熊楠は人間の身体が一切の強度を喪失して死んでしまうような瞬間、あるいは臨死状態に陥る場合に付いて述べながら、「伊勢物語」から「出(い)でにし魂(たま)」とある歌を引いた。この場合は「魂むすび」することで一度ふらふらと彷徨いでた魂が身体に帰ってくるようしっかり結びつけておくことができると想定されている。少なくとも在原業平が生きていた時代(古今和歌集編纂の約二十五年前)から近代日本成立後までもそう考えられていた。
「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)
また熊楠は八〇〇年代前半成立の「日本霊異記」から「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁」(「日本霊異記・中巻・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.189~190」講談社学術文庫)を取り上げ、讃岐国山田郡(さぬきのくにやまだのこほり)の布敷臣衣女(ぬのしきのおみきぬめ)と同姓同名の讃岐国鵜垂郡(さぬきのくにうたりのこほり)の衣女(きぬめ)とのあいだで、魂は鵜垂郡衣女でありなおかつ身体は山田郡衣女として蘇ったとする説話を紹介している。また、「日本書紀」から大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)が自殺した菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と対話した伝説を引いている。
「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして薨じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.264』河出文庫)
次の箇所。
「太子(ひつぎのみこ)の曰(のたま)はく、『我、兄王(このかみのきみ)の志(みこころざし)を奪う(うば)ふべからざることを知(し)れり。豈(あに)久(ひさ)しく生(い)きて、天下(あめのした)を煩(わづらは)さむや』とのたまひて、乃ち自(みづか)ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、大志、薨(かむさ)りたまひぬと聞(きこ)して、驚(おどろ)きて、難波より馳(は)せて、菟道宮に到(いた)ります。爰(ここ)に太子、薨りまして三日(みか)に経(な)りぬ。時に大鷦鷯尊、摽擗(みむねをう)ち叫(おら)び哭(な)きたまひて、所如知(せむすべし)らず。乃ち髪(みぐし)を解(と)き屍(かばね)に跨(またが)りて、三(み)たび呼(よ)びて曰(のたま)はく、『我(わ)が弟(おと)の皇子(みこ)』とのたまふ。乃(すなは)ち応時(たちまち)にして活(いき)でたまひぬ。自(みづか)ら起(お)きて居(ま)します。爰(ここ)に大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、太子(ひつぎのみこ)に語(かた)りて曰(のたま)はく、『悲(かな)しきかも、惜(を)しきかも。何(なに)の所以(ゆゑ)にか自ら逝(す)ぎます。若(も)し死(をは)りぬる者(ひと)、知(さとり)有(あ)らば、先帝(さきのみかど)、我(やつかれ)を何請(いかがおもほ)さむや』とおんたまふ。乃ち太子、兄王(あにのみこ)に啓(まう)して曰(まう)したまはく、『天命(いのちのかぎり)なり。誰(たれ)か能(よ)く留(とど)めむ。若し天皇(すめらみこと)の御所(おほみもと)に向(まうでいた)ること有(あ)らば、具(つぶさ)に兄王の聖(ひじり)にして、且(しばしば)譲(ゆづ)りますこと有(ま)しませることを奏(まう)さむ。然(しか)るに聖王(ひじりのみこ)、我(われ)死(を)へたりと聞(きこ)しめして、遠路(とほきみち)を急(いそ)ぎ馳(い)でませり。豈(あに)労(ねぎら)ひたてまつること無(な)きこと得(え)むや』とまうしたまひて、乃ち同母妹(いろも)八田皇女(やたのひめみこ)を進(たてまつ)りて曰(のたま)はく、『納采(あと)ふるに足(た)らずと雖(いへど)も、僅(わづか)に掖庭(うちつのみや)の数(かず)に充(つか)ひたまへ』とのたまふ。乃ち且(また)棺(ひとき)に伏(ふ)して薨(かむさ)りましぬ」(「日本書紀2・巻第十一・仁徳天皇即位前紀・P.230~232」岩波文庫)
どのような習俗が一つの世界とそれに伴う世界観とを生成させ、また変化させていくのか。また変化はどのような条件下において起こるのか。熊楠はそれを研究している。何度も触れているが明治時代末の神社合祀政策で発生した諸条件の変化で社会環境ならびに自然生態系はがらりと変化した。とともに人々の意識も急変した。僅か二十年ばかりのあいだに明治初年頃とはまるで違った世界が出来上がった。しかし東京を中心になるほど都会は大いに変化したしその余波はじわじわと地方の熊野をも襲いはした。ところが人間が死んだ時に行う葬儀という儀式はそう簡単に変わったわけではない。フロイトのいう「喪の作業」は精神的なレベルでなされる動作でありなおかつ変化する環境なのでまた別に論じる。ここでは特に日本の場合、近代国家として始めて出発したばかりの日本国内でなお、引き続き行われていた「土葬」の風習について述べる。
年配の葬儀業者ならよく知っているだろうと思う。歴史や伝承についてフィールドワークしてもほぼ同様の資料が得られる。例えば関西の事例を上げれば、京都府丹波地方の葬儀は圧倒的に土葬が多かった。山間部の村落では村全体で管理する共同墓地があった。普段生活している村落から徒歩で1キロ程離れたところに墓地が設けてある。滋賀県大津市でも坂本地区の場合、土葬ではないが、庄墓(しょうばか)といって、普段生活している地区からだいたい2キロ程離れたところに庄墓がある。大津市でもより山間部の上仰木地区へ行くと、上仰木の街区から徒歩で山岳地帯へ入ってしばらくすると急に視野が開けていて、よく見ると墓石が何百基とある。そこから先はもう比叡山の横川へ続く昼なお暗い山道が続いているばかりだ。
さて京都府丹波地方の土葬の風習だが、ほぼ四十年前のこと。いまのJR山陰線殿田(とのだ)駅から北へ約4キロ地点の家で葬儀があったのだが、故人はすでに棺に納められていて、これから葬列が出発するという時間だった。竹造りの長い棒に白布を流した幟(のぼり)を先頭に棺を進める。棺のすぐ後ろに喪主とその妻が付き従う。服装だが喪主も喪主の妻も二人とも白装束である。その後に親族と村民一同が続く。親族と村民一同の服装はごく普通の黒の喪服。棺のすぐ後ろの二人が白装束なのはかなり目立つようだ。墓地に到着するとすでに村民らの手で土葬のための穴が墓石の脇に掘ってある。墓地に入るとすぐ、直径2メートル位の巨石のテーブルがありその上に棺をいったん置く。その巨石の上で棺を何度かくるくる回す。言い伝えによって違っている部分もありはするが、回した後いずれかの方角に向けて止める。死者が冥界への路を間違わないようにするためと同時にこの世に戻ってこないようにするためだと言われている。そこから墓石の脇に掘られた穴までは近い親族だけが行く。そして穴の中へ故人の亡骸を入れて土で覆う。その作業が終わるまで他の参列者は墓石に続く小さな畦のような坂道で立ち止まって待っている。土葬の作業が終わると参列者一同は故人の家に戻って仕上げの料理を食べる。この料理はかなり豪勢なものだが、すべて村民の女性の手で料理されたものばかりである。葬儀に関する他の様々な準備もほとんどすべて村民の女性の手で仕上げる。村内に料理屋がないということもあるが、かなりの力仕事も女性が手がける。なぜ女性なのか。葬儀とはいえ、儀式だからだ。柳田國男が報告しているように、日本では極めて長い間、普段と異なる儀式の日には女性が主役として活躍する。巫女ではないけれども、古代の儀式がそうであったように、昭和の戦後になってなお、山間部では葬儀や祭祀の日には女性が主となって物事が動く。前に一度引いたが、近松門左衛門「女殺油地獄」に五月五日の「端午の節供」について次の文章が出てくる。
「夫の家里(さと)の住家(すみか)も親の家、鏡(かがみ)の家の家ならで、家と、いふ物なけれども、誰(た)が世に許(ゆる)し定めけん、五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」(日本古典文学体系「女殺油地獄・下之巻」『近松浄瑠璃集・上・P.411』岩波書店)
この日ばかりはすべての男性は外へ出てはしゃぎ回っているので、家の主人は女性に転化するという意味である。芭蕉門下の丈草も次の句を残している。
「菖蒲ふく一夜は女の宿なるものを」(転寝草)
さらに古代ギリシアでは紀元前五世紀すでにエウリピデスはこう書いている。
「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)
普段女性は肉食を禁じられているがこのディオニュソス祭=サトゥルヌナリア祭の日ばかりは肉食を許される。また女性の側が男性の側を痛めつける。動物の幼児を見つけると自分の乳を飲ませてやったりもする。ニーチェは「役割の交替」についてそれはただ単に一度だけの交替ではなく常に変化しつつあるという。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
また土葬にせよ火葬にせよ墓石はなぜ石なのか。村落共同体を疫病や外敵の侵入から守るための道祖神の役割を持ったと考えられる。
「障神はもと定めてサヘノカミと訓(よ)みしこと 道祖神又は塞神と同様なるべく候」(柳田國男「石神問答・石神問答・二八・柳田より山中氏へ」『柳田國男全集15・P.170』ちくま文庫)
また塚を墓所とし、同時に塚が村落の境界を確定したということも「遠野古事記」、「能登国名跡志」、「陸西遊行抄」など、様々な文献に残されている。
「諸国の平野または群山の中に屹立(きつりつ)する飯山(いいやま)、飯盛山は日本においては塚の先型であろうとおもう。かかる地点を霊地と考えた思想は、やがて見通しに何の特殊の地物の存ぜざる地方に人為的境界を定むるに当って、これに似た物を工作する風習と化したのかも知れぬ。これは山に人を葬る代りに人を葬った場所に山を作るのとよく似ている。単純に諍訟(そうしょう)の用意ならばむしろ近頃の人のするように土中に炭などを埋めて、常は眼に附かず従って毀損(きそん)せらるるおそれのないようにした方がよいかも知れぬ。この点からいえば塚神は最初から境神であって、今日の境塚にはかえってこの信仰を脱却して純然たる経済行為となったものができたと見てよろしい。従って名は境塚にしてその由来等に不思議な伝説を伴っていても格別驚くには当らぬ」(柳田國男「境に塚を築く風習」『柳田國男全集15・P.537~538』ちくま文庫)
そう柳田はまとめている。なお、京都府丹波地方といっても大変幅広い。そもそも丹波山地は兵庫県にまたがっている。ここで上げた事例は今の京都府南丹市日吉町に残っていた土葬の風習で、一九八〇年頃のこと。日吉町は平成の大合併により南丹市として合併・編入され日吉町の名は行政区画としてのみ残されている。
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「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)
また熊楠は八〇〇年代前半成立の「日本霊異記」から「閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁」(「日本霊異記・中巻・閻羅王の使の鬼の、召さるる人の饗を受けて、恩を報いし縁 第二十五・P.189~190」講談社学術文庫)を取り上げ、讃岐国山田郡(さぬきのくにやまだのこほり)の布敷臣衣女(ぬのしきのおみきぬめ)と同姓同名の讃岐国鵜垂郡(さぬきのくにうたりのこほり)の衣女(きぬめ)とのあいだで、魂は鵜垂郡衣女でありなおかつ身体は山田郡衣女として蘇ったとする説話を紹介している。また、「日本書紀」から大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)が自殺した菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)と対話した伝説を引いている。
「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして薨じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.264』河出文庫)
次の箇所。
「太子(ひつぎのみこ)の曰(のたま)はく、『我、兄王(このかみのきみ)の志(みこころざし)を奪う(うば)ふべからざることを知(し)れり。豈(あに)久(ひさ)しく生(い)きて、天下(あめのした)を煩(わづらは)さむや』とのたまひて、乃ち自(みづか)ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、大志、薨(かむさ)りたまひぬと聞(きこ)して、驚(おどろ)きて、難波より馳(は)せて、菟道宮に到(いた)ります。爰(ここ)に太子、薨りまして三日(みか)に経(な)りぬ。時に大鷦鷯尊、摽擗(みむねをう)ち叫(おら)び哭(な)きたまひて、所如知(せむすべし)らず。乃ち髪(みぐし)を解(と)き屍(かばね)に跨(またが)りて、三(み)たび呼(よ)びて曰(のたま)はく、『我(わ)が弟(おと)の皇子(みこ)』とのたまふ。乃(すなは)ち応時(たちまち)にして活(いき)でたまひぬ。自(みづか)ら起(お)きて居(ま)します。爰(ここ)に大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、太子(ひつぎのみこ)に語(かた)りて曰(のたま)はく、『悲(かな)しきかも、惜(を)しきかも。何(なに)の所以(ゆゑ)にか自ら逝(す)ぎます。若(も)し死(をは)りぬる者(ひと)、知(さとり)有(あ)らば、先帝(さきのみかど)、我(やつかれ)を何請(いかがおもほ)さむや』とおんたまふ。乃ち太子、兄王(あにのみこ)に啓(まう)して曰(まう)したまはく、『天命(いのちのかぎり)なり。誰(たれ)か能(よ)く留(とど)めむ。若し天皇(すめらみこと)の御所(おほみもと)に向(まうでいた)ること有(あ)らば、具(つぶさ)に兄王の聖(ひじり)にして、且(しばしば)譲(ゆづ)りますこと有(ま)しませることを奏(まう)さむ。然(しか)るに聖王(ひじりのみこ)、我(われ)死(を)へたりと聞(きこ)しめして、遠路(とほきみち)を急(いそ)ぎ馳(い)でませり。豈(あに)労(ねぎら)ひたてまつること無(な)きこと得(え)むや』とまうしたまひて、乃ち同母妹(いろも)八田皇女(やたのひめみこ)を進(たてまつ)りて曰(のたま)はく、『納采(あと)ふるに足(た)らずと雖(いへど)も、僅(わづか)に掖庭(うちつのみや)の数(かず)に充(つか)ひたまへ』とのたまふ。乃ち且(また)棺(ひとき)に伏(ふ)して薨(かむさ)りましぬ」(「日本書紀2・巻第十一・仁徳天皇即位前紀・P.230~232」岩波文庫)
どのような習俗が一つの世界とそれに伴う世界観とを生成させ、また変化させていくのか。また変化はどのような条件下において起こるのか。熊楠はそれを研究している。何度も触れているが明治時代末の神社合祀政策で発生した諸条件の変化で社会環境ならびに自然生態系はがらりと変化した。とともに人々の意識も急変した。僅か二十年ばかりのあいだに明治初年頃とはまるで違った世界が出来上がった。しかし東京を中心になるほど都会は大いに変化したしその余波はじわじわと地方の熊野をも襲いはした。ところが人間が死んだ時に行う葬儀という儀式はそう簡単に変わったわけではない。フロイトのいう「喪の作業」は精神的なレベルでなされる動作でありなおかつ変化する環境なのでまた別に論じる。ここでは特に日本の場合、近代国家として始めて出発したばかりの日本国内でなお、引き続き行われていた「土葬」の風習について述べる。
年配の葬儀業者ならよく知っているだろうと思う。歴史や伝承についてフィールドワークしてもほぼ同様の資料が得られる。例えば関西の事例を上げれば、京都府丹波地方の葬儀は圧倒的に土葬が多かった。山間部の村落では村全体で管理する共同墓地があった。普段生活している村落から徒歩で1キロ程離れたところに墓地が設けてある。滋賀県大津市でも坂本地区の場合、土葬ではないが、庄墓(しょうばか)といって、普段生活している地区からだいたい2キロ程離れたところに庄墓がある。大津市でもより山間部の上仰木地区へ行くと、上仰木の街区から徒歩で山岳地帯へ入ってしばらくすると急に視野が開けていて、よく見ると墓石が何百基とある。そこから先はもう比叡山の横川へ続く昼なお暗い山道が続いているばかりだ。
さて京都府丹波地方の土葬の風習だが、ほぼ四十年前のこと。いまのJR山陰線殿田(とのだ)駅から北へ約4キロ地点の家で葬儀があったのだが、故人はすでに棺に納められていて、これから葬列が出発するという時間だった。竹造りの長い棒に白布を流した幟(のぼり)を先頭に棺を進める。棺のすぐ後ろに喪主とその妻が付き従う。服装だが喪主も喪主の妻も二人とも白装束である。その後に親族と村民一同が続く。親族と村民一同の服装はごく普通の黒の喪服。棺のすぐ後ろの二人が白装束なのはかなり目立つようだ。墓地に到着するとすでに村民らの手で土葬のための穴が墓石の脇に掘ってある。墓地に入るとすぐ、直径2メートル位の巨石のテーブルがありその上に棺をいったん置く。その巨石の上で棺を何度かくるくる回す。言い伝えによって違っている部分もありはするが、回した後いずれかの方角に向けて止める。死者が冥界への路を間違わないようにするためと同時にこの世に戻ってこないようにするためだと言われている。そこから墓石の脇に掘られた穴までは近い親族だけが行く。そして穴の中へ故人の亡骸を入れて土で覆う。その作業が終わるまで他の参列者は墓石に続く小さな畦のような坂道で立ち止まって待っている。土葬の作業が終わると参列者一同は故人の家に戻って仕上げの料理を食べる。この料理はかなり豪勢なものだが、すべて村民の女性の手で料理されたものばかりである。葬儀に関する他の様々な準備もほとんどすべて村民の女性の手で仕上げる。村内に料理屋がないということもあるが、かなりの力仕事も女性が手がける。なぜ女性なのか。葬儀とはいえ、儀式だからだ。柳田國男が報告しているように、日本では極めて長い間、普段と異なる儀式の日には女性が主役として活躍する。巫女ではないけれども、古代の儀式がそうであったように、昭和の戦後になってなお、山間部では葬儀や祭祀の日には女性が主となって物事が動く。前に一度引いたが、近松門左衛門「女殺油地獄」に五月五日の「端午の節供」について次の文章が出てくる。
「夫の家里(さと)の住家(すみか)も親の家、鏡(かがみ)の家の家ならで、家と、いふ物なけれども、誰(た)が世に許(ゆる)し定めけん、五月五日の一夜さを女の家といふぞかし」(日本古典文学体系「女殺油地獄・下之巻」『近松浄瑠璃集・上・P.411』岩波書店)
この日ばかりはすべての男性は外へ出てはしゃぎ回っているので、家の主人は女性に転化するという意味である。芭蕉門下の丈草も次の句を残している。
「菖蒲ふく一夜は女の宿なるものを」(転寝草)
さらに古代ギリシアでは紀元前五世紀すでにエウリピデスはこう書いている。
「牛飼 老いも若きも、まだ嫁が娘も交えて、その規律のよさは、まったく驚くばかりでございます。まず髪をとき肩まで垂らすと、こんどは小鹿の皮の結び目の解けたところを結び直し、帯に代えて、ひらひらと舌を閃かす蛇を、その斑(まだら)の皮衣に締めたのでございます。中には仔鹿や狼の子を抱いて、雪白の乳を飲ませているものもおります。ーーー一人が杖をとって岩を打つと、その岩から清らかな水がほとばしります。また一人が杖を大地に突きさせば、神の業か、葡萄酒が泉のごとく湧いてまいります。ーーー御母上は大声に『おおわが忠実な犬たちよ、この男どもは私らを捕えようとしているのだよ。さあ、手にもつ杖を武器に、私についておいで』と申されました。私どもは逃れて、からくも信女らに八つ裂きにされる憂き目を免れましたが、女たちは草を喰(は)んでいる牛の群れに、素手のまま踊りかかってゆきました。一人が乳房豊かな牝牛の仔(こ)を、鳴き吼(ほ)えるのも構わず、引き裂いて両の手にかざすかと思えば、また他の女らは、牝牛の体をバラバラに引き裂いております。殺された牛の胴や、蹄のさけた脚などが、あちこちに散らばり、また樅の枝に懸かって、垂れ下がっている血まみれの肉片もございます。一瞬前まで傲然と、怒りを角に表わしていた牡牛ですらが、女たちの無数の手にとられ、たちまち地上に屠られてしまいます。殿様がまばたきなさる間よりも早く、女たちはその肉をちぎってしまったのでございます。それから女たちは、まるで空飛ぶ鳥のように、ほとんど足が地に触れぬほどの疾さで山を駈け下り、アソポスの流れに沿うて、テーバイ人の豊かな穀物を実らせる麓の平地に向かいました。キタイロンの山裾の村、ヒュシアイとエリュトライとを、まるで敵のように襲って、手当り次第めちゃめちゃに荒して、家々から幼な子を掠(かす)めてまいります。子供のみか、奪った銅器鉄器のたぐいを肩に載せて運んでゆくのですが、紐で結(ゆわ)えつけもせぬのに、一つとして地面に落ちることがありません。また髪の毛の上に火をかざしているのに、いっこうに火傷(やけど)をするようにも見えません。村人たちも、信女らに荒されて腹を立て、武器をとって刃向おうといたしましたがーーー殿様、このときまさに、見るも恐ろしいことが起ったのでございます。すなわち、村のものが槍で相手を突いても血が出ぬのに、女たちが振う杖は男たちを傷つけ痛めて、とうとう村人たちは背を向けて逃げ去ったのでございます」(エウリピデス「バッコスの信女たち」『ギリシア悲劇4・P.488~490』ちくま文庫)
普段女性は肉食を禁じられているがこのディオニュソス祭=サトゥルヌナリア祭の日ばかりは肉食を許される。また女性の側が男性の側を痛めつける。動物の幼児を見つけると自分の乳を飲ませてやったりもする。ニーチェは「役割の交替」についてそれはただ単に一度だけの交替ではなく常に変化しつつあるという。
「人間は諸力の一個の数多性なのであって、それらの諸力が一つの位階を成しているということ、したがって、命令者たちが存在するのだが、命令者も、服従者たちに、彼らの保存に役立つ一切のものを調達してやらなくてはならず、かくして命令者自身が彼らの生存によって《制約されて》いるということ。これらの生命体はすべて類縁のたぐいのものでなくてはならない、さもなければそれらはこのようにたがいに奉仕し合い服従し合うことはできないことだろう。奉仕者たちは、なんらかの意味において、服従者でもあるのでなくてはならず、そしていっそう洗練された場合にはそれらの間の役割が一時的に交替し、かくて、いつもは命令する者がひとたびは服従するのでなくてはならない。『個体』という概念は誤りである。これらの生命体は孤立しては全く現存しない。中心的な重点が何か可変的なものなのだ。細胞等々の絶えざる《産出》がこれらの生命体の数を絶えず変化させる」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・七三四・P.361~362」ちくま学芸文庫)
また土葬にせよ火葬にせよ墓石はなぜ石なのか。村落共同体を疫病や外敵の侵入から守るための道祖神の役割を持ったと考えられる。
「障神はもと定めてサヘノカミと訓(よ)みしこと 道祖神又は塞神と同様なるべく候」(柳田國男「石神問答・石神問答・二八・柳田より山中氏へ」『柳田國男全集15・P.170』ちくま文庫)
また塚を墓所とし、同時に塚が村落の境界を確定したということも「遠野古事記」、「能登国名跡志」、「陸西遊行抄」など、様々な文献に残されている。
「諸国の平野または群山の中に屹立(きつりつ)する飯山(いいやま)、飯盛山は日本においては塚の先型であろうとおもう。かかる地点を霊地と考えた思想は、やがて見通しに何の特殊の地物の存ぜざる地方に人為的境界を定むるに当って、これに似た物を工作する風習と化したのかも知れぬ。これは山に人を葬る代りに人を葬った場所に山を作るのとよく似ている。単純に諍訟(そうしょう)の用意ならばむしろ近頃の人のするように土中に炭などを埋めて、常は眼に附かず従って毀損(きそん)せらるるおそれのないようにした方がよいかも知れぬ。この点からいえば塚神は最初から境神であって、今日の境塚にはかえってこの信仰を脱却して純然たる経済行為となったものができたと見てよろしい。従って名は境塚にしてその由来等に不思議な伝説を伴っていても格別驚くには当らぬ」(柳田國男「境に塚を築く風習」『柳田國男全集15・P.537~538』ちくま文庫)
そう柳田はまとめている。なお、京都府丹波地方といっても大変幅広い。そもそも丹波山地は兵庫県にまたがっている。ここで上げた事例は今の京都府南丹市日吉町に残っていた土葬の風習で、一九八〇年頃のこと。日吉町は平成の大合併により南丹市として合併・編入され日吉町の名は行政区画としてのみ残されている。
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