ほんの少しだが「梅若忌」について述べた。もはや計り知れない膨大な幼子(おさなご)の死への弔いとして存在するという主旨を念頭に置いて熊野王子信仰との結びつきについて触れた。「熊野の本地の草子」にあるように死んだ幼子は怨霊であってもはや山神化している。それが後々に菅原道真と結びついたのはどちらも怨霊性という点で共通していたからに違いない。なお、梅若忌に与えられた怨霊性に関し、春の「花祭り」に触れておかねばならない。花祭りを執り行うのは山人である。怨霊=御霊ゆえに「卜占」を行う者が招かれねばならないわけだ。折口信夫はこう述べている。
「三河の奥で、初春の行はれる祭りに『花祭り』といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであった。其時、山人の持って来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木〔ニフキ〕か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.468』中公文庫)
祭祀では「『花育て』といふ行事が演藝種目の中心」となる。山人は演藝=芸能を演じる。それが神事であるのは「竹、杖、舞」という点から明らかと考えられる。
「花祭りの行事は『花育て』といふ行事が演藝種目の中心になつてゐる。竹を割いて、先を幾つにも分けて、其先へ花をつけた花の杖をついて、花祭りを行ふ場合、其は普通舞屋(マヒヤ)と言ふ家の土間、即、まひとを廻るのである。其中央に、大きな釜があつて、湯がたぎつて居る。興奮して来ると、見物人までも参加して、其周囲をまはる。其人々の中心に、山伏姿のみようどと言ふ者が居つて、花の荘厳(唱言、或は處によつて、唱文とも言うて居る)と言ふ文句を唱へる」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.469』中公文庫)
また、花祭りに登場する花はいきなり桜だったわけではない。というのは古代人の思考として、次の年の作物がどんな状態で出現するか、その吉凶を判断する「占い」の兆候が何よりの関心事だったからである。折口がいうように、桜の場合、始めは、桜といえば「山桜」のことを指していた。さらに山桜は「山人の所有物」だった。そして家の中に山桜を植えるわけではまったくなく、「遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた」というのが古代信仰としての真相だったと思われる。
「花祭りの花は稲の花の象徴であるが、其中心になる人は、今では修験道の後々の、前述のみようどが勤める。其前の形は、山伏の前型なる山人が勤めた。其つく杖に、今年の農業に関する先触れが現れるので、此杖を以て、土地を突き廻つた。村人に此象徴を見せて廻ると同時に、土地の精霊に、かう言ふ風にせよ、と約束させるのである。更に溯れば、土地の精霊が自ら示したものである。今年も、此杖に附いて居るとほり、稲の花が咲くだらうと言ふ徴(シルシ)である。三月の木の花は桜が代表して居る。屋敷内に桜を植ゑて、其を家桜と言つた。屋敷内に植ゑる木には、特別な意味があるのである。桜の木も元は、屋敷内に入れなかつた。其は、山人の所有物だからと言ふ意味である。だから、昔の桜は、山の桜のみであつた。遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.472』中公文庫)
ところで折口は花祭りが行われる場所を「三河の奥」としている。「三(三河)・信(信濃)の境」とも書いている。それが本当なら山人でありなおかつ芸能を司る神人が活躍した地理的範囲は相当広かったと思われる。そして広域に渡って芸能並びに山人として活動した人々ということになると、熊楠が「隅田川の梅若塚」を「考古学の材料」として指摘し柳田國男が「梅王子」と述べているように、熊野王子信仰との関連はもはや確実と言えるだろう。琵琶法師や熊野比丘尼が全国各地へ出張して常に神事と芸能とを結びつける役割を担ったように。行動範囲の広さの点で彼らは途方もない力量を発揮して見せた。
さて、熊野王子信仰を物づくしの手法で描いた近松門左衛門。前回述べた。「扚子」(しゃくし)に関する次の記述がある。
「湯の尾峠(ゆのをたうげ)の孫杓子(まごじやくし)」(日本古典文学体系「けいせい反魂香」『近松浄瑠璃集・下・P.122』岩波書店)
扚子に関し、熊楠も柳田もひとかたならぬ関心を抱いている。
「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現は、ちょうど上信二州の境上にあり、今も、一社にして両県の県社である。祭礼は十月の十五日、南北朝より地方の崇敬を受けていた証拠がある。往還の両側に、社家町が立ち続き、ここでまた大小の扚子を売っていた。よって扚子町とも称えていたそうである(上野志上)。これとよく似ているのは、箱根の扚子町で、やはり相模と伊豆の境山に接し、今の箱根宿の一区画、湖水に臨んだ芦川町の辺にあった。海道がまだ北岸を通っていた頃には、山扚子を細工して、これを箱根権現の坊中へ鬻(ひさ)いで活計となし、当時今よりもはるかに盛大であった修験者等は、その扚子を檀家への配礼に添えて贈ったということである(新編相模風土記)」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.332」ちくま文庫)
いきなり「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現」とある。森村誠一「人間の証明」で引用された土地。映画では松田優作の台詞の中に出たことで有名。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?ええ、夏碓氷(うすひ)から霧積(きりづみ)へ行くみちで、溪谷(けいこく)へ落としたあの帽子ですよ」(森村誠一「人間の証明・P.192」角川文庫)
さらに熊野信仰と扚子、そして「山の神」との極めて近い関係について。
「これはかつて南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の注意によって知ったことである。『黄表紙百種』の中(うち)『浮世操(うきよからくり)九面十面』と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被(かぶ)り、番頭の黒兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれぞれの面を被って出る中に、女房は不断山の神の面をかぶり時々あばれまわるとあり、さらにまた『この時山の神扚子を持ちてあばれるゆえ、今の世に十二神楽(かぐら)の山の神を杓子をもちてさわぐ云々』とも見えている。東京などでは十二神楽と言う語は今もあって、しかもこれと山の神との関係はすでに不明になっているが、越後や会津で十二所または十二神と言うのは山の神のことで、あるいは二月十日等の十二日もってこれを祭る村もあれば、また十二本の神木の話など伝わっているようである」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.338」ちくま文庫)
伝承は越前にまで及んでいる。「疱瘡のお守り」として。
「越前の国湯の尾峠の茶屋の軒端(のきば)に、大きなるしやくしをしるして、孫しやくしとて、疱瘡(はうさう)かろき守札(まもりふだ)を出(いだ)す」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・五・雪中の時鳥」『井原西鶴集2・P.385』小学館)
孫扚子(まごじゃくし)には盛りこぼしを「呼び出す」という意味があった。
「扚子によって多くの不可能事をなし遂げんとした俗信がある。これは少くも食物の標識だけでは説明が付かぬのである。たとえば江州愛智(えち)郡西菩提寺(ぼだいじ)村の杓子池で、池に杓子を入れて水を掻き濁すをもって有効なる雨乞(あまごい)方法としていたなどは(近江国輿地誌略)、あるいは扚と扚子と本来一つであった一の証拠で、神池の水を掬(きく)するをもって竜王の力を借るの途とした名残かも知れぬが、少くも近世においてはこれを挑発手段に供したらしいのである。これは仏道その他宗教上の承認を得たものでないことは往々にして無理または不道徳な目的に使われるのでよく分る。紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している(郷土研究四の四四七頁)などもその一例であるが、さらに顕著にしてかつ弘く行われているのは、倡家(しょうか)青楼の客引き手段にこの物を用いる風である。同じ田辺においても、以前は客人の少い夜、人知れず杓子を懐中して四辻に行き、これをもって四方を招けば客が来ると信じていた(同二の四三四頁)。ーーー杓子には、その表向きの商法とはまったく関係のない『招く』と言うことが、常に大なる働きをしている。待人を呼ぶにも三度招き、または四方に向って客を招く。かと思うとこの物で招かれると三年の内に死ぬと言う話もある(俚言集覧)。いずれも自分が前に掲げたところの仮定、すなわち杓子に人の魂を摂取する力があると考えられたものとみることによって、始めて説明が可能である」(柳田國男「史料としての伝説・扚子の魔力」「柳田国男全集4・P.344~345」ちくま文庫)
柳田は総括としてそう語っている。なるほどそうなのだろうと思う。迷信・俗信・等々が次々と現われては消えていく。今もそうだ。にもかかわらず世界を見ると依然として新しいような古いような宗教者の出現は後を絶たない。何かが足りないのか、それとも何かが有り余っているのだろうか。
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「三河の奥で、初春の行はれる祭りに『花祭り』といふのがある。昔は、前年の霜月に行はれた。即、春のとり越し祭りである。此祭りの意味から言ふと、来年の村の生活は此とほりだ、と言ふことを、山人が見せてくれるのであった。其時、山人の持って来る山苞には色々あつた。更に、其が種々に分れて来た。鬼木とも言ひ、にう木(丹生木〔ニフキ〕か)とも言ふ木の外に、雑多なものを持つて来る」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.468』中公文庫)
祭祀では「『花育て』といふ行事が演藝種目の中心」となる。山人は演藝=芸能を演じる。それが神事であるのは「竹、杖、舞」という点から明らかと考えられる。
「花祭りの行事は『花育て』といふ行事が演藝種目の中心になつてゐる。竹を割いて、先を幾つにも分けて、其先へ花をつけた花の杖をついて、花祭りを行ふ場合、其は普通舞屋(マヒヤ)と言ふ家の土間、即、まひとを廻るのである。其中央に、大きな釜があつて、湯がたぎつて居る。興奮して来ると、見物人までも参加して、其周囲をまはる。其人々の中心に、山伏姿のみようどと言ふ者が居つて、花の荘厳(唱言、或は處によつて、唱文とも言うて居る)と言ふ文句を唱へる」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.469』中公文庫)
また、花祭りに登場する花はいきなり桜だったわけではない。というのは古代人の思考として、次の年の作物がどんな状態で出現するか、その吉凶を判断する「占い」の兆候が何よりの関心事だったからである。折口がいうように、桜の場合、始めは、桜といえば「山桜」のことを指していた。さらに山桜は「山人の所有物」だった。そして家の中に山桜を植えるわけではまったくなく、「遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた」というのが古代信仰としての真相だったと思われる。
「花祭りの花は稲の花の象徴であるが、其中心になる人は、今では修験道の後々の、前述のみようどが勤める。其前の形は、山伏の前型なる山人が勤めた。其つく杖に、今年の農業に関する先触れが現れるので、此杖を以て、土地を突き廻つた。村人に此象徴を見せて廻ると同時に、土地の精霊に、かう言ふ風にせよ、と約束させるのである。更に溯れば、土地の精霊が自ら示したものである。今年も、此杖に附いて居るとほり、稲の花が咲くだらうと言ふ徴(シルシ)である。三月の木の花は桜が代表して居る。屋敷内に桜を植ゑて、其を家桜と言つた。屋敷内に植ゑる木には、特別な意味があるのである。桜の木も元は、屋敷内に入れなかつた。其は、山人の所有物だからと言ふ意味である。だから、昔の桜は、山の桜のみであつた。遠くから桜の花を眺めて、その花で稲の実りを占つた」(折口信夫「花の話」『折口信夫全集2・P.472』中公文庫)
ところで折口は花祭りが行われる場所を「三河の奥」としている。「三(三河)・信(信濃)の境」とも書いている。それが本当なら山人でありなおかつ芸能を司る神人が活躍した地理的範囲は相当広かったと思われる。そして広域に渡って芸能並びに山人として活動した人々ということになると、熊楠が「隅田川の梅若塚」を「考古学の材料」として指摘し柳田國男が「梅王子」と述べているように、熊野王子信仰との関連はもはや確実と言えるだろう。琵琶法師や熊野比丘尼が全国各地へ出張して常に神事と芸能とを結びつける役割を担ったように。行動範囲の広さの点で彼らは途方もない力量を発揮して見せた。
さて、熊野王子信仰を物づくしの手法で描いた近松門左衛門。前回述べた。「扚子」(しゃくし)に関する次の記述がある。
「湯の尾峠(ゆのをたうげ)の孫杓子(まごじやくし)」(日本古典文学体系「けいせい反魂香」『近松浄瑠璃集・下・P.122』岩波書店)
扚子に関し、熊楠も柳田もひとかたならぬ関心を抱いている。
「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現は、ちょうど上信二州の境上にあり、今も、一社にして両県の県社である。祭礼は十月の十五日、南北朝より地方の崇敬を受けていた証拠がある。往還の両側に、社家町が立ち続き、ここでまた大小の扚子を売っていた。よって扚子町とも称えていたそうである(上野志上)。これとよく似ているのは、箱根の扚子町で、やはり相模と伊豆の境山に接し、今の箱根宿の一区画、湖水に臨んだ芦川町の辺にあった。海道がまだ北岸を通っていた頃には、山扚子を細工して、これを箱根権現の坊中へ鬻(ひさ)いで活計となし、当時今よりもはるかに盛大であった修験者等は、その扚子を檀家への配礼に添えて贈ったということである(新編相模風土記)」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.332」ちくま文庫)
いきなり「中山道碓氷(うすい)峠の熊野権現」とある。森村誠一「人間の証明」で引用された土地。映画では松田優作の台詞の中に出たことで有名。
「母さん、僕のあの帽子、どうしたでせうね?ええ、夏碓氷(うすひ)から霧積(きりづみ)へ行くみちで、溪谷(けいこく)へ落としたあの帽子ですよ」(森村誠一「人間の証明・P.192」角川文庫)
さらに熊野信仰と扚子、そして「山の神」との極めて近い関係について。
「これはかつて南方熊楠(みなかたくまぐす)氏の注意によって知ったことである。『黄表紙百種』の中(うち)『浮世操(うきよからくり)九面十面』と題する一篇に、西のみや三郎兵衛えびすの面を被(かぶ)り、番頭の黒兵衛は大黒の面、手代の鬼助は鬼の面とそれぞれの面を被って出る中に、女房は不断山の神の面をかぶり時々あばれまわるとあり、さらにまた『この時山の神扚子を持ちてあばれるゆえ、今の世に十二神楽(かぐら)の山の神を杓子をもちてさわぐ云々』とも見えている。東京などでは十二神楽と言う語は今もあって、しかもこれと山の神との関係はすでに不明になっているが、越後や会津で十二所または十二神と言うのは山の神のことで、あるいは二月十日等の十二日もってこれを祭る村もあれば、また十二本の神木の話など伝わっているようである」(柳田國男「史料としての伝説・二所の扚子町」「柳田国男全集4・P.338」ちくま文庫)
伝承は越前にまで及んでいる。「疱瘡のお守り」として。
「越前の国湯の尾峠の茶屋の軒端(のきば)に、大きなるしやくしをしるして、孫しやくしとて、疱瘡(はうさう)かろき守札(まもりふだ)を出(いだ)す」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻二・五・雪中の時鳥」『井原西鶴集2・P.385』小学館)
孫扚子(まごじゃくし)には盛りこぼしを「呼び出す」という意味があった。
「扚子によって多くの不可能事をなし遂げんとした俗信がある。これは少くも食物の標識だけでは説明が付かぬのである。たとえば江州愛智(えち)郡西菩提寺(ぼだいじ)村の杓子池で、池に杓子を入れて水を掻き濁すをもって有効なる雨乞(あまごい)方法としていたなどは(近江国輿地誌略)、あるいは扚と扚子と本来一つであった一の証拠で、神池の水を掬(きく)するをもって竜王の力を借るの途とした名残かも知れぬが、少くも近世においてはこれを挑発手段に供したらしいのである。これは仏道その他宗教上の承認を得たものでないことは往々にして無理または不道徳な目的に使われるのでよく分る。紀州田辺で杓子を懐中して行くと頼母子(たのもし)が当るという迷信の現存している(郷土研究四の四四七頁)などもその一例であるが、さらに顕著にしてかつ弘く行われているのは、倡家(しょうか)青楼の客引き手段にこの物を用いる風である。同じ田辺においても、以前は客人の少い夜、人知れず杓子を懐中して四辻に行き、これをもって四方を招けば客が来ると信じていた(同二の四三四頁)。ーーー杓子には、その表向きの商法とはまったく関係のない『招く』と言うことが、常に大なる働きをしている。待人を呼ぶにも三度招き、または四方に向って客を招く。かと思うとこの物で招かれると三年の内に死ぬと言う話もある(俚言集覧)。いずれも自分が前に掲げたところの仮定、すなわち杓子に人の魂を摂取する力があると考えられたものとみることによって、始めて説明が可能である」(柳田國男「史料としての伝説・扚子の魔力」「柳田国男全集4・P.344~345」ちくま文庫)
柳田は総括としてそう語っている。なるほどそうなのだろうと思う。迷信・俗信・等々が次々と現われては消えていく。今もそうだ。にもかかわらず世界を見ると依然として新しいような古いような宗教者の出現は後を絶たない。何かが足りないのか、それとも何かが有り余っているのだろうか。
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