峰の小瀑(こざらし)が主催した闘鶏の会。小瀑の手には賭博の儲けだけでなく名だたる名鶏たちが転がり込んだ。その数「三十七羽」。それを眺めて悦に入り自慢していると小瀑の念者(ねんじゃ)=大臣=大尽(だいじん=年上の愛人)がたまたまやって来た。今夜一緒に床を共にしようという。パトロンたる念者から見れば小瀑は可愛い愛童に過ぎない。共に夜を過ごすことにする。とはいえ大尽には自宅があるので家族が寝ている間に帰らねばならない。だから「八つの鐘」(午前二時頃)が鳴ったら知らせろという。
それにしても愛人同士の夜の時間は思いのほか早く過ぎるものだ。床に入ってしばらくしたかどうかと思う間もなく「八つの鐘」が鳴り出した。大尽は小瀑の床から自宅へ引き上げようとする。小瀑は逆に引き止めようとする。二人が言い争っていると途端に鶏たちが一斉に大声で鳴き出した。大尽は慌てて自宅へ帰って行った。名残りを惜しむ小瀑はもっと床を共にしていたかったのに、と涙を流し、突然騒ぎ出した鶏たちに向けて怒りをぶちまける。「おのれら恋の邪魔(じやま)」だと罵って一羽も残さず追い払ってしまった。
「三十七羽の大鶏声々ひびきわたれば、『申さぬ事か』と起きわかれて、客はふだんの忍び駕籠(かご)をいそがせける。名残(なごり)を惜しむに是非もなく、泪(なみだ)に明くるを待ち兼ね、『おのれら恋のじやまをなすはよしなし』とて、一羽も残さず追ひはらひぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻八・二・別れにつらき沙室の鶏」『井原西鶴集2・P.579』小学館)
鶏は鳴き声で夜明け前の到来を告げ知らせる。露見するのが憚られる愛人同士の密会にとって大変便利な反面、早くも別れの時間が迫ったことを不意に知らせるため、時として憎悪の対象となった。熊楠はいう。
「『伊勢物語』に、京の男陸奥の田舎女に恋われ、さすがに哀れとや思いけん、往きて寝て、夜深く出でにければ、女『夜も明けば狐(きつ)にはめけん鶏(くだかけ)の、まだきに鳴きてせなをやりつる』。後世この心を『人の恋路の邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい』とドド繰(く)ったものじゃ」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.183~184」岩波文庫)
見てみよう。
「むかし、男、みちの国にすずろに行きいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、切(せち)に思へる心なむありける。ーーーさすがにあはれとや思ひけむ、いきてねにけり。夜ふかくいでにければ、女、
夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」(新潮日本古典集成「伊勢物語・十四・P.27~28」新潮社)
女の和歌の「きつ」は「水槽」。「くたかけ」は鶏に対する罵倒表現。「せな」は女性の側から男性のことを指す時の言葉。熊楠が「往きて寝て」というように男性は確かに女性のもとを訪れて共に寝ている。とっとと性行為に耽った。しかし「夜ふかくいでにければ」とあるように夜更けのうちに女性の家から去ってしまう。時を知らせる鶏が鳴いたからだ。そこで女性は呪った。夜が明ければ鶏の奴を水槽に沈めて殺してやりたい。というのも鶏が余りにも早い時間に鳴いたせいで殿方が帰ってしまったからだと。「犬に食われて死ぬがよい」というのは後々の常套句であって、その意味で後世の人々はこの和歌の意味をよく理解していたと言える。
さらに熊楠は「和泉式部歌集」に触れて、「実際殺した」記録だ、としている。師宮(もろのみや)親王との恋愛時代を日記化した「和泉式部日記」にこうある。
「明(あ)けぬれば、『鳥(とり)の音(ね)つらき』とのたまはせて、やをら奉(たてまつ)りておはしぬ。道(みち)すがら、『かやうならぬ折(をり)は、かならず』とのたまはすれば、『常(つね)はいかでか』と聞(きこ)ゆ。おはしまして、帰(かへ)らせ給ひぬ。しばしありて御文(ふみ)あり。『今朝(けさ)は鳥(とり)の音(ね)におどろかされて、にくかりつればころしつ』とのたまはせて、鳥(とり)の羽(はね)に御文(ふみ)をつけて、
ころしても猶あかぬかなにはとりの折節(をりふし)知らぬ今朝(けさ)の一声(こゑ)
御かへし、
いかにとは我(われ)こそ思(おも)へ朝(あさ)な朝な鳴(な)き聞(き)かせつる鳥(とり)のつらさは」(「和泉式部日記・P.33」岩波文庫)
と、これだけ見れば鶏に対する憎悪がふつふつと湧き上がっているのはよくわかる。が、本当に殺したかどうかは曖昧になっていてはっきりわからない。和泉式部はあちこちで和歌を詠んでいるので諸本・諸説がある。師宮(もろのみや)親王との夜中の密会を邪魔された格好になった和泉式部によって、鶏は殺されたのかそれとも殺されるほど憎まれただけで一命は取り留めたのか。
そこで諸本の中でも有力な「群書類従・日記部」に掲載された和泉式部の和歌に注目してみる。熊楠が引いているのもおそらく「群書類従」に掲載されたものだろう。こうある。
「いかがとは我こそ思へ朝な朝ななほ聞せつる鳥を殺せば」
それが事実だとすれば「実際殺したのだ」とする熊楠の見解は正しいと考えられる。
以上、性愛に関して鶏が憎悪の対象とされた例を三個上げた。どれにも共通するのは同性愛にせよ異性愛にせよ、なぜか時間を告げる鶏が憎まれるという奇怪な現象である。恋愛関係において或る人間が別の人間に対して殺害意志を抱くことはしばしばある。それに伴う殺人事件がニュースにならない日はないくらい多い。けれどもそうでない場合、まったく別のもの、これらのケースでは鶏に憎悪が向け換えられているのはどうしてだろうか。性的リビドーはその対象を置き換えることがあると述べたのはフロイトである。さらにニーチェはこう述べている。
「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)
今なおニーチェの言葉は現役を貫き通している。
BGM1
BGM2
BGM3
それにしても愛人同士の夜の時間は思いのほか早く過ぎるものだ。床に入ってしばらくしたかどうかと思う間もなく「八つの鐘」が鳴り出した。大尽は小瀑の床から自宅へ引き上げようとする。小瀑は逆に引き止めようとする。二人が言い争っていると途端に鶏たちが一斉に大声で鳴き出した。大尽は慌てて自宅へ帰って行った。名残りを惜しむ小瀑はもっと床を共にしていたかったのに、と涙を流し、突然騒ぎ出した鶏たちに向けて怒りをぶちまける。「おのれら恋の邪魔(じやま)」だと罵って一羽も残さず追い払ってしまった。
「三十七羽の大鶏声々ひびきわたれば、『申さぬ事か』と起きわかれて、客はふだんの忍び駕籠(かご)をいそがせける。名残(なごり)を惜しむに是非もなく、泪(なみだ)に明くるを待ち兼ね、『おのれら恋のじやまをなすはよしなし』とて、一羽も残さず追ひはらひぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻八・二・別れにつらき沙室の鶏」『井原西鶴集2・P.579』小学館)
鶏は鳴き声で夜明け前の到来を告げ知らせる。露見するのが憚られる愛人同士の密会にとって大変便利な反面、早くも別れの時間が迫ったことを不意に知らせるため、時として憎悪の対象となった。熊楠はいう。
「『伊勢物語』に、京の男陸奥の田舎女に恋われ、さすがに哀れとや思いけん、往きて寝て、夜深く出でにければ、女『夜も明けば狐(きつ)にはめけん鶏(くだかけ)の、まだきに鳴きてせなをやりつる』。後世この心を『人の恋路の邪魔する鳥は犬に食われて死ぬがよい』とドド繰(く)ったものじゃ」(南方熊楠「十二支考・下・鶏に関する伝説・P.183~184」岩波文庫)
見てみよう。
「むかし、男、みちの国にすずろに行きいたりにけり。そこなる女、京の人はめづらかにやおぼえけむ、切(せち)に思へる心なむありける。ーーーさすがにあはれとや思ひけむ、いきてねにけり。夜ふかくいでにければ、女、
夜も明けばきつにはめなでくたかけのまだきに鳴きてせなをやりつる」(新潮日本古典集成「伊勢物語・十四・P.27~28」新潮社)
女の和歌の「きつ」は「水槽」。「くたかけ」は鶏に対する罵倒表現。「せな」は女性の側から男性のことを指す時の言葉。熊楠が「往きて寝て」というように男性は確かに女性のもとを訪れて共に寝ている。とっとと性行為に耽った。しかし「夜ふかくいでにければ」とあるように夜更けのうちに女性の家から去ってしまう。時を知らせる鶏が鳴いたからだ。そこで女性は呪った。夜が明ければ鶏の奴を水槽に沈めて殺してやりたい。というのも鶏が余りにも早い時間に鳴いたせいで殿方が帰ってしまったからだと。「犬に食われて死ぬがよい」というのは後々の常套句であって、その意味で後世の人々はこの和歌の意味をよく理解していたと言える。
さらに熊楠は「和泉式部歌集」に触れて、「実際殺した」記録だ、としている。師宮(もろのみや)親王との恋愛時代を日記化した「和泉式部日記」にこうある。
「明(あ)けぬれば、『鳥(とり)の音(ね)つらき』とのたまはせて、やをら奉(たてまつ)りておはしぬ。道(みち)すがら、『かやうならぬ折(をり)は、かならず』とのたまはすれば、『常(つね)はいかでか』と聞(きこ)ゆ。おはしまして、帰(かへ)らせ給ひぬ。しばしありて御文(ふみ)あり。『今朝(けさ)は鳥(とり)の音(ね)におどろかされて、にくかりつればころしつ』とのたまはせて、鳥(とり)の羽(はね)に御文(ふみ)をつけて、
ころしても猶あかぬかなにはとりの折節(をりふし)知らぬ今朝(けさ)の一声(こゑ)
御かへし、
いかにとは我(われ)こそ思(おも)へ朝(あさ)な朝な鳴(な)き聞(き)かせつる鳥(とり)のつらさは」(「和泉式部日記・P.33」岩波文庫)
と、これだけ見れば鶏に対する憎悪がふつふつと湧き上がっているのはよくわかる。が、本当に殺したかどうかは曖昧になっていてはっきりわからない。和泉式部はあちこちで和歌を詠んでいるので諸本・諸説がある。師宮(もろのみや)親王との夜中の密会を邪魔された格好になった和泉式部によって、鶏は殺されたのかそれとも殺されるほど憎まれただけで一命は取り留めたのか。
そこで諸本の中でも有力な「群書類従・日記部」に掲載された和泉式部の和歌に注目してみる。熊楠が引いているのもおそらく「群書類従」に掲載されたものだろう。こうある。
「いかがとは我こそ思へ朝な朝ななほ聞せつる鳥を殺せば」
それが事実だとすれば「実際殺したのだ」とする熊楠の見解は正しいと考えられる。
以上、性愛に関して鶏が憎悪の対象とされた例を三個上げた。どれにも共通するのは同性愛にせよ異性愛にせよ、なぜか時間を告げる鶏が憎まれるという奇怪な現象である。恋愛関係において或る人間が別の人間に対して殺害意志を抱くことはしばしばある。それに伴う殺人事件がニュースにならない日はないくらい多い。けれどもそうでない場合、まったく別のもの、これらのケースでは鶏に憎悪が向け換えられているのはどうしてだろうか。性的リビドーはその対象を置き換えることがあると述べたのはフロイトである。さらにニーチェはこう述べている。
「残酷さは、置きかえられていっそう精神的となった一つの官能である」(ニーチェ「生成の無垢・上巻・八六〇・P.478」ちくま学芸文庫)
今なおニーチェの言葉は現役を貫き通している。
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