人柱に関し「平家物語」から引いた。しかしその原文は余りにも淡々としていて、なぜあえて「人柱なのか」が問題とされる場面なのかよくわからない。従って「経の島」伝説について視野をもう少し広く取って述べてみよう。それがいかに残酷だったかについて、逆に熊楠はむしろ日本でもほんのつい最近まで残っていた風習であり、何をいまさら驚いて見せているだけでなく、しらばっくれているのかと告発している。
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
ここで参照したいのは幸若舞「築島」である。今の兵庫県神戸市兵庫区の港湾部分。かつて「和田(わだ)の岬」と呼ばれた。福原遷都に伴って和田の岬をより一層強固な埋立地に仕立て、瀬戸内海運の要衝としてその地位をさらに打ち固める方針が出された。だが工事は上手く行かない。そこで詮議の上、ついては人柱三十人を生贄とする方針が決定された。一度に三十人を拘束すれば目立つ。だから京の都へ往還する人間を少しずつ拉致して「生田(いくた)、昆陽野(こやの)の辺(あた)り」(今の神戸市中央区生田付近・伊丹市昆陽付近)の獄に隠し、生贄の声が外部へ漏れないよう警戒することとした。
「『人柱(ばしら)を一度に取(と)らば、顕(あらは)れて、路次(ろし)を止(とど)めて悪(あし)かりなん。時々(ときどき)取(と)れ』との御諚(でう)もて。生田(いくた)、昆陽野(こやの)の辺(あた)りに、いかにも人を隠(かく)し置(お)き、京より下る者(もの)、初(はじ)めて京へ上(のぼ)る者、中にて取(と)つて押(を)し籠(こ)めて、『声(こゑ)ばし立(た)つな』と縛(いま)しめて、獄定(ごくじやう)するぞ、無残(むざん)なる」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.159~160』岩波書店)
ところが世間の噂は矢のように早い。一人二人の失踪なら特に珍しくもないが二十人程が突然行方知れずとなると、「丹波(たんば)、播磨(はりま)、伊賀(いが)、伊勢(いせ)、その他近国から」身内の者らが生田周辺に集まってきた。「壁に耳、岩の物言ふ世の習ひ」というけれども真相はどんどんばれてしまい「兵庫(ひやうご)の浦(うら)の人柱(ばしら)に、ことごとく取られぬる」と、世間に知れ渡ってしまった。
そんな折、人柱として生贄にされる人間の数はすでに二十九人まで捕らえられていたところ、ようやく三十人目に諸国巡礼の一人の修行者が通りかかって捕縛された。名を「刑部(ぎやうぶ)左衛門(ざえもん)国春(くにはる)」といった。八月十五日の名月の日に生まれた女児に「名月(めいげつ)女」と名付け、周囲からはまたとない美女と呼ばれて育ったが、十四歳の頃、何を思ったのか両親に黙って家出してしまった。探しているうち、三年前に妻を失くし、そこで今は国春一人で諸国を行脚しつつ一人娘の名月女の行方を探しているという。名高い「高野山」、「熊野三山」にも登って参詣している。
「刑部(ぎやうぶ)の丞(ぜう)国春(くにはる)は、一方(ひとかた)ならぬ思ひどもに、妻女の形見(かたい)を取(と)り集(あつ)め、高野(かうや)の嶺(みね)に上(のぼ)りつつ、奥(おく)の院(ゐん)にて元結(もとひ)切(き)り、妻女の形見を籠(こ)め置(を)きて、姫が行方(ゆくゑ)を尋(たづ)ねんとて、高野の嶺(みね)を下向(かう)して、先(まづ)三熊野に参(まい)らるる」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.165』岩波書店)
一方、余りにも浮世離れした美少女ゆえに結婚相手が見当たらず、気ままにあちこちを流転して暮らしていた名月女。或る日、「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)能勢(のせ)」で「藤兵衛家包(いえかね)」という十九歳の男性と出会う。二人はたちまち愛し合い夫婦となる。と、ほぼ同時に兵庫の浦の護岸工事のために人柱三十人が立つことになったという話を耳にする。よく聞くとそのうちの一人に家包(いえかね)の妻となった名月女の父・国春の名があるという。家包・名月女夫婦は父の助命嘆願を決意、各地各方面へ奔走する。護岸工事の責任者・浄海(じやうかい)は血も涙もある男だが、平清盛じきじきの命令ゆえ工事責任者としては血も涙もとっくに捨てて仕事にかかっている。それでもなお家包・名月女夫婦は父・国春の助命嘆願を諦めない。食い下がる。
「さても丹波(たんば)の家包(いへかぬ)は、その恐(をそ)れをも憚(はばか)らで、女房(ねうばう)、乳母(めのと)を引(ひ)き具(ぐ)して、観音堂(くわんおんだう)に参(まい)り、庭上にひれ伏(ふ)し、『あら、御情(なさけ)なの御事や。ただ御助(たす)けあれと申さんにこそ、憎(にく)し共思(おぼ)し召(め)すべけれ。二人の者(もの)に一人取(と)り替(か)へさせ給(たま)はんに、何に不足(ふそく)の御座有べきぞ。然(しか)るべくも候はば、我々夫婦(ふうふ)に国春(くにはる)を取(と)り替(か)へさせ給へや』と、天(てん)に仰(あふ)ぎ、地(ち)に伏(ふ)し、流涕(りうてい)焦(こ)がれ悲(かな)しみけり」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.177~178』岩波書店)
ところで家包の出身地は「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)能勢(のせ)」とあると、さきほど引いた。やや詳しく述べると「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)」は今の京都府亀岡市付近。だが「能勢(のせ)」は今の大阪府豊能郡能勢町。随分距離がある。とはいえ山岳地帯を通して行き来することはいつでも可能である。そのまま北上すれば丹波山地へ入る。そこからさらに北東方面へ向かえば若狭湾へ出る。今でいう「鯖街道」(さばかいどう)は京の都と若狭湾とを結ぶ流通路として古代から存在感を放っていた。しかし山地から山地へ移動する人々すべてを山人と呼ぶことはできない。そういう区別では商人もまた山人になってしまう。ではサンカなのか。そうとも言えない。サンカの生活様式には定期的回遊性が顕著である。サンカの仕事は蓑・笠作りを基本としており、なかでも竹細工に長けている。竹細工で有名なのは京の都周辺でいえば圧倒的に近江である。しかし回遊民として考えれば東北地方にもサンカが暮らしていたというのは事実だろうと思われる。ちなみに近江では中山道に近い米原周辺を拠点として回遊していた一群があったというリポートが今でも聞かれる。日本列島には様々な芸能民、修験者、聖(ひじり)・遊行者・山水・歩き巫女などがいたため、それらすべてを整然と区別することは今や不可能だろう。そして当然のことながらもはやサンカは消滅した。明治近代国家成立の過程でどんどん都市労働者へと変容していき、あるいは近くの山村に溶け込んで村落共同体を形成しつつ、それまでの職業を捨てて一般的な商業へ鞍替えした。さらに、いったん資本主義に吸収されるやもう二度と元の生活様式に戻ることはできない。なので先史時代から狩猟・漁撈を主として生活を営んできた人々をすべて山人・海人あるいはサンカというカテゴリーでひとくくりにすることはもはやけっしてできないのである。なかには年中行事のように定期的に訪れる唱門師(しょもんじ)のことをサンカと間違えている人々も少なくない。昭和になってなお、或る時は修験者でありなおかつ或る時は狩猟採集で暮らし、また或る時は庭師として活躍した器用な人々もいたため、生涯一修験者とか生涯一遊行者とか、ましてや生涯一サンカいったライフスタイル自体は一九七〇年代高度成長期を決定的境界線としてもはや絶滅したと考えられる。かといって何も曖昧な伝説ばかりが残されたわけではない。彼らの手仕事と思われる蓑・笠を主とする竹細工は今なお残されており、彼らが実在し定期的回遊生活を送っていたことのまぎれもない証拠とされている。
さて、護岸工事の責任者・浄海だが、家包・名月女夫婦による国春の助命嘆願により、国春の代わりに家包が人柱に立つという条件で国春を解放することにした。さらに浄海は「松王健児(まつわうこんでい)」という童子が三十人すべての生贄に置き換わり一人で人柱となることで三十人全員の解放嘆願を受け入れる。
「かかりける所(ところ)に、浄海の御内に、三十人の童(わらは)の中に、松王健児(まつわうこんでい)と申て、見目形(みめかたち)尋常(じうじやう)なるが、観音堂(だう)に参り、申けるは、『三十人の人柱(ばしら)を皆々(みなみな)立(た)てさせ給ふとも、人の嘆(なげ)きの島(しま)ならば、成就する事候まじ。又、思(おぼ)し召(め)し立(た)ち給ふ御願(ぐわん)を、無駄(むだ)にし給(たま)ひては、君の御意にも背(そむ)くべき。所詮(しよせん)、博士(はかせ)御申(おまうし)のごとく、一万部の法花経を書写(しよしや)させられ、三十人の代官に、某(なにがし)一人立(たつ)ならば、末代、島は成就して、絶(た)えする事候まじい』と、申受(う)けたある松王(まつわう)は、上古も今も末代(まつだい)も、例(ためし)少(すく)なき心(こころ)かな」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.178~179』岩波書店)
松王健児(まつわうこんでい)の嘆願はいとも容易に受け入れられる。この童子の美しさには計り知れないものがあったらしいが、しかし「三十人の童(わらは)」という事情そのものにそもそもの要因がすでに見え隠れしている。平清盛は三百人の童子を自らの親衛隊として大変大事に身の周りに置いていた。
「入道相國(シヤウコク)のはかりことに、十四、五、六の童部(わらんべ)を、三百人そろへて、髪(カミ)をかぶろにきりまはし、あかき直垂(ヒタタレ)を着せて召しつかはれけるが、京中に満ち満ちて往反(ワウヘン)しけり。をのづから平家の事をあしざまに申(まうす)者あれば、一人(いちにん)聞き出(いだ)さぬほどこそありけれ、余党(ヨタウ)に触廻(フレメグラ)して、其家(ソノイエ)に乱入(ランニウ)し、資財雑具(シザイザウグ)を追捕(ツイフク)し、其奴(ヤツ)を搦(カラメ)とッて、六波羅へゐて参(まい)る。されば目に見、心に知るといへど、詞(コトバ)にあらはれて申(まうす)なし。六波羅の禿(カブロ)と言ひてンしかば、道井を過ぐる馬車(ムマクルマ)もよぎてぞ通(とを)りける。禁門(キンモン)を出入(シユツニウ)すといへども、姓名(シヤウミヤウ)を尋(タヅネ)らるるに及ばす。京師(ケイシ)の(チヤウリ)、これが為(ため)に目を側(ソバム)と見えたり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・禿髪(かぶろ)・P.13~14」岩波書店)
松王健児の申し出により三十人の生贄は無事解放される。
「三十人の人柱(ばしら)、『不思議(ふしぎ)の命(いのち)助(たす)かるは、難波入江(なにはいりえ)の国春(くにはる)の姫(ひめ)故(ゆへ)なり』と喜(よろこ)び、我(わが)国里(さと)へ帰て、或(ある)ひは兄弟、孫(まご)、子共に、取付(とりつき)々々喜(よろこ)ぶ事、浦島(うらしま)がいにしへ、七世の孫(まご)に逢(あ)ひぬるも、是(これ)にはいかでまさるべき」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.179』岩波書店)
また次の文面を見ておきたい。
「丹波(たんば)の国(くに)の家包(いへかぬ)が、舅(しうと)が命に替(かは)らむと思ひ切(きる)こそ、やさしけれ、禁野(きんや)、交野(かたの)、能勢(のせ)の庄、八百町を取(と)らする」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.179~180』岩波書店)
名月女の夫となった家包(いへかぬ)がその「舅(しうと)」の代わりに人柱に立つと名乗り出たことである。親の代わりに子が死ぬという風習は明治時代になってなお山間部では残っていた。柳田國男は述べている。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
さらにこの逆もあった。子を生かす代わりに親が死ぬ方法であり、なかでも深沢七郎「楢山節考」は有名な作品として残されている。とはいえ深沢は日本列島の至るところで見かけられた歴史の古層の半分しか述べていないように思う。古層といっても見えている以上、それこそ問題は依然として表層に刻みつけられており、表層こそ見ないわけにはいかないはずなのだが。いずれにしろ明治近代になってしばらくの間も貧乏な山間部の村落共同体では「子殺し・親殺し」は日常茶飯事だった。
また「築島」の文体は「女語り」の典型的な形式を取っているので、次のようにどのような人々が全国各地を廻って語り伝えたかは一目瞭然である。
「吉日を改(あらた)め、七月十三日に定(さだ)めさせ給(たま)ひて、一万部の法花経を、洛中(らくちう)、洛外(ぐわい)の寺々(てらでら)へ、日記をあげて書写(しよしや)させらる。程なく御経取(と)り集(あつ)め、数(かず)の御幣(へい)を切立(きりた)てて、船(ふね)押(を)し浮(う)かめ、打乗(うちのつ)て、遥(はる)かの沖(おき)へ押(を)し出(いだ)し、御経沈(しづ)め、御幣(へい)を振(ふ)つて、経釈(きようしやく)、祝詞(のつと)を申さるる。まことに松王望み申(まうし)ける間、彼(かれ)一人(にん)人柱(ばしら)に立(た)てられけるぞ、殊勝(しゆせう)なる。『読誦(どくじゆ)の御経あるべし』とて、一千余(よ)人の御僧達(そうたち)を、洛中(らくちう)、洛外(ぐわい)より請(いやう)じ下(くだ)し給ひて、渚(なぎさ)に御経遊(あそ)ばせば、大小軸(ぢく)の結縁(けちゑん)の竜神納受(なふじゆ)あるによつて、島は成就する。十四町の所なり。経(きやう)の島(しま)と申て、平相国の興立(こうりう)の、今に有とぞ、見えにける」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.180』岩波書店)
熊野比丘尼とそこから様々に分派した「語り部」たちの十八番だったのはこれでわかるだろう。そしてまた、松王健児について、柳田國男はこう述べている。
「人柱の企てが最初犠牲(いけにえ)となるべき者の暗示に基づき、その暗示は多分歌の形をもって与えられたことと、親子夫婦というがごとき関係にある者が二人以上、同時にこの運命に殉じたというのが、上古以来の伝説に一貫した要素であったらしいことが、『築島寺縁起』のごとき近世の一例からでも、幽(かす)かながらこれを推測し得るのである。松王健児が不意に現われて三十人の命に代り、それが実は大日王の化身であって、島成就のためにしばらくこの奇瑞(きずい)を示されたと説くのは、すっかり伝統の型を破ったもののようだが、なお彼がいたいけな童形であり、また惜み悲しまるる人の子であったという点において、弘く東西の諸民族に共通なる犠牲説話の条件を守っているとも見られ得る。そうしてあるいは偶然かも知らぬが、注意すべきは八幡神の信仰をもって、その遠い記念を包んでいるのである」(柳田國男「妹の力・松王健児の物語」『柳田國男全集11・P.145』ちくま文庫)
なぜ「八幡」なのか。やや詳しく述べると「《若宮》八幡」の「若宮」を指す。紀州・熊野でいえばそれこそ「若王子」(にゃくおうじ)信仰にほかならない。永遠に若いこと。蛇が脱皮して若さを更新しながら永遠に存続していくことが目指されている。「梅若忌」もまたそうだ。
「梅王子という神様は関東諸国にもあって、今ではたいてい菅原天神と結び付けられている。そういう名の起りはおそらくは春の末、すなわち梅の若枝の伸び立つ盛りに、これを手に執って舞うことから出ているのであろうが、これがまた同じ季節の送り祭の一つになっていたとすれば、ここに美しい童児の死を主題とした、悲劇の結構せられる余地は十分にあったのである」(柳田國男「歳時小記・梅若忌」『柳田國男全集16・P.74』ちくま文庫)
熊楠はいう。
「隅田川の梅若(うめわか)塚は徳川中世の石出帯刀の築きし所にして、その神像は大工棟梁溝口九兵衛の彫るところ、鴨立庵は三千風より名高くなり、その大磯の虎の像は元禄中吉原の遊人入性軒自得の作という。そんなものすら、それぞれ古雅優美なる点もありて、馬琴、京伝すでにそのことを追考し、立派に考古学の材料となりおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.430』河出文庫)
謡曲「隅田川」については既に以前こう述べた。
日本でも中世は人買い(人身売買)が横行した。とりわけ子どもは長い目でみれば男女問わず労働力として大人よりも高値で売れ転売もされた。善悪は別として「人買い(人身売買)」がなければたちまち食っていけなくなる家々が続出するほかない時代だったからだ。謡曲「隅田川」はその頃を背景に描かれたもの。ただ「隅田川」の設定は、子(梅若丸)の母が人買い(人身売買)に同意したわけではなく、知らぬ間に誘拐されたことになっている。そこで母は子(梅若丸)を探しに京都から江戸まで出てくる。謡曲の定石通り、旅の僧が子どもの消息について語る。
「扨(さて)も去年(きよねん)三月(さんぐわち)十五日、しかも今日(けふ)に相当(あひあたり)て候、人(ひと)商人(あきびと)の都より、年(とし)の程(ほど)十二、三計(ばかり)なる幼(おさな)き者を買(かひ)とつて奥へ下(くだ)り候が、此幼(おさな)き者(もの)いまだ慣(なら)はぬ旅の疲(つか)れにや、以外(もつてのほか)に違例(ゐれい)し、今は一足(あし)も引(ひ)かれずとて、この川岸にひれ伏(ふ)し候を、なんぼう世には情(なさけ)なき者の候ぞ、此幼(おさな)き者(もの)をば其まま路次(ろし)に捨(す)てて、商人は奥(おく)へ下(くだ)りて候、去間(さるあいだ)此辺(へん)の人々、この幼(おさな)き者の姿を見候に、由(よし)ありげに見え候程に、様々にいたはりて候へ共(ども)、前世(ぜんぜ)の事にてもや候ひけん、たんだ弱(よは)り、すでに末期(まつご)と見えしとき、おことはいうくいかなる人ぞと、父の名字(みやうじ)をも国をも尋(たづね)て候へば、我は都北白河に、吉田の某(なにがし)と申(まうし)し人の唯独こ(ひとりご)にて候が、父には後(をく)れ母計(ばかり)に添(そ)ひ参らせ候ひしを、人商人に拐(かど)はされて、か様(やう)に成行(なりゆき)候、都の人の足(あし)手影(かげ)も懐(なつ)かしう候へば、此道の辺(ほとり)に築(つ)き込(こ)めて、しるしに柳を植(う)ゑて給はれと、おとなしやかに申(まうし)、念仏四、五反(へん)唱(とな)へ終(つゐ)に事終(ことをは)つて候」(新日本古典文学体系「隅田川」『謡曲百番・P.342』岩波書店)
慣れない旅の疲れゆえか相当疲労している様子で死んでしまった。放っておくわけにもいかず、故郷のことを尋ねた後、近隣の人たちが集まってすでに塚を築いて弔ったとのこと。梅若丸を訪ねてやって来た母はいう。
「今迄はさりとも逢(あ)はむを頼(たの)みにこそ、知(し)らぬ東(あづま)に下(くだ)りたるに、今は此世になき跡の、しるし計(ばかり)を見る事よ」(新日本古典文学体系「隅田川」『謡曲百番・P.343』岩波書店)
子を探して遥々江戸までやって来たものの、母に残されていたものは既に死んだ子の塚ばかりだった。とはいえ、熊楠はいたって冷静。人身売買は中世どころか、日本の地方へ行けばほんのつい最近まで、半ば公然と行われていたからである。例えば水上勉が幾つかの小説で描いているようにその風習は昭和に入ってなお存続していた。また、人身売買と関係あるのかどうかもはやわからなくなっているが、なぜこんなところにわざわざ「海岸沿いの道」があるのかと考えさせられる文章もある。
「越前と若狭(わかさ)の境界にある敦賀(つるが)の町から、北海岸を杉津(すいづ)の方へ入りこむと、山が海に迫って、断崖(だんがい)の切り立った、いわゆる河野断層といわれる荒々しい海岸につき当る。敦賀から今庄(いまじょう)へぬける北陸街道は、この断層海岸にむけて山中を通るから、海岸の道は、まったく人絶えてうら淋しかった。道は、断層をわけ入り、山間地にかくれるようにしてある孤村へ通じていた」(水上勉「棺」『越後つついし親不知・P.102』新潮文庫)
なぜ山陰地方にはそのような陰々滅々たる道筋が多いのか。様々な情報が錯綜するサンカについて大いに語っている有名な論客らもそのことについてはまるで無視してよい話であるかのように振る舞っている。言いようのない不可解さが残る。そこで再び折口信夫「花の話」を引いてみたい。
「三河の奥で、初春の行はれる祭りに『花祭り』といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであった。其時、山人の持って来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木〔ニフキ〕か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.468』中公文庫)
三河の奥=三河と信濃との境界線にあたる山間部。山人について考える時、熊野と三河そして若狭という三角形がやおら出現する点を見逃してはならないと思うのである。この三角形は日本列島でもかなり古くから伝わる伝統的な芸能の道を構成していたのではと考えられる。
BGM1
BGM2
BGM3
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
ここで参照したいのは幸若舞「築島」である。今の兵庫県神戸市兵庫区の港湾部分。かつて「和田(わだ)の岬」と呼ばれた。福原遷都に伴って和田の岬をより一層強固な埋立地に仕立て、瀬戸内海運の要衝としてその地位をさらに打ち固める方針が出された。だが工事は上手く行かない。そこで詮議の上、ついては人柱三十人を生贄とする方針が決定された。一度に三十人を拘束すれば目立つ。だから京の都へ往還する人間を少しずつ拉致して「生田(いくた)、昆陽野(こやの)の辺(あた)り」(今の神戸市中央区生田付近・伊丹市昆陽付近)の獄に隠し、生贄の声が外部へ漏れないよう警戒することとした。
「『人柱(ばしら)を一度に取(と)らば、顕(あらは)れて、路次(ろし)を止(とど)めて悪(あし)かりなん。時々(ときどき)取(と)れ』との御諚(でう)もて。生田(いくた)、昆陽野(こやの)の辺(あた)りに、いかにも人を隠(かく)し置(お)き、京より下る者(もの)、初(はじ)めて京へ上(のぼ)る者、中にて取(と)つて押(を)し籠(こ)めて、『声(こゑ)ばし立(た)つな』と縛(いま)しめて、獄定(ごくじやう)するぞ、無残(むざん)なる」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.159~160』岩波書店)
ところが世間の噂は矢のように早い。一人二人の失踪なら特に珍しくもないが二十人程が突然行方知れずとなると、「丹波(たんば)、播磨(はりま)、伊賀(いが)、伊勢(いせ)、その他近国から」身内の者らが生田周辺に集まってきた。「壁に耳、岩の物言ふ世の習ひ」というけれども真相はどんどんばれてしまい「兵庫(ひやうご)の浦(うら)の人柱(ばしら)に、ことごとく取られぬる」と、世間に知れ渡ってしまった。
そんな折、人柱として生贄にされる人間の数はすでに二十九人まで捕らえられていたところ、ようやく三十人目に諸国巡礼の一人の修行者が通りかかって捕縛された。名を「刑部(ぎやうぶ)左衛門(ざえもん)国春(くにはる)」といった。八月十五日の名月の日に生まれた女児に「名月(めいげつ)女」と名付け、周囲からはまたとない美女と呼ばれて育ったが、十四歳の頃、何を思ったのか両親に黙って家出してしまった。探しているうち、三年前に妻を失くし、そこで今は国春一人で諸国を行脚しつつ一人娘の名月女の行方を探しているという。名高い「高野山」、「熊野三山」にも登って参詣している。
「刑部(ぎやうぶ)の丞(ぜう)国春(くにはる)は、一方(ひとかた)ならぬ思ひどもに、妻女の形見(かたい)を取(と)り集(あつ)め、高野(かうや)の嶺(みね)に上(のぼ)りつつ、奥(おく)の院(ゐん)にて元結(もとひ)切(き)り、妻女の形見を籠(こ)め置(を)きて、姫が行方(ゆくゑ)を尋(たづ)ねんとて、高野の嶺(みね)を下向(かう)して、先(まづ)三熊野に参(まい)らるる」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.165』岩波書店)
一方、余りにも浮世離れした美少女ゆえに結婚相手が見当たらず、気ままにあちこちを流転して暮らしていた名月女。或る日、「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)能勢(のせ)」で「藤兵衛家包(いえかね)」という十九歳の男性と出会う。二人はたちまち愛し合い夫婦となる。と、ほぼ同時に兵庫の浦の護岸工事のために人柱三十人が立つことになったという話を耳にする。よく聞くとそのうちの一人に家包(いえかね)の妻となった名月女の父・国春の名があるという。家包・名月女夫婦は父の助命嘆願を決意、各地各方面へ奔走する。護岸工事の責任者・浄海(じやうかい)は血も涙もある男だが、平清盛じきじきの命令ゆえ工事責任者としては血も涙もとっくに捨てて仕事にかかっている。それでもなお家包・名月女夫婦は父・国春の助命嘆願を諦めない。食い下がる。
「さても丹波(たんば)の家包(いへかぬ)は、その恐(をそ)れをも憚(はばか)らで、女房(ねうばう)、乳母(めのと)を引(ひ)き具(ぐ)して、観音堂(くわんおんだう)に参(まい)り、庭上にひれ伏(ふ)し、『あら、御情(なさけ)なの御事や。ただ御助(たす)けあれと申さんにこそ、憎(にく)し共思(おぼ)し召(め)すべけれ。二人の者(もの)に一人取(と)り替(か)へさせ給(たま)はんに、何に不足(ふそく)の御座有べきぞ。然(しか)るべくも候はば、我々夫婦(ふうふ)に国春(くにはる)を取(と)り替(か)へさせ給へや』と、天(てん)に仰(あふ)ぎ、地(ち)に伏(ふ)し、流涕(りうてい)焦(こ)がれ悲(かな)しみけり」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.177~178』岩波書店)
ところで家包の出身地は「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)能勢(のせ)」とあると、さきほど引いた。やや詳しく述べると「丹波(たんば)の国(くに)、小川(をがは)の庄(しやう)」は今の京都府亀岡市付近。だが「能勢(のせ)」は今の大阪府豊能郡能勢町。随分距離がある。とはいえ山岳地帯を通して行き来することはいつでも可能である。そのまま北上すれば丹波山地へ入る。そこからさらに北東方面へ向かえば若狭湾へ出る。今でいう「鯖街道」(さばかいどう)は京の都と若狭湾とを結ぶ流通路として古代から存在感を放っていた。しかし山地から山地へ移動する人々すべてを山人と呼ぶことはできない。そういう区別では商人もまた山人になってしまう。ではサンカなのか。そうとも言えない。サンカの生活様式には定期的回遊性が顕著である。サンカの仕事は蓑・笠作りを基本としており、なかでも竹細工に長けている。竹細工で有名なのは京の都周辺でいえば圧倒的に近江である。しかし回遊民として考えれば東北地方にもサンカが暮らしていたというのは事実だろうと思われる。ちなみに近江では中山道に近い米原周辺を拠点として回遊していた一群があったというリポートが今でも聞かれる。日本列島には様々な芸能民、修験者、聖(ひじり)・遊行者・山水・歩き巫女などがいたため、それらすべてを整然と区別することは今や不可能だろう。そして当然のことながらもはやサンカは消滅した。明治近代国家成立の過程でどんどん都市労働者へと変容していき、あるいは近くの山村に溶け込んで村落共同体を形成しつつ、それまでの職業を捨てて一般的な商業へ鞍替えした。さらに、いったん資本主義に吸収されるやもう二度と元の生活様式に戻ることはできない。なので先史時代から狩猟・漁撈を主として生活を営んできた人々をすべて山人・海人あるいはサンカというカテゴリーでひとくくりにすることはもはやけっしてできないのである。なかには年中行事のように定期的に訪れる唱門師(しょもんじ)のことをサンカと間違えている人々も少なくない。昭和になってなお、或る時は修験者でありなおかつ或る時は狩猟採集で暮らし、また或る時は庭師として活躍した器用な人々もいたため、生涯一修験者とか生涯一遊行者とか、ましてや生涯一サンカいったライフスタイル自体は一九七〇年代高度成長期を決定的境界線としてもはや絶滅したと考えられる。かといって何も曖昧な伝説ばかりが残されたわけではない。彼らの手仕事と思われる蓑・笠を主とする竹細工は今なお残されており、彼らが実在し定期的回遊生活を送っていたことのまぎれもない証拠とされている。
さて、護岸工事の責任者・浄海だが、家包・名月女夫婦による国春の助命嘆願により、国春の代わりに家包が人柱に立つという条件で国春を解放することにした。さらに浄海は「松王健児(まつわうこんでい)」という童子が三十人すべての生贄に置き換わり一人で人柱となることで三十人全員の解放嘆願を受け入れる。
「かかりける所(ところ)に、浄海の御内に、三十人の童(わらは)の中に、松王健児(まつわうこんでい)と申て、見目形(みめかたち)尋常(じうじやう)なるが、観音堂(だう)に参り、申けるは、『三十人の人柱(ばしら)を皆々(みなみな)立(た)てさせ給ふとも、人の嘆(なげ)きの島(しま)ならば、成就する事候まじ。又、思(おぼ)し召(め)し立(た)ち給ふ御願(ぐわん)を、無駄(むだ)にし給(たま)ひては、君の御意にも背(そむ)くべき。所詮(しよせん)、博士(はかせ)御申(おまうし)のごとく、一万部の法花経を書写(しよしや)させられ、三十人の代官に、某(なにがし)一人立(たつ)ならば、末代、島は成就して、絶(た)えする事候まじい』と、申受(う)けたある松王(まつわう)は、上古も今も末代(まつだい)も、例(ためし)少(すく)なき心(こころ)かな」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.178~179』岩波書店)
松王健児(まつわうこんでい)の嘆願はいとも容易に受け入れられる。この童子の美しさには計り知れないものがあったらしいが、しかし「三十人の童(わらは)」という事情そのものにそもそもの要因がすでに見え隠れしている。平清盛は三百人の童子を自らの親衛隊として大変大事に身の周りに置いていた。
「入道相國(シヤウコク)のはかりことに、十四、五、六の童部(わらんべ)を、三百人そろへて、髪(カミ)をかぶろにきりまはし、あかき直垂(ヒタタレ)を着せて召しつかはれけるが、京中に満ち満ちて往反(ワウヘン)しけり。をのづから平家の事をあしざまに申(まうす)者あれば、一人(いちにん)聞き出(いだ)さぬほどこそありけれ、余党(ヨタウ)に触廻(フレメグラ)して、其家(ソノイエ)に乱入(ランニウ)し、資財雑具(シザイザウグ)を追捕(ツイフク)し、其奴(ヤツ)を搦(カラメ)とッて、六波羅へゐて参(まい)る。されば目に見、心に知るといへど、詞(コトバ)にあらはれて申(まうす)なし。六波羅の禿(カブロ)と言ひてンしかば、道井を過ぐる馬車(ムマクルマ)もよぎてぞ通(とを)りける。禁門(キンモン)を出入(シユツニウ)すといへども、姓名(シヤウミヤウ)を尋(タヅネ)らるるに及ばす。京師(ケイシ)の(チヤウリ)、これが為(ため)に目を側(ソバム)と見えたり」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第一・禿髪(かぶろ)・P.13~14」岩波書店)
松王健児の申し出により三十人の生贄は無事解放される。
「三十人の人柱(ばしら)、『不思議(ふしぎ)の命(いのち)助(たす)かるは、難波入江(なにはいりえ)の国春(くにはる)の姫(ひめ)故(ゆへ)なり』と喜(よろこ)び、我(わが)国里(さと)へ帰て、或(ある)ひは兄弟、孫(まご)、子共に、取付(とりつき)々々喜(よろこ)ぶ事、浦島(うらしま)がいにしへ、七世の孫(まご)に逢(あ)ひぬるも、是(これ)にはいかでまさるべき」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.179』岩波書店)
また次の文面を見ておきたい。
「丹波(たんば)の国(くに)の家包(いへかぬ)が、舅(しうと)が命に替(かは)らむと思ひ切(きる)こそ、やさしけれ、禁野(きんや)、交野(かたの)、能勢(のせ)の庄、八百町を取(と)らする」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.179~180』岩波書店)
名月女の夫となった家包(いへかぬ)がその「舅(しうと)」の代わりに人柱に立つと名乗り出たことである。親の代わりに子が死ぬという風習は明治時代になってなお山間部では残っていた。柳田國男は述べている。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
さらにこの逆もあった。子を生かす代わりに親が死ぬ方法であり、なかでも深沢七郎「楢山節考」は有名な作品として残されている。とはいえ深沢は日本列島の至るところで見かけられた歴史の古層の半分しか述べていないように思う。古層といっても見えている以上、それこそ問題は依然として表層に刻みつけられており、表層こそ見ないわけにはいかないはずなのだが。いずれにしろ明治近代になってしばらくの間も貧乏な山間部の村落共同体では「子殺し・親殺し」は日常茶飯事だった。
また「築島」の文体は「女語り」の典型的な形式を取っているので、次のようにどのような人々が全国各地を廻って語り伝えたかは一目瞭然である。
「吉日を改(あらた)め、七月十三日に定(さだ)めさせ給(たま)ひて、一万部の法花経を、洛中(らくちう)、洛外(ぐわい)の寺々(てらでら)へ、日記をあげて書写(しよしや)させらる。程なく御経取(と)り集(あつ)め、数(かず)の御幣(へい)を切立(きりた)てて、船(ふね)押(を)し浮(う)かめ、打乗(うちのつ)て、遥(はる)かの沖(おき)へ押(を)し出(いだ)し、御経沈(しづ)め、御幣(へい)を振(ふ)つて、経釈(きようしやく)、祝詞(のつと)を申さるる。まことに松王望み申(まうし)ける間、彼(かれ)一人(にん)人柱(ばしら)に立(た)てられけるぞ、殊勝(しゆせう)なる。『読誦(どくじゆ)の御経あるべし』とて、一千余(よ)人の御僧達(そうたち)を、洛中(らくちう)、洛外(ぐわい)より請(いやう)じ下(くだ)し給ひて、渚(なぎさ)に御経遊(あそ)ばせば、大小軸(ぢく)の結縁(けちゑん)の竜神納受(なふじゆ)あるによつて、島は成就する。十四町の所なり。経(きやう)の島(しま)と申て、平相国の興立(こうりう)の、今に有とぞ、見えにける」(新日本古典文学体系「築島」『舞の本・P.180』岩波書店)
熊野比丘尼とそこから様々に分派した「語り部」たちの十八番だったのはこれでわかるだろう。そしてまた、松王健児について、柳田國男はこう述べている。
「人柱の企てが最初犠牲(いけにえ)となるべき者の暗示に基づき、その暗示は多分歌の形をもって与えられたことと、親子夫婦というがごとき関係にある者が二人以上、同時にこの運命に殉じたというのが、上古以来の伝説に一貫した要素であったらしいことが、『築島寺縁起』のごとき近世の一例からでも、幽(かす)かながらこれを推測し得るのである。松王健児が不意に現われて三十人の命に代り、それが実は大日王の化身であって、島成就のためにしばらくこの奇瑞(きずい)を示されたと説くのは、すっかり伝統の型を破ったもののようだが、なお彼がいたいけな童形であり、また惜み悲しまるる人の子であったという点において、弘く東西の諸民族に共通なる犠牲説話の条件を守っているとも見られ得る。そうしてあるいは偶然かも知らぬが、注意すべきは八幡神の信仰をもって、その遠い記念を包んでいるのである」(柳田國男「妹の力・松王健児の物語」『柳田國男全集11・P.145』ちくま文庫)
なぜ「八幡」なのか。やや詳しく述べると「《若宮》八幡」の「若宮」を指す。紀州・熊野でいえばそれこそ「若王子」(にゃくおうじ)信仰にほかならない。永遠に若いこと。蛇が脱皮して若さを更新しながら永遠に存続していくことが目指されている。「梅若忌」もまたそうだ。
「梅王子という神様は関東諸国にもあって、今ではたいてい菅原天神と結び付けられている。そういう名の起りはおそらくは春の末、すなわち梅の若枝の伸び立つ盛りに、これを手に執って舞うことから出ているのであろうが、これがまた同じ季節の送り祭の一つになっていたとすれば、ここに美しい童児の死を主題とした、悲劇の結構せられる余地は十分にあったのである」(柳田國男「歳時小記・梅若忌」『柳田國男全集16・P.74』ちくま文庫)
熊楠はいう。
「隅田川の梅若(うめわか)塚は徳川中世の石出帯刀の築きし所にして、その神像は大工棟梁溝口九兵衛の彫るところ、鴨立庵は三千風より名高くなり、その大磯の虎の像は元禄中吉原の遊人入性軒自得の作という。そんなものすら、それぞれ古雅優美なる点もありて、馬琴、京伝すでにそのことを追考し、立派に考古学の材料となりおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.430』河出文庫)
謡曲「隅田川」については既に以前こう述べた。
日本でも中世は人買い(人身売買)が横行した。とりわけ子どもは長い目でみれば男女問わず労働力として大人よりも高値で売れ転売もされた。善悪は別として「人買い(人身売買)」がなければたちまち食っていけなくなる家々が続出するほかない時代だったからだ。謡曲「隅田川」はその頃を背景に描かれたもの。ただ「隅田川」の設定は、子(梅若丸)の母が人買い(人身売買)に同意したわけではなく、知らぬ間に誘拐されたことになっている。そこで母は子(梅若丸)を探しに京都から江戸まで出てくる。謡曲の定石通り、旅の僧が子どもの消息について語る。
「扨(さて)も去年(きよねん)三月(さんぐわち)十五日、しかも今日(けふ)に相当(あひあたり)て候、人(ひと)商人(あきびと)の都より、年(とし)の程(ほど)十二、三計(ばかり)なる幼(おさな)き者を買(かひ)とつて奥へ下(くだ)り候が、此幼(おさな)き者(もの)いまだ慣(なら)はぬ旅の疲(つか)れにや、以外(もつてのほか)に違例(ゐれい)し、今は一足(あし)も引(ひ)かれずとて、この川岸にひれ伏(ふ)し候を、なんぼう世には情(なさけ)なき者の候ぞ、此幼(おさな)き者(もの)をば其まま路次(ろし)に捨(す)てて、商人は奥(おく)へ下(くだ)りて候、去間(さるあいだ)此辺(へん)の人々、この幼(おさな)き者の姿を見候に、由(よし)ありげに見え候程に、様々にいたはりて候へ共(ども)、前世(ぜんぜ)の事にてもや候ひけん、たんだ弱(よは)り、すでに末期(まつご)と見えしとき、おことはいうくいかなる人ぞと、父の名字(みやうじ)をも国をも尋(たづね)て候へば、我は都北白河に、吉田の某(なにがし)と申(まうし)し人の唯独こ(ひとりご)にて候が、父には後(をく)れ母計(ばかり)に添(そ)ひ参らせ候ひしを、人商人に拐(かど)はされて、か様(やう)に成行(なりゆき)候、都の人の足(あし)手影(かげ)も懐(なつ)かしう候へば、此道の辺(ほとり)に築(つ)き込(こ)めて、しるしに柳を植(う)ゑて給はれと、おとなしやかに申(まうし)、念仏四、五反(へん)唱(とな)へ終(つゐ)に事終(ことをは)つて候」(新日本古典文学体系「隅田川」『謡曲百番・P.342』岩波書店)
慣れない旅の疲れゆえか相当疲労している様子で死んでしまった。放っておくわけにもいかず、故郷のことを尋ねた後、近隣の人たちが集まってすでに塚を築いて弔ったとのこと。梅若丸を訪ねてやって来た母はいう。
「今迄はさりとも逢(あ)はむを頼(たの)みにこそ、知(し)らぬ東(あづま)に下(くだ)りたるに、今は此世になき跡の、しるし計(ばかり)を見る事よ」(新日本古典文学体系「隅田川」『謡曲百番・P.343』岩波書店)
子を探して遥々江戸までやって来たものの、母に残されていたものは既に死んだ子の塚ばかりだった。とはいえ、熊楠はいたって冷静。人身売買は中世どころか、日本の地方へ行けばほんのつい最近まで、半ば公然と行われていたからである。例えば水上勉が幾つかの小説で描いているようにその風習は昭和に入ってなお存続していた。また、人身売買と関係あるのかどうかもはやわからなくなっているが、なぜこんなところにわざわざ「海岸沿いの道」があるのかと考えさせられる文章もある。
「越前と若狭(わかさ)の境界にある敦賀(つるが)の町から、北海岸を杉津(すいづ)の方へ入りこむと、山が海に迫って、断崖(だんがい)の切り立った、いわゆる河野断層といわれる荒々しい海岸につき当る。敦賀から今庄(いまじょう)へぬける北陸街道は、この断層海岸にむけて山中を通るから、海岸の道は、まったく人絶えてうら淋しかった。道は、断層をわけ入り、山間地にかくれるようにしてある孤村へ通じていた」(水上勉「棺」『越後つついし親不知・P.102』新潮文庫)
なぜ山陰地方にはそのような陰々滅々たる道筋が多いのか。様々な情報が錯綜するサンカについて大いに語っている有名な論客らもそのことについてはまるで無視してよい話であるかのように振る舞っている。言いようのない不可解さが残る。そこで再び折口信夫「花の話」を引いてみたい。
「三河の奥で、初春の行はれる祭りに『花祭り』といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであった。其時、山人の持って来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木〔ニフキ〕か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.468』中公文庫)
三河の奥=三河と信濃との境界線にあたる山間部。山人について考える時、熊野と三河そして若狭という三角形がやおら出現する点を見逃してはならないと思うのである。この三角形は日本列島でもかなり古くから伝わる伝統的な芸能の道を構成していたのではと考えられる。
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