二〇二〇年のパンデミックはこれまで何度も早急な取り組みの必要性が指摘されてきたにもかかわらず日本政府によって放置されてきた様々な政治課題をたちまちのうちに炙り出したという利点がある。政治課題はまだまだ死んではいない、確実に残されているという事実をあからさまに反復させるのに役立った。多くの人命を犠牲にしつつ。
パンデミックのさらなる浸透並びに増殖を抑制するため重点的に外出規制が呼びかけられている。するとこれまで外へ向けられて放出されていた個々人の力が国家による法の壁にぶち当たって反転し、今度は逆に一斉に内向することになった。そこでたちまち増大したのがDV。その傾向がどれほど確実なものか。ニーチェはとっくの昔から言っていた。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫)
子ども、女性、高齢者、などがその主な犠牲者になっている。彼らはパンデミック収束のためにDVに身を捧げられるほかない「人柱」ででもあるかのように扱われている。熊楠はいう。
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
政府は「国辱」というが、今や「子ども、女性、高齢者」に対するDVの蔓延は「国辱」としてさえ見なされていない。同時に今の日本政府にはこの「国辱」を解決するコントロール能力を始めから持ち合わせていない政府であるということも暴露されるに至った。
ところで熊楠が指摘している人柱の風習は日本ではもちろんのこと、近代以前にはどこの国へ行っても見られたものなのだが、フレイザーはその特徴を最も近年まで留めていたメキシコでの風習についてこう述べている。
「事実、神を表象する人間を殺すという風習は、メキシコにおいてほど組織的かつ大規模に行われた地はないように思われる。アコスタはつぎのように言っている。『彼らは善良と思った人間を捕虜にした。そしてこれを彼らの偶像神たちのために生贄にしたが、その前に彼らはこの生贄に、生贄が供される当の偶像神の名前を与えた。そしてその偶像神と同じ装飾をこの生贄に施し、これは同じ神を表すものである、と言った。また、この神の表象が生きている間、つまり、祝祭に応じて一年であったり六ケ月であったり、あるいはもっと短い期間、人々は彼を本来の偶像神と同じ方法で敬愛し、崇め、一方彼はその間、飲み、食い、享楽した。この生贄が街路を行くと、人々は進み出て彼を崇め、だれもが彼に施しを行い、彼が癒してくれるよう、祝福を与えてくれるようにと、子どもや病人を連れて来た。彼には一切のことが許されていたが、ただ、逃げ出さないよう十人から十二人の男が付き添っていた。また彼はときおり(通り過ぎる際に崇める者もいるので)小さな横笛を吹き、人々が彼への崇拝の準備をできるようにした。祝祭の日が訪れ、生贄が太った頃に、人々は彼を殺し、裂き、食すという、厳かな生贄を執り行ったのである』。たとえば、復活祭の頃からその数日後に当たる、大神テスカトリポカ〔アステカ族の主格神〕の毎年の祭りでは、ひとりの若者が選ばれ、一年間テスカトリポカの生きた化身として扱われた。若者は穢れのない体でなければならず、あるべき優雅さと威厳を備えた堂々たる役割を維持できるよう、入念な訓練を受けた。彼は一年間贅沢に耽り、王自らが、この未来の生贄がきらびやかな衣裳に身を包んでいるようにと気を配った。『王がすでに彼を神として崇めていたからである』。若者は、王家の仕着せを纏った八人の小姓に付き添われて、昼であれ夜であれ意のままに、花を持ち横笛を吹きながら首都の街路を歩き回った。彼の姿を見た者は、だれもがその前に跪き、彼を崇め、彼はその敬意を愛想よく受け入れた。彼が生贄にされる祝祭日の二十日前、四人の女神の名前を持つ、生まれ育ちの良い四人の乙女が、花嫁として彼に与えられた。生贄になる前の五日間、彼は神々しい栄誉をこれまで以上にふんだんに与えられた。王は宮殿に留まったが、廷臣たちは皆運命の生贄について行った。至る所で厳かな晩餐会や舞踏会が開かれた。最終日、若者は、いまだ小姓たちに付き添われながら、天蓋のある艀(はしけ)で、湖の向こう岸にある小さな寂れた神殿に護送された。これはメキシコの一般的な神殿と同じく、ピラミッド状の建造物である。神殿の階段を上る際、若者は一段につき一本、栄光の日々に咲いていた横笛を折った。頂上に達すると彼は捕らえられ、石の台盤に抑えつけられ、ひとりの祭司がその胸を、石の短刀で切り裂いた。祭司は心臓を取り出し、太陽に捧げた。首は先行の生贄たちの頭蓋とともに吊り下げられ、脚と腕は調理され、領主たちの食卓に上げられた。この若者の地位は、その後即座につぎの若者に受け継がれる。その若者もまた一年間、同様の深い尊敬の念をもって扱われ、一年の終わりには同じ運命に身を委ねたのだった。このように人間による表象を殺すことで殺された神が、今一度即座に甦るという考え方は、メキシコの儀式にはっきりと見ることができる。殺された人間神の皮を剥ぎ、その皮の中に別の生きた人間を包むと、今度はこの生きた人間が、新たな神性の表象となったのである。たとえば、神々の母トシ(Toci)を表象する女は、毎年の祭りで生贄に供された。彼女は装身具で飾り立てられ、女神の名で呼ばれる。彼女がその生きた化身と考えられている女神である」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十六節・P.283~285」ちくま学芸文庫)
人柱に立つのはいつも「童子・童女」である。日本でもまたそうだ。
「の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)
柳田國男は報告している。
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)
ただ、「遠野物語」の文体は次のような「あの偉大なる人間苦の記録」を覆い隠してしまう。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
子どもが死んで成人女性が生き残った場合、次のように描かれている。
「また同じ頃、美濃とははるかに隔たった九州のある町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十余りの女性が、同じような悲しい運命の下(もと)に活(い)きていた。ある山奥の村に生れ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還(かえ)ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲(あざ)ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛(しば)り附けて、高い樹の隙間(すきま)から、淵を目掛けて飛び込んだ。数時間の後に、女房が自然と正気に復(かえ)った時には、夫も死ねなかったとみえて、濡(ぬ)れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊(つ)って自ら縊(くび)れており、赤ん坊は滝壺(たきつぼ)の上の梢に引っ掛かって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕(ゆうじょ)があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.82~83』ちくま文庫)
しかしこの両方とも、当時の村落共同体に根深く巣食っていた複雑な人間関係については何ら触れられていない。だがそれでもなお窮乏状態に陥った村落共同体を救うためと称して人柱に立たされたのは「童子・童女」そして「老婆」である。次の記録は名高い姫路城に残る「姥石」についてである。
「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」「柳田国男全集4・P.362~363」ちくま文庫)
老女・老婆には霊力が宿ると信じられていた時代。このような犠牲は後を絶つことなくどんどん行われていた。なかでも「童子」に与えられた聖性とそれに基づく犠牲祭は最も有力なものだ。
「人柱の企てが最初犠牲(いけにえ)となるべき者の暗示に基づき、その暗示は多分歌の形をもって与えられたことと、親子夫婦というがごとき関係にある者が二人以上、同時にこの運命に殉じたというのが、上古以来の伝説に一貫した要素であったらしいことが、『築島寺縁起』のごとき近世の一例からでも、幽(かす)かながらこれを推測し得るのである。松王健児が不意に現われて三十人の命に代り、それが実は大日王の化身であって、島成就のためにしばらくこの奇瑞(きずい)を示されたと説くのは、すっかり伝統の型を破ったもののようだが、なお彼がいたいけな童形であり、また惜み悲しまるる人の子であったという点において、弘く東西の諸民族に共通なる犠牲説話の条件を守っているとも見られ得る。そうしてあるいは偶然かも知らぬが、注意すべきは八幡神の信仰をもって、その遠い記念を包んでいるのである」(柳田國男「妹の力・松王健児の物語」『柳田國男全集11・P.145』ちくま文庫)
柳田が引用する「松王健児」は世にも美しい「童子」として唐突に出現する。幸若舞「築島」から引用した。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/童子童女そして若宮
ちなみに弁慶は武蔵坊弁慶と名乗る前「鬼若」(おにわか)と名乗っていた。源義経の幼名は「牛若」(うしわか)。両者は対になっている。そして二人とも京の都に近い修験道場「鞍馬山」から登場してくる。共通性は「若」であり熊野の王子信仰と同様のものだ。さらに牛若・鬼若ともに鎌倉幕府創設者・源頼朝を大々的に支援するにもかかわらず頼朝とはまったく異なった出現方法が採用されている。さらに「天狗」に関して幸若舞「未来記」にこうある。一者目の天狗は牛若・鬼若の出現地と同じ愛宕山にいる。名前もある。
「愛宕(あたご)の山の太郎坊(たらうぼう)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)
二者目の天狗について。
「平野(ひらの)山の大天狗(てんぐ)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)
この「平野(ひらの)山」は今の滋賀県大津市比良(ひら)山のこと。「平野(ひらの)山の大天狗(てんぐ)」はその名を「次郎坊」(じろうぼう)といった。愛宕山と比良山系とは山岳地帯を通して地続きだが、天狗の名においてもまた両者は「太郎坊・次郎坊」というふうに対になっている点に注意しよう。牛若・鬼若にせよ太郎坊・次郎坊にせよ、どちらも山岳地帯から出現してくるとともに怪異な力を発揮する。こうした山神信仰は「熊野の本地の草子」に出てくる金剛童子のように、いつも怪異な力の持ち主として描かれる。しかしそれには明確な理由が認められる。記紀神話で実の兄妹(いもせ)の関係に当たる伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)が性交して子造りを始める。最初に生まれた嬰児はどうなったか。
「遂(つひ)に為夫婦(みとのまぐはひ)して、先づ蛭児(ひるこ)を生む。便(すなは)ち葦船(あしのふね)に載(の)せて流(ながしや)りてき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第四段・P.28」岩波文庫)
蛭児〔=不具児〕は海へ流される。だが民族創造神話に出てくるこの種のエピソードは少なくない。日本書紀はもちろん、沖縄周辺から台湾、さらにインドネシアと、東南アジア一帯に広く分布する。しかもなお、この種のエピソードは民族創造神話の根本的部分として大変長く記憶の底に刻み込まれる。と同時に発生するのが若王子(にゃくおうじ)信仰である。熊野が古代宮廷から続くミソギの地として若くして死んだ王子らを祭る強力な伝統を形成しているのもその点に根拠を持つ。
ちなみに越前から越後にかけて「親知らず」と呼ばれる峻険な海岸が打ち続いていることはよく知られているが、三重県熊野市から和歌山県新宮市へ続く七里御浜(巡礼路)の途中にも「親知らず子知らず」という難所がある。熊野市は三重県に編入される前、もともと熊野の南牟婁郡に属していた。だからといって周辺地域に住む人々を単純に「熊野人」としてひとくくりにして考えるには困難な事情がある。
「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)
折口のいう通りなら海岸沿いの「大辺路」(おおへじ)の一部は「熊野人」の活動圏外ということになってしまい「中辺路」(なかへじ)だけが「熊野人」の活躍地帯として限定される。とはいえ、山陰の若狭湾に残る八百比丘尼伝説とともに、吉野・熊野、そして伊勢から奥三河にかけて、熊野信仰とともに移動した芸能民の中に座頭を始めとする様々な不具者、「女語り」の者(比丘尼)、皇室に奉仕した吉野の国栖など、古代から中世にかけてかなり広く芸能民並びに職能民による大きな三角形が形成されていたことはほぼ間違いないだろう。それとはまた別の交通路を定期的に回遊する民としてサンカが考えられる。芸能民もまた遊牧民のように一年を通して様々な地域を巡業して廻っていたわけだが、回遊性という点では同じでも生活様式がまったく異なっていたがゆえ、サンカは芸能民からも疎まれることが少なくなかったことは中里介山「大菩薩峠」の中で描かれている。それについては追い追い機会を見て述べていきたい。それよりも今は、錯綜を繰り返して明確にはわからなくなっているサンカに関する過去の情報を二〇〇四年(平成十六年)になってさえ「出汁」(ダシ)に持ち出し、何度も繰り返し人権に関する「特措法」を延長させることで自分たちの既得権益をどこまでも拡張し、今では驚くべきことに政府与党の大規模支持母体を形成している複数の支持団体に狙いを付けなければならない。例えば、地区出身の故・野中広務が被差別を大々的に自民党と接続させ、なおかつ山陰地方での蟹の売買を媒介とした北朝鮮利権も自民党へ流れ込むように持っていった。一見野党に見える社民党もパチンコ利権でかろうじて存続してきたがパチンコ利権自体がもうそろそろ終焉に向かっている。そのような政治団体とそれを支持する複数の支持母体とを徹底的に究明しなくては、拉致問題を始めとする人身売買反対の象徴「ブルーリボン」の存在意義はなくなってしまう。ブルーリボンは日韓・日朝だけでなく人身売買反対〔奪還〕運動に関し、今や世界中で公認されている保証である。
BGM1
BGM2
BGM3
パンデミックのさらなる浸透並びに増殖を抑制するため重点的に外出規制が呼びかけられている。するとこれまで外へ向けられて放出されていた個々人の力が国家による法の壁にぶち当たって反転し、今度は逆に一斉に内向することになった。そこでたちまち増大したのがDV。その傾向がどれほど確実なものか。ニーチェはとっくの昔から言っていた。
「外へ向けて放出されないすべての本能は《内へ向けられる》ーーー私が人間の《内面化》と呼ぶところのものはこれである。後に人間の『魂』と呼ばれるようになったものは、このようにして初めて人間に生じてくる。当初は二枚の皮の間に張られたみたいに薄いものだったあの内的世界の全体は、人間の外への放(は)け口が《堰き止められて》しまうと、それだけいよいよ分化し拡大して、深さと広さとを得てきた。国家的体制が古い自由の諸本能から自己を防衛するために築いたあの恐るべき防堡ーーーわけても刑罰がこの防堡の一つだーーーは、粗野で自由で漂泊的な人間のあの諸本能に悉く廻れ右をさせ、それらを《人間自身の方へ》向かわせた。敵意・残忍、迫害や襲撃や変革や破壊の悦び、ーーーこれらの本能がすべてその所有者の方へ向きを変えること、《これこそ》『良心の疚しさ』の起源である」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・十六・P.99」岩波文庫)
子ども、女性、高齢者、などがその主な犠牲者になっている。彼らはパンデミック収束のためにDVに身を捧げられるほかない「人柱」ででもあるかのように扱われている。熊楠はいう。
「残酷なことは、上古蒙昧の世は知らず、二、三百年前にあったと思われぬなどいう人も多からんが、家康公薨ずる二日前に三池典太の刀もて罪人を試さしめ、切味いとよしと聞いてみずから二、三度振り廻し、わがこの剣で永く子孫を護るべしと顔色いと好かったといい、コックスの日記には、侍医が公は老年ゆえ若者ほど速く病が癒らぬと答えたので、家康公大いに怒りその身を寸断せしめた、とある。試し切りは刀を人よりも尊んだ、はなはだ不条理かつ不人道なことだが、百年前後までもまま行なわれたらしい。なお木馬、水牢、石子詰め、蛇責め、貢米貸(これは領主が年貢未進の百姓の妻女を拉致して犯したので、英国にもやや似たことが十七世紀までもあって、ベビースみずから行なったことがその日記に出づ)、その他確固たる書史に書かねど、どうも皆無でなかったらしい残酷なことは多々ある。三代将軍薨去の節、諸候近臣数人殉死したなど虚説といい黒(くろ)めあたわぬ。して見ると、人柱が徳川氏の世に全く行なわれなんだとは思われぬ。こんなことが外国へ聞こえては大きな国辱という人もあらんかなれど、そんな国辱はどの国にもある」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.235~236』河出文庫)
政府は「国辱」というが、今や「子ども、女性、高齢者」に対するDVの蔓延は「国辱」としてさえ見なされていない。同時に今の日本政府にはこの「国辱」を解決するコントロール能力を始めから持ち合わせていない政府であるということも暴露されるに至った。
ところで熊楠が指摘している人柱の風習は日本ではもちろんのこと、近代以前にはどこの国へ行っても見られたものなのだが、フレイザーはその特徴を最も近年まで留めていたメキシコでの風習についてこう述べている。
「事実、神を表象する人間を殺すという風習は、メキシコにおいてほど組織的かつ大規模に行われた地はないように思われる。アコスタはつぎのように言っている。『彼らは善良と思った人間を捕虜にした。そしてこれを彼らの偶像神たちのために生贄にしたが、その前に彼らはこの生贄に、生贄が供される当の偶像神の名前を与えた。そしてその偶像神と同じ装飾をこの生贄に施し、これは同じ神を表すものである、と言った。また、この神の表象が生きている間、つまり、祝祭に応じて一年であったり六ケ月であったり、あるいはもっと短い期間、人々は彼を本来の偶像神と同じ方法で敬愛し、崇め、一方彼はその間、飲み、食い、享楽した。この生贄が街路を行くと、人々は進み出て彼を崇め、だれもが彼に施しを行い、彼が癒してくれるよう、祝福を与えてくれるようにと、子どもや病人を連れて来た。彼には一切のことが許されていたが、ただ、逃げ出さないよう十人から十二人の男が付き添っていた。また彼はときおり(通り過ぎる際に崇める者もいるので)小さな横笛を吹き、人々が彼への崇拝の準備をできるようにした。祝祭の日が訪れ、生贄が太った頃に、人々は彼を殺し、裂き、食すという、厳かな生贄を執り行ったのである』。たとえば、復活祭の頃からその数日後に当たる、大神テスカトリポカ〔アステカ族の主格神〕の毎年の祭りでは、ひとりの若者が選ばれ、一年間テスカトリポカの生きた化身として扱われた。若者は穢れのない体でなければならず、あるべき優雅さと威厳を備えた堂々たる役割を維持できるよう、入念な訓練を受けた。彼は一年間贅沢に耽り、王自らが、この未来の生贄がきらびやかな衣裳に身を包んでいるようにと気を配った。『王がすでに彼を神として崇めていたからである』。若者は、王家の仕着せを纏った八人の小姓に付き添われて、昼であれ夜であれ意のままに、花を持ち横笛を吹きながら首都の街路を歩き回った。彼の姿を見た者は、だれもがその前に跪き、彼を崇め、彼はその敬意を愛想よく受け入れた。彼が生贄にされる祝祭日の二十日前、四人の女神の名前を持つ、生まれ育ちの良い四人の乙女が、花嫁として彼に与えられた。生贄になる前の五日間、彼は神々しい栄誉をこれまで以上にふんだんに与えられた。王は宮殿に留まったが、廷臣たちは皆運命の生贄について行った。至る所で厳かな晩餐会や舞踏会が開かれた。最終日、若者は、いまだ小姓たちに付き添われながら、天蓋のある艀(はしけ)で、湖の向こう岸にある小さな寂れた神殿に護送された。これはメキシコの一般的な神殿と同じく、ピラミッド状の建造物である。神殿の階段を上る際、若者は一段につき一本、栄光の日々に咲いていた横笛を折った。頂上に達すると彼は捕らえられ、石の台盤に抑えつけられ、ひとりの祭司がその胸を、石の短刀で切り裂いた。祭司は心臓を取り出し、太陽に捧げた。首は先行の生贄たちの頭蓋とともに吊り下げられ、脚と腕は調理され、領主たちの食卓に上げられた。この若者の地位は、その後即座につぎの若者に受け継がれる。その若者もまた一年間、同様の深い尊敬の念をもって扱われ、一年の終わりには同じ運命に身を委ねたのだった。このように人間による表象を殺すことで殺された神が、今一度即座に甦るという考え方は、メキシコの儀式にはっきりと見ることができる。殺された人間神の皮を剥ぎ、その皮の中に別の生きた人間を包むと、今度はこの生きた人間が、新たな神性の表象となったのである。たとえば、神々の母トシ(Toci)を表象する女は、毎年の祭りで生贄に供された。彼女は装身具で飾り立てられ、女神の名で呼ばれる。彼女がその生きた化身と考えられている女神である」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十六節・P.283~285」ちくま学芸文庫)
人柱に立つのはいつも「童子・童女」である。日本でもまたそうだ。
「の多い地方には人権乏しい男女小児を家の土台に埋めたことは必ずあるべく、その霊をその家のヌシとしたのがザシキワラシ等として残ったと惟わる」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)
柳田國男は報告している。
「旧家にはザシキワラシという神の住みたもう家少なからず。この神は多くは十二、三ばかりの童児なり。折々人に姿を見せることあり土淵村大字飯豊(いいで)の今淵勘十郎(いまぶちかんじゅうろう)という人の家にては、近き頃高等女学校にいる娘の休暇にて帰りてありしが、ある日廊下にてはたとザシキワラシに行き逢い大いに驚きしことあり。これはまさしく男の児なりき。同じ村山口なる佐々木氏にては、母人ひとり縫物しておりしに、次の間にて紙のがさがさという音あり。この室は家の主人の部屋にて、その時は東京に行き不在なれば、怪しと思いて板戸を開き見るに何の影もなし。暫時(しばらく)の間坐りておればやがてまたしきりに鼻を鳴らす音あり。さては座敷ワラシなりけりと思えり。この家にも座敷ワラシ住めりということ、久しき以前よりの沙汰(さた)なりき。この神の宿りたもう家は富貴自在なりということなり」(柳田國男「遠野物語・十七」『柳田國男全集4・P.22~23』ちくま文庫)
ただ、「遠野物語」の文体は次のような「あの偉大なる人間苦の記録」を覆い隠してしまう。
「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)
子どもが死んで成人女性が生き残った場合、次のように描かれている。
「また同じ頃、美濃とははるかに隔たった九州のある町の囚獄に、謀殺罪で十二年の刑に服していた三十余りの女性が、同じような悲しい運命の下(もと)に活(い)きていた。ある山奥の村に生れ、男を持ったが親たちが許さぬので逃げた。子供ができて後に生活が苦しくなり、恥を忍んで郷里に還(かえ)ってみると、身寄りの者は知らぬうちに死んでいて、笑い嘲(あざ)ける人ばかり多かった。すごすごと再び浮世に出て行こうとしたが、男の方は病身者で、とても働ける見込みはなかった。大きな滝の上の小路を、親子三人で通るときに、もう死のうじゃないかと、三人の身体を、帯で一つに縛(しば)り附けて、高い樹の隙間(すきま)から、淵を目掛けて飛び込んだ。数時間の後に、女房が自然と正気に復(かえ)った時には、夫も死ねなかったとみえて、濡(ぬ)れた衣服で岸に上って、傍の老樹の枝に首を吊(つ)って自ら縊(くび)れており、赤ん坊は滝壺(たきつぼ)の上の梢に引っ掛かって死んでいたという話である。こうして女一人だけが、意味もなしに生き残ってしまった。死ぬ考えもない子を殺したから謀殺で、それでも十二年までの宥恕(ゆうじょ)があったのである。このあわれな女も牢を出てから、すでに年久しく消息が絶えている。多分はどこかの村の隅に、まだ抜け殻のような存在を続けていることであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.82~83』ちくま文庫)
しかしこの両方とも、当時の村落共同体に根深く巣食っていた複雑な人間関係については何ら触れられていない。だがそれでもなお窮乏状態に陥った村落共同体を救うためと称して人柱に立たされたのは「童子・童女」そして「老婆」である。次の記録は名高い姫路城に残る「姥石」についてである。
「姫路の城の姥石は、現に絵葉書もできているくらいの一名物であるが、これがまた中凹の、ちょっとした石の枕といってもよい石である。今でも城の石垣の間に置いてある。加藤清正この石垣を築く時、積んでも積んでも一夜の中(うち)に崩れ、当惑の折から、名も知らぬ老婆現れ来たり、臼のような小さい石を一つ、石垣の上に置いたら、それから無事に積み上げることができたと、現今では説明せられている。この城の守護神は老女では決してないが、最も威霊のある女性の神であったことは、この話とともに注意してみねばならぬ」(柳田國男「史料としての伝説・関のおば石」「柳田国男全集4・P.362~363」ちくま文庫)
老女・老婆には霊力が宿ると信じられていた時代。このような犠牲は後を絶つことなくどんどん行われていた。なかでも「童子」に与えられた聖性とそれに基づく犠牲祭は最も有力なものだ。
「人柱の企てが最初犠牲(いけにえ)となるべき者の暗示に基づき、その暗示は多分歌の形をもって与えられたことと、親子夫婦というがごとき関係にある者が二人以上、同時にこの運命に殉じたというのが、上古以来の伝説に一貫した要素であったらしいことが、『築島寺縁起』のごとき近世の一例からでも、幽(かす)かながらこれを推測し得るのである。松王健児が不意に現われて三十人の命に代り、それが実は大日王の化身であって、島成就のためにしばらくこの奇瑞(きずい)を示されたと説くのは、すっかり伝統の型を破ったもののようだが、なお彼がいたいけな童形であり、また惜み悲しまるる人の子であったという点において、弘く東西の諸民族に共通なる犠牲説話の条件を守っているとも見られ得る。そうしてあるいは偶然かも知らぬが、注意すべきは八幡神の信仰をもって、その遠い記念を包んでいるのである」(柳田國男「妹の力・松王健児の物語」『柳田國男全集11・P.145』ちくま文庫)
柳田が引用する「松王健児」は世にも美しい「童子」として唐突に出現する。幸若舞「築島」から引用した。下をクリック↓
熊楠による熊野案内/童子童女そして若宮
ちなみに弁慶は武蔵坊弁慶と名乗る前「鬼若」(おにわか)と名乗っていた。源義経の幼名は「牛若」(うしわか)。両者は対になっている。そして二人とも京の都に近い修験道場「鞍馬山」から登場してくる。共通性は「若」であり熊野の王子信仰と同様のものだ。さらに牛若・鬼若ともに鎌倉幕府創設者・源頼朝を大々的に支援するにもかかわらず頼朝とはまったく異なった出現方法が採用されている。さらに「天狗」に関して幸若舞「未来記」にこうある。一者目の天狗は牛若・鬼若の出現地と同じ愛宕山にいる。名前もある。
「愛宕(あたご)の山の太郎坊(たらうぼう)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)
二者目の天狗について。
「平野(ひらの)山の大天狗(てんぐ)」(新日本古典文学体系「未来記」『舞の本・P.306』岩波書店)
この「平野(ひらの)山」は今の滋賀県大津市比良(ひら)山のこと。「平野(ひらの)山の大天狗(てんぐ)」はその名を「次郎坊」(じろうぼう)といった。愛宕山と比良山系とは山岳地帯を通して地続きだが、天狗の名においてもまた両者は「太郎坊・次郎坊」というふうに対になっている点に注意しよう。牛若・鬼若にせよ太郎坊・次郎坊にせよ、どちらも山岳地帯から出現してくるとともに怪異な力を発揮する。こうした山神信仰は「熊野の本地の草子」に出てくる金剛童子のように、いつも怪異な力の持ち主として描かれる。しかしそれには明確な理由が認められる。記紀神話で実の兄妹(いもせ)の関係に当たる伊弉諾尊(イザナギノミコト)・伊弉冉尊(イザナミノミコト)が性交して子造りを始める。最初に生まれた嬰児はどうなったか。
「遂(つひ)に為夫婦(みとのまぐはひ)して、先づ蛭児(ひるこ)を生む。便(すなは)ち葦船(あしのふね)に載(の)せて流(ながしや)りてき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第四段・P.28」岩波文庫)
蛭児〔=不具児〕は海へ流される。だが民族創造神話に出てくるこの種のエピソードは少なくない。日本書紀はもちろん、沖縄周辺から台湾、さらにインドネシアと、東南アジア一帯に広く分布する。しかもなお、この種のエピソードは民族創造神話の根本的部分として大変長く記憶の底に刻み込まれる。と同時に発生するのが若王子(にゃくおうじ)信仰である。熊野が古代宮廷から続くミソギの地として若くして死んだ王子らを祭る強力な伝統を形成しているのもその点に根拠を持つ。
ちなみに越前から越後にかけて「親知らず」と呼ばれる峻険な海岸が打ち続いていることはよく知られているが、三重県熊野市から和歌山県新宮市へ続く七里御浜(巡礼路)の途中にも「親知らず子知らず」という難所がある。熊野市は三重県に編入される前、もともと熊野の南牟婁郡に属していた。だからといって周辺地域に住む人々を単純に「熊野人」としてひとくくりにして考えるには困難な事情がある。
「熊野の地は、紀伊の國の中で一区画をなして居り、其が時代に依つて境を異にしてゐたらしい。昔ほど廣く、北方に擴つてゐて、所謂普通の紀伊國の地域を狭めてゐた。思ふに此は、南紀伊地方にゐた種族の暴威を振ふ者の、勢力を張つた時代は、遥かに北に及び、其衰へた時は、境界線が後退してゐたからだらう。奈良朝前後では、南北東西牟婁郡の範囲も定つて、北西の限界は、日高郡岩代附近と言ふことになつてゐたらしいが、熊野の祭祀の中心たるべき日前(ヒノクマ)・國懸(クニカカス)の社(ヤシロ)が、更にその北にある事は、其以前の熊野領域を示すのだ。古事記・日本紀の文脈を見ると、更に古代の熊野の領域が、北に擴つて居り、紀の川・吉野川南部の山地は、大和・吉野へかけて一体に、熊野人の勢力範囲であり、唯海岸に沿ふ部分が僅に南へ熊野以外の地として延びて居た、と言ふ事が出来る」(折口信夫「大倭宮廷の剏業期」『折口信夫全集16・P.222』中公文庫)
折口のいう通りなら海岸沿いの「大辺路」(おおへじ)の一部は「熊野人」の活動圏外ということになってしまい「中辺路」(なかへじ)だけが「熊野人」の活躍地帯として限定される。とはいえ、山陰の若狭湾に残る八百比丘尼伝説とともに、吉野・熊野、そして伊勢から奥三河にかけて、熊野信仰とともに移動した芸能民の中に座頭を始めとする様々な不具者、「女語り」の者(比丘尼)、皇室に奉仕した吉野の国栖など、古代から中世にかけてかなり広く芸能民並びに職能民による大きな三角形が形成されていたことはほぼ間違いないだろう。それとはまた別の交通路を定期的に回遊する民としてサンカが考えられる。芸能民もまた遊牧民のように一年を通して様々な地域を巡業して廻っていたわけだが、回遊性という点では同じでも生活様式がまったく異なっていたがゆえ、サンカは芸能民からも疎まれることが少なくなかったことは中里介山「大菩薩峠」の中で描かれている。それについては追い追い機会を見て述べていきたい。それよりも今は、錯綜を繰り返して明確にはわからなくなっているサンカに関する過去の情報を二〇〇四年(平成十六年)になってさえ「出汁」(ダシ)に持ち出し、何度も繰り返し人権に関する「特措法」を延長させることで自分たちの既得権益をどこまでも拡張し、今では驚くべきことに政府与党の大規模支持母体を形成している複数の支持団体に狙いを付けなければならない。例えば、地区出身の故・野中広務が被差別を大々的に自民党と接続させ、なおかつ山陰地方での蟹の売買を媒介とした北朝鮮利権も自民党へ流れ込むように持っていった。一見野党に見える社民党もパチンコ利権でかろうじて存続してきたがパチンコ利権自体がもうそろそろ終焉に向かっている。そのような政治団体とそれを支持する複数の支持母体とを徹底的に究明しなくては、拉致問題を始めとする人身売買反対の象徴「ブルーリボン」の存在意義はなくなってしまう。ブルーリボンは日韓・日朝だけでなく人身売買反対〔奪還〕運動に関し、今や世界中で公認されている保証である。
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