山間部に生息する蟹について。熊楠はいう。
「本邦で山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆赭褐色、光沢あり、行歩緩慢で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)
次の説話にも蛇が登場する。或る少女が外で遊んでいると蟹取りを生業として暮らしている男性とばったり出会う。少女は哀れに思ったのか自分の家に「死(しに)たる魚」=「乾魚」がたくさんあるからそれと蟹とを交換してくれませんかと持ちかける。すると男性は承諾して蟹を少女に手渡した。少女は蟹を河に戻してやった。
「而(しか)る間、此の女家を出(い)でて遊び行(あり)く程に、人、蟹(かに)を捕へて結(むすび)て持行(もてゆ)く。此の女此れを見ては、問(とい)て云(いわ)く、『其の蟹をば何の料(りよう)に持行(もてゆく)ぞ』と。蟹持(かにもち)答(こたへ)て云く、『持行(もてゆき)て食(くわ)むずる也』と女の云く、『其の蟹、我に令得(えし)めよ。食(じき)の料(りよう)ならば、我が家に死(しに)たる魚多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に与へむ』と。男、女の云ふに随(したがい)て、蟹を女に令得(えし)めつ。女、蟹を得て、河に持行(もてゆき)て放ち入れつ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.356」岩波文庫)
その頃、少女の父が水田で作業していると毒蛇が泳いでいるのが見えた。今にも蝦(かえる)を呑み込もうとしている。父は蛇と掛け合って自分の家の娘をお前さんの嫁にやるから代わりに蝦(かえる)を放してやってはくれまいかと頼み込む。すると蛇はじっと父の顔を見て、「蝦(かえる)を棄てて藪(やぶ)の中に這入(はいいり)ぬ」。後から考えてみると、交換条件としてはいかにもおかしなことを口にしてしまったようで、その日からは食欲もなくこれは弱ったと後悔する。
「其の後、女の父の翁(おきな)田を作る間に、毒蛇有(あり)て蝦(かえる)を呑(のまん)が為(ため)に追(おい)て来(きた)る。翁此れを見て、蝦を哀(あわれび)て、蛇(へみ)に向(むかい)て云く、『汝(なん)ぢ其(その)蝦(かえる)を免(ゆる)せ。我が云はむに随(したがい)て免したらば、我れ汝を聟(むこ)と為(せ)む』と不意(おもわ)ず騒ぎ云ひつ。蛇此れを聞て、翁の顔を打見(うちみ)て、蝦を棄てて藪(やぶ)の中に這入(はいいり)ぬ。翁、『由無(よしな)き事をも云(いい)てけるかな』と思て、家に返(かえり)て、此の事を歎(なげき)て物を不食(くわ)ず」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.357」岩波文庫)
約束の日の午後八時頃、人間の姿に変身した蛇がやって来た。少女は仮にこしらえた倉の中に籠もって蛇の進入から身を守ろうと待っていた。それを見た蛇はたちまち正体を現わし仮倉を取り巻き、胴体で憤然と倉の板を破壊しにかかる。ところが夜半になると蛇がどたばた暴れる音が急に聞こえなくなった。そして明け方、少女の父母が仮倉の戸を開けてみると、大小何万という蟹の大群によって蛇はばらばらに切り殺されていた。
「初夜(しよや)の時に至(いた)るに、前(さき)の五位来(きたり)て門を叩くに、即(すなわ)ち門を開(ひらき)つ。五位入来(きりきたり)て、女の籠居(こもりい)たる倉代(くらしろ)を見て、大(おおき)に怨(あた)の心を発(おこ)して、本(もと)の蛇(へみ)の形(かたち)に現(げん)じて、倉代を囲(かく)み巻(まき)て、尾を以て戸を叩く。父母(ぶも)此れを聞て、大(おおき)に驚き恐るる事無限(かぎりな)し。夜半に成て、此の叩(たたき)つる音止(やみ)ぬ。其の時に、蛇の鳴く音(こえ)聞ゆ。亦、其の音(こえ)も止(やみ)ぬ。夜明(あけ)て見れば、大(おおき)なる蟹(かに)を首(かしら)として、千万の蟹集り来(きたり)て、此の蛇を螫殺(さきころし)てけり。蟹共(かにども)皆這去(はいさり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.358」岩波文庫)
少女はいう。夜通し「法華経・普門品」の一節を読んで祈っていたと。次の箇所。
「蜥蜴蛇及蝮蝎 氣毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自廻去
(書き下し)蜥蜴(とかげ)・蛇(へび)及び蝮(まむし)・蝎(さそり)の気毒(けどく)の煙火(えんか)の燃(も)ゆるごとくならんに彼の観音の力を念ぜば声に尋いで自ら廻(かえ)り去らん」(「法華経・下・巻第八・普門品・第二十五・P.264」岩波文庫)
先行する類話は「日本霊異記」に載っているが「今昔物語」ではさらに続きがある。以前助けた蟹に今度は救われた。ありがたい話ではある。だが先行する類話はすべて仏教説話なので次の展開が挿入されたものと考えられる。というのは、ともかく蟹とはいえ、その蟹もまた蛇を殺した。殺生戒を破ったわけだから殺された蛇を供養してやらないといけない。だから蛇の苦しみを救うとともに蟹たちが負った殺生の罪をもともに救うため蛇を土に埋めてやる。その上に寺院を造って仏像をおさめ、永代供養したいとおもう。そう少女は考え実行する。寺の名前も決めた。「其の寺の名を蟹満多寺(かにまたでら)と云ふ。其の寺干今(いまに)有り。其れを、世の人和(やわら)かに紙幡寺(かばたでら)と云ふ」とのこと。
「其の後、蛇(へみ)の苦を救ひ、多(おおく)の蟹(かに)の罪報(ざいほう)を助けむが為(ため)に、其の地に握て、此の蛇の屍骸(しにかばね)を埋(うずみ)て、其の上に寺を立てて、仏像を造り、経巻を写して供養しつ。其の寺の名を蟹満多寺(かにまたでら)と云ふ。其の寺干今(いまに)有り。其れを、世の人和(やわら)かに紙幡寺(かばたでら)と云ふ也けり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.358」岩波文庫)
「蟹の恩返し」ともいうべきこの報恩譚について柳田國男は「お竹大日」(おたけだいにち)を参照している。大日は大日如来のこと。だから常日頃から少女が蟹に与えていた食料は「ご飯」だと述べる。「天狗の話」にこうある。
「山童に行き逢ったという話はたしかなものだけでも数十件ある。一つ一つの話はここには略しますが、すべて皆彼等は一言をも話さぬといっている。共通の言語がない以上は当然である。食物は何であるか知らぬが、やはり吉野の国巣のように山菓や魚や菌(きのこ)であろう。米の飯を非常に喜ぶともあり餅(もち)を欲しがったともあり塩は好まぬともある」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.190~191』ちくま文庫)
山人は「米の飯を非常に喜ぶ」ようだ。しかし必ずしも「塩は好まぬ」とは限らない。柳田自身、こう述べている。
「山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。いったんその便益を解していた者が、これを抛棄(ほうき)したということはあり得ぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実とか若葉と根、または菌類などが多く、生で食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽・炭焼の小屋に尋ねて来て、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹(かわがに)を持って来て焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおらぬが、日本では山中に塩分を含む泉いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に逃げ込んだ平地人が、山小屋に塩を乞(こ)いに来た。一握(ひとつか)みの塩を悦(よろこ)んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が『羈旅漫記』(きりょまんろく)かに見えておりました」(柳田國男「山の人生・山人考」『柳田国男全集4・P.250~251』ちくま文庫)
山間部には海浜で取れる塩はないが、「塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ」と書いているように、山間部には山間部で取れる塩分を含んだ食物が案外豊富にあった。さてしかし、気になるのは山岳地帯と平地との《あいだ》で成立する交換関係があったという事実である。既に日本書紀から何度か引いた。奈良に都が置かれた頃すでに吉野の国巣と古代朝廷との《あいだ》で公然とそれは実在していた。
動物と人間との《あいだ》で行われたとされる「ご飯」との交換関係は次の一節にも見える。
「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)
ところで先ほど「今昔物語」から「山城の国の女人、観音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語(こと)」を引いた。「今昔」編纂時に参照された「日本霊異記・中巻・蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得し縁 第八・P.93」(講談社学術文庫)によると、この女性の名は「置染臣鯛女(おきそめのおみたひめ)」とある。このケースで菩薩として登場するのは行基だが、普段から住んでいるのは奈良県生駒山の山中である。山岳地帯と平地との食物のやり取りを念頭に置きつつ、さらに注目すべきは、なぜ少女の名前が「鯛」(たい)なのか、ということになるだろう。熊楠はいう。
「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪あるに同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.195~196』河出文庫)
それについて柳田は次のような考察を述べる。
「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」「柳田国男全集4・P.429」ちくま文庫)
柳田の疑問は「オコゼ」か「ハナオコゼ」かという分類上の問題である。しかしここで熊楠が問いかけているのは、一体どちらなのかという分類上の問題ではない。そうではなく、「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざる」という、《神事としての》問いかけである。例えば、藤原鎌足(かまたり)=「鎌足(かます)」なのはなぜかという問いであって、なおかつ朝廷への献上品として列挙されたこれら一連の魚類はどれもみな「異類・異形」あるいは「奇異」な姿形を特徴とする珍品ばかりだという点。そうであって始めて主役はけっして「大人」でなく、或る童子や童女であり、またその名が「鯛」(たい)なのか」という事情が見えてくるわけである。神事に登場する異類異形の動植物あるいは普段はほとんど付き合いがなく生活様式も異なる山間部の様々な住人たち。その点に細かく注目しなければ熊楠は一体何を言いたがっているのか、よくわからなくなるのも当然というほかない。
なお、柳田のいう「お竹大日」(おたけだいにち)について。京都では今も「だいにっつぁん」と呼ぶ。子どもの頃、近くの寺院の境内に大日如来を祀る一角が設けられており、そこへ行くと朝早くから供物が準備してあったのを覚えている。一見すると正月や盆の供物と変わらないように見える。だが供物の主役は大盛りに盛られた「ご飯」である。「ご飯」と《ともに》山海の珍味が祀ってある。
「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で神を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「民俗学上における塚の価値・飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)
個人的にいうと京都市東山区建仁寺境内に設けられていて歩いて二分ほどの小学校区内だった。それにしても子どもの大幅減少のため小学校区は大規模中学校区へ再編され、もはや地蔵盆さえ存続の危機にある。しかしなぜ子供たちは見る見る急速に減少したか。ただ単に他の大都市と比べても減少幅は予想外に大きい。そもそも地蔵盆がかつての形で残されている地域さえ今や京都と滋賀県の大津市内くらいのものになってきた。とりわけ京都の祇園・宮川町付近から転出する家族が増えた。子どもの頃の友人知人も多くは転出してしまった。最大の理由は地価高騰であれやこれやの税金が工面できなくなるような状態に陥ったからである。一九七〇年代はとても賑やかだった。夜になって建仁寺境内を子どもが通り抜けるのも自由だった。夜間に出勤する大人の女性らも平気で通行していたものだ。煌々と常夜灯が灯っていたこともある。ところが余りにも上げ幅の大きい地価高騰に加えて子供一人育てるのに夫婦共働きしてなおローンを返済するだけでも過労に陥る世帯が続出するようになってきた。そうして新自由主義は日本の伝統的な、そして子どもたち並びに古代朝廷へ献上された山海の珍味が、「ご飯」とともに主役を飾る「だいにっつぁん」は加速的に姿を消しつつある。
それを思うと、東西冷戦中の資本主義の時代はまだよかったと言える。ところが資本主義のような経済的に原理的な骨組み部分を根底から溶解させてしまう新自由主義というものは、何度もいうようにただ単なるイデオロギーに過ぎない。にもかかわらず日本政府は資本主義という基礎的制度すら忘れてしまい、ただ単に安易この上ないイデオロギーに身も心も委ねきってしまった結果がこうだ。日本国成立以前の縄文時代はもちろん、成立以後の伝統的行事さえ衰退した。残っている箇所はちらほらあるにはあるけれども、それさえもはや風前の灯と化した。日本人は日本国とその伝統とをまとめてごっそり新自由主義というイデオロギーと交換してしまったのである。高齢者と子どもたちの糸はもうほんの僅かしか残されていない。
また、「山城の国の女人、観音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語(こと)」『今昔物語・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.357』(岩波文庫)の舞台・京都府相楽郡山城町綺田(きだ)は、そもそも原文にあるように「蟹満多寺(かにまたでら)」あるいは「紙幡寺(かばたでら)」と読むのが史実に近い。というのは、天皇桓武の平安遷都に当たり、京都の土地が選ばれた理由と非常に深い繋がりがあるからである。当時、古代朝鮮半島から倭の名の国の近畿圏へ渡ってきた高句麗・百済・新羅の人々の中で群を抜いて土木灌漑技術にすぐれていたのが、秦氏である。秦氏は今の京都でいえばおおよそ四箇所に拠点を置いた。第一に右京区太秦(うずまさ)地区。稲作と養蚕だけでなく米から造る酒造技術に長けていた。近くにある「松尾神社」は今なお日本最古の酒造業の祭神である。さらに「北野天満宮」は菅原道真を祭るが、同時にところどころに牛が祀ってある。農耕神事の名残であり牛頭天王を祀る「八坂神社」とともに疫病から農耕を守る守護神として創建されたのが始まりである。また北野天満宮のすぐそばに「藁天神」(わらてんじん)という社もある。「藁」は読んで字のごとく農耕それ自体を神格化したものだ。第二に伏見深草地区。七一二年(和銅四年)創建とされる伏見稲荷大社がある。神社建物の背後の山は東山では珍しい岩山地帯であり、古代の山岳信仰=神体山信仰を残している。第三に「五重の塔」で有名な「法観寺」(ほうかんじ)。当時は「五重の塔」から京都一帯が見渡せる立地条件と建築技術とを兼ね備えていた。第四に先に上げた京都府相楽郡山城町綺田(きだ)。「蟹満多(かにまた・かにまん)」とも呼ぶが、「紙幡」(かばた)の側がより一層正確だろう。相楽郡一帯は農耕が盛んであり、上狛(かみこま)・下狛(しもこま)周辺を根拠地とする「高麗寺」(こまでら)跡が発掘された。そしてこの一族もまた秦氏に属する。以上から「紙幡寺(かばたでら)」の「幡」は「八幡」(はちまん)の「まん」であると同時に秦氏の「秦」(はた)がより近い読みかと考えられる。
BGM1
BGM2
BGM3
「本邦で山男が食う蟹は、紀州で姫蟹という物だろう。全身漆赭褐色、光沢あり、行歩緩慢で、至って捕えやすい。山中の狸などもっぱらこれを食う」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)
次の説話にも蛇が登場する。或る少女が外で遊んでいると蟹取りを生業として暮らしている男性とばったり出会う。少女は哀れに思ったのか自分の家に「死(しに)たる魚」=「乾魚」がたくさんあるからそれと蟹とを交換してくれませんかと持ちかける。すると男性は承諾して蟹を少女に手渡した。少女は蟹を河に戻してやった。
「而(しか)る間、此の女家を出(い)でて遊び行(あり)く程に、人、蟹(かに)を捕へて結(むすび)て持行(もてゆ)く。此の女此れを見ては、問(とい)て云(いわ)く、『其の蟹をば何の料(りよう)に持行(もてゆく)ぞ』と。蟹持(かにもち)答(こたへ)て云く、『持行(もてゆき)て食(くわ)むずる也』と女の云く、『其の蟹、我に令得(えし)めよ。食(じき)の料(りよう)ならば、我が家に死(しに)たる魚多かり。其れを此の蟹の代(しろ)に与へむ』と。男、女の云ふに随(したがい)て、蟹を女に令得(えし)めつ。女、蟹を得て、河に持行(もてゆき)て放ち入れつ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.356」岩波文庫)
その頃、少女の父が水田で作業していると毒蛇が泳いでいるのが見えた。今にも蝦(かえる)を呑み込もうとしている。父は蛇と掛け合って自分の家の娘をお前さんの嫁にやるから代わりに蝦(かえる)を放してやってはくれまいかと頼み込む。すると蛇はじっと父の顔を見て、「蝦(かえる)を棄てて藪(やぶ)の中に這入(はいいり)ぬ」。後から考えてみると、交換条件としてはいかにもおかしなことを口にしてしまったようで、その日からは食欲もなくこれは弱ったと後悔する。
「其の後、女の父の翁(おきな)田を作る間に、毒蛇有(あり)て蝦(かえる)を呑(のまん)が為(ため)に追(おい)て来(きた)る。翁此れを見て、蝦を哀(あわれび)て、蛇(へみ)に向(むかい)て云く、『汝(なん)ぢ其(その)蝦(かえる)を免(ゆる)せ。我が云はむに随(したがい)て免したらば、我れ汝を聟(むこ)と為(せ)む』と不意(おもわ)ず騒ぎ云ひつ。蛇此れを聞て、翁の顔を打見(うちみ)て、蝦を棄てて藪(やぶ)の中に這入(はいいり)ぬ。翁、『由無(よしな)き事をも云(いい)てけるかな』と思て、家に返(かえり)て、此の事を歎(なげき)て物を不食(くわ)ず」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.357」岩波文庫)
約束の日の午後八時頃、人間の姿に変身した蛇がやって来た。少女は仮にこしらえた倉の中に籠もって蛇の進入から身を守ろうと待っていた。それを見た蛇はたちまち正体を現わし仮倉を取り巻き、胴体で憤然と倉の板を破壊しにかかる。ところが夜半になると蛇がどたばた暴れる音が急に聞こえなくなった。そして明け方、少女の父母が仮倉の戸を開けてみると、大小何万という蟹の大群によって蛇はばらばらに切り殺されていた。
「初夜(しよや)の時に至(いた)るに、前(さき)の五位来(きたり)て門を叩くに、即(すなわ)ち門を開(ひらき)つ。五位入来(きりきたり)て、女の籠居(こもりい)たる倉代(くらしろ)を見て、大(おおき)に怨(あた)の心を発(おこ)して、本(もと)の蛇(へみ)の形(かたち)に現(げん)じて、倉代を囲(かく)み巻(まき)て、尾を以て戸を叩く。父母(ぶも)此れを聞て、大(おおき)に驚き恐るる事無限(かぎりな)し。夜半に成て、此の叩(たたき)つる音止(やみ)ぬ。其の時に、蛇の鳴く音(こえ)聞ゆ。亦、其の音(こえ)も止(やみ)ぬ。夜明(あけ)て見れば、大(おおき)なる蟹(かに)を首(かしら)として、千万の蟹集り来(きたり)て、此の蛇を螫殺(さきころし)てけり。蟹共(かにども)皆這去(はいさり)ぬ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.358」岩波文庫)
少女はいう。夜通し「法華経・普門品」の一節を読んで祈っていたと。次の箇所。
「蜥蜴蛇及蝮蝎 氣毒煙火燃 念彼観音力 尋聲自廻去
(書き下し)蜥蜴(とかげ)・蛇(へび)及び蝮(まむし)・蝎(さそり)の気毒(けどく)の煙火(えんか)の燃(も)ゆるごとくならんに彼の観音の力を念ぜば声に尋いで自ら廻(かえ)り去らん」(「法華経・下・巻第八・普門品・第二十五・P.264」岩波文庫)
先行する類話は「日本霊異記」に載っているが「今昔物語」ではさらに続きがある。以前助けた蟹に今度は救われた。ありがたい話ではある。だが先行する類話はすべて仏教説話なので次の展開が挿入されたものと考えられる。というのは、ともかく蟹とはいえ、その蟹もまた蛇を殺した。殺生戒を破ったわけだから殺された蛇を供養してやらないといけない。だから蛇の苦しみを救うとともに蟹たちが負った殺生の罪をもともに救うため蛇を土に埋めてやる。その上に寺院を造って仏像をおさめ、永代供養したいとおもう。そう少女は考え実行する。寺の名前も決めた。「其の寺の名を蟹満多寺(かにまたでら)と云ふ。其の寺干今(いまに)有り。其れを、世の人和(やわら)かに紙幡寺(かばたでら)と云ふ」とのこと。
「其の後、蛇(へみ)の苦を救ひ、多(おおく)の蟹(かに)の罪報(ざいほう)を助けむが為(ため)に、其の地に握て、此の蛇の屍骸(しにかばね)を埋(うずみ)て、其の上に寺を立てて、仏像を造り、経巻を写して供養しつ。其の寺の名を蟹満多寺(かにまたでら)と云ふ。其の寺干今(いまに)有り。其れを、世の人和(やわら)かに紙幡寺(かばたでら)と云ふ也けり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.358」岩波文庫)
「蟹の恩返し」ともいうべきこの報恩譚について柳田國男は「お竹大日」(おたけだいにち)を参照している。大日は大日如来のこと。だから常日頃から少女が蟹に与えていた食料は「ご飯」だと述べる。「天狗の話」にこうある。
「山童に行き逢ったという話はたしかなものだけでも数十件ある。一つ一つの話はここには略しますが、すべて皆彼等は一言をも話さぬといっている。共通の言語がない以上は当然である。食物は何であるか知らぬが、やはり吉野の国巣のように山菓や魚や菌(きのこ)であろう。米の飯を非常に喜ぶともあり餅(もち)を欲しがったともあり塩は好まぬともある」(柳田國男「妖怪談義・天狗の話」『柳田國男全集6・P.190~191』ちくま文庫)
山人は「米の飯を非常に喜ぶ」ようだ。しかし必ずしも「塩は好まぬ」とは限らない。柳田自身、こう述べている。
「山中ことに漂泊の生存が最も不可能に思われるのは火食の一点であります。いったんその便益を解していた者が、これを抛棄(ほうき)したということはあり得ぬように思われますがとにかくに孤独なる山人には火を利用した形跡なく、しかも山中には虫魚鳥小獣のほかに草木の実とか若葉と根、または菌類などが多く、生で食っていたという話はたくさんに伝えられます。木挽・炭焼の小屋に尋ねて来て、黙って火にあたっていたという話もあれば、川蟹(かわがに)を持って来て焼いて食ったなどとも伝えます。塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ。平地の人のごとく多量に消費してはおらぬが、日本では山中に塩分を含む泉いたって多く、また食物の中にも塩気の不足を補うべきものがある。また永年の習性でその需要は著しく制限することができました。吉野の奥で山に逃げ込んだ平地人が、山小屋に塩を乞(こ)いに来た。一握(ひとつか)みの塩を悦(よろこ)んで受けてこれだけあれば何年とかは大丈夫といった話が『羈旅漫記』(きりょまんろく)かに見えておりました」(柳田國男「山の人生・山人考」『柳田国男全集4・P.250~251』ちくま文庫)
山間部には海浜で取れる塩はないが、「塩はどうするかという疑いのごときは疑いにはなりませぬ」と書いているように、山間部には山間部で取れる塩分を含んだ食物が案外豊富にあった。さてしかし、気になるのは山岳地帯と平地との《あいだ》で成立する交換関係があったという事実である。既に日本書紀から何度か引いた。奈良に都が置かれた頃すでに吉野の国巣と古代朝廷との《あいだ》で公然とそれは実在していた。
動物と人間との《あいだ》で行われたとされる「ご飯」との交換関係は次の一節にも見える。
「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)
ところで先ほど「今昔物語」から「山城の国の女人、観音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語(こと)」を引いた。「今昔」編纂時に参照された「日本霊異記・中巻・蟹と蝦との命を贖ひて放生し、現報を得し縁 第八・P.93」(講談社学術文庫)によると、この女性の名は「置染臣鯛女(おきそめのおみたひめ)」とある。このケースで菩薩として登場するのは行基だが、普段から住んでいるのは奈良県生駒山の山中である。山岳地帯と平地との食物のやり取りを念頭に置きつつ、さらに注目すべきは、なぜ少女の名前が「鯛」(たい)なのか、ということになるだろう。熊楠はいう。
「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざるは、今日までスコットランド、アイルランドに、地方に随って魚を食うに好悪あるに同じく、古えトテミズム盛んなりし遺風と見ゆ」(南方熊楠「西暦九世紀の支那書に載せたるシンダレラ物語」『南方民俗学・P.195~196』河出文庫)
それについて柳田は次のような考察を述べる。
「南方氏が熊野山中の奇草を得んがために山神とオコジの贈を約せられしは一場の佳話なりといえども、そのオコゼは果して山神の所望に応ずべき長一寸のハナオコゼなりしや否や。自分は山神とともに少なからず懸念を抱きつつあり。また海人が山神を祀りオコゼをこれに貢することはすこぶる注意すべきことなり。おそらくはこの信仰は『山島に拠りて居をなせる』日本のごとき国にあらざれば起るまじきものにてことに紀州のごとき海に臨みて高山ある地方には似つかわしき伝説なり」(柳田國男「山神とオコゼ」「柳田国男全集4・P.429」ちくま文庫)
柳田の疑問は「オコゼ」か「ハナオコゼ」かという分類上の問題である。しかしここで熊楠が問いかけているのは、一体どちらなのかという分類上の問題ではない。そうではなく、「古え鮪、鰹、目黒、鯛、鮒、オコゼ、コノシロ、鯖(『玄同放言』巻三)、鎌足(かます)、房前(はぜ)(石野広通著『絵そら言』)等、魚に資(よ)れる人名多く、神仏が特種の魚を好悪する伝説すこぶる少なからざる」という、《神事としての》問いかけである。例えば、藤原鎌足(かまたり)=「鎌足(かます)」なのはなぜかという問いであって、なおかつ朝廷への献上品として列挙されたこれら一連の魚類はどれもみな「異類・異形」あるいは「奇異」な姿形を特徴とする珍品ばかりだという点。そうであって始めて主役はけっして「大人」でなく、或る童子や童女であり、またその名が「鯛」(たい)なのか」という事情が見えてくるわけである。神事に登場する異類異形の動植物あるいは普段はほとんど付き合いがなく生活様式も異なる山間部の様々な住人たち。その点に細かく注目しなければ熊楠は一体何を言いたがっているのか、よくわからなくなるのも当然というほかない。
なお、柳田のいう「お竹大日」(おたけだいにち)について。京都では今も「だいにっつぁん」と呼ぶ。子どもの頃、近くの寺院の境内に大日如来を祀る一角が設けられており、そこへ行くと朝早くから供物が準備してあったのを覚えている。一見すると正月や盆の供物と変わらないように見える。だが供物の主役は大盛りに盛られた「ご飯」である。「ご飯」と《ともに》山海の珍味が祀ってある。
「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で神を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「民俗学上における塚の価値・飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)
個人的にいうと京都市東山区建仁寺境内に設けられていて歩いて二分ほどの小学校区内だった。それにしても子どもの大幅減少のため小学校区は大規模中学校区へ再編され、もはや地蔵盆さえ存続の危機にある。しかしなぜ子供たちは見る見る急速に減少したか。ただ単に他の大都市と比べても減少幅は予想外に大きい。そもそも地蔵盆がかつての形で残されている地域さえ今や京都と滋賀県の大津市内くらいのものになってきた。とりわけ京都の祇園・宮川町付近から転出する家族が増えた。子どもの頃の友人知人も多くは転出してしまった。最大の理由は地価高騰であれやこれやの税金が工面できなくなるような状態に陥ったからである。一九七〇年代はとても賑やかだった。夜になって建仁寺境内を子どもが通り抜けるのも自由だった。夜間に出勤する大人の女性らも平気で通行していたものだ。煌々と常夜灯が灯っていたこともある。ところが余りにも上げ幅の大きい地価高騰に加えて子供一人育てるのに夫婦共働きしてなおローンを返済するだけでも過労に陥る世帯が続出するようになってきた。そうして新自由主義は日本の伝統的な、そして子どもたち並びに古代朝廷へ献上された山海の珍味が、「ご飯」とともに主役を飾る「だいにっつぁん」は加速的に姿を消しつつある。
それを思うと、東西冷戦中の資本主義の時代はまだよかったと言える。ところが資本主義のような経済的に原理的な骨組み部分を根底から溶解させてしまう新自由主義というものは、何度もいうようにただ単なるイデオロギーに過ぎない。にもかかわらず日本政府は資本主義という基礎的制度すら忘れてしまい、ただ単に安易この上ないイデオロギーに身も心も委ねきってしまった結果がこうだ。日本国成立以前の縄文時代はもちろん、成立以後の伝統的行事さえ衰退した。残っている箇所はちらほらあるにはあるけれども、それさえもはや風前の灯と化した。日本人は日本国とその伝統とをまとめてごっそり新自由主義というイデオロギーと交換してしまったのである。高齢者と子どもたちの糸はもうほんの僅かしか残されていない。
また、「山城の国の女人、観音の助けに依りて蛇の難を遁れたる語(こと)」『今昔物語・本朝部(上)・巻第十六・第十六・P.357』(岩波文庫)の舞台・京都府相楽郡山城町綺田(きだ)は、そもそも原文にあるように「蟹満多寺(かにまたでら)」あるいは「紙幡寺(かばたでら)」と読むのが史実に近い。というのは、天皇桓武の平安遷都に当たり、京都の土地が選ばれた理由と非常に深い繋がりがあるからである。当時、古代朝鮮半島から倭の名の国の近畿圏へ渡ってきた高句麗・百済・新羅の人々の中で群を抜いて土木灌漑技術にすぐれていたのが、秦氏である。秦氏は今の京都でいえばおおよそ四箇所に拠点を置いた。第一に右京区太秦(うずまさ)地区。稲作と養蚕だけでなく米から造る酒造技術に長けていた。近くにある「松尾神社」は今なお日本最古の酒造業の祭神である。さらに「北野天満宮」は菅原道真を祭るが、同時にところどころに牛が祀ってある。農耕神事の名残であり牛頭天王を祀る「八坂神社」とともに疫病から農耕を守る守護神として創建されたのが始まりである。また北野天満宮のすぐそばに「藁天神」(わらてんじん)という社もある。「藁」は読んで字のごとく農耕それ自体を神格化したものだ。第二に伏見深草地区。七一二年(和銅四年)創建とされる伏見稲荷大社がある。神社建物の背後の山は東山では珍しい岩山地帯であり、古代の山岳信仰=神体山信仰を残している。第三に「五重の塔」で有名な「法観寺」(ほうかんじ)。当時は「五重の塔」から京都一帯が見渡せる立地条件と建築技術とを兼ね備えていた。第四に先に上げた京都府相楽郡山城町綺田(きだ)。「蟹満多(かにまた・かにまん)」とも呼ぶが、「紙幡」(かばた)の側がより一層正確だろう。相楽郡一帯は農耕が盛んであり、上狛(かみこま)・下狛(しもこま)周辺を根拠地とする「高麗寺」(こまでら)跡が発掘された。そしてこの一族もまた秦氏に属する。以上から「紙幡寺(かばたでら)」の「幡」は「八幡」(はちまん)の「まん」であると同時に秦氏の「秦」(はた)がより近い読みかと考えられる。
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