白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/祭祀としての土葬・山人と海人のロンド

2020年12月21日 | 日記・エッセイ・コラム
次に紹介する土葬に関するリポートは一九五〇年(昭和二五年)頃のエピソード。戦後とはいえまだ四、五年しか経っていない。戦前にせよ戦後にせよ、土葬の風習は、何らこれといった変化をこうむっていない。日本にとって始めての総力戦となった四年間の太平洋戦争にもかかわらず、さらにヒロシマ、ナガサキでの原爆投下を全国民が知ったにもかかわらず、土葬の風習は、その先にも後にもごく身近な儀式として身の周りに残っていた。世界中が血の海になり焦土と化した第二次世界大戦でさえ、先史時代から連綿と受け継がれてきた土葬という儀式はびくともしなかったのである。

今から七十年ほど前、京都市東山区山科小山(今の京都市山科区小山)で行われていた土葬について。小山地区は滋賀県大津市追分町の東南部に隣接しており、音羽山を登って山間部へ入っていく幾つかの村落共同体である。葬儀に当たって用いられる棺の形は長方形というより正方形に近い。土葬する前に役場で許可を得るのは同じだが、小山地区での故人の葬儀だと告げると役場の人たちも心得たもので、許可証を出すにあたって土葬が選択されるのはわかりきっているため、あえて口には出さないものの「はい、土葬ですね」とふうに、寝ていても間違うことのない当たり前の対応である。故人を入れた棺を小山の村落の共同墓地で埋める時は、立て膝で二重折りにして埋める。遺族らが土をかぶせてやや平坦になるまで作業を続ける。何度か述べたように土葬は古くから儀式性が高いため、土葬の後に家に戻ると必ず仕上げに普段はほとんど口にすることのない豪勢な会食の場が設けられた。この点はアープレーイユス「黄金の驢馬」で驢馬のルキウスが冥界へ降り再び地上へ帰ってきた時に催された豪華な会食シーンを思わせる。

「私は神に捧げられたしるしである十二枚の法衣を身にまとい、内陣から出てきました。この法衣はそれ自体十分に秘儀的性格を持っていましたけど、お話ししても別に差し支えありません。というのは、あのときそこに居合わせた多くの人たちもそれを見たのですから。ともかく私はその姿で神殿の真ん中に導かれ、女神の御像の前で木製の台の上に立たされました。私は亜麻の美しい花模様のある着物をきて、人目を奪うばかりでした。そして高価な肩掛けがゆったりと肩から背中を廻って踵まで落ちていました。その肩掛けの人目のつくところはどこにも、いろいろな動物の姿がさまざまな色彩を使って美しく描かれ、ここにはインドの竜、あそこには極北の世界に住んでいるヒュペルボレイオス人の翼を持った怪物グリュプスといった工合でした。ーーー私は右手に燃える松明を高く捧げ持ち、頭には美しい棕櫚の葉冠を戴き、その葉は太陽の光線の如く四方に輝きを放っていました。ーーー私は太陽の姿をまねて着飾り、女神の御姿そっくりになったかと思うと、とつぜん四方の幕が取り払われたのです。私を見ようと思って群集が流れ込んだためでした。それから私は素晴らしい御馳走(ごちそう)と賑やかな会食者によって、神への奉仕者の誕生は規定の規則どおり秘儀の儀式を完了しました」(アープレーイユス「黄金の驢馬・巻の11・P.462~463」岩波文庫)

また、当時の山科区小山では当たり前に行われていた土葬に集まる会葬者の服装だが、喪服といっても黒装束ばかりとは限らない。もちろんスーツを着ている人間はあまりいない。普段の野良仕事と同じ服装ではないにしろ、それぞれ手持ちの服装であって黒一色ではなく、とりわけ色に関してはばらばらだった。問題は気持ちだからである。気持ちを形にして欲しいなどというただ単なる「わがまま」が、さも常識のように語られるようになったのはほんのつい最近のことに過ぎない。

その意味で、「気持ちを形にする」ということがどういうことか、決定的に変わった時期はほぼ確実に特定可能である。一九七〇年代半ばになって、一部の馬鹿な日本の女性シンガーが「形にして、形にして、形にして」と連呼することで、当時に限り破竹の勢いでバブル景気を煽りまくってさんざん金儲けに精魂を傾け、西武セゾングループのための歌姫として一世を風靡した。そして歴史の弁証法通りに西武セゾングループの衰退とともに衰退した約一名の歌の歌詞を真に受けた人々が作り出した幻想でしかない。一部の馬鹿な日本の女性シンガーは、だからといって、早死にする必要はない。むしろ長生きしていることで、そこから学べることのほうが大いにあると考えられる。ところがしかし時間は止まることを知らない。従ってその代償はものの見事に現在の子育て世代を直撃して止まない。

愛する女性に本気だというのなら、それを形にすることは実際に流行りの車を買って助手席に乗せてやることであり、恋人がスキーに行きたいと言ったならその冬には必ずスキーに連れて行くことであり、クリスマス・プレゼントは普段の言葉遣いを察して流行りの衣装やブランド品を女性のために買い与えることであり、しかし疲れた時は疲れたと言ってくれれば嬉しいわという、資本主義社会の中間層から搾り取れる限りの金銭を搾り上げるために準備された装置が演じられたというだけのことだ。しかし今述べたようにそれを本気にした人々は子供一人育てるために、少なくともそこそこ有名な四年生大学卒業という肩書き並びに取得出来うる限りの資格、そして何より幾つかの服装を手に入れるために、闇バイトとして売買春に応じることを余儀なくされる世帯を急増させるに至った。

この場ではこの服装はNG。あの場ではこの服装以外はNG。その場での服装やヒールの高さはこうでないとNG。といったように、自由な欧米では考えられもしない窮屈この上ないルールが打ち立てられるようになった。それに付いていけない人々はどんなに就職活動してみても排除されてしまう。するとさらに大規模な風俗産業がネット社会を通して蔓延することになる。実際に現実化した。だが、そうなることは一九八〇年代半ば出版の浅田彰「構造と力」の中ですでに予告済みだった。四十年近く経った今、まさしくその通りの事態が子育て世代の貧困率の加速的上昇という「形」でその実態を出現させたというに過ぎない。

未成年の教育一つ取り上げてみてもまず第一にどれだけの資金が用意できるか。何よりそこから始まるわけであり学力にはほとんどまるで関係がない。十分な資金が用意できない世帯は大企業からも官公庁からもあらかじめ排除されることが決定されている。スタート地点においてまるで違っている。そのような閉鎖的階級社会をあちこちに造り上げた世界の中で、表向きはともかく、心底から学問・研究しようなどと言っていられる生徒たちは急速に減少した。義務教育の現場が荒れまくっているのも当然であり、何らかの手を打たない限り、今後は今以上に《静かに》荒れ果てていくだろう。気付いた時には手遅れだ。気付くというのはいつも事後的にでしか可能でないからである。そして荒れた社会は、ニーチェのいうように、「債権者」の側へも野獣の牙を向けて容赦なく襲いかかってくる。なぜなら、家族総出の売春でも返済しきれず土地建物・不動産さえ売り払い、売れるものはもうすべて売り尽くした場合、自明の理としてこれまでの「債務者」はいなくなる。家庭はとっくの昔に崩壊し誰もが散り散りになってしまい債務責任者の特定は困難になる。細々と生きながらえられた場合でも生活保護世帯としてであり、債務返済能力は失われている。と同時に残された債務履行義務は瞬時に方向を置き換えて「債権者」の側へ「水虫」の如く喰い込んでいくほか知らない。新自由主義リアリズムとはそもそもの発生時点からそのように振る舞うようインプットされていた自動機械にほかならない。

「債権者」の側へ襲いかかる債権債務関係は最初に小規模債権者の親族を襲う。短絡的に返済できると考えられるのは相変わらず売春への身投げだが、多くの人々が同じことを考えるのは世の常であって、たかが売春とはいえ、そこでは急増した若年女性(若い母とその娘)たちの間で熾烈なパトロン獲得競争が繰り広げられる。早くも脱落した女性たちから続々と悲鳴が上げるだろうけれども日本政府にその悲鳴を聞く余裕はない。そのつもりもない。対応できないし対応能力はとうの昔に失われている。もし政府に対応能力があるというのなら始めから「債務者」の消滅に伴う「債権者」から「債務者」への転倒といった事態は生じてこない。かといって、昔は良かったと言いたいわけではない。昔は昔なりにとても酷かった。明治近代の日本では大都市を除いて、地方へ行けば、人身売買はまだまだふつうに行われていた。だが今の日本は視野の中に収まらないほど酷い。容易に目に見えない残忍さに酔っている人々が世を支配している。しかしそれもいずれ変わってくる。新自由主義リアリズムは蝕める箇所を蝕めば蝕むほどますます上層部へ上層部へと駆け上がっていく。つい十年ばかりの短期間でアメリカが経験した通りだ。もはや説明はいらないだろう。

さて、熊楠はいう。土葬の風習と大いに関係がある。しかしそれは初期のうち、まだ葬儀としての土葬というより祭祀としての土葬に関わる。「人柱」を指す。

「飛騨、紀伊その他に老人を棄殺した故蹟があったり、京都近くに近年までおびただしく赤子を圧殺した墓地があったり、『日本紀』に、歴然と大化新政の詔を載せたうちに、そのころまでも人が死んだ時、みずから縊死して殉じ、また他人を絞殺し、また強いて死人の馬を殉殺し、とあれば垂仁帝が殉死を禁じた令もあまねく行なわれなんだのだ」(南方熊楠「人柱の話」『南方民俗学・P.246』河出文庫)

熊楠のいう「垂仁帝が殉死を禁じた令」は次の箇所に記述がある。

「三十二年の秋七月(ふみづき)の甲戌(きのえいぬ)の朔巳卯(ついたちつちのとのうのひ)に、皇后(きさき)日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)薨(かむさ)りましぬ。臨葬(はぶりまつ)らむとすること日有(あ)り。天皇、群卿(まへつきみ)に詔して曰(のたま)はく、『死(しにひと)に従(したが)ふ道(みち)、前(さき)に可(よ)からずといふことを知(し)れり』。今此(こ)の行(たび)の葬(もがり)に、奈之為何(いかにせ)む』のたまふ。是(ここ)に、野見宿禰(のみのすくね)、進(すす)みて、曰(まう)さく、『夫(そ)れ君主(きみ)の陵墓(みさざき)に、生人(いきたるひと)を埋(うづ)み立(た)つるは、是(これ)不良(さがな)し。豈(あに)後葉(のちのよ)に伝(つた)ふること得(え)む。願(ねが)はくは今便事(たよりなること)を議(はか)りて奏(まう)さむ』とまうす。則ち使者(つかひ)を遣(つかは)して、出雲国(いずものくに)の土部壱佰人(はじべひとももひと)を喚(め)し上(あ)げて、自(みづか)ら土部等(ら)を領(つか)ひて、埴(はにつち)を取(と)りて、人(ひと)・馬(うま)及(およ)び種種(くさぐさ)の物(もの)の形を造作(つく)りて、天皇(すめらみこと)に献(たてまつ)りて曰(まう)さく、『今(いま)より以後(のち)、是(こ)の土物(はに)を以(も)て生人(いきたるひと)に更易(か)へて、陵墓(みさざき)に樹(た)てて、後葉(のちのよ)の法則(のり)とせむ』とまうす。天皇、是(ここ)に、大(おほ)きに喜(よろこび)たまひて、野見宿禰(のみのすくね)に詔(みことのり)して曰(のたま)はく、『汝(いまし)が便議(たよりなるはかりこと)、寔(まこと)に朕(わ)が心(こころ)に洽(かな)へり』とのたまふ。則(すなは)ち其(そ)の土物(はに)を、始(はじ)めて日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)の墓(はか)に立(た)つ。仍(よ)りて是(こ)の土物(はに)を号(なず)けて埴輪(はにわ)と謂(い)う。亦(また)は立物(たてもの)と名(なづ)く。仍りて令(のりごと)を下(くだ)して曰(のたま)はく、『今より以後(のち)、陵墓(みさざき)に必(かなら)ず是(こ)の土物(はに)を樹(た)てて、人(ひと)をな傷(やぶ)りそ』とのたまふ。天皇、厚(あつ)く野見宿禰(のみのすくね)の功(いさをしきこと)を賞(ほ)めたまひて、亦(また)鍛地(かたしところ)を賜(たま)ふ。則(すなは)ち土部(はじ)の職(つかさ)に任(つけたまふ)。因(よ)りて本姓(もとのかばね)を改(あらた)めて、土部臣(はじのおみ)と謂(い)ふ。是(これ)、土部連(はじのむらじ)等(ら)、天皇喪葬(みはぶり)を主(つかさど)る縁(ことのもと)なり。所謂(いはゆ)る野見宿禰は、是(これ)土部連等が始祖(はじめのおや)なり」(「日本書紀2・巻第六・・垂仁天皇三十二年七月・P.44~46」岩波文庫」)

しかしそれが徹底されなかったことは次の箇所でありありと見られる。

「凡(おほよ)そ人死亡(し)ぬる時(とき)に、若(も)しは自(おのれ)を経(わな)きて殉(したが)ひ、或(ある)いは人を絞(くび)りて殉(したが)はしめ、強(あながち)に亡人(しにたるひと)の馬(うま)を殉(したが)はしめ、或いは亡人(しにたるひと)の為(ため)に、宝(たからもの)を墓(はか)に蔵(をさ)め、或いは亡人(しにたるひと)の為に、髪(かみ)を断(き)り股(もも)を刺(さ)して誄(しのびごと)す。此(かく)の如(ごと)き旧俗(ふるきしわざ)、一(もはら)に皆(みな)悉(ことごとく)に断(や)めよ。或本(あるふみ)に云(い)はく、金(こがね)・銀(しろかね)・錦(にしき)・綾(あや)・五綵(いつくさのしみのもの)を蔵むること無(なか)れといふ。又(また)曰(い)はく、凡そ諸臣(まへつきみたち)より民(おほみたから)に至(いた)るまでに、金・銀を用ゐること得じといふ」(「日本書紀4・巻第二十五・孝徳天皇大化二年三月・P.280」岩波文庫)

この場合の殉死はもちろん「生き埋め」。さらに言えば殉死への意志は、記紀神話の時代だけに限ったエピソードでは何らない。「平家物語」にこうある。今の兵庫県神戸市「経(キヤウ)の島(シマ)」伝説について。「平家物語」に出てくる「人柱」は人体を石にくくりつけて海に沈める「生き沈め」。

「福原の経(キャウ)の島(シマ)ついて、今の世にいたるまで、上下往来の船のわづらひなきこそ目出(めでた)けれ。彼島(かのシマ)は、去(さんぬ)る応保(ヲウホウ)元年二月上旬(ジヤウジユン)に築(ツキ)はじめられたりけるが、同(おなじき)年の八月に、にはかに大風吹(ふき)、大なみたッて、みなゆり失(うしな)ひてき。又同(おなじき)三年三月下旬に、阿波(あはの)民部重能(シゲヨシ)を奉行(ブギヤウ)にてつかせられけるが、人柱(ひとバシラ)たてらるべなンど公卿御僉義(ごセンギ)有しか共(ども)、『それは罪業(ザイゴウ)なり』とて、石(イシ)の面(おもて)に一切経(いつさいキヤウ)をかいてつかれたりけるゆゑにこそ、経(キヤウ)の島(シマ)とは名づけたれ」(新日本古典文学体系「平家物語・上・巻第六・築島・P.349~350」岩波書店)

ところが「平家物語」に引かれている文章は淡々としていて今一つ「経の島」伝説成立のための条件としては出されるべき条件がすべて出揃っているとは言い難い。次回はもう少し広く突っ込んで記述された文献に当たってみたいと思う。というのは、「経の島」は瀬戸内海運の要衝としての護岸工事が問題とされているにもかかわらず、説話成立の条件として「高野山・熊野三山・丹波」といった三つの山岳地帯が出揃っているからである。

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