動物による報恩譚についてまず熊楠の紀州・姫蟹について触れた。
「本邦で山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆赭褐色、光沢あり、行歩緩慢で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)
説話は次の箇所に掲載されている。
「山城の国の女人、観音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.356〜359」岩波文庫)
内容は前に詳しく述べたので省略しよう。さて、次にこう続けた。
「蟹の恩返し」ともいうべきこの報恩譚について柳田國男は「お竹大日」(おたけだいにち)を参照している。大日は大日如来のこと。だから常日頃から少女が蟹に与えていた食料は「ご飯」だと述べる。「天狗の話」にこうある。
さらに柳田は述べる。
「山童に行き逢ったという話はたしかなものだけでも数十件ある。一つ一つの話はここには略しますが、すべて皆彼等は一言をも話さぬといっている。共通の言語がない以上は当然である。食物は何であるか知らぬが、やはり吉野の国巣のように山菓や魚や菌(きのこ)であろう。米の飯を非常に喜ぶともあり餅(もち)を欲しがったともあり塩は好まぬともある」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.190~191』ちくま文庫)
このとき問題にしたのは「ご飯」である。
「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)
さらに個人的な実体験についても述べておいた。
なお、柳田のいう「お竹大日」(おたけだいにち)について。京都では今も「だいにっつぁん」と呼ぶ。子どもの頃、近くの寺院の境内に大日如来を祀る一角が設けられており、そこへ行くと朝早くから供物が準備してあったのを覚えている。一見すると正月や盆の供物と変わらないように見える。だが供物の主役は大盛りに盛られた「ご飯」である。「ご飯」と《ともに》山海の珍味が祀ってある。
また柳田はこうもいっている。
「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で神を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「民俗学上における塚の価値・飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)
ところで、「お竹大日」(おたけだいにち)=「だいにっつぁん」について、京都だけにあったのかというと、もちろん、そうではない。今の滋賀県大津市藤尾地区追分町に東海道と伏見街道との石造りの道標が残されている。この道標には「みぎは京ミち」、「ひだりはふしみミち」という道標の役割が刻まれている。さらにその文字のほかに蘇東坡の詩歌の一節である「柳緑花紅」とあり、安永七年「都名所図絵」(みやこめいしょずえ)に「道分の石に柳は緑、花は紅(くれない)の文字を刻む」と記され、漢詩からの引用をも併記した珍しいものだとの主旨が載っている。それを知る歴史ファンは多い。ただ、もう少し詳しく述べると、道標から西へ約二百メートル付近の音羽山をほんの少し登ったところにかつて「だいにっつぁん」があった。それを覚えている人々はほとんどいなくなった。覚えていても地元の僅かばかりの人々で、今や八十歳以上の後期高齢者ばかりである。「だいにっつぁん」の形式は京都市内に今も細々と残る形式と変わらない。「ご飯」と《ともに》山海の珍味が祀ってあったようだ。しかし追分町の祠は今はもうない。ところがそこから祠が消えた理由は誰しも覚えている。
一九六三年(昭和三十八年)、栗東=尼崎間が開通した名神高速道路。その少し前の一九五八年(昭和三十三年)、滋賀県大津市追分町に隣接する京都市山科区で起工式が挙行された。五年間で工事はどんどん進められた。当時、名神高速通過予定地点に「お竹大日」(おたけだいにち)=「だいにっつぁん」の祠があり、結果的に予定通りアスファルト舗装のため解体されて消滅した。また同時期、大阪府吹田市の関西大学構内を通過させる予定だったことから反対運動が起こっていたが、大学構内ではあるものの、その下にトンネルを設けて騒音公害を回避するという折衷案が出され、その案を大学側が受け入れて開通した。さらに後に計画されていた大阪万博会場への延伸も決定し敷設された。
「ご飯」と《ともに》山海の珍味を祀るという形はそもそも、山の神と海の神との和解の神事としての発祥を持つと考えられている。稲作文化と稲作輸入以前から列島各地に無数にいた狩猟や漁撈を営む先住民の生活様式との融合の名残りの神格化である。さらにその日の主役は童子・童女たちである。蛇の脱皮のようにいつまでも若いこと、何度も脱皮を繰り返すことで若さを更新すること、この思想と伝説はそっくりそのまま宮廷の神事に起源を持つ。今の皇居内に多種多様で貴重な動植物が集められているのはただ単なる偶然ではないのである。
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「本邦で山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆赭褐色、光沢あり、行歩緩慢で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)
説話は次の箇所に掲載されている。
「山城の国の女人、観音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.356〜359」岩波文庫)
内容は前に詳しく述べたので省略しよう。さて、次にこう続けた。
「蟹の恩返し」ともいうべきこの報恩譚について柳田國男は「お竹大日」(おたけだいにち)を参照している。大日は大日如来のこと。だから常日頃から少女が蟹に与えていた食料は「ご飯」だと述べる。「天狗の話」にこうある。
さらに柳田は述べる。
「山童に行き逢ったという話はたしかなものだけでも数十件ある。一つ一つの話はここには略しますが、すべて皆彼等は一言をも話さぬといっている。共通の言語がない以上は当然である。食物は何であるか知らぬが、やはり吉野の国巣のように山菓や魚や菌(きのこ)であろう。米の飯を非常に喜ぶともあり餅(もち)を欲しがったともあり塩は好まぬともある」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.190~191』ちくま文庫)
このとき問題にしたのは「ご飯」である。
「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)
さらに個人的な実体験についても述べておいた。
なお、柳田のいう「お竹大日」(おたけだいにち)について。京都では今も「だいにっつぁん」と呼ぶ。子どもの頃、近くの寺院の境内に大日如来を祀る一角が設けられており、そこへ行くと朝早くから供物が準備してあったのを覚えている。一見すると正月や盆の供物と変わらないように見える。だが供物の主役は大盛りに盛られた「ご飯」である。「ご飯」と《ともに》山海の珍味が祀ってある。
また柳田はこうもいっている。
「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で神を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「民俗学上における塚の価値・飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)
ところで、「お竹大日」(おたけだいにち)=「だいにっつぁん」について、京都だけにあったのかというと、もちろん、そうではない。今の滋賀県大津市藤尾地区追分町に東海道と伏見街道との石造りの道標が残されている。この道標には「みぎは京ミち」、「ひだりはふしみミち」という道標の役割が刻まれている。さらにその文字のほかに蘇東坡の詩歌の一節である「柳緑花紅」とあり、安永七年「都名所図絵」(みやこめいしょずえ)に「道分の石に柳は緑、花は紅(くれない)の文字を刻む」と記され、漢詩からの引用をも併記した珍しいものだとの主旨が載っている。それを知る歴史ファンは多い。ただ、もう少し詳しく述べると、道標から西へ約二百メートル付近の音羽山をほんの少し登ったところにかつて「だいにっつぁん」があった。それを覚えている人々はほとんどいなくなった。覚えていても地元の僅かばかりの人々で、今や八十歳以上の後期高齢者ばかりである。「だいにっつぁん」の形式は京都市内に今も細々と残る形式と変わらない。「ご飯」と《ともに》山海の珍味が祀ってあったようだ。しかし追分町の祠は今はもうない。ところがそこから祠が消えた理由は誰しも覚えている。
一九六三年(昭和三十八年)、栗東=尼崎間が開通した名神高速道路。その少し前の一九五八年(昭和三十三年)、滋賀県大津市追分町に隣接する京都市山科区で起工式が挙行された。五年間で工事はどんどん進められた。当時、名神高速通過予定地点に「お竹大日」(おたけだいにち)=「だいにっつぁん」の祠があり、結果的に予定通りアスファルト舗装のため解体されて消滅した。また同時期、大阪府吹田市の関西大学構内を通過させる予定だったことから反対運動が起こっていたが、大学構内ではあるものの、その下にトンネルを設けて騒音公害を回避するという折衷案が出され、その案を大学側が受け入れて開通した。さらに後に計画されていた大阪万博会場への延伸も決定し敷設された。
「ご飯」と《ともに》山海の珍味を祀るという形はそもそも、山の神と海の神との和解の神事としての発祥を持つと考えられている。稲作文化と稲作輸入以前から列島各地に無数にいた狩猟や漁撈を営む先住民の生活様式との融合の名残りの神格化である。さらにその日の主役は童子・童女たちである。蛇の脱皮のようにいつまでも若いこと、何度も脱皮を繰り返すことで若さを更新すること、この思想と伝説はそっくりそのまま宮廷の神事に起源を持つ。今の皇居内に多種多様で貴重な動植物が集められているのはただ単なる偶然ではないのである。
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