熊楠は「金色の鬚(ひげ)」のような部分を持つ菌を見つけたことがあった。
「前年田辺の人より近野村の深山中で黏(とりもち)を作る輩不在中に、何者かその小屋に入り、桶の蓋を打ち破り、中の黏を食い尽し、また諸処へ粘(ひつつ)けあり。それを検せんと樹に上ると、その枝に金色の鬚(ひげ)のごとく、長(たけ)八寸乃至(ないし)一尺の物散り懸かりありし、と聞く。予那智山中で始めて見し時、奇怪に思いしが、近づき取って鏡検して、たやすくそのマラスミウル属の帽菌の根様体(リゾモルフ)たるを知ったが、その後植物学会員宇井縫蔵氏が近野村で取り来たりしを貰うと、予想通りマラスミウスの傘状体(ピレウス=俗にいうキノコの傘のこと)一つ生じあった」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.327~328』河出文庫)
それは「長(たけ)八寸乃至(ないし)一尺」。髭にしては長いが髭に似て見える。その髭のようなものは「金色」。いずれにしろ髭を思わせる長いものはただものではなくいかにも奇異な力を備えているかのように見える。柳田國男は「白髭神社」とその由来についてこう述べている。
「武州高麗(こま)本郷の白頾(しらひげ)社に、修験道(しゅげんどう)をもって仕えて来た旧家の当主、自分も大いに白い髭あり、近来その苗字を高麗氏と名のり、そうして古い系図が伝わっていて、見に行くほどの人はみな関心をする。これだけはまさしく事実である。次に今より約千二百年前に、東日本に散在する高麗の帰化人千八百人ばかりを、武蔵国へ遷(うつ)したこと、及び高麗人中の名族にして、あるいは武蔵守になったこともある高麗氏が、本貫(ほんかん)をこの郡に有していたことは正史に出ている。歴史がいかに想像の自由を基礎とする学問であるにしても、かほど顕著なる二箇の証跡は、ともにこれを無視して進むことを許されぬであろう」(柳田國男「一目小僧その他・流され王」『柳田國男全集6・P.409』ちくま文庫)
旅の神としての「道祖神」(どうそじん)信仰との関係だ。江戸時代になってからも松尾芭蕉は「おくのほそ道」冒頭部分でこう書いた。
「そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(たうそじん)のまねきにあひて」(芭蕉「おくのほそ道・P.90」岩波文庫)
平安時代後半編纂の「今昔物語」に紀州・熊野で道祖神と出会った僧侶の話が出ている。僧侶の名は道公(どうこう)。普段は大坂の四天王寺に住んでいる。日暮れになり、その日は海辺の大きな樹の下で夜を過ごすことにした。
「熊野より出(い)でて本寺(もとのてら)に返(かえ)る間、紀伊(き)の国の美奈部郡(みなべのこおり)の海辺(うみのほとり)を行く程に、日暮れぬ。然れば、其の所に大(おおき)なる樹(うえき)の本(ほん)に宿(やどり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.196」岩波文庫)
夜半、二、三十騎ほどの騎馬隊が現われて樹の下を取り囲むようにして声を上げた。僧侶が聞いていると自分にではなく、この樹そのものに向かって何か語りかけている様子だ。すると樹から翁(おきな)の声がして今は足を痛めていて出かけられないという返事を返している。それを聞いた騎馬隊はそのまま通り過ぎていった。夜明けになり、僧侶が樹の根元の辺りをよく見回してみると、誰もいない。ただ道祖神の形をしている。しかしそれはかなり「旧(ふる)く朽(くち)て多(おおく)の年を経たり」と見える。さらに男根形のものだけがあり、女陰形のものは見当たらない。道祖神は男性器の形をしたものと女性器の形をしたものとの両方があるのが通例なのだが。また、古くて痛んでいる男根の形をした道祖神と思われるものの前に絵馬が置いてある。よく見ると絵馬の足の部分が破れたまま放置されている。僧侶はその破れた箇所を糸で縫い合わせて元に戻してやった。
「只道祖(さえ)の神の形(かたち)を造(つくり)たる有り。其の形旧(ふる)く朽(くち)て多(おおく)の年を経たりと見ゆ。男の形のみ有て、女の形は無し。前に板に書たる絵馬(えま)有り。足の所破れたり。道公此れを見て、『夜(よ)るは、此の道祖(かえのかみ)の云ひける也けり』と思ふに、弥(いよい)よ奇異に思て、其の絵馬の足の所の破(やぶれ)たるを糸を以て綴(つづり)て、本の如く置つ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.197」岩波文庫)
その夜、道祖神が現われて僧侶に言った。「此の下劣(げれつ)の神形(かみのかたち)を棄てて、速(すみやか)に上品(じようぼん)の功徳(くどく)の身を得むと思ふ」と。どうやら、男根形ばかりの道祖神というのは自分でもどこか下品なのではと思っていたのですが、この機会にいっそのこともっと上品になりたいものです、とのこと。
「今此の下劣(げれつ)の神形(かみのかたち)を棄てて、速(すみやか)に上品(じようぼん)の功徳(くどく)の身を得むと思ふ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.198」岩波文庫)
三日ほどすると再び道祖神が現われた。元気そうだ。そしていう。すっかり健康になりました。回復した姿を見たいとお思いになりたければ、柴船を造ってその上にわたしの木像を乗せ、海上に浮かべてみて下さい。そういってふと姿を消し去った。
「『聖人若(も)しその虚実(こじつ)を知(しら)むと思(おもい)給はば、草木の枝を以て小き船を造(つくり)て、我が木像を乗(のせ)て海の上に浮(うかべ)て、其の作法を可見給(みたまうべ)し』と云て、掻消(かきけ)つ様(よう)に失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.198~199」岩波文庫)
僧侶道公は言われた通りに周囲の草木の枝を集めてきて柴船を作り、さらに木像の道祖神をその船に乗せてみた。すると風は吹かず波も立っていないにもかかわらず、柴船だけが道祖神を乗せたまま南の方角を指して走り去っていった。
「其後(そのの)ち、道公道祖(さえのかみ)の言(こと)に随(したがい)て、忽(たちまち)に柴の船を造て、此の道祖神(さえのかみ)の像を乗せて、海辺(うみのほとり)に行て、此れを海の上に放ち浮ぶ。其の時に、風不立(たた)ず、波不動(うごかず)して、柴船(しばのふね)南を指(さし)て走り去ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.199」岩波文庫)
ちなみに、紀州・熊野沖から南方にあるという補陀落(ふだらく)への渡海は古代神話にある。新羅国(しらぎのくに)に渡った素戔嗚尊が造船技術を持ち帰ったエピソードと繋がって日本書紀に書かれている。
「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国(くに)に、浮宝(うくたから)有(あ)らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜(ぬ)きて散(あか)つ。即(すなは)ち杉(すぎのき)に成(な)る。又(また)、胸(むね)の毛(け)を抜き散つ。是(これ)、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉(まゆ)の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其(そ)の用ゐるべきものを定(さだ)む。乃ち称(ことあげ)して曰(のたま)はく、『杉及(およ)び櫲樟、此(こ)の両(ふたつ)の樹(き)は、以(も)て浮宝(うくたから)とすべし。檜(ひのき)は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。柀(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆(みな)能(よ)く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ。時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子(みこ)を、号(なづ)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹(いろも)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次(つぎ)に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡(すべ)て此の三(みはしら)の神(かみ)、亦(また)能(よ)く木種(こだね)を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡(わた)し奉(まつ)る。然(しかう)して後(のち)に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(い)まして、遂(つひ)に根国(ねのくに)に入(い)りましき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.100~102」岩波文庫)
そのすぐ後で、少彦名命(すくなびこなのみこと)は熊野から南方を目指して船出し、とうとう「常世郷(とこよのくに)」=「補陀落」へ行ったというエピソードだ。
「少彦名命、行(ゆ)きて熊野(くまの)の御碕(みさき)に至(いた)りて、遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しぬ」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.104」岩波文庫)
また道祖神と深い関係がある白髭明神は室町時代に描かれた軍記物「太平記」の中で既に既成事実として登場している。
「比叡山の麓、さざなみや志賀(しが)の辺(ほと)りに、釣りを垂(た)れて座せる老翁(ろうおう)あり。釈尊、これに向かつて、『翁(おきな)、もしこの地の主(あるじ)たらば、この山をわれに与へよ。結界(けっかい)の地として仏法を弘めん』と宣(のたま)ひければ、この翁、答へて申さく、『われ、人寿六千歳の始めより、この所の主(あるじ)として、この湖の七度まで桑原(くわばら)に変ぜしを見たり。但し、この地結界とあらば、釣りする所を失うべし。釈尊、早く去つて他国に求め給へ』とぞ惜しみける。この翁は、これ白髭明神(しらひげのみょうじん)なり」(「太平記3・第十八巻・13・比叡山開闢の事并に山門領安堵の事・P.293」岩波文庫)
とあるように、道祖神は或る共同体と別の共同体との「境」に祀られた痕跡を残している。「道祖神」は「サヘノカミ」と読み、要するに「塞神」と同じ意味で用いられていたと柳田はいう。
「障神はもと定めてサヘノカミと訓(よ)みしこと 道祖神又は塞神と同様なるべく候」(柳田國男「石神問答・二八・柳田より山中氏へ」『柳田國男全集15・P.170』ちくま文庫)
この論考は、古くから道祖神が村落共同体の中に疫病が侵入してくるのを遮るため、《境界線》として置かれたことと一致する。たとえそれが石像であれ木造であれ、北方領土問題、拉致問題、沖縄基地問題、パンデミック、五輪など、何をどうするのかさっぱり考えていないとしか思えない日本政府とはたいした違いなのだ。
BGM1
BGM2
BGM3
「前年田辺の人より近野村の深山中で黏(とりもち)を作る輩不在中に、何者かその小屋に入り、桶の蓋を打ち破り、中の黏を食い尽し、また諸処へ粘(ひつつ)けあり。それを検せんと樹に上ると、その枝に金色の鬚(ひげ)のごとく、長(たけ)八寸乃至(ないし)一尺の物散り懸かりありし、と聞く。予那智山中で始めて見し時、奇怪に思いしが、近づき取って鏡検して、たやすくそのマラスミウル属の帽菌の根様体(リゾモルフ)たるを知ったが、その後植物学会員宇井縫蔵氏が近野村で取り来たりしを貰うと、予想通りマラスミウスの傘状体(ピレウス=俗にいうキノコの傘のこと)一つ生じあった」(南方熊楠「山婆の髪の毛」『森の思想・P.327~328』河出文庫)
それは「長(たけ)八寸乃至(ないし)一尺」。髭にしては長いが髭に似て見える。その髭のようなものは「金色」。いずれにしろ髭を思わせる長いものはただものではなくいかにも奇異な力を備えているかのように見える。柳田國男は「白髭神社」とその由来についてこう述べている。
「武州高麗(こま)本郷の白頾(しらひげ)社に、修験道(しゅげんどう)をもって仕えて来た旧家の当主、自分も大いに白い髭あり、近来その苗字を高麗氏と名のり、そうして古い系図が伝わっていて、見に行くほどの人はみな関心をする。これだけはまさしく事実である。次に今より約千二百年前に、東日本に散在する高麗の帰化人千八百人ばかりを、武蔵国へ遷(うつ)したこと、及び高麗人中の名族にして、あるいは武蔵守になったこともある高麗氏が、本貫(ほんかん)をこの郡に有していたことは正史に出ている。歴史がいかに想像の自由を基礎とする学問であるにしても、かほど顕著なる二箇の証跡は、ともにこれを無視して進むことを許されぬであろう」(柳田國男「一目小僧その他・流され王」『柳田國男全集6・P.409』ちくま文庫)
旅の神としての「道祖神」(どうそじん)信仰との関係だ。江戸時代になってからも松尾芭蕉は「おくのほそ道」冒頭部分でこう書いた。
「そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(たうそじん)のまねきにあひて」(芭蕉「おくのほそ道・P.90」岩波文庫)
平安時代後半編纂の「今昔物語」に紀州・熊野で道祖神と出会った僧侶の話が出ている。僧侶の名は道公(どうこう)。普段は大坂の四天王寺に住んでいる。日暮れになり、その日は海辺の大きな樹の下で夜を過ごすことにした。
「熊野より出(い)でて本寺(もとのてら)に返(かえ)る間、紀伊(き)の国の美奈部郡(みなべのこおり)の海辺(うみのほとり)を行く程に、日暮れぬ。然れば、其の所に大(おおき)なる樹(うえき)の本(ほん)に宿(やどり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.196」岩波文庫)
夜半、二、三十騎ほどの騎馬隊が現われて樹の下を取り囲むようにして声を上げた。僧侶が聞いていると自分にではなく、この樹そのものに向かって何か語りかけている様子だ。すると樹から翁(おきな)の声がして今は足を痛めていて出かけられないという返事を返している。それを聞いた騎馬隊はそのまま通り過ぎていった。夜明けになり、僧侶が樹の根元の辺りをよく見回してみると、誰もいない。ただ道祖神の形をしている。しかしそれはかなり「旧(ふる)く朽(くち)て多(おおく)の年を経たり」と見える。さらに男根形のものだけがあり、女陰形のものは見当たらない。道祖神は男性器の形をしたものと女性器の形をしたものとの両方があるのが通例なのだが。また、古くて痛んでいる男根の形をした道祖神と思われるものの前に絵馬が置いてある。よく見ると絵馬の足の部分が破れたまま放置されている。僧侶はその破れた箇所を糸で縫い合わせて元に戻してやった。
「只道祖(さえ)の神の形(かたち)を造(つくり)たる有り。其の形旧(ふる)く朽(くち)て多(おおく)の年を経たりと見ゆ。男の形のみ有て、女の形は無し。前に板に書たる絵馬(えま)有り。足の所破れたり。道公此れを見て、『夜(よ)るは、此の道祖(かえのかみ)の云ひける也けり』と思ふに、弥(いよい)よ奇異に思て、其の絵馬の足の所の破(やぶれ)たるを糸を以て綴(つづり)て、本の如く置つ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.197」岩波文庫)
その夜、道祖神が現われて僧侶に言った。「此の下劣(げれつ)の神形(かみのかたち)を棄てて、速(すみやか)に上品(じようぼん)の功徳(くどく)の身を得むと思ふ」と。どうやら、男根形ばかりの道祖神というのは自分でもどこか下品なのではと思っていたのですが、この機会にいっそのこともっと上品になりたいものです、とのこと。
「今此の下劣(げれつ)の神形(かみのかたち)を棄てて、速(すみやか)に上品(じようぼん)の功徳(くどく)の身を得むと思ふ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.198」岩波文庫)
三日ほどすると再び道祖神が現われた。元気そうだ。そしていう。すっかり健康になりました。回復した姿を見たいとお思いになりたければ、柴船を造ってその上にわたしの木像を乗せ、海上に浮かべてみて下さい。そういってふと姿を消し去った。
「『聖人若(も)しその虚実(こじつ)を知(しら)むと思(おもい)給はば、草木の枝を以て小き船を造(つくり)て、我が木像を乗(のせ)て海の上に浮(うかべ)て、其の作法を可見給(みたまうべ)し』と云て、掻消(かきけ)つ様(よう)に失(うせ)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.198~199」岩波文庫)
僧侶道公は言われた通りに周囲の草木の枝を集めてきて柴船を作り、さらに木像の道祖神をその船に乗せてみた。すると風は吹かず波も立っていないにもかかわらず、柴船だけが道祖神を乗せたまま南の方角を指して走り去っていった。
「其後(そのの)ち、道公道祖(さえのかみ)の言(こと)に随(したがい)て、忽(たちまち)に柴の船を造て、此の道祖神(さえのかみ)の像を乗せて、海辺(うみのほとり)に行て、此れを海の上に放ち浮ぶ。其の時に、風不立(たた)ず、波不動(うごかず)して、柴船(しばのふね)南を指(さし)て走り去ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十三・第三十四・P.199」岩波文庫)
ちなみに、紀州・熊野沖から南方にあるという補陀落(ふだらく)への渡海は古代神話にある。新羅国(しらぎのくに)に渡った素戔嗚尊が造船技術を持ち帰ったエピソードと繋がって日本書紀に書かれている。
「一書に曰はく、素戔嗚尊の曰(のたま)はく、『韓郷(からくに)の嶋(しま)には、是(これ)金銀(こがねしろかね)有り。若使(たとひ)吾が児の所御(しら)す国(くに)に、浮宝(うくたから)有(あ)らずは、未(いま)だ佳(よ)からじ』とのたまひて、乃ち鬚髯(ひげ)を抜(ぬ)きて散(あか)つ。即(すなは)ち杉(すぎのき)に成(な)る。又(また)、胸(むね)の毛(け)を抜き散つ。是(これ)、檜(ひのき)に成る。尻(かくれ)の毛は、是柀(まき)に成る。眉(まゆ)の毛は是櫲樟(くす)に成る。已(すで)にして其(そ)の用ゐるべきものを定(さだ)む。乃ち称(ことあげ)して曰(のたま)はく、『杉及(およ)び櫲樟、此(こ)の両(ふたつ)の樹(き)は、以(も)て浮宝(うくたから)とすべし。檜(ひのき)は以て瑞宮(みつのみや)を為(つく)る材(き)にすべし。柀(まき)は以て顕見蒼生(うつしきあをひとくさ)の奥津棄戸(おきつすたへ)に将(も)ち臥(ふ)さむ具(そなへ)にすべし。夫(そ)の噉(くら)ふべき八十木種(やそこだね)、皆(みな)能(よ)く播(ほどこ)し生(う)う』とのたまふ。時に、素戔嗚尊(すさのをのみこと)の子(みこ)を、号(なづ)けて五十猛命(いたけるのみこと)と曰(まう)す。妹(いろも)大屋津姫命(おほやつひめのみこと)。次(つぎ)に柧津姫命(つまつひめのみこと)。凡(すべ)て此の三(みはしら)の神(かみ)、亦(また)能(よ)く木種(こだね)を分布(まきほどこ)す。即ち紀伊国(きのくに)に渡(わた)し奉(まつ)る。然(しかう)して後(のち)に、素戔嗚尊、熊成峯(くまなりのたけ)に居(い)まして、遂(つひ)に根国(ねのくに)に入(い)りましき」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.100~102」岩波文庫)
そのすぐ後で、少彦名命(すくなびこなのみこと)は熊野から南方を目指して船出し、とうとう「常世郷(とこよのくに)」=「補陀落」へ行ったというエピソードだ。
「少彦名命、行(ゆ)きて熊野(くまの)の御碕(みさき)に至(いた)りて、遂に常世郷(とこよのくに)に適(いでま)しぬ」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第八段・P.104」岩波文庫)
また道祖神と深い関係がある白髭明神は室町時代に描かれた軍記物「太平記」の中で既に既成事実として登場している。
「比叡山の麓、さざなみや志賀(しが)の辺(ほと)りに、釣りを垂(た)れて座せる老翁(ろうおう)あり。釈尊、これに向かつて、『翁(おきな)、もしこの地の主(あるじ)たらば、この山をわれに与へよ。結界(けっかい)の地として仏法を弘めん』と宣(のたま)ひければ、この翁、答へて申さく、『われ、人寿六千歳の始めより、この所の主(あるじ)として、この湖の七度まで桑原(くわばら)に変ぜしを見たり。但し、この地結界とあらば、釣りする所を失うべし。釈尊、早く去つて他国に求め給へ』とぞ惜しみける。この翁は、これ白髭明神(しらひげのみょうじん)なり」(「太平記3・第十八巻・13・比叡山開闢の事并に山門領安堵の事・P.293」岩波文庫)
とあるように、道祖神は或る共同体と別の共同体との「境」に祀られた痕跡を残している。「道祖神」は「サヘノカミ」と読み、要するに「塞神」と同じ意味で用いられていたと柳田はいう。
「障神はもと定めてサヘノカミと訓(よ)みしこと 道祖神又は塞神と同様なるべく候」(柳田國男「石神問答・二八・柳田より山中氏へ」『柳田國男全集15・P.170』ちくま文庫)
この論考は、古くから道祖神が村落共同体の中に疫病が侵入してくるのを遮るため、《境界線》として置かれたことと一致する。たとえそれが石像であれ木造であれ、北方領土問題、拉致問題、沖縄基地問題、パンデミック、五輪など、何をどうするのかさっぱり考えていないとしか思えない日本政府とはたいした違いなのだ。
BGM1
BGM2
BGM3