六三九・P.208」岩波文庫)
「冬ごもり那智(なち)の嵐の寒ければ苔(こけ)の衣(ころも)のうすくや有(ある)らん」(源実朝「金塊和歌集・巻之下・六四〇・P.208」岩波文庫)
「万葉集」や「記紀神話」が編纂された時期すでに熊野は昼なお暗い森と霧とを延々と湛えつつ、冥土を巡るミソギのための条件に満ち溢れていたに違いない。あるいは熊野は目に見える冥土として考えられていたとも言える。その意味でフロイトのいう「エス」として機能した熊野の姿を見ることができる。
「比喩をもってエスのことを言い現わそうとするなら、エスは混沌(こんとん)、沸き立つ興奮に充ちた釜(かま)なのです。われわれの想像では、エスの身体的なものへ向かっている末端は開いていて、そこから欲動欲求を自分の中へ取り込み、取り込まれた欲動欲求はエスの中で自己の心理的表現を見出すのですが、しかしどんな基体の中でそれが行われるのかはわれわれにはわからないのです。エスはもろもろの欲動から来るエネルギーで充満してはいます。しかしエスはいかなる組織をも持たず、いかなる全体的意志をも示さず、快感原則の厳守のもとにただ欲動欲求を満足させようという動きしか持っていないのです。エスにおける諸過程には、論理的思考法則は通用しません。とりわけ矛盾律は通用しません。そこには反対の動きが並び存していて、互いに差し引きゼロになったり、互いに譲り合ったりすることなく、せいぜいそれらは支配的な経済的強制のもとでエネルギーを放出させようとして妥協しているだけです。ーーーエスの中には時間観念に相当するものは何も見出されません。すなわち時の経過というものは承認されません。そして、これはきわめて注目すべき、将来哲学によって処理されるべき問題だと思われますが、そこには時間の経過による心的過程の変化ということがないのです。エスの境界線を決してふみ越えることのなかった願望興奮や、同時にまた抑圧によってエスの中へ沈められてしまった諸印象は、潜在的には不死であって、数十年経った後でもまるで新たに生じたかのような状態にあるのです」(フロイト「精神分析入門・下・P.290~291」新潮文庫)
そして再びそこから還ってくることの重要性。数々の神話を生み出す場として知れ渡っていたのだろう。そうであって始めて熊野比丘尼らが京の都へ進出し全国各地へ足を運び、あちこちの場で堂々たる活躍ぶりを披露することも可能になった。地方へ行くとそこは必ずしも以前から歴史的に有名だとは限らない。むしろ無名な場合が多々あった。ところが彼らがそこへ登場し、或る意味とてつもなくアナーキーな活躍を見せたことで始めて、その場は歴史に残ることになったのである。京の都といっても彼らの活躍場所のほとんどは小さな路地や寺社の脇道ばかりだった。しかしほんの小さな路地の隅であっても、さらにそれから五〇〇年以上が経った今なお現存する町名とともに彼らの名は何ら恥じる必要などなく日本史に刻まれている。
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