日本でも中世は人買い(人身売買)が横行した。とりわけ子どもは長い目でみれば男女問わず労働力として大人よりも高値で売れ転売もされた。善悪は別として「人買い(人身売買)」がなければたちまち食っていけなくなる家々が続出するほかない時代だったからだ。謡曲「角田川」(すみだがわ)はその頃を背景に描かれたもの。ただ「角田川」の設定は、子(梅若丸)の母が人買い(人身売買)に同意したわけではなく、知らぬ間に誘拐されたことになっている。そこで母は子(梅若丸)を探しに京都から江戸まで出てくる。謡曲の定石通り、旅の僧が子どもの消息について語る。
「扨(さて)も去年(きよねん)三月(さんぐわち)十五日、しかも今日(けふ)に相当(あひあたり)て候、人(ひと)商人(あきびと)の都より、年(とし)の程(ほど)十二、三計(ばかり)なる幼(おさな)き者を買(かひ)とつて奥へ下(くだ)り候が、此幼(おさな)き者(もの)いまだ慣(なら)はぬ旅の疲(つか)れにや、以外(もつてのほか)に違例(ゐれい)し、今は一足(あし)も引(ひ)かれずとて、この川岸にひれ伏(ふ)し候を、なんぼう世には情(なさけ)なき者の候ぞ、此幼(おさな)き者(もの)をば其まま路次(ろし)に捨(す)てて、商人は奥(おく)へ下(くだ)りて候、去間(さるあいだ)此辺(へん)の人々、この幼(おさな)き者の姿を見候に、由(よし)ありげに見え候程に、様々にいたはりて候へ共(ども)、前世(ぜんぜ)の事にてもや候ひけん、たんだ弱(よは)り、すでに末期(まつご)と見えしとき、おことはいうくいかなる人ぞと、父の名字(みやうじ)をも国をも尋(たづね)て候へば、我は都北白河に、吉田の某(なにがし)と申(まうし)し人の唯独こ(ひとりご)にて候が、父には後(をく)れ母計(ばかり)に添(そ)ひ参らせ候ひしを、人商人に拐(かど)はされて、か様(やう)に成行(なりゆき)候、都の人の足(あし)手影(かげ)も懐(なつ)かしう候へば、此道の辺(ほとり)に築(つ)き込(こ)めて、しるしに柳を植(う)ゑて給はれと、おとなしやかに申(まうし)、念仏四、五反(へん)唱(とな)へ終(つゐ)に事終(ことをは)つて候」(新日本古典文学体系「角田川」『謡曲百番・P.342』岩波書店)
慣れない旅の疲れゆえか相当疲労している様子で死んでしまった。放っておくわけにもいかず、故郷のことを尋ねた後、近隣の人たちが集まってすでに塚を築いて弔ったとのこと。梅若丸を訪ねてやって来た母はいう。
「今迄はさりとも逢(あ)はむを頼(たの)みにこそ、知(し)らぬ東(あづま)に下(くだ)りたるに、今は此世になき跡の、しるし計(ばかり)を見る事よ」(新日本古典文学体系「角田川」『謡曲百番・P.343』岩波書店)
とはいえ、熊楠はいたって冷静。人身売買は中世どころか、日本の地方へ行けばほんのつい最近まで、半ば公然と行われていたからである。例えば水上勉が幾つかの小説で描いているようにその風習は昭和に入ってなお存続していた。また、人身売買と関係あるのかどうかもはやわからなくなっているが、なぜこんなところにわざわざ「海岸沿いの道」があるのかと考えさせられる文章もある。
「越前と若狭(わかさ)の境界にある敦賀(つるが)の町から、北海岸を杉津(すいづ)の方へ入りこむと、山が海に迫って、断崖(だんがい)の切り立った、いわゆる河野断層といわれる荒々しい海岸につき当る。敦賀から今庄(いまじょう)へぬける北陸街道は、この断層海岸にむけて山中を通るから、海岸の道は、まったく人絶えてうら淋しかった。道は、断層をわけ入り、山間地にかくれるようにしてある孤村へ通じていた」(水上勉「棺」『越後つついし親不知・P.102』新潮文庫)
熊楠は「隅田川の梅若(うめわか)塚」一つ取っても考古学的研究材料としてはどれほどの価値があるかわからないにもかかわらず、日本政府の文化政策はまったく的外れこの上ないと呆れている。
「隅田川の梅若(うめわか)塚は徳川中世の石出帯刀の築きし所にして、その神像は大工棟梁溝口九兵衛の彫るところ、鴨立庵は三千風より名高くなり、その大磯の虎の像は元禄中吉原の遊人入性軒自得の作という。そんなものすら、それぞれ古雅優美なる点もありて、馬琴、京伝すでにそのことを追考し、立派に考古学の材料となりおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.430』河出文庫)
とともに熊楠が「梅若(うめわか)塚」を気にする理由は「梅」とか「塚」とかばかりを見ているからではない。問題の焦点はずばり「若」にある。柳田國男は「梅若忌」について「梅王子」と記述しつつ述べる。
「梅王子という神様は関東諸国にもあって、今ではたいてい菅原天神と結び付けられている。そういう名の起りはおそらくは春の末、すなわち梅の若枝の伸び立つ盛りに、これを手に執って舞うことから出ているのであろうが、これがまた同じ季節の送り祭の一つになっていたとすれば、ここに美しい童児の死を主題とした、悲劇の結構せられる余地は十分にあったのである」(柳田國男「歳時小記・梅若忌(三月十五日)」『柳田國男全集16・P.74』ちくま文庫)
問題は「若」であり「王子」なのだ。熊野王子社「九十九所」。幼くして死んだ人々への鎮魂。近松門左衛門は「けいせい反魂香」の中で一章を設け、それを物づくしの方法で語り上げている。
「飛鳥(あすか)の社濱(やしろはま)の宮(みや)。王子々々は九十九所。百に成りても思ひなき世は和歌〔若〕(わか)の浦(うら)、こずゑにかかる藤代(ふぢしろ)や、岩代峠(いはしろたうげ)潮見(しほみ)坂、かきうつす繪(ゑ)は残るとも我は残らぬ身と聞けばいとしやさこそ我が夫(つま)の、涙にくれて筆捨(ふです)て松の、しづくは袖に満(み)つ潮(しほ)の、新宮(しんぐう)の宮居(みやゐ)かうかうと、出島(じま)に寄(よ)する磯(いそ)の浪(なみ)、岸(きし)打つ浪(なみ)は補陀落(ふだらく)や那智(なち)は千手、観世音(くわんぜおん)、いにしへ花(くわ)山の、法皇(ほふわう)の、后(きさき)のわかれを、戀ひしたひ、十善(ぜん)御身を捨(す)て高野(かうや)西國熊野(くまの)へ三度(ど)、後生前生(ごしやうぜんしやう)の宿願(しゆくぐわん)かけて、發心門(ほつしんもん)に入る人は神や受(う)くらん御本社(ほんしや)の、證誠殿(しようじやうでん)の階(しざはし)をおいてくだりて、待ちうけ悦び給ふとかや、我はいかなる罪業(ざいごふ)の、其の因縁(いんえん)の十二社(しや)をめぐる輪廻(りんゑ)をはなれねば、うたがひふかき音無川(おとなしがは)ながれの、罪(つみ)をかけて見る業(ごふ)のはかりの重(おも)りには、それさへ軽(かる)き盤石(ばんじやく)の、岩田川(いはたがは)にぞ着きにける、垂迹和光(すいしやくわくわう)の方便にや名所々々宮立ちまで、顕はれ動(うご)き見えければ元信信心肝(しんじんきも)にそみ、我が書(か)く筆とも思はれず目(め)をふさぎ、南無(なむ)日本第一霊験(りやうげん)、三所権現(ごんげん)と伏(ふ)しをがみ、頭(かうべ)をあげて目(め)をひらけば南無(なむ)三寶、さきに立ちたる我が妻はまっさかさまに天を踏(ふ)み、両手をはこんで歩(あゆ)み行く、はっとおどろき是なう浅ましの姿やな、誠や人の物語死(し)したる人の熊野詣(くまのまう)では、あるひはさかさま後向(うしろむ)き生(い)きたる人には變(かは)ると聞く、立居に付けて宵(よひ)より心にかかること有りしが、扨はそなたは死(し)んだかと、こぼしそめたる涙よりつきぬ歎(なげ)きと成りにけり」(日本古典文学体系「けいせい反魂香・三熊野かげろふ姿(すがた)」『近松浄瑠璃集・下・P.166~167』岩波書店)
記紀編纂期には既にあった熊野信仰。梅と菅原道真の怨霊=御霊とが結びつけられるより遥かに古い太古の昔、目を覆うほど大量の幼子の悲惨があった。にもかかわらず資本主義とはまた違ったイデオロギーに過ぎない新自由主義を推し進める日本政府の現状は、可視化されなくなったぶん、もはや気の遠くなるばかりの悲惨さを呈している。ロスジェネ世代すらまだ救えていない。自殺者も引きこもりもとてもではないが改善したとは言えない。むしろ問題をこじらせてばかりいる。そんなことでは国会議事堂の存在意義すら疑わしくなってくるのだ。
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「扨(さて)も去年(きよねん)三月(さんぐわち)十五日、しかも今日(けふ)に相当(あひあたり)て候、人(ひと)商人(あきびと)の都より、年(とし)の程(ほど)十二、三計(ばかり)なる幼(おさな)き者を買(かひ)とつて奥へ下(くだ)り候が、此幼(おさな)き者(もの)いまだ慣(なら)はぬ旅の疲(つか)れにや、以外(もつてのほか)に違例(ゐれい)し、今は一足(あし)も引(ひ)かれずとて、この川岸にひれ伏(ふ)し候を、なんぼう世には情(なさけ)なき者の候ぞ、此幼(おさな)き者(もの)をば其まま路次(ろし)に捨(す)てて、商人は奥(おく)へ下(くだ)りて候、去間(さるあいだ)此辺(へん)の人々、この幼(おさな)き者の姿を見候に、由(よし)ありげに見え候程に、様々にいたはりて候へ共(ども)、前世(ぜんぜ)の事にてもや候ひけん、たんだ弱(よは)り、すでに末期(まつご)と見えしとき、おことはいうくいかなる人ぞと、父の名字(みやうじ)をも国をも尋(たづね)て候へば、我は都北白河に、吉田の某(なにがし)と申(まうし)し人の唯独こ(ひとりご)にて候が、父には後(をく)れ母計(ばかり)に添(そ)ひ参らせ候ひしを、人商人に拐(かど)はされて、か様(やう)に成行(なりゆき)候、都の人の足(あし)手影(かげ)も懐(なつ)かしう候へば、此道の辺(ほとり)に築(つ)き込(こ)めて、しるしに柳を植(う)ゑて給はれと、おとなしやかに申(まうし)、念仏四、五反(へん)唱(とな)へ終(つゐ)に事終(ことをは)つて候」(新日本古典文学体系「角田川」『謡曲百番・P.342』岩波書店)
慣れない旅の疲れゆえか相当疲労している様子で死んでしまった。放っておくわけにもいかず、故郷のことを尋ねた後、近隣の人たちが集まってすでに塚を築いて弔ったとのこと。梅若丸を訪ねてやって来た母はいう。
「今迄はさりとも逢(あ)はむを頼(たの)みにこそ、知(し)らぬ東(あづま)に下(くだ)りたるに、今は此世になき跡の、しるし計(ばかり)を見る事よ」(新日本古典文学体系「角田川」『謡曲百番・P.343』岩波書店)
とはいえ、熊楠はいたって冷静。人身売買は中世どころか、日本の地方へ行けばほんのつい最近まで、半ば公然と行われていたからである。例えば水上勉が幾つかの小説で描いているようにその風習は昭和に入ってなお存続していた。また、人身売買と関係あるのかどうかもはやわからなくなっているが、なぜこんなところにわざわざ「海岸沿いの道」があるのかと考えさせられる文章もある。
「越前と若狭(わかさ)の境界にある敦賀(つるが)の町から、北海岸を杉津(すいづ)の方へ入りこむと、山が海に迫って、断崖(だんがい)の切り立った、いわゆる河野断層といわれる荒々しい海岸につき当る。敦賀から今庄(いまじょう)へぬける北陸街道は、この断層海岸にむけて山中を通るから、海岸の道は、まったく人絶えてうら淋しかった。道は、断層をわけ入り、山間地にかくれるようにしてある孤村へ通じていた」(水上勉「棺」『越後つついし親不知・P.102』新潮文庫)
熊楠は「隅田川の梅若(うめわか)塚」一つ取っても考古学的研究材料としてはどれほどの価値があるかわからないにもかかわらず、日本政府の文化政策はまったく的外れこの上ないと呆れている。
「隅田川の梅若(うめわか)塚は徳川中世の石出帯刀の築きし所にして、その神像は大工棟梁溝口九兵衛の彫るところ、鴨立庵は三千風より名高くなり、その大磯の虎の像は元禄中吉原の遊人入性軒自得の作という。そんなものすら、それぞれ古雅優美なる点もありて、馬琴、京伝すでにそのことを追考し、立派に考古学の材料となりおる」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.430』河出文庫)
とともに熊楠が「梅若(うめわか)塚」を気にする理由は「梅」とか「塚」とかばかりを見ているからではない。問題の焦点はずばり「若」にある。柳田國男は「梅若忌」について「梅王子」と記述しつつ述べる。
「梅王子という神様は関東諸国にもあって、今ではたいてい菅原天神と結び付けられている。そういう名の起りはおそらくは春の末、すなわち梅の若枝の伸び立つ盛りに、これを手に執って舞うことから出ているのであろうが、これがまた同じ季節の送り祭の一つになっていたとすれば、ここに美しい童児の死を主題とした、悲劇の結構せられる余地は十分にあったのである」(柳田國男「歳時小記・梅若忌(三月十五日)」『柳田國男全集16・P.74』ちくま文庫)
問題は「若」であり「王子」なのだ。熊野王子社「九十九所」。幼くして死んだ人々への鎮魂。近松門左衛門は「けいせい反魂香」の中で一章を設け、それを物づくしの方法で語り上げている。
「飛鳥(あすか)の社濱(やしろはま)の宮(みや)。王子々々は九十九所。百に成りても思ひなき世は和歌〔若〕(わか)の浦(うら)、こずゑにかかる藤代(ふぢしろ)や、岩代峠(いはしろたうげ)潮見(しほみ)坂、かきうつす繪(ゑ)は残るとも我は残らぬ身と聞けばいとしやさこそ我が夫(つま)の、涙にくれて筆捨(ふです)て松の、しづくは袖に満(み)つ潮(しほ)の、新宮(しんぐう)の宮居(みやゐ)かうかうと、出島(じま)に寄(よ)する磯(いそ)の浪(なみ)、岸(きし)打つ浪(なみ)は補陀落(ふだらく)や那智(なち)は千手、観世音(くわんぜおん)、いにしへ花(くわ)山の、法皇(ほふわう)の、后(きさき)のわかれを、戀ひしたひ、十善(ぜん)御身を捨(す)て高野(かうや)西國熊野(くまの)へ三度(ど)、後生前生(ごしやうぜんしやう)の宿願(しゆくぐわん)かけて、發心門(ほつしんもん)に入る人は神や受(う)くらん御本社(ほんしや)の、證誠殿(しようじやうでん)の階(しざはし)をおいてくだりて、待ちうけ悦び給ふとかや、我はいかなる罪業(ざいごふ)の、其の因縁(いんえん)の十二社(しや)をめぐる輪廻(りんゑ)をはなれねば、うたがひふかき音無川(おとなしがは)ながれの、罪(つみ)をかけて見る業(ごふ)のはかりの重(おも)りには、それさへ軽(かる)き盤石(ばんじやく)の、岩田川(いはたがは)にぞ着きにける、垂迹和光(すいしやくわくわう)の方便にや名所々々宮立ちまで、顕はれ動(うご)き見えければ元信信心肝(しんじんきも)にそみ、我が書(か)く筆とも思はれず目(め)をふさぎ、南無(なむ)日本第一霊験(りやうげん)、三所権現(ごんげん)と伏(ふ)しをがみ、頭(かうべ)をあげて目(め)をひらけば南無(なむ)三寶、さきに立ちたる我が妻はまっさかさまに天を踏(ふ)み、両手をはこんで歩(あゆ)み行く、はっとおどろき是なう浅ましの姿やな、誠や人の物語死(し)したる人の熊野詣(くまのまう)では、あるひはさかさま後向(うしろむ)き生(い)きたる人には變(かは)ると聞く、立居に付けて宵(よひ)より心にかかること有りしが、扨はそなたは死(し)んだかと、こぼしそめたる涙よりつきぬ歎(なげ)きと成りにけり」(日本古典文学体系「けいせい反魂香・三熊野かげろふ姿(すがた)」『近松浄瑠璃集・下・P.166~167』岩波書店)
記紀編纂期には既にあった熊野信仰。梅と菅原道真の怨霊=御霊とが結びつけられるより遥かに古い太古の昔、目を覆うほど大量の幼子の悲惨があった。にもかかわらず資本主義とはまた違ったイデオロギーに過ぎない新自由主義を推し進める日本政府の現状は、可視化されなくなったぶん、もはや気の遠くなるばかりの悲惨さを呈している。ロスジェネ世代すらまだ救えていない。自殺者も引きこもりもとてもではないが改善したとは言えない。むしろ問題をこじらせてばかりいる。そんなことでは国会議事堂の存在意義すら疑わしくなってくるのだ。
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