白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/「脱・成熟神話」=裸大好き熊楠の孤軍奮闘

2020年12月05日 | 日記・エッセイ・コラム
もはや形式化してしまっているとはいえ、「梅若忌」=「梅王子信仰」を通して、形式だけでも残されている日本とは異なり、アメリカはそのような歴史的伝統を持たない国家である。どのような病気が発生してきたか。エリクソンはいう。

「かれらが、時々は病的に、そしてしばしば奇妙なくらいに心を奪われているのは、自分が感じる自分の姿よりは、他人の眼に映った自分の姿であり、また、かつて習得した役割や技能と、その時代の理想像とをいかにして結びつけるかという問題である。かれらは、新たな連続性感や同一性感を探求するが、それはいまや、性的成熟をそのなかに包摂しているものでなければならない。また、それらを探求する際に、何人かの青年は、恒久的な偶像や理想像を最終的なアイデンティティの保護者として設定する前に、かつてのもろもろの危険をもう一度しっかりと支配しなければならない。かれらが、なかんずく必要とするものは、アイデンティティのさまざまな構成要因ーーー今までの論述では児童期にその原因を求めていたのだがーーーを統合するための猶予期間(モラトリアム)である」(エリクソン「アイデンティティ・P.167」金沢文庫)

日本では一九七〇年代に高度経済成長期を迎えた。けれども当時、「猶予期間(モラトリアム)」は「甘え」に過ぎないと言い放って平然たる教育専門家・心理学者が大勢いた。アメリカがベトナム戦争に敗北し、「青年」という言葉の実態が問われ始めたまさにその時、次第に近寄ってくる「引きこもり百万人時代」の足音にさえ気づこうとしない教育専門家がいたのだ。信じがたいことだが。エリクソンは続ける。

「《アイデンティティの混乱》ーーー『お母さん、ぼくは何か人生って奴を、しっかりとつかんでおくことができないんだよ。全然できないんだよ』。そのような板ばさみ状態が、自分の人種的・性的なアイデンティティにたいするかつての強力な疑惑に基礎づけられている場合には、または、役割混乱が長期にわたる絶望状態につけ加わる場合には、非行的で『境界線的な』精神病的問題が生れるのは、まれではない。アメリカ的青年期という冷酷なる規格製品によって強制される役割を取得するほどの能力のない自分に気づいて、まったくうろたえてしまう青年ならだれでも、何らかの方法で、つまり、学校を中退したり、離職したり、一晩中家に帰らなかったり、奇怪で近寄り難いような瞑想(めいそう)の世界に引きこもったりして、そこから逃げ出すのである」(エリクソン「アイデンティティ・P.171~172」金沢文庫)

それが一時的な症候でないがゆえにエリクソンは取り上げた。しかしエリクソンは一時的ではないものの、何らかの形で「元に戻ることができる」というまったく「甘い」幻想を思い描いていた。ところがそもそも資本主義は「元に戻る」などということを全然知らない制度である。自動車事故や飛行機事故、銃撃戦などはすぐさま映像商品化し、そこから引き出せる限り目一杯の収益を上げること。多くの若年者=青年期の社会的脱線・脱落・自殺をも事件化し商品化し、そこから出来る限り利潤を上げ利子へ変換=分散し、さらに次の投資を回転させること。そういう自己目的しか知らない制度である。なんでも器用にこなす自動機械だ。

「一般的にいえば、青年の心を最も強く動揺させるものは、職業的アイデンティティに安住できないという無力感である。青年は、かれらの集団を維持させるためには、派閥や仲間の英雄と自分とを、一時的にではあれ過剰なほどに同一視するのである。それは、明らかな個性をまったく喪失してしまうのではないかと思われるほどである」(エリクソン「アイデンティティ・P.172」金沢文庫)

アメリカに学んだ中国もまた同様の病に犯されている。徹底的な監視社会である。けれども監視・管理という点ではまだまだアメリカの側がリードしているといえるかも知れない。中国は一党独裁国家であるため監視・管理に当たる際、目に見える暴力装置を動員して恫喝を見せしめ的に用いる。アメリカは既にそのような大変目に付きやすい低レベルな国民管理方法を乗り越えた。いつどこで誰が何をやっているか。スマートフォンによる位置情報を少しいじるだけでも二億人の管理と情報の一元化などいともたやすい。なおかつキャッシュレス社会なので、いつどこで誰が何を購入したか、そしてその人間の手元には後どれだけの運用資金が残り、預貯金残高を差し引きすればその人間にさらに何をどこまで期待できるか、など居眠っていても瞬時にキャッチできる自動機械社会を実現している。誰もが常に財布の中を覗かれており、所得別に選別され、誰それの一群は或る種のルートへ導き入れられ、他の或る一群はまた別のルートへ動員される。人々はそのような計画的消費行動をいつも黙って割り当てられ、多くはマスコミを通して、それぞれの分類にしたがい各々の消費ルートへ導かれていく極めて柔軟で目に見えない管理社会。

一方、今は強硬姿勢が目立つ中国だが、より一層デジタル化が進めば放っておいてもいずれそうなるだろう。しかも加速的に。またウイグルやチベットなど自治区独立問題を抱えているが、独立させるかさせないか、アメリカはどう考えるだろうか。例えば、今のアメリカ大統領にはとてもではないが付いていけないという理由で、テキサス州など南部諸州が或る程度まとまり合衆国政府に対して独立したいと申請したとしよう。ワシントンは「イエス」と認めるだろうか。

エリクソンは「青年」という言葉を自明のように用いている。ところが「青年」という言葉は十七世紀になって始めてヨーロッパに登場した単なる造語である。成人式を済ませたら突然人が変わったように「青年」から「大人」が出現するわけでは全然ない。たかが通過儀礼に過ぎない成人式を境に、昨日の自分と今日の自分とを比較してみて、天と地ほどの違いが見られるだろうか。蛇が蛇使いになっているだろうか。そんな人間はどこにもいない。しかしエリクソンはそれを「成熟」という観点で理論展開しようとする。「青年」という一種の人間が「成熟」を目指して歴然と実在しているかのように前提して語っている。通過儀礼としての成人式は、アプリオリには決して存在しない「青年」が「大人」へと、あらかじめ定められた連続性を顕在化させるものででもあるかのように思わせるための社会的=政治的装置に過ぎないというのに。それでも「青年」は存在する。なぜだろう。ニーチェはいう。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫)

フーコーは「狂気の歴史」でニーチェを参照しつつ述べている。人間を裁くためには、異種のものを同種の「算定しうべき」ものに「する」作業が必要だったと。そしてそれは果たされた。狂気の人々もそうでない人々も、人間としては「同じ」である。だから両者ともに「数字」で計測することができる。「青年」というカテゴリーを設けるとしよう。「青年」の基準が法的に整備されるや「青年」はどの「青年」であれ、「同じ青年」として単純計算されることになる。そうなればどのような「約束」もできるし、いったん同意した「約束」はその通りに果たされなければならない。何より犯罪行為において。また労働待遇において。

「青年」という人間の発明は「子供」と「大人」とを分割させるのに役立った。あるいは、分割するや否や「青年」が出現した。いずれにしても同じことだ。分割された「子供」は「子供向け教育」あるいは政治的意図のもとに綿密に練り上げられた「児童文学」によって隈なく包囲しておけばいい。一方「大人」は「大人らしく」アメリカ流の労働体系の中で労働するほか一切の生存方法を奪い取ってしまえばいい。そうして今のアメリカ、あちこちで身体を壊し、あるいは精神障害を負い、見せかけばかりの家族を劇的に演じ続ける手段しか全然身に付いていないアメリカ国民という生き物が捏造=量産されている。「青年」という概念を最も早く社会の中に取り込み利用することを学んだアメリカ社会。その真っ只中で既に何百万人という「数」の「青年」が、とりわけ精神の奥深く、脳細胞の重要部分を繰り返し複雑に傷つけ故障させ、様々な精神障害をわざわざ何度も反復するという新しい病を病むようにさえなってきた。あるいは病み呆けることに慣れてしまってすらいる。さらにアメリカは世界最大の致命的メンタルヘルス大国と化して長い。少なくとも十二、三年は致命傷のまま年月を経た。それゆえ皮肉なことにアメリカにおけるメンタルヘルス治療は、他の諸外国で実施される精神医療のモデルケースを提供し続けている。言い換えれば、壮大な人体実験大国と化している。それでもなお、あくまでモデルケースであるため残念ながら失敗例も数多く、良好な方向へ転じる気配は当分訪れないように見える。

そのような現状を回復させることが出来ていないにもかかわらず、脱出口をさらなる地域紛争への軍事介入でごまかそうというのはいかにも乱暴に見える。けれどもアメリカではそれが常識なのかもしれない。そもそも移民国家としてすべての先住民族を征服することから始まった歴史しか持たないし知らない。それ以上のことを期待するには荷が重過ぎるのかもしれない。

柳田國男に戻ると、元来「昔話」は「児童」というものを想定して人為的に加工=変造されたものではない、と言っている。

「思うにこの類の書物は少なくも現代の流行にあらず。いかに印刷が容易なればとてこんな本を出版し自己の狭隘(きょうあい)なる趣味をもって他人に強いんとするは無作法の仕業なりという人あらん。されどあえて答う。かかる話を聞きかかる処を見て来て後これを人に語りたがらざる者果してありや。そのような沈黙にしてかつ慎み深き人は少なくも自分の友人の中にはある事なし。いわんやわが九〇〇年前の先輩『今昔物語』のごときはその当時にありてすでに今は昔の話なりしに反しこれはこれ目前の出来事なり」(柳田國男「遠野物語」『柳田國男全集4・P.10~11』ちくま文庫)

間違いなく今現在、目の前に転がっている現実だった。

「文藝は必ず国民思想の産物でなければならぬやうに思つて居る人々に、果してさういふ系統立つた物の観方の中から多くの歌や物語が出て来たのかどうかを考へてもらふべく、今はちやうどこのかちかち山の童話などが、頃合ひの一つの参考資料であるかも知れない」(柳田國男「昔話と文學・かちかち山」『柳田國男集・第六巻・P.234』筑摩書房)

さらに「文芸」という方法は明治二十年代から三十年代を通して欧米から輸入され定着するに及んだまったく新しいタイプの一ジャンルであって、「文芸」以前の「昔話」の時代に「文芸」があったはずなど決してない。欧米にしてからがそうだった。フーコーはいう。

「十八世紀末以前に、《人間》というものは実在しなかったのである。生命の力も、労働の多産性も、言語(ランガージュ)の歴史的厚みもまた同様だった。《人間》こそ、知という造物主がわずか二百年たらずまえ、みずからの手でこしらえあげた、まったく最近の被造物にすぎない」(フーコー「言葉と物・第九章・P.328」新潮社)

またフーコーの初期作品に次の文章がある。

「この形象において、医学的空間は社会的空間と一致しうる。あるいは、むしろ、前者は後者を貫通して、これを全く浸透することがありうる。ここで考え始められた構想は、医師たちがあまねく存在する、という状態であって、この医師たちのまなざしが交叉して網目をつくり、空間のあらゆるところ、時間のあらゆる時点において、恒久的、可動的、かつ分化した監視を行なう、という事態である」(フーコー「臨床医学の誕生・第二章・P.69」みすず書房)

フーコーが用いている「医師」という言葉を「児童文学者」という、つい最近現われたばかりの言葉へ変換しなくてはならない。すると近代化に伴って子供はどのように加工=変造されるようになったかがよくわかるだろうと思われる。こうなる。

「この形象において、児童文学的空間は社会的空間と一致しうる。あるいは、むしろ、前者は後者を貫通して、これを全く浸透することがありうる。ここで考え始められた構想は、児童文学者たちがあまねく存在する、という状態であって、この児童文学者たちのまなざしが交叉して網目をつくり、空間のあらゆるところ、時間のあらゆる時点において、恒久的、可動的、かつ分化した監視を行なう、という事態である」

しかし柳田はこう言っている。

「狐や狸の化けた騙したといふ話の如きは、如何に無頓着な昔の親たちでも、之を最初から子供にして聴かせる話として発明して置かう筈が無い。殊に自分等が早くからさう思つて居たのは、五大昔話の一つとしては有名なカチカチ山、婆を汁の実にして爺に食はせるだの、流しの下の骨を見ろだのといふが如き話が、小児の趣味に似つかはしからうなどとは、誰だつて想像し得ないことである」(柳田國男「昔話覚書・実生活の需要」『柳田國男集・第六巻・P.496』筑摩書房)

というふうに「始めから」子供の目をはばかっていたことは事実だろう。と同時に「始めから」何がなんでも隠し通そうとしたわけでもまたない。「始めから」ではなくとも、しかしいずれ、「大人」のためには供給されねばならなかったのが「婆を汁の実にして爺に食はせるだの、流しの下の骨を見ろだのといふが如き話」だった。柳田は不意を突いてそう述べる。「小さな大人」たる子供たちは、かつて「どんな大人たちもみんな一度は通ってきた関門」を避けて通ることはできない。また、天皇後醍醐の夢のエピソードから引いたように、「太平記」の時代には「童子」の神聖性という観念が残っていた。なぜなら童子というものは「王様は裸だ」と大声で不意打ちできる破格の存在として認められていた「餓鬼」でもあったに違いないからだ。

なお、フーコーなき後、世界を制覇したネット社会は、一方で「理想的な子供を大量生産しよう」とした大人たちをばたばたと過労や自殺や精神障害に追い込み、もう一方で「大人たちにばかり頼っていてはいけない」と自立を目指した子供たちを今度はさらに巨大な規模において信じがたい過労や自殺や精神障害へ追い込んだ。今や両者ともに「成熟」を目指して逆に「共倒れ」するという非常事態が世界中で蔓延している。かといって、前時代的なアナログ社会に戻るわけにはいかない。もはや退路は絶たれた後だ。絶滅したものを再生させる方法などどこにもない。ニーチェがいうようにもはや「神は死んだ」。さらに「神の殺害者」はほかの誰でもない、人間だと宣告した。だから前向きに、とはいえ、前とはいったい《どこ》のことを言うのだろうか。

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