白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/油をなめる五歳の神童

2020年12月10日 | 日記・エッセイ・コラム
幻覚妄想として「通り魔」を見たという迷信なら古代から中世にかけて幾らもあったと熊楠はいう。例えば次のような場合。

「山崎美成の『世事百談』にこのことを記せり。いわく、『前略、ふと狂気するは、何となきに怪しきもの目に遮ることありて、それに驚き魂を奪われ、思わず心の乱るるなり。俗に通り悪魔に逢うと言う、これなり』とて、むかし川井某なる士、庭前を眺めたりしに、縁前の手水鉢下の葉蘭叢中より、焔三尺ばかり、その煙盛んに上るを不審に思い、刀、脇差を別室へ運ばしめ、打ち臥して気を鎮めて見るに、焔の後方の板塀の上より乱髪白襦袢着たる男躍び降り、槍打ちふり睨む。心を臍下に鎮め、一睡して見れば焔、男、ともになし。尋(つ)いで隣宅の主人発狂し、刃を揮い譫語(うわごと)したり。また四谷辺の人の妻、類焼後留守しおりたるに、焼場の草葉の中を、白髪の老人杖にすがり、蹣跚(まんさん)して笑いながら来たるさま、すこぶる怪し。彼女心得ある者にて、閉眼して『普門品』を誦し、しばらくして見ればすでに消え失せぬ」(南方熊楠「通り魔の俗説」『南方民俗学・P.273~274』河出文庫)

いずれの場合にも共通しているのは「じっと目を合わせて見入る」ことで、見られた側でなく、見た側が幻覚妄想に襲われて狂者が躍りかかってくるのを目の当たりにするが、いったん目を閉じるなりほんの一時ばかり眠って再び目を覚ますとついさっき出現した狂者は跡形もなく消え去っているというパターン。唐突に錯乱を起こし実際にはありもしない狂者の乱舞を見たのは「じっと目を合わせて見入った」側である。「四谷辺の人の妻」が「焼場の草葉の中を、白髪の老人杖にすがり、蹣跚(まんさん)して笑いながら来たるさま」を見た時、ひやりとしはしたが目を閉じて「法華経・普門品」を読んだところ心が落ち着き、目を開けた時すでに「げらげら笑いながら歩いてくる白髪の老人」は姿を消していた。前者の武士の場合も「焔」が問題となっている。武士は平常心を取り戻すためいったん睡眠を取って気持ちを落ち着けてみることにした。すると目を開けた時にはもう「乱髪白襦袢着たる男」の姿は消えていた。後者の婦人の場合も「焔」との関連で「法華経・普門品」を読んでいる。

「若有持是 観世音菩薩名者 設入大火 火不能燒 由是菩薩 威神力故

(書き下し)若しこの観世音菩薩の名(みな)を持(たも)つもの有らば、設(たと)い大火に入るとも、火も焼くこと能わず、この菩薩の威神力(いじんりき)に由るが故なり」(「法華経・下・巻第八・普門品・第二十五・P.242」岩波文庫)

特に法華経普門品でなくてもキリスト教者なら聖書の一節でよく、武士なら「心を臍下に鎮め」る。日頃から慣れて身に付いている言動に集中し気持ちを落ち着けることで幻覚妄想から解放されたケースである。今でも狂者や怪物に襲われそうになったと言って慌てて警察署に駆け込んでくる人々の中には逆に、駆け込んできた人々の精神状態の側が極端に疲弊していたり普段と異なる生活が長期に渡って続き過労に陥っていた結果、現実にはありもしない幻覚妄想に襲われたというケースが多い。幻覚妄想としての「通り魔」の出現はむしろ、見た側の心身の疲弊や打ち続く日常生活の困苦に原因がある。「通り魔」は見られた側でなく見た側の脳内で出現していたというわけだ。そうでない場合はごく日常的に起こっている刑事事件の確信犯や、犯罪者とはまったく関係ないにもかかわらず精神障害の前駆症状に気付いてもらえない人々が示す言動に属する。精神障害の場合、ここ数年で急速に増えたケースとして孤独死や長期間の「引きこもり」、社会保障制度の不備が目立つ。この種の問題を考える場合、世界最大のメンタルヘルス大国・アメリカでの専門医療研究が大いに参考になるだろう。

さて、日本の江戸時代。「通り魔」とみなされるような子どもについて、西鶴は浮世草子に次の作品を盛り込んでいる。舞台は今の「神奈川県鎌倉市雪の下」。早くに両親を亡くした娘がいた。

「相州鎌倉山(さうしうかまくらやま)、雪(ゆき)の下(した)と云ふ所に、藤沢屋の木工右衛門(もくゑもん)、旅人(りよじん)の留宿(とめやど)をして、世を渡りしが、娘一人ありて、後(のち)、木工右衛門夫婦、世をはやうなりぬ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.256』小学館)

同じ頃、丹波笹山の実家から勘当されて鎌倉にやって来た「金太夫(きんだいふ)」と名乗る遊び人がいた。

「海の者とも、山家(やまが)の者とも、しれぬ男、金太夫(きんだいふ)」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.257』小学館)

若宮八幡宮前で参詣者を集め、はったりを効かせた口先ばかりの出まかせで若宮社のいわれを説いてまわり、小遣いを稼いでいた。口上を述べる時の表情はまるで自分自身の口のうまさに自分で酔ってでもいるかのようだ。

「酔うた顔付きして、嘘八百、銭をとらぬと云ふ事なし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.257』小学館)

金太夫はそのような遊び半分の小遣い稼ぎをしながら、黙ってはいるが実はかなりの金持ち。周囲の斡旋があり、雪の下で一人暮らしていた娘と結婚した。当時の世相を考えると娘は時宗の信仰者のようである。毎日燈明を灯して両親の位牌を拝んでいた。それが金太夫には気に入らない。或る日、怒りを露わにして妻の両親の位牌もろとも持仏堂とともにことごとく破壊してしまった。

「枕(まくら)をならべ、親しくなりて後(のち)、この娘、毎日持仏堂(どぶつだう)を明けて、御燈(みあかし)を揚ぐるを見て、かの男、『これは何のためぞ』と、散々、仏前をあらしむ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.258』小学館)

妻が時宗の信者であることが許し難いらしい。もっとも、価値観や生活様式の違いから夫婦仲が荒れるのは昔から世界中でよくあった。今なお宗教の違いをめぐる地域紛争が後を絶たないように。軍事産業の思う壺なのだが。妻はいう。宗旨が合わないだけで一緒にやっていけないというのなら離縁すれば済むだけのことでしょう。それなのに親の位牌を蹴散らさら粉々に砕かれてしまうのは辛いこと。死んでしまいたいくらい。だからといって、でも、もう子どもができてしまっているし、どうしたらいいのかと。

「いかに宗旨違へばとて、後世に隔てのあるべきや。自(みづか)らに添ひ給へば、我(わ)が親もそなたの親同然。その位牌(ゐはい)を、うち砕き給ふは、つらし。子のない中ならば、身を抛(な)げはつべき物を、儘(まま)ならぬ浮世」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.258』小学館)

夫婦間の不和を繋ぎ止める役割を果たすことになるため、子は鎹(かすがい)と昔は言ったようだ。ところが昔から、子は鎹(かすがい)になるからこそ夫婦はそう簡単に離縁することができず、両者の不和は逆にさらなる悪循環を引き起こすという悲惨な事態をしばしば招いた。ともかく、二人の間にできた子は三歳になった。そんな或る夜のこと。夜中に目を覚ますとその子は「枕(まくら)もと近き燈(ともしび)の油土器(あぶらかはらけ)を、引傾(ひきかたぶ)け、酒のごとく、一滴も残さず、呑(の)みける」。酒でもぐびぐび飲むように灯りのための油を一滴残さず飲み干してしまった。しばらく様子を見ていると、毎晩油を飲んでいる。

「ある夜(よ)の寝覚(ねざめ)に、枕(まくら)もと近き燈(ともしび)の油土器(あぶらかはらけ)を、引傾(ひきかたぶ)け、酒のごとく、一滴も残さず、呑(の)みける。その後(のち)、ためしけるに、毎夜、呑まざる事なし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.258』小学館)

この話は周囲の評判になり一種の奇瑞ででもあるかのように考えるようになった。しかし油をなめたり油を飲んだりする子どもが妖怪じみて語られるようになったのは、もちろん、一般庶民生活の中で燈火を灯して寝るスタイルが町人らの暮らしの中に根付いて始めて出現した説話である。飴が子どもの楽しみとしてそこそこ手軽に手に入るようになって始めて「子育て飴伝説」が生じるのと同じ構造だ。銃撃で穴だらけの軍服姿の亡霊を見たという話がまことしやかに語られるようになったのが第一次世界大戦以降であるように。言い換えれば、「オイディプス王」の悲劇の到来を語った古代ギリシアで最も有名な預言者・テイレシアスでさえ、後々東アジアのジパングというところで広大な都市全体が一瞬にして真っ白な光に包まれ無数の人々が溶けて死ぬと預言することはできなかったように。

ところで妻は暴力夫と離縁できない事情を抱えながら、一方、夫婦の子どもは五歳になった。常人離れした学習能力を遺憾なく発揮する。話し始めると大人のように理路整然と語って見せる。あまりの神童ぶりを誇りに思った両親は初春の挨拶を兼ねて子どもを見せてまわる。たくさんの人々がわいのわいのと集まってきた。そこでその子は或るエピソードを語り始める。聞いていた人々はその内容に凍りつく。

「程(ほど)なく、五歳になりて、常の人に勝(すぐ)れて賢(かしこ)し。殊更(ことさら)物いふ事、おとなのごとし。夫婦、悦び、花の春を時得て、袴(はかま)の着初(きぞ)めさせて、近所、ひけらかしけるに、この子、大勢(おほぜい)の中に畏(かしこ)まり、申し出(いだ)すこそ、恐ろしけれ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.259』小学館)

僕のお父さんはお金持ちです。でもそれには理由があるのです。今から五年前、燈火に用いる油売りを斬り殺して金八十両を手に入れました。それから家の財産は膨大になりました。確か、その「夕暮(ゆふぐれ)は、雨風のして、二月九日、虫出(むしだ)し神鳴(かみなり)、ひびき渡りし」と。

「私の親は、ともし油売りが、肌(はだ)に金子(きんす)八十両付けしを、この五年あとに切って、それより手前よくなられし。しかもその夕暮(ゆふぐれ)は、雨風のして、二月九日、虫出(むしだ)し神鳴(かみなり)、ひびき渡りし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.259』小学館)

耳を傾けていた人々はふいに記憶を呼び覚まされた。言われてみればなるほど五年前のその頃。亀が谷で油売りの商人が惨殺される事件があったが、警察の細かい調査にもかかわらず迷宮入りした。もう忘れてしまっていたところだがーーー。

「『いかにもいかにも、その頃(ころ)、亀(かめ)が井(ゐ)の谷(やつ)にて、油売りを闇打(やみう)ち、色々、御穿鑿(ごせんさく)、今にしれず』と、あつて過ぎたる事を、思ひ合はせて駭(おどろ)きける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.260』小学館)

話を聞きに集まっていた人々の中に殺された油売りの従弟(いとこ)がいた。ほかの人たちは忘れていたかも知れないが、従弟としては忘れもしない、あの惨殺事件。たちまち親族を集め敵討ちの密談に入る。金太夫はもはやここまでと思ったのか、なぜか妻を道連れにして刺し殺し、自分も自害して果てた。大金を元手に遊び半分で若宮八幡宮の伝説を参詣人に語って小遣いを稼ぎ、家の中では暴力亭主。にもかかわらず犯行が発覚した時の取り乱し方は見苦し過ぎると周囲の目には余りにも胡散臭く映ったのだった。

「その中に、その油売りが従弟(いとこ)ありて、この事を、聞きとがめ、『このままは、おかじ』と、俄(にはか)に、親類を集め、内談するを聞きて、金太夫(きんだいふ)、たまりかね、科(とが)もなき女をさし殺し、己(おの)れも同じ枕(まくら)の見ぐるしく、最後を取り乱しぬ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻三・当社の案内申す程をかし」『井原西鶴集2・P.260』小学館)

なお、惨殺された油売り商人が惨殺した人間の前に童子姿で登場し加害者の過去を暴露するという説話は、日本では広く全国各地で見られる。また「耳袋」に出てくる「物をいう猫」の話に、やや関連した挿話がある。

或る寺の和尚が、鳩を捕らえそこねた猫が「残念なり」というのを聞いて説明できるかと問う。猫はいう。

「猫の物をいう事、我らに限らず。十年余も生き候えばすべて物は申すものにて、それより十四、五年も過ぎ候えば神変を得候事なり」(根岸鎮衛「猫物をいう事」『耳袋1・巻の四・P.322』平凡社ライブラリー)

しかしこの寺を徘徊する猫はまだ十年も生きていない。なのにどうして物をいうことができるのかと和尚は重ねて問うた。猫は何でもない様子で答える。

「狐と交わりて生れし猫は、その年功なくとも物いう事なり」(根岸鎮衛「猫物をいう事」『耳袋1・巻の四・P.322』平凡社ライブラリー)

狐との混種なので十年に満たなくても物をいえるようになるとのこと。とても珍しい話に感心した様子の和尚はその猫にしばらくはここに居てもよいという。

「しからば今日物いいしをほかに聞ける者なし。われ暫くも飼い置きたるうえに何か苦しからん、これまでの通りまかりあるべし」(根岸鎮衛「猫物をいう事」『耳袋1・巻の四・P.322』平凡社ライブラリー)

許しを受けたにもかかわらずやがて猫は寺を出ていき、そのまま行方知れずになった。と、ここまで述べてきて、蛇、猫、狐、と共通して列挙することができるだろうと思う。すべて農耕文化の守護神として活躍する動物たちであるという点。さらに油成分の摂取という事情は現代の科学で明らかにされているように、古代・中世・近世の間、猫たちの餌は一貫して油成分の不足に悩まされていたと言われる。だから昔話に出てくる猫も狐も蛇も、しばしば油をなめる化け物の一種として考えられていたようだ。せっかく人間の米倉を守ってやっているのだから同等の価値を持っていてなおかつ身体にとって栄養となる食物に惹かれるのは自然生態系の維持にとって重要ではないかと。頭で考えているわけではなく、ニーチェのいうように人間のみならず、特に動物は、身体全体で考えているわけである。身体がそれを欲するのだ。

「より驚嘆すべきものはむしろ《身体》である。いくら感嘆しても感嘆しきれないのは、いかにして人間の《身体》が可能になったか、ということである。すなわち、〔身体を構成する〕各生命体は、依存し従属しながらも、しかも他方では、或る意味で命令し、そして自分の意志に基づいて行為しながら、そこに、これらかずかずの生命体のこのような巨大な統合〔としての身体〕が、全体として生き、成長し、そして或る期間存続することがいかにして可能であるのか、ということであるーーー、そして、これは明らかに意識によって起こるのでは《ない》!」(ニーチェ「生成の無垢・下巻・三四三・P.192」ちくま学芸文庫)

そしてまた動物は「債権者」と「債務者」との関係を知らないけれども、或る程度人間と共存し始めるとその行動を真似るようになる。その点で特権的な賢さを持つのは犬。一方で、蛇、猫、狐などは農耕文化の中で特に稲作文化を守護するのに役立っているわけだが、その一方、犬は放牧や穀倉地帯で牛や山羊の移動に大きな役割を果たしてくれる。するとたとえ人間の行動の物真似であっても割り振られた役割相応の報酬を要求するようになる。

「人間歴史の極めて長い期間を通じて、悪事の主謀者にその行為の責任を負わせるという《理由》から刑罰が加えられたことは《なかった》し、従って責任者のみが罰せられるべきだという前提のもとに刑罰が行われたことも《なかった》。ーーーむしろ、今日なお両親が子供を罰する場合に見られるように、加害者に対して発せられる被害についての怒りから刑罰は行なわれたのだ。ーーーしかしこの怒りは、すべての損害にはどこかにそれぞれその《等価物》があり、従って実際にーーー加害者に《苦痛》を与えるという手段によってであれーーーその報復が可能である、という思想によって制限せられ変様せられた。ーーーこの極めて古い、深く根を張った、恐らく今日では根絶できない思想、すなわち損害と苦痛との等価という思想は、どこからその力を得てきたのであるか。私はその起源が《債権者》と《債務者》との間の契約関係のうちにあることをすでに洩らした。そしてこの契約関係は、およそ『権利主体』なるものの存在と同じ古さをもつものであり、しかもこの『権利主体』の概念はまた、売買や交換や取引や交易というような種々の根本形式に還元せられるのだ」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.70」岩波文庫)

というふうに。

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