白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/森林濫伐と俄(にわか)成金

2020年12月14日 | 日記・エッセイ・コラム
地域の生態系が多く森林から成り立っているような熊野の場合、その森林の濫伐は自然災害を容易に招くことになると熊楠は警戒していた。

「合祀励行のために人民中すでに姦徒輩出し、手付金を取りかわし、神林を伐りあるき、さしも木の国と呼ばれし紀伊の国に樹木著しく少なくなりゆき、濫伐のあまり、大水風害年々聞いて常事となすに至り、人民多くは淳朴の風を失い、少数人の懐が肥ゆるほど村落は日に凋落し行くこそ無残なれ」(南方熊楠「神社合祀に関する意見」『森の思想・P.497~498』河出文庫)

しかし神社合祀によって森林の濫伐が実行されてしまった結果、熊野の生態系は大きく変わってしまった。熊楠が生きている間でさえ、それまで生息していた熊野固有の様々な希少植物は姿を消していった。このような傾向は今なお日本に残っている。というよりずっと大規模な形で行われるようになった。政府・官僚組織がいったん決定してしまうと留まるところを知らない。

さて、江戸時代。西鶴が生きていた頃、漆の採取には特別に免許を与えられなければならず、勝手に採取するのは犯罪だった。そんな当時、上州・宇都宮に「漆屋武太夫(うるしやたけだいふ)と云ふ商人(あきんど)」がいた。始めのうちは山地に入って硫黄などを採取して細々と暮らしていた。ところが僅か四、五年で急に大金持ちになった。周囲の人々は不思議に思った。

「宇都宮(うつのみや)と云ふ所に住みし、漆屋武太夫(うるしやたけだいふ)と云ふ商人(あきんど)なるが、始めはわづかに、硫黄(いわう)・燈心を、肩に置きて、山家(やまが)にかよひて、世をわたりけるが、未(いま)だ四、五年に出来分限(できぶげん)、人もふしぎ立てける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・心をのまるる蛇の形」『井原西鶴集2・P.252』小学館)

それというのも、山中の川沿いを奥へ入っていったところに「黒き物、山のごとく見えけるを一抓(ひとつか)み、取りてあがれば、峰より、年々流れ込みて、かたまりし漆」だった。古くから高級品として扱われてきた漆が「黒き物、山のごとく」固まって川底に溜まっているのを発見した。山奥の川底で発見したからか誰も見ていない。武太夫は黙ってそれを密採取し商売変えしてにわか成金となった。

「ある時、淵(ふち)と思ふ所を捜(さが)しけるに、黒き物、山のごとく見えけるを一抓(ひとつか)み、取りてあがれば、峰より、年々流れ込みて、かたまりし漆なれば、忍びて器(うつわもの)を拵(こしら)へ、我(わ)が宝にして、取りて帰り、これを商売するにぞ、只(ただ)取る金銀、後(のち)には、置き所もなかりし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・心をのまるる蛇の形」『井原西鶴集2・P.253~254』小学館)

ちなみに、多くの河川の上流から海に流れ込んで黒々とした漆の大きな塊ができるという話は他にも見られる。例えば、「阿波(あは)の鳴門(なると)」の場合。ここでも「小山の程なる黒き物」が突然浮き上がることがあり、それは何かというと漆の塊だったとされる。

「阿波(あは)の鳴門(なると)を目前に、渦(うづ)のさかまくその中より、小山の程なる黒き物びつと浮き出で、行く水につれて流れしを、見る人、『鳥羽(とば)の車牛(くるまうし)ならん』と指さしけるに、牛には大きすぎたるに心を付け、これを跡よりしたひ行くに、渚(なぎさ)の岸根(きしね)なる松にかかりて留りけるを、立ちより見れば、年々(としどし)四十八川の谷々より流れかたまりし漆(うるし)なり」(日本古典文学全集「日本永代蔵・巻三・四・身代かたまる淀川の漆」『井原西鶴集3・P.252~253』小学館)

武太夫は独占欲のとりこになった。ほとんど何もしなくても川に潜るだけでたんまり漆が取れ、たちまち金銀と交換されて財力は嫌が上にもうなぎ上り。もし万が一他人に知られても怖い思いをさせて追い払おうと、腕のよい細工師に頼んで恐ろしげな竜の置き物を作らせ、それを川底に沈めて置いておき、人避けの魔物とした飾っておいた。

「細工の上手(じやうず)に、竜(りよう)をつくらせ、水中に沈め置きし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・心をのまるる蛇の形」『井原西鶴集2・P.254』小学館)

さらに武太夫は自分の息子の武助に実はこういうことなのだと一部始終を話して聞かせ、漆取りを手伝わせるため川に潜る練習をさせた。そのとき、人避けに置いておいた竜にいきなり「魂」が入って怪物のごとく暴れ出した。竜は牙で息子の武助を咥えさんざん振り回している。上半身だけを残して助けを求めている。だが多分命はない。それにしてもあまりにも悲惨で壮絶な光景だ。戦後の映画でいえば「ジョーズ」のラストシーンを思わせる。武太夫はいっぺんに落胆したのか自分も川底の深くへ身を沈めて自殺した。「二人ともに、息絶えて、二十四時(どき)を過ぎて、骸(からだ)の上がりける」。二十四時(どき)は約四十八時間。人間が遭難してから死ぬまで今でもだいたいそれくらいがタイムリミットとされている。

「己(おの)が一子に、武助(ぶすけ)といひし、十四なるを、引き連れて、かの淵(ふち)に行きて、次第を語り聞かせ、『我(わ)がごとく、取りならへ』と、親子とも、入りしに、最前の竜(りよう)に精ありて、武助をくはへて、振るとみえしを、かなしく、藻屑(もくづ)の下に、身を沈め、二人ともに、息絶えて、二十四時(どき)を過ぎて、骸(からだ)の上がりける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・心をのまるる蛇の形」『井原西鶴集2・P.254~255』小学館)

しかしなぜただ単なる細工物の竜にいきなり魂が入ったのか。作り物や細工物であっても、例えば新しい仏壇を購入した場合など、最初に「魂(たま)入れ、性根(しょうね)入れ」という作業を行う。そして始めてそこに故人の精神が宿るとされる。大きな仏像などの場合は「開眼供養」(けいげんくよう)などと呼ばれる。眼を入れると同時に魂が宿るとされた。しかしなぜ竜は急に暴れ出したのか。山間部の河川は突然増水することがしばしばだった。漆がそこで塊になっていたのも河川の流水がいったんそこで止まるほどの溜まり場になっていたからかと考えられる。そこへ急な増水に襲われ飲み込まれた結果、二人とも命を失ったのかもしれない。しかし山中には時々、正式な役人が見回りに来る制度があった。漆は古代から高級品だったため、とりわけ上品の取れる場所は山岳地帯を見廻る警察が巡回していた。江戸時代には「山奉行」がいた。ところが武太夫による漆の密採取は四、五年ものあいだ見つかっていないことになっている。おかしくはないだろうか。しかもその間、すでに大金持ちとして堂々と人目に付くようになっている。おそらく武太夫が約五年も密採取でたんまり儲けることができていたのは、この「山奉行」に幾ばくかの賄賂を渡していたからに違いない。ところが賄賂を取って武太夫の無免許漆取りを見逃しておくとしても、所詮は地方の山間部の「山奉行」に過ぎない。自分自身にもいずれ上層部から疑惑の目が向く。そこでもうこの当たりで逮捕したほうが「山奉行」自身の身のためだと考えた「お上」が突然武太夫を押領の罪禍で逮捕して世間に公表し、贈収賄の事実を知っている武太夫を川底に沈めて殺した。そんなところだろう。当時の法律は連累性なので家族も地所、家財などすべて没収され、村落から追放される。するともう本当は何があったかを知る村民は誰一人として残らないというわけだ。

「この事、顕(あら)はれ、『数年(すねん)、かやうの事を、押領(あふりやう)せき科(とが)』とて、この家、闕所(けつしよ)せられて、親は所を立退(たちの)き、漸々(やうやう)、命を助かり、悲しき浮世に住みぬ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・心をのまるる蛇の形」『井原西鶴集2・P.255』小学館)

ところで武太夫の妻はなるほど生きたまま残される。が、この場合、妻は親類もいない女性だったため、そのまま物乞いとなり町中をうろうろして生きていくほかなくなった。けれども世間の目というものはいつだって冷たいものだ。卑怯でもある。お上に逆らえば今度は自分の身に危険がおよぶ。

「女は、親類とてもなき者なれば、そのままの乞食(こつじき)となりて、恥を顧みず、人の門(かど)に、立ちぬ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・心をのまるる蛇の形」『井原西鶴集2・P.255』小学館)

一人残された武太夫の妻は物乞いになって村人の家の前に立っていたけれども、使った後に道端に捨てるだけの水の一滴すら与えてもらうことができず、しばらくして餓死した。どういうことだろうか。西鶴が「本朝二十不孝」を出版したとき、ほんの少し前から「不孝」ではなく「孝」を主題とした道徳本が大量に出版され徳川政権の道徳教科書として売り出された。どんな理由があったとしても幕府の命に逆らった場合は容赦しないという内容であり、そのタイトルに「不孝」ではなく「孝行」を持ってきて全面的に売り出した。しかし世の中で急速に蔓延し出した幕府による賄賂政治・密告主義に関し、見聞の広い西鶴はよく知っていた。そこで表向きの「孝」に対して「不孝」を掲げることで、わかる読者にはわかる理不尽な世間の政治構造をからかって見せたのだった。小説家としての西鶴の評価はすでに不動のものだが、昭和になってからもなお志賀直哉があえて評しているように、なかなか図太い精神の持主だったようだ。

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