熊楠は大正時代に入ってなお残されている二つの説話を紹介している。どちらも熊野を舞台にしたもの。
「十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語らず。昔熊野詣での比丘尼(びくに)一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早(もはや)暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨(うら)んで永劫(えいごう)ここの男が妻に先立って若死するように詛(のろ)うて絶命した。そこを比丘尼剥(はぎ)という。その後果して竜神の家毎(つね)に夫は早世し、後家世帯が通例となる。その尼のために小祠を立て、斎(いわ)い込んだが毎度火災ありて祟(たた)りやまずと。尼がかく詛うたは、宿主の悪謀を、その妻が諌(いさ)めたというような事があった故であろう」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.170~171」岩波文庫)
「竜神の伝説を『現代』へ投じた後数日、『大阪毎日』紙を見ると、その大正九年十二月二十三日分に、竜神の豪家竜神家の嗣子が病名さえ分らぬ煩いで困りおる内、その夫人に催眠術を掛けると俄(にわか)に『私は甲州の者で、百二十年前夫に死に別れ、悲しさの余り比丘尼になり、世の中に亡父に似た人はないかと巡礼中、この家に来り泊り、探る内、私の持った大判小判に目がくれ、竜神より上山路村を東へ越す捷径(ちかみち)、センブ越えを越す途上、私は途中で殺され、面皮を剥いで谷へ投げられ、金は全部取られた。その怨みでこの家へ祟るのである』と血相を変えて述べおわって覚めたと出た。それに対して竜神家より正誤申込みが一月十九日分に出た、いわく、百五十年ほど前に、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾(あと)あり云々。これを誤報附会したのではないかとこの竜神氏、当主は余の旧知で、伊達千弘(陸奥宗光伯の父)の『竜神出湯日記』に、竜神一族は源三位頼政(みなもとのさんみよりまさ)の五男、和泉守頼氏(いずいのかみよりうじ)この山中に落ち来てこの奥なる殿垣内(とのがいと)に隠れ住めり、殿といえるもその故なり。末孫、今に竜神を氏とし、名に政の字を付くと語るに、その古えさえ忍ばれて『桜花木の根ざしを尋ねずば、ただ深山木(みやまぎ)とみてや過ぎなむ』とあるほどの旧(ふる)い豪家故、比丘尼を殺し金を奪うはずなく全くの誤報らしいが、また一方にはその土地の一、二人がした悪事が年所を経ても摩滅せず、その土地一汎(いっぱん)の悪名となり、気の弱い者の脳底に潜在し、時に発作して、他人がした事を自家の先祖がしたごとく附会して、狂語を放つ例も変態心理学の書にしばしば見受ける」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.171~172」岩波文庫)
後者の最後に「変態心理学」とある。当時は江戸川乱歩や夢野久作ら本格探偵小説作家の間で盛んに探究された。もともとはフロイト精神分析が日本に輸入されてから濫用されるに至った言葉。今やもはや「変態」でもなんでもなく精神医学の世界では精神・神経科領域の様々な症状として認知され常識としても定着するに至っている。その最先端医療の現場はヨーロッパだった。ところが急速かつ劇的な経済成長を遂げたが故に、一九七〇年代ベトナム戦争敗北以来、精神医学の最先端医療現場はアメリカへと移った。
さらに近代国家の登場とともに「変態心理学」という呼び名が流通するようになる前は、古代ギリシア=ローマはもちろん日本でも記紀神話の時代から江戸時代一杯を通して「変態」は「変態」ではなくむしろ「常態」だったことは明白だった。西鶴「男色大鑑」が世界中で高く評価されたように、世界中どこでも性愛の多様性は変幻自在な形態変化を持つという認識の側こそ常識だったからである。乱歩があえて「変態心理学」に傾倒したのはレジスタンスの立場からだ。
「私はあの小説を左翼イディオロギーで書いたわけではない。私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば『なぜ神は人間を作ったか』というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ」(『芋虫』のこと<『探偵小説四十年』より> )
それはそれとして熊楠が上げた二つの説話の要約から重要な箇所を引いてみよう。まず前者から。
「昔熊野詣での比丘尼(びくに)一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早(もはや)暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨(うら)んで永劫(えいごう)ここの男が妻に先立って若死するように詛(のろ)うて絶命した。そこを比丘尼剥(はぎ)という」
次に後者から。
「百五十年ほど前に、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾(あと)あり云々」
両者ともに大変共通しているのは一目瞭然。と同時にこの種の話は江戸時代にはごく当たり前にあった。山間部の多い日本列島の地方へ行けば、実際の殺人事件としてどこにでもごろごろ転がっていた。西鶴はその絶大な知識と創作能力を大いに発揮できる場として小説の舞台に熊野を選び「本朝二十不孝」の中の一作として仕上げ収録した。作品では熊野生まれ熊野育ちの童女に与えられた特権的「野生」が見事に語られている。以前取り上げたので参照してほしい。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/死化粧1
熊楠による熊野案内/死化粧2
熊楠による熊野案内/死化粧3
作品の中で熊野の童女はその「野生」ゆえに処刑される。けれどもそうしなければ貧乏な寒村では生きていけないため仕方なくやった行為であり情状酌量してほしいなどという、戦後の暴力主義的人権圧力団体のようなしみったれた主張は一切合切まるで口にしない。人権とは何か。今なお再考に値する読解価値に満ちた作品だと確実にいえる。不都合な既得権益の実態打破・不可解な未解決事件へと隠蔽されつつある拉致問題解明の一助のためにも。
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「十一年前、余、紀州日高郡上山路村で聞いたは、近村竜神村大字竜神は、古来温泉で著名だが、上に述べた阿波の濁りが淵同様の伝説あり。所の者は秘して語らず。昔熊野詣での比丘尼(びくに)一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早(もはや)暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨(うら)んで永劫(えいごう)ここの男が妻に先立って若死するように詛(のろ)うて絶命した。そこを比丘尼剥(はぎ)という。その後果して竜神の家毎(つね)に夫は早世し、後家世帯が通例となる。その尼のために小祠を立て、斎(いわ)い込んだが毎度火災ありて祟(たた)りやまずと。尼がかく詛うたは、宿主の悪謀を、その妻が諌(いさ)めたというような事があった故であろう」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.170~171」岩波文庫)
「竜神の伝説を『現代』へ投じた後数日、『大阪毎日』紙を見ると、その大正九年十二月二十三日分に、竜神の豪家竜神家の嗣子が病名さえ分らぬ煩いで困りおる内、その夫人に催眠術を掛けると俄(にわか)に『私は甲州の者で、百二十年前夫に死に別れ、悲しさの余り比丘尼になり、世の中に亡父に似た人はないかと巡礼中、この家に来り泊り、探る内、私の持った大判小判に目がくれ、竜神より上山路村を東へ越す捷径(ちかみち)、センブ越えを越す途上、私は途中で殺され、面皮を剥いで谷へ投げられ、金は全部取られた。その怨みでこの家へ祟るのである』と血相を変えて述べおわって覚めたと出た。それに対して竜神家より正誤申込みが一月十九日分に出た、いわく、百五十年ほど前に、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾(あと)あり云々。これを誤報附会したのではないかとこの竜神氏、当主は余の旧知で、伊達千弘(陸奥宗光伯の父)の『竜神出湯日記』に、竜神一族は源三位頼政(みなもとのさんみよりまさ)の五男、和泉守頼氏(いずいのかみよりうじ)この山中に落ち来てこの奥なる殿垣内(とのがいと)に隠れ住めり、殿といえるもその故なり。末孫、今に竜神を氏とし、名に政の字を付くと語るに、その古えさえ忍ばれて『桜花木の根ざしを尋ねずば、ただ深山木(みやまぎ)とみてや過ぎなむ』とあるほどの旧(ふる)い豪家故、比丘尼を殺し金を奪うはずなく全くの誤報らしいが、また一方にはその土地の一、二人がした悪事が年所を経ても摩滅せず、その土地一汎(いっぱん)の悪名となり、気の弱い者の脳底に潜在し、時に発作して、他人がした事を自家の先祖がしたごとく附会して、狂語を放つ例も変態心理学の書にしばしば見受ける」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.171~172」岩波文庫)
後者の最後に「変態心理学」とある。当時は江戸川乱歩や夢野久作ら本格探偵小説作家の間で盛んに探究された。もともとはフロイト精神分析が日本に輸入されてから濫用されるに至った言葉。今やもはや「変態」でもなんでもなく精神医学の世界では精神・神経科領域の様々な症状として認知され常識としても定着するに至っている。その最先端医療の現場はヨーロッパだった。ところが急速かつ劇的な経済成長を遂げたが故に、一九七〇年代ベトナム戦争敗北以来、精神医学の最先端医療現場はアメリカへと移った。
さらに近代国家の登場とともに「変態心理学」という呼び名が流通するようになる前は、古代ギリシア=ローマはもちろん日本でも記紀神話の時代から江戸時代一杯を通して「変態」は「変態」ではなくむしろ「常態」だったことは明白だった。西鶴「男色大鑑」が世界中で高く評価されたように、世界中どこでも性愛の多様性は変幻自在な形態変化を持つという認識の側こそ常識だったからである。乱歩があえて「変態心理学」に傾倒したのはレジスタンスの立場からだ。
「私はあの小説を左翼イディオロギーで書いたわけではない。私はむろん戦争は嫌いだが、そんなことよりも、もっと強いレジスタンスが私の心中にはウヨウヨしている。例えば『なぜ神は人間を作ったか』というレジスタンスの方が、戦争や平和や左翼よりも、百倍も根本的で、百倍も強烈だ」(『芋虫』のこと<『探偵小説四十年』より> )
それはそれとして熊楠が上げた二つの説話の要約から重要な箇所を引いてみよう。まず前者から。
「昔熊野詣での比丘尼(びくに)一人ここへ来て宿る。金多く持てるを主人が見て悪党を催し、鶏が止まる竹に湯を通し、夜中に鳴かせて、最早(もはや)暁近いと欺き、尼を出立させ、途中に待ち伏せて殺し、その金を奪うた。その時、尼怨(うら)んで永劫(えいごう)ここの男が妻に先立って若死するように詛(のろ)うて絶命した。そこを比丘尼剥(はぎ)という」
次に後者から。
「百五十年ほど前に、一尼僧この地に来り、松葉屋に泊り出立せしを、松葉屋と中屋の二主人が途中で殺し、その金を奪うた報いで両家断絶し、今にその趾(あと)あり云々」
両者ともに大変共通しているのは一目瞭然。と同時にこの種の話は江戸時代にはごく当たり前にあった。山間部の多い日本列島の地方へ行けば、実際の殺人事件としてどこにでもごろごろ転がっていた。西鶴はその絶大な知識と創作能力を大いに発揮できる場として小説の舞台に熊野を選び「本朝二十不孝」の中の一作として仕上げ収録した。作品では熊野生まれ熊野育ちの童女に与えられた特権的「野生」が見事に語られている。以前取り上げたので参照してほしい。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/死化粧1
熊楠による熊野案内/死化粧2
熊楠による熊野案内/死化粧3
作品の中で熊野の童女はその「野生」ゆえに処刑される。けれどもそうしなければ貧乏な寒村では生きていけないため仕方なくやった行為であり情状酌量してほしいなどという、戦後の暴力主義的人権圧力団体のようなしみったれた主張は一切合切まるで口にしない。人権とは何か。今なお再考に値する読解価値に満ちた作品だと確実にいえる。不都合な既得権益の実態打破・不可解な未解決事件へと隠蔽されつつある拉致問題解明の一助のためにも。
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