熊楠が論考「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」の中で「伊勢物語」から次の歌を引いているのは以前述べた。
「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)
ところで「古今和歌集」に次の歌がある。
「宮城野(みやぎの)のもとあらの小萩露を重ね風を待つごと君をこそまて」(「古今和歌集・巻第十四・六九四・P.166」岩波文庫)
両者を合わせて用いるとたちまち一編の小説が出来上がる。形式上は唐朝中国の「離魂記」をモデルにした一編と考えられるが、ただ単なる盗用ではもちろんなく、ましてや焼き直しとは何ら関係なく、むしろこの形式にヒントを得て江戸時代に大流行した男性同性愛小説へ仕上げたところに西鶴の並々ならぬ手腕が窺われる。
仙台藩(伊達藩)城下の「芭蕉(ばせう)が辻(つじ)」の町外れで薬屋を営む「小西の十助」という男性がいた。「芭蕉(ばせう)が辻(つじ)」は仙台城下の中心地。正式な「札の辻」として十字路をなす交差点だったこと、そして芭蕉と名乗る虚無僧が住んでいたことからそう呼ばれる。虚無僧・芭蕉は仙台藩主・伊達政宗の間諜(諜報部員=スパイ)を務めた功労賞としてこの地の建物を与えられたらしい。旧・国分町、南町の道と大町、新伝馬町の道との交差点。今の仙台市大町一丁目に当たる。
「仙台の城下(しろじた)に入りて、芭蕉(ばせう)が辻(つじ)といふ所の町はづれに、小西の十助といへる薬屋のありける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.381』小学館)
そこへ「伴(ばん)の市九郎とて津軽町人(つがるちやうにん)」が通りかかる。根っからの男色愛好家でこれから江戸の日本橋堺町(さかいちょう)へ向かい、近頃飄然と評判を上げた歌舞伎役者・出来嶋小曝(できしまこざらし)に近づいてみたいものだと出かける途中である。出来嶋は寛文初年(一六六一)、江戸で若衆方として登場。若女方も務め、美貌・舞・小唄で一躍人気役者となった。延宝五年(一六七七)には舞台から降りたようだが、その理由は身長が伸び過ぎたためだという。出来嶋の場合、若衆方・若女方を演じていた頃が花盛りだったのだろう。
「この男は伴(ばん)の市九郎とて津軽町人(つがるちやうにん)、一念に若色(じやくしよく)あさからぬすき人、この度の江戸心ざしも、堺町(さかひちやう)に近年の出来嶋(できじま)、見ぬこざらしをこがれて、奴(やつこ)作兵衛がもとへ、しるべの方より状を付けられて、若道(じやくだう)ぐるひばかりにのぼる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.382』小学館)
そんな伴市九郎の粋な姿をそっと見ていた薬屋十助の息子で伽羅(きゃら)にばかり凝っている十太郎。突然、市九郎を見染めてしまう。その気持ちの入れようは尋常でない。これまで数百に上る恋文を受け取ってきたけれど読んだことは一度もない。だから世間から情け知らずだと嫌味を言われてきたが、それというのも、この人と思える兄分に出会うことができずに来たがゆえのこと。けれども市九郎に一目惚れしてしまった。これこそまさに命懸けの恋情ではと自分でも思える。是非、男色の契りを固く結び合いたい、とおもう。
「我かく前髪のさかりといふとも、五(いつ)とせまでの花にもあらず。額(ひたひ)に毛貫(けぬき)のかねに、散るべきもやがてなり。今まで数百(すひやく)人のかよはせ文つひにあけず、諸人に情しらずと名に立つも、気に入りたる兄分見えわたらぬゆゑぞかし。今の男この心入れをふびんとおもはば、身にかへての念比(ねんごろ)したし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.382』小学館)
その時から十太郎は市九郎のことが気になって仕方がない。目には狂気の色が血走り、長刀を取り出し鞘をはずしてじっと待ち始めた。周囲は恋情から狂気を帯びた十太郎の不気味な様子を怖れながら、かといって何もせず放っておくわけにもいかない。ここで十太郎が見せる狂気の色には過去を思い起こさせる意味がある。薬屋を営む十助には長年子供がなかった。そこで「躑躅(つつじ)が岡の天神」に夫婦で籠もってみたところ、或る夜の夢に見た内容は、緋縮緬(ひじりめん)でできた褌(ふんどし)が落ち掛かって、胎内に子が宿るというものだった。「躑躅(つつじ)が岡の天神」は「榴岡」(つつじがおか)とも書き、今は「榴岡公園」(つつじがおかこうえん)」として市民に開放されている。仙台市宮城野区。古く歌に詠まれた「宮城野」の名を留めている。
そうして生まれた十太郎は伝説・説話の登場人物に漏れず神童ぶりを発揮している。五歳の時、習ったことのない字を大書した絵馬を奉納している。さらに十三歳で「夏の夜の短物語(みじかものがたり)といふ草子(さうし)」という小説を書き上げ、早くも恋情の機微に通じた早熟な童子として注目された。「夏の夜の短物語(みじかものがたり)」は熊楠の愛読書の一つ・御伽草子「秋の夜長の物語」を西鶴がもじって付けたタイトル。「秋の夜長の物語」は以前取り上げたが、「太平記」の戦乱を背景に、年上の律師と年下の美少年との同性愛を描いた美しくも悲しくはかない小説。主役級の美少年は近江・瀬田川へ身投げして自殺、他の登場人物も出家して山に籠もり生涯を終える。
「十三歳の時、夏の夜の短物語(みじかものがたり)といふ草子(さうし)に、逢(あ)うて別れを惜しむ、恋無常のさかひを作らるる程のこころ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.383』小学館)
十太郎はどこへ行ったかわからない市九郎への深い思いから精神を病み、身体も壊し、もはや死んでしまうのではというほど急速に衰える。周囲はもう明日には命がないだろうと考え、十太郎のため「経帷子(きやうかたびら)をぬはせ、早桶(はやをけ)をあつらへ、今宵(こよひ)の知死期(ちしご)を待つ」。「早桶(はやをけ)」は即席で仕立てた棺桶。
「大方(おほかた)はかぎりの浮世と極め、経帷子(きやうかたびら)をぬはせ、早桶(はやをけ)をあつらへ、今宵(こよひ)の知死期(ちしご)を待つ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.383』小学館)
遠のいていく意識の中で十太郎はいう。明日の夕方、市九郎は「琵琶首」の辺りを通るはず。そこで引き留め連れて来てほしいと。「琵琶首」は今の仙台市琵琶首丁。金融街。かつて刑場があったところ。なお、先に出ている「芭蕉(ばせう)が辻(つじ)」もかつて公開処刑の場だった。とはいえ、「芭蕉が辻」は同時に定期的に大規模な市が開かれる場であり、商業の中心地でもあった。刑場と市〔あるいは金融街〕との一致はそこが「無縁」の地として取り扱われた中世以来の名残である。
「うれしや、かのおもひ人、明日(あす)の西日(にしひ)の時分、かならずここを通りたまふ。それ是非に留(と)めてあはせよ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.383~384』小学館)
意識朦朧たる十太郎の言葉に半信半疑で人を琵琶首の辺りで見張らせておくと、本当に市九郎が通り過ぎるところへばったり出会った。ことの次第を話、ともかく、死にかけている十太郎のもとへ来てもらう。そこで十太郎はいう。なるほどわたしの身体はずっとここにありましたが、魂は奥州平泉中尊寺まで彷徨い出て、金堂の宿坊中で市九郎さんと抱き合い厚い契りを交わしました。その時、市九郎さんの着物の中に大事にしていた「伽羅(きやら)の割欠け」をそっと入れておきました。それはどうなったのでしょうと。
「からだは宿(やど)に、魂は先々(さきざき)につき添ひて、人こそ知らね幻(まぼろし)のたはぶれ、ことさら平和泉高館(ひらいづみたかだち)の旧跡一見したまひて、光堂(ひかりだう)の宿坊(しゆくばう)に一夜を明かしたまふ。旅夜着(たびよぎ)の下にこがれて、物いはぬ契りをこめ、左の袂(たもと)に伽羅(きやら)の割欠けを入れ置きしが、それは」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.384』小学館)
市九郎が着物を探ると確かに割欠けが出てきた。二人が半分づつ持っている割欠けを継ぎ合わせてみるとぴたりと一致した。さらに二つに割ってある伽羅の割欠けをそれぞれ薫いてみる。と、両方とも同じ香りを薫らせた。これこそ契りの深さを現わす何よりの証拠と考えた市九郎はその場で十太郎を貰い受け、馬を呼び「五つ橋を踏みならし、津軽にくだりけるとなり」とのことである。
「『うたがはせ給はぬ印(しるし)を見せ申すべし』と、かの木の欠けを取り出(いだ)し、つぎ合はすればひとつなり。炷(た)けば同じかをり、さては、と二世の契約ふかく、十太郎をもらひて、乗懸(のりか)け二疋(ひき)の足音いさみて、五つ橋を踏みならし、津軽にくだりけるとなり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.384~385』小学館)
この「五つ橋」は現在、仙台市青葉区と若林区とにまたがる「五橋」(いつつばし)として名を残している。
このエピソードもまた熊楠のいう「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」が、まだ「迷信」でなく、劇的な恋情ゆえ彷徨いでた魂が再び蘇った挿話の一つとして考えられるに違いない。熊楠はけっして祟りや迷信を信じない研究者だが、それゆえにこの種の、近代以前には信じられていた説話やそれを基に描かれた御伽草子・浮世草子にたいへん強い関心を示した。それはもとより熊野の森が近代化によって変形し、無数の動植物が消滅していく同時代を生きた科学者にとって是非とも保存しておくべき歴史的証言だったからにほかならない。人間にしろ動植物にしろ、それらの生存形態がどのように変化するかの前提となるのは生態系全体の変化を諸条件として変化あるいは絶滅する。欧米文化が大きく変化していた時期に留学経験を持った熊楠にとって、大規模な生活環境の激変なしに思想・信仰の変化もないということは自明の理だった。
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「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)
ところで「古今和歌集」に次の歌がある。
「宮城野(みやぎの)のもとあらの小萩露を重ね風を待つごと君をこそまて」(「古今和歌集・巻第十四・六九四・P.166」岩波文庫)
両者を合わせて用いるとたちまち一編の小説が出来上がる。形式上は唐朝中国の「離魂記」をモデルにした一編と考えられるが、ただ単なる盗用ではもちろんなく、ましてや焼き直しとは何ら関係なく、むしろこの形式にヒントを得て江戸時代に大流行した男性同性愛小説へ仕上げたところに西鶴の並々ならぬ手腕が窺われる。
仙台藩(伊達藩)城下の「芭蕉(ばせう)が辻(つじ)」の町外れで薬屋を営む「小西の十助」という男性がいた。「芭蕉(ばせう)が辻(つじ)」は仙台城下の中心地。正式な「札の辻」として十字路をなす交差点だったこと、そして芭蕉と名乗る虚無僧が住んでいたことからそう呼ばれる。虚無僧・芭蕉は仙台藩主・伊達政宗の間諜(諜報部員=スパイ)を務めた功労賞としてこの地の建物を与えられたらしい。旧・国分町、南町の道と大町、新伝馬町の道との交差点。今の仙台市大町一丁目に当たる。
「仙台の城下(しろじた)に入りて、芭蕉(ばせう)が辻(つじ)といふ所の町はづれに、小西の十助といへる薬屋のありける」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.381』小学館)
そこへ「伴(ばん)の市九郎とて津軽町人(つがるちやうにん)」が通りかかる。根っからの男色愛好家でこれから江戸の日本橋堺町(さかいちょう)へ向かい、近頃飄然と評判を上げた歌舞伎役者・出来嶋小曝(できしまこざらし)に近づいてみたいものだと出かける途中である。出来嶋は寛文初年(一六六一)、江戸で若衆方として登場。若女方も務め、美貌・舞・小唄で一躍人気役者となった。延宝五年(一六七七)には舞台から降りたようだが、その理由は身長が伸び過ぎたためだという。出来嶋の場合、若衆方・若女方を演じていた頃が花盛りだったのだろう。
「この男は伴(ばん)の市九郎とて津軽町人(つがるちやうにん)、一念に若色(じやくしよく)あさからぬすき人、この度の江戸心ざしも、堺町(さかひちやう)に近年の出来嶋(できじま)、見ぬこざらしをこがれて、奴(やつこ)作兵衛がもとへ、しるべの方より状を付けられて、若道(じやくだう)ぐるひばかりにのぼる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.382』小学館)
そんな伴市九郎の粋な姿をそっと見ていた薬屋十助の息子で伽羅(きゃら)にばかり凝っている十太郎。突然、市九郎を見染めてしまう。その気持ちの入れようは尋常でない。これまで数百に上る恋文を受け取ってきたけれど読んだことは一度もない。だから世間から情け知らずだと嫌味を言われてきたが、それというのも、この人と思える兄分に出会うことができずに来たがゆえのこと。けれども市九郎に一目惚れしてしまった。これこそまさに命懸けの恋情ではと自分でも思える。是非、男色の契りを固く結び合いたい、とおもう。
「我かく前髪のさかりといふとも、五(いつ)とせまでの花にもあらず。額(ひたひ)に毛貫(けぬき)のかねに、散るべきもやがてなり。今まで数百(すひやく)人のかよはせ文つひにあけず、諸人に情しらずと名に立つも、気に入りたる兄分見えわたらぬゆゑぞかし。今の男この心入れをふびんとおもはば、身にかへての念比(ねんごろ)したし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.382』小学館)
その時から十太郎は市九郎のことが気になって仕方がない。目には狂気の色が血走り、長刀を取り出し鞘をはずしてじっと待ち始めた。周囲は恋情から狂気を帯びた十太郎の不気味な様子を怖れながら、かといって何もせず放っておくわけにもいかない。ここで十太郎が見せる狂気の色には過去を思い起こさせる意味がある。薬屋を営む十助には長年子供がなかった。そこで「躑躅(つつじ)が岡の天神」に夫婦で籠もってみたところ、或る夜の夢に見た内容は、緋縮緬(ひじりめん)でできた褌(ふんどし)が落ち掛かって、胎内に子が宿るというものだった。「躑躅(つつじ)が岡の天神」は「榴岡」(つつじがおか)とも書き、今は「榴岡公園」(つつじがおかこうえん)」として市民に開放されている。仙台市宮城野区。古く歌に詠まれた「宮城野」の名を留めている。
そうして生まれた十太郎は伝説・説話の登場人物に漏れず神童ぶりを発揮している。五歳の時、習ったことのない字を大書した絵馬を奉納している。さらに十三歳で「夏の夜の短物語(みじかものがたり)といふ草子(さうし)」という小説を書き上げ、早くも恋情の機微に通じた早熟な童子として注目された。「夏の夜の短物語(みじかものがたり)」は熊楠の愛読書の一つ・御伽草子「秋の夜長の物語」を西鶴がもじって付けたタイトル。「秋の夜長の物語」は以前取り上げたが、「太平記」の戦乱を背景に、年上の律師と年下の美少年との同性愛を描いた美しくも悲しくはかない小説。主役級の美少年は近江・瀬田川へ身投げして自殺、他の登場人物も出家して山に籠もり生涯を終える。
「十三歳の時、夏の夜の短物語(みじかものがたり)といふ草子(さうし)に、逢(あ)うて別れを惜しむ、恋無常のさかひを作らるる程のこころ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.383』小学館)
十太郎はどこへ行ったかわからない市九郎への深い思いから精神を病み、身体も壊し、もはや死んでしまうのではというほど急速に衰える。周囲はもう明日には命がないだろうと考え、十太郎のため「経帷子(きやうかたびら)をぬはせ、早桶(はやをけ)をあつらへ、今宵(こよひ)の知死期(ちしご)を待つ」。「早桶(はやをけ)」は即席で仕立てた棺桶。
「大方(おほかた)はかぎりの浮世と極め、経帷子(きやうかたびら)をぬはせ、早桶(はやをけ)をあつらへ、今宵(こよひ)の知死期(ちしご)を待つ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.383』小学館)
遠のいていく意識の中で十太郎はいう。明日の夕方、市九郎は「琵琶首」の辺りを通るはず。そこで引き留め連れて来てほしいと。「琵琶首」は今の仙台市琵琶首丁。金融街。かつて刑場があったところ。なお、先に出ている「芭蕉(ばせう)が辻(つじ)」もかつて公開処刑の場だった。とはいえ、「芭蕉が辻」は同時に定期的に大規模な市が開かれる場であり、商業の中心地でもあった。刑場と市〔あるいは金融街〕との一致はそこが「無縁」の地として取り扱われた中世以来の名残である。
「うれしや、かのおもひ人、明日(あす)の西日(にしひ)の時分、かならずここを通りたまふ。それ是非に留(と)めてあはせよ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.383~384』小学館)
意識朦朧たる十太郎の言葉に半信半疑で人を琵琶首の辺りで見張らせておくと、本当に市九郎が通り過ぎるところへばったり出会った。ことの次第を話、ともかく、死にかけている十太郎のもとへ来てもらう。そこで十太郎はいう。なるほどわたしの身体はずっとここにありましたが、魂は奥州平泉中尊寺まで彷徨い出て、金堂の宿坊中で市九郎さんと抱き合い厚い契りを交わしました。その時、市九郎さんの着物の中に大事にしていた「伽羅(きやら)の割欠け」をそっと入れておきました。それはどうなったのでしょうと。
「からだは宿(やど)に、魂は先々(さきざき)につき添ひて、人こそ知らね幻(まぼろし)のたはぶれ、ことさら平和泉高館(ひらいづみたかだち)の旧跡一見したまひて、光堂(ひかりだう)の宿坊(しゆくばう)に一夜を明かしたまふ。旅夜着(たびよぎ)の下にこがれて、物いはぬ契りをこめ、左の袂(たもと)に伽羅(きやら)の割欠けを入れ置きしが、それは」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.384』小学館)
市九郎が着物を探ると確かに割欠けが出てきた。二人が半分づつ持っている割欠けを継ぎ合わせてみるとぴたりと一致した。さらに二つに割ってある伽羅の割欠けをそれぞれ薫いてみる。と、両方とも同じ香りを薫らせた。これこそ契りの深さを現わす何よりの証拠と考えた市九郎はその場で十太郎を貰い受け、馬を呼び「五つ橋を踏みならし、津軽にくだりけるとなり」とのことである。
「『うたがはせ給はぬ印(しるし)を見せ申すべし』と、かの木の欠けを取り出(いだ)し、つぎ合はすればひとつなり。炷(た)けば同じかをり、さては、と二世の契約ふかく、十太郎をもらひて、乗懸(のりか)け二疋(ひき)の足音いさみて、五つ橋を踏みならし、津軽にくだりけるとなり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・四・東の伽羅様」『井原西鶴集2・P.384~385』小学館)
この「五つ橋」は現在、仙台市青葉区と若林区とにまたがる「五橋」(いつつばし)として名を残している。
このエピソードもまた熊楠のいう「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」が、まだ「迷信」でなく、劇的な恋情ゆえ彷徨いでた魂が再び蘇った挿話の一つとして考えられるに違いない。熊楠はけっして祟りや迷信を信じない研究者だが、それゆえにこの種の、近代以前には信じられていた説話やそれを基に描かれた御伽草子・浮世草子にたいへん強い関心を示した。それはもとより熊野の森が近代化によって変形し、無数の動植物が消滅していく同時代を生きた科学者にとって是非とも保存しておくべき歴史的証言だったからにほかならない。人間にしろ動植物にしろ、それらの生存形態がどのように変化するかの前提となるのは生態系全体の変化を諸条件として変化あるいは絶滅する。欧米文化が大きく変化していた時期に留学経験を持った熊楠にとって、大規模な生活環境の激変なしに思想・信仰の変化もないということは自明の理だった。
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