白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/セクソロジーと善悪の彼岸

2020年12月01日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠が人間の性の厚み、幅広さ、世界的普及性について述べるのは他でもない、性の歴史が研究者としての関心を惹いて止まないからである。土宜法竜宛の書簡の中で突然「宇治拾遺物語」の「俊雅」の条を引いてくる。

「『宇治拾遺』に、雅俊という人、一生不犯の僧数十人を招請し念経せしめし」(南方熊楠「変化の輪、美少年への愛について、その他」『南方マンダラ・P.216』河出文庫)

源大納言雅俊は或る日、「一生不犯(ふぼん)」と思われる弟子たちを揃えて法会を行った。この場合の「不犯(ふぼん)なる」というのは、これまでいかなる女性とも性交渉を持ったことがない弟子という意味。

「今は昔、京極の源大納言雅俊といふ人おはしけり。仏事ををられけるに、仏前にて僧に鐘(かね)を打(うた)せて、一生不犯(ふぼん)なるをえらびて講(かう)を行なはれける」(「宇治拾遺物語・巻第一・十一・P.31」角川文庫)

その中で或る一人の弟子が礼盤(らいばん=礼拝用の座床)に座る。が、この弟子の様子が少しおかしい。顔色が思わしくない。まず最初に鐘を打ち鳴らすための鐘木(しゅもく)を手に取りはするものの、打ち鳴らさずなんだか一人で物思いに耽っているようだ。雅俊はどうしたのだろうと心配するが、弟子は一言も言わずただ黙っている。

「大納言『いかに』と思はれけるほどに、やや久しく物もいはでありければ、人ども覚(おぼ)つかなく思(おもひ)ける」(「宇治拾遺物語・巻第一・十一・P.31〜32」角川文庫)

そこでふいに弟子は雅俊に尋ねた。

「かはつるみはいかが候べき」(「宇治拾遺物語・巻第一・十一・P.32」角川文庫)

悩んでいたのだ。「かはつるみ」はどうなのかと。あえて漢字で「皮交接」。手淫、自慰、などを指す。けれどもこの場で問題にされているのは「一生不犯(ふぼん)」であり、一人ではなく二人で行う性交についてである。なので「かはつるみ」のもう一つの意味、「男色」についての問いだと考えるのが妥当。女性の代わりに男性の肛門を用いる場合も「一生不犯(ふぼん)」に対する違反である。顔色を変え鐘木を手にしたまま緊張のあまり硬直してしまい、さらに声をふるわせて「かはつるみ」(男色関係)のことをどう考えればいいのかと大納言に質問したわけだから、集まっていた弟子たちからは顎がはずれるほどの大笑いが巻き起った。どさくさ紛れに別の弟子が、「で、お前さんは《かはつるみ》をしたのか、したとすればどれくらい?と問うた。

「かはつるみはいくつ計(ばかり)にてさぶらひしぞ」(「宇治拾遺物語・巻第一・十一・P.32」角川文庫)

問われた弟子はよくよく記憶の糸をたどってみて答えた。たぶん昨夜もやったと思うと。一同、どよめきのうちにさらなる爆笑の渦に包まれたという。

「『きと夜部(よべ)もしてさぶらひき』といふに、大(おほ)かたよどみあへり」(「宇治拾遺物語・巻第一・十一・P.32」角川文庫)

しかし熊楠にとってこのエピソードが単なる笑話でないのには理由がある。

「浄愛(男道)と不浄愛(男色)とは別のものに御座候。小生は浄愛のことを述べたる邦書(小説)はただ一つを知りおり候。これは五倫五常中の友道に外ならざるゆえ、別段五倫五常と引き離して説くほどの必要なければなり(もし友道というものが今日ごとくただ坐なりの交際をし、知り合いとなり、自他の利益をよい加減に融通するというようなことならば、それは他の四倫と比肩すべきものにあらず。徳川秀忠が若きとき、どこまでも変わるまじき契約をしたるを重んじて、関ヶ原役後沈淪したる丹羽長重を復封せしめ、直江兼続が最後まで上杉景勝に忠を竭(つく)したるごとき、今日のごときつきあい、奉公ぶりというほどのことには決して無之と存じ候)」(南方熊楠「浄愛と不浄愛、粘菌の生態、幻像、その他」『浄のセクソロジー・P.316』河出文庫)

男性ばかりがほぼ全体を占めていた当時の宗教界では女性器の代わりに男性の肛門を利用する「擬似的女犯」が横行していたのだが、熊楠は、それは「浄愛」というべきでなくむしろ「不浄愛」とでもいうべきものであって、男性同性愛と呼ぶに際してけっしてふさわしくないし妥当しもしないというもっともな思想を持っていた。

さらに夢に出てくる神仏はなぜ自分の育った土地の信仰に準ずるほかないのかについて。人間という生き物は、たとえ夢であっても、生まれてこのかた見たか聞いたか知らされたもの以外のものとそれらの混合されたもの以外のものを見ることはけっしてないと言っている。この論考はフロイトよりも早い。

「義とか仁とか形も音もなきことを心に写すは如何(いか)に。これやっぱり、聞いて知り読みて知りたるものなれば、仁といい義という音を口よりは出さぬが心に感起して、われらは日本人のことなれば、日本語でこれを心中に述ぶるなり。断食などしすぎるときには、眼前に文殊師利、普賢、セント・オゴスチンなどを画き出して、何も言語にては心中に述べず、ただ一概に恭敬、賛嘆の念を生ずることあり。されどこれすら、かつて画に見たるものなどを想起するか、また見ずとも自分の想像でその徳に応じた形を画き出してのことなり。かかる妙想は、開化国の人、学問せるものにも必ずあるべし。すなわち彼輩もまたいろいろの世間の事実や人情よりゴッドと思えば、背に翼ある人のようなものを心中に画きて恭敬、礼拝すること、われらが金剛蔵王を思うときは鬼のようなものが片足ふんばったところを心中に画くに同じかるべし」(南方熊楠「夢の研究、比較宗教論、その他」『南方マンダラ・P.84』河出文庫)

だから例えば、キリスト教圏で生まれ育った人々の夢に羽の生えた天使が出てくるのは不思議ではないし、また日本の奈良県金峯山を発祥として大峯山系に広がる修験道において「金剛蔵王」が出てきたとしても笑うべきでなくむしろ当然のことだと述べる。ちなみに「金剛蔵王」は奈良修験の本尊。「一面三目二臂」。なぜ目が「三目」なのか。

「本邦仏教の神像にも、額に縦開した眼、すなわち陰相の眼を具うる者あるは、『大菩薩峠』の神尾主膳の条々で、皆様承知だろう」(南方熊楠「『摩羅考』について」『浄のセクソロジー・P.214』河出文庫)

「『いや、その傷が物怪(もっけ)の幸いというものだ、我々の眼で見ると愛染明王(あいぜんみょうおう)の姿(すがた)だ』『ふふん』と今度は主膳が冷笑しました。主膳の冷笑は、敏外のよりもすさまじさがある。しかし、敏外住職は存外まじめで、『その竪(たて)の一眼は、愛染明王の淫眼(いんがん)といって、殊に意味深い表徴(しるし)になっている』『ナニ、《いんがん》?』『さよう』『どういう字を書くのだ』『淫は富貴に淫するの淫の字ーーーこれが愛染明王の大貪著(だいとんじゃく)時代の拭うても拭いきれない遺品(かたみ)だ、横の両眼は悪心降伏(あくしんごうふく)の害毒消除の威力を示すが、堅の淫眼のみは、いつでも貪著と、染悪(せんお)と醜劣(しゅうれつ)と、汚辱とを覗(のぞ)いてやまぬものだ』『ははあーーー』神尾主膳は苦笑いしながら、何か当てつけられたように感じました」(中里介山「大菩薩峠8・他生の巻・P.335」時代小説文庫)

神尾主膳が額の肉片を失った理由。

「神尾主膳の面(おもて)は、左右の眉(まゆ)の間から額の生え際(ぎわ)へかけて、牡丹餅(ぼたもち)大の肉をそぎ取られ、そこから、ベットリと血が流れているのです。ーーーこの点においてはお銀様は冷やかなものでした。神尾の額の大怪我は、むしろ痛快至極なものだと思いました。ーーー神尾が苦しむのは当然であって、ところもあろうに額の真ん中へ刻印を捺(お)されたことの小気味よさを喜ばないわけにはいかないが、それにしても、咄嗟(とっさ)の間に、神尾がこの大傷を受けて倒れたのは何に原因するのか、それが、わからないなりに井戸の車の輪を見上げると、釣瓶(つるべ)の一方が、車の輪のところへ食い上(あが)って逆立ちをしているように見えます。気のせいか、その釣瓶の一端に、神尾の額からそぎ取られた牡丹餅大の肉片が、パクリと密着(くっつ)いているもののように見えました。お銀様は、そこでホッと息をついて、同時に胸の溜飲を下げました。ははあ、これだなと思ったのでしょう。盲法師が下へ投げ込まれるとその重みで、一方の釣瓶が急転直下すると一方の釣瓶が海老(えび)のようにハネ上って、そうして、その道づれに神尾の額の肉を、牡丹餅大だけをそいで持って行ってしまった。それだと思ったから、お銀様はいよいよ痛快に堪えませんでした。痛快というよりはこの時のお銀様は、正しく神尾主膳の残忍性が乗りうつったかと思われるほどに、いい心持になりました。うめき苦しむ神尾にも、驚き騒ぐ福村にも、冷然たる白い歯をチラリと見せたきりで、井戸桁(げた)へ近寄って、一方の縄をクルリと廻してゆるめると、海老(えび)のようにハネ上っている一方の釣瓶が少しく下がって来たから、手を高くさしのべて、それを取り下ろしてみるとお銀様の想像したとおりに、神尾主膳の額の肉片は、べっとり釣瓶の後ろに密着(くっつ)いていました」(中里介山「大菩薩峠6・小名路の巻・P.238~239」時代小説文庫)

というように神尾主膳は三目の愛染明王の似姿となる。一方、古来「一つ目」伝説はもっと多い。柳田國男はその理由をこう述べる。

「一目小僧は多くの『おばけ』と同じく、本拠を離れ系統を失った昔の小さい神である。見た人が次第に少なくなって、文字通りの一目に画をかくようにはなったが、実は一方の目を潰された神である。大昔いつの代にか、神様の眷属にするつもりで、神様の祭の日に人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の片目を潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく神託予言を宣明(せんみょう)することを得たので勢力が生じ、しかも多分は本能のしからしむるところ、殺すには及ばぬという託宣もしたかも知れぬ。とにかくいつの間にかそれが罷(や)んで、ただ目を潰す式だけがのこり、栗の毬(いが)や松の葉、さては箭に矧(は)いで左の目を射た麻、胡麻その他の草木に忌が掛かり、これを神聖にして手触るべからざるものと考えた。目を一つにする手続もおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向っては大分後代までなお行われ、一方にはまた以前の御霊の片目であったことを永く記憶するので、その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂泊することになると、怖ろしいことこの上なしとせざるを得なかったのである」(柳田國男「一目小僧その他・二十一」『柳田國男全集6・P.267~268』ちくま文庫)

目が「一目」あるいは「三目」。いずれにしても共通しているのは「過剰=逸脱」という点である。神格化の条件はそれだ。フレイザーは述べている。

「ギリシアの植民地の中でもっとも賑やかで華やかな町マッサリア(マルセイユ)が疫病に襲われたときは、つねに貧民階級の男がひとり、スケープゴートとしてわが身を捧げた。彼はまる一年間公費で養われ、選り抜きの清い食事を与えられた。そして期限が来ると、神聖な衣装を着せられ、聖なる枝葉で飾られ、人民のすべての害悪がこの男の上に下るようにと祈りが唱えられるなか、町中を連れ回された。そしてこの町から追い出されたのである。アテナイ人はつねに大量の堕落した無用な人間たちを公費で養っていた。そして疫病や旱魃や飢饉といったなんらかの災難が町を襲うと、これらの浮浪者の中から二人をスケープゴートとして生贄に捧げた。ひとりは男たちのため、ひとりは女たちのために捧げられた。前者は首に黒いイチジクを通した紐を、後者は白いイチジクを通した紐を巻いた。ときには女たちのために殺される生贄が、女となることもあったらしい。生贄は町を連れ回された後に殺されるが、町の外で、石で殺されたように思われる。しかしこのような生贄の儀式は、なにも大きな災害が起こった場合だけに限られてはいなかった。毎年五月のタルゲリア祭〔アテナイでタルゲリオン月ーーー現行の太陽暦では五月から六月に当たるーーーに行われたアポロンとアルテミスの祭り〕では、男女ひとりずつの二人の生贄がアテナイの町から追い出され、石に打たれて殺された」(フレイザー「金枝篇・下・第三章・第十五節・P.264~265」ちくま学芸文庫)

というふうに、生贄は「町から追い出され」、「町の外で、石で殺された」、「町から追い出され、石に打たれて殺された」、とある。この場合は疫病が問題となった時の「人柱」として殺されたと考えられるわけだが、ではフレイザー報告のいう「町から追い出され」あるいは「町の外で」の「町」の境界線確定はどのようになされていたか。要するに生贄=人柱が「石で殺された」まさしくその地点をもって新しい境界線が出現したのである。こうして疫病が侵入したと考えられる「町」の《旧境界線》は廃棄され、新しい生贄殺害によって新しい境界線を出現させることで始めて《新境界線》を制定し直すことができた。ヨーロッパの橋や境の地で大量の若い男女が儀式として殺されたのにはそのような経緯があったのである。このような伝説はしかしもう消えてなくなったか。そうではない。今や軍事産業を通して景気回復させようと世界中の大資本は必死になってナショナリズムを煽り兵器を供給し、さらなる境界線確定へと人々の感情を煽動する危険な制度を定着させつつある。戦争は政治の延長であるというクラウゼヴィッツの命題はすでにかび臭い。ドゥルーズ=ガタリのいうように世界は戦争継続のための政治運営へと移り変わった。

「国家はもはや戦争機械を所有するのではなく、国家自身が戦争機械の一部分にすぎぬような戦争機械を再構成した」(ドゥルーズ&ガタリ「千のプラトー・下・13・捕獲装置・P.234」河出文庫)

なお熊楠は、顕微鏡を用いて植物研究することが何よりの楽しみであり生きがいだった。そこには汲めども尽きぬ学術研究の過程が永遠を描いていた。顕微鏡の中の世界は熊楠にとって宇宙そのものだったといえる。

「大乗は望みあり。何となれば、大日に帰して、無尽無究の大宇宙の大宇宙のまだ大宇宙を包蔵する大宇宙を、たとえば顕微鏡一台買うてだに一生見て楽しむところ尽きず、そのごとく楽しむところ尽きざればなり」(南方熊楠「南方マンダラ、『不思議』について、その他」『南方マンダラ・P.284』河出文庫)

またニーチェの場合、自分の内面を覗き込むこと宇宙を探求する態度であるように、と述べている。

「自己の内奥を覗き見ることあたかも巨大な宇宙を覗きこむごとくである者、そして自己の内奥に銀河を抱いている者、こういう者はまた一切の銀河がどんなに不規則なものであるかを知っている。こういう者たちは、現存在の混沌と迷宮(ラビリンス)の奥深くまでわれわれを導いてゆく」(ニーチェ「悦ばしき知識・三二二・P.336」ちくま学芸文庫)

ところがしかし現在の日本の学生らはどうだろうか。学術研究する時間も金も不十分なまま就職活動中心の生活を送らなければならない。さらに大学へ進学できるのならまだしも、家族や親しい人々のために早くから学問を手放さねば生活していけないような日常を強いられている若い人々がどれだけいるか。子どもの頃から走りが速い、泳ぎも速い、投げれば剛腕、ドリブルなら一人で何人でも抜いていく。そんな中学生ならしばしば見かける。けれども高校進学辺りから家族や大切な人々の生活第一に進路を決定しなくてはならないような社会が出来上がってしまっている。五輪があるのかないのか知らないが、少なくとも彼らが五輪に出場することは決してないばかりか、始めからチャンスを奪われている。とすれば五輪とは何だろうか。金メダルとは何のことを言って騒いでいるのだろうか。

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