地域紛争に盆も正月もない。バルカン、中東、カスピ海沿岸ーーー。民族起源神話の世界が何度も繰り返し反復されていない日はないかのように感じる。かつて熊楠は平家蟹について論じた。平家蟹はなぜ憤怒の相をしているかのように映って見えるのか。その中で「武文蟹」(たけぶみがに)について論じている。
「『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文(はたのたけぶみ)兵庫が死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯(はさみ)赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい」(南方熊楠「平家蟹の話」『南方民俗学・P.145』河出文庫)
以前、その由来について「太平記」を追って述べた。クリックして参照可能。
「熊楠による熊野案内/土佐日記外伝・武文蟹」
その「武文蟹」(たけぶみがに)由来の舞台となった土佐国畑(はた)。今の高知県幡多郡(はたぐん)。ここから或る夫婦が新天地を求めて船出しようとしていたところ、「白地(あからさま)」=「一時的」に浜辺に置いておいた船から離れた。船のなかには夫婦の子ども二人を乗せたままだった。子どもは十四、五歳くらいの兄と十二、三歳くらいの妹の二人。両親が目を離し兄妹が船の中で居眠っているうち、潮が満ちてきて船は波の上に浮き上がり風も吹き出した。船は沖に出ると風はますます強く吹き付けてあっという間に南海上へ流されていく。驚いて目を覚ました兄妹は周囲を見渡すが手がかりになるようなものは何一つ見当たらない。
「白地(あからさま)ト思(おもひ)テ、船ヲバ少シ引据(ひきすゑ)テ、網ヲバ棄(すて)テ置(おき)タリケルニ、此(この)二人ノ童部(わらはべ)ハ船底ニ寄臥(よりふし)タリケルガ、二人乍(なが)ラ寝入(いり)ケリ。其(その)間ニ塩(しほ)満(みち)ニケレバ、船ハ浮(うき)タリケルヲ、放(はな)ツ風ニ少しシ吹被出(ふきいだされ)タリケル程ニ、干満(みちひ)ニ被引(ひかれ)テ、遥(はるか)ニ南ノ澳(おき)ニ出(いで)ケリ。澳ニ出(いで)ニケレバ、弥(いよい)ヨ風ニ被吹(ふかれ)テ、帆上(あげ)タル様(やう)ニテ行(ゆく)。其時ニ、童部驚(おどろき)テ見(みる)ニ、懸(かかり)タル方ニモ無(なき)澳ニ出(いで)ニケレバ、泣迷(なきまど)ネドモ、可為様(すべきやう)モ無(なく)テ、只被吹(ふかれ)テ行(ゆき)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50」岩波書店)
慌てて駆けつけた子どもの両親は周辺を探してみたがもはや船も子どもたちも跡形もなくなってしまっていた。沖へ流された二人の兄妹は或る見知らぬ島に漂着する。返る方法がわからず途方に暮れる。そこで妹は先に気持ちを落ち着かせたようで、次のように兄に提案する。いつまで泣いていても喚いていても仕方がありません。船に積んできた食物があるうちに飢えをしのいで、そのあいだに一緒に積んでいた稲の苗を育ててみましょう。
「今ハ可為様(すべきやう)ナシ。然(さ)リトテ、命ヲ可棄(すつべき)ニ非(あら)ズ。此(この)食物(たべもの)ノ有(あら)ム限(かぎり)コソ、少シヅツモ食(くひ)テ命ヲ助ケメ、此(これ)ガ失畢(うせはて)ナン後ハ、何(いか)ニシテカ命ハ可生(いくべき)。然レバ、去来(いざ)、此(この)苗ノ不乾前(かれぬさき)ニ殖(うゑ)ン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50」岩波書店)
大事なのは農耕文化、とりわけ稲作は女性の手で始められたという歴史に則っている点だろう。中世になっても日本各地では税金となる米と米を用いて造られる酒の管理は女性が担っていた。柳田國男は古くからの説話を記録に留めている。
「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)
「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)
それにしても遠くポリネシアと何の関係があるのか。あるのである。後で述べる。
船に積まれていた「馬歯(うまぐは)・辛鋤(からすき)・鎌(かま)・鍬(くは)・斧(をの)・鐇(たつぎ)」などを用いて付近の木を伐り、かろうじて家のようなものを作った。さらに漂着した島には「生物(なりもの)ノ木」=「果物」が多い。果物は実のなる季節に、そして必要に応じて、食べることにした。秋になった。妹の提案で植えてみた苗は成長し稲は大変よく実った。しばらくそうして暮らしていたが、「妹兄(いもせ)」=「兄妹」は二人とも当然成長する。歳月を過ごすうちに「妹兄、夫婦(めをうと)ニ成(なり)ヌ」=「妹兄(いもせ)は夫婦になって」子どもを産み育てることにした。
「生物(なりもの)ノ木、時ニ随(したがひ)テ多カリケレバ、其(それ)ヲ取食(とりくひ)ツツ明シ暮ス程ニ、秋ニモ成ニケリ。可然(さるべき)ニヤ有(あり)ケン、作(つくり)タル田、糸能(いとよく)出来(いでき)タリケレバ、多ク刈置(かりおき)テ、妹兄(いもせ)過(すぐ)ス程ニ、漸(やうや)ク年来(としごろ)ニ成(なり)ヌレバ、然(さ)リトテ可有(あるべき)事ニ非(あら)ネバ、妹兄、夫婦(めをうと)ニ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50~51」岩波書店)
妹兄(いもせ)が夫婦になって子どもを産み育てることは別に不思議でも何でもない。世界中で無数に残る民族創生神話の大部分はどれもそこから始まる。「日本書紀」もまた例に漏れない。伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)は兄妹として誕生するが、国造りのために夫婦(めおと)になる。
「乾坤(あめつち)の道(みち)、相参(あひまじ)りて化(な)る。所以(このゆゑ)に、此の男女(をとこをみな)を成(な)す。国常立尊より、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に迄(いた)るまで、是(これ)を神世七代(かみよななよ)と謂(い)ふ。ーーー伊弉諾尊・伊弉冉尊、天浮橋(あまのうきはし)の上(うへ)に立たして、共(とも)に計(はから)ひて曰(のたま)はく、『底下(そこつした)に豈国無(あにくにな)けんや』とのたまひて、廼(すなは)ち天之瓊(あめのぬ)〔瓊は、玉なり。此(これ)をば努(ぬ)と云ふ〕。矛(ほこ)を以(も)て、指(さ)し下(おろ)して探(かきさぐ)る。是(ここ)に滄溟(あをうなはら)を獲(え)き。其(そ)の矛(ほこ)の鋒(さき)より滴瀝(しただ)る潮(しほ)、凝(こ)りて一(ひとつ)の嶋(しま)に成(な)れり。名(なづ)けて磤馭慮嶋(おのごろしま)と曰(い)ふ。二(ふたはしら)の神、是(ここ)に、彼(そ)の嶋に降(あまくだ)り居(ま)して、因(よ)りて共為夫婦(みとのまぐはひ)して、洲国(くにつち)を産生(う)まむとす」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第二、三、四段・P.22」岩波文庫)
二人の間に産まれた子どもたちが今度はさらに夫婦になって子どもを産む。何度も繰り返し反復される。今の世界各地で絶え間なく発生している諸民族紛争のように繰り返し反復される。
それはさておき、この島では田畑を広げることができた。島民も増えた。「土佐ノ国ノ南ノ沖ニ、妹兄(いもせ)ノ島トテ有(あり)」。島の名は「妹兄(いもせ)ノ島」と呼ばれている。
「然(さ)テ年来ヲ経(ふる)程ニ、男子(をのこご)・女子(をむなご)数(あまた)産次(うみつうづ)ケテ、其レヲ亦(また)夫婦ト成シツ。大(おほき)ナル島也ケレバ、田多ク作リ弘(ひろ)ゲテ、其(その)妹兄(いもせ)ガ産次(うみつづ)ケタル孫(そん)ノ、島ニ余ル許(ばかり)成(なり)テゾ、于今有(いまにある)ナル。土佐ノ国ノ南ノ沖ニ、妹兄(いもせ)ノ島トテ有(あり)トゾ、人語リシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.51」岩波書店)
ここで出てくる「妹兄(いもせ)ノ島」は今の「高知県宿毛市沖の島」のこと。この種の民族起源神話は沖縄県八重山群島、東南アジアのインドネシア、さらにポリネシアに多く分布する。
ちなみのこの説話は「今昔物語」だけでなく「宇治拾遺物語」にもほとんど同じものが載っていることでも知られている。前者は平安時代後半、後者は鎌倉時代。芥川龍之介が「羅生門」を近代文学として甦らせたように当時の京の都は荒れ果てていた。幕府滅亡の頃には京極派の歌人・永福門院が次の和歌を詠んでいる。鴉(からす)が出てくる。
「朝戸明(あさとあけ)の軒ばに近く聞ゆなり梢のからす雪ふかきこゑ」(新日本古典文学体系「永福門院百番御自歌合・一一二」『中世和歌集・鎌倉編・P.413』岩波書店)
また「玉葉和歌集」には野良犬の夜の遠吠えが登場する。
「音もなく夜はふけすぎて遠近の里の犬こそ聲あはすなれ」(「玉葉和歌集・巻第十五・従三位爲子・P.335」岩波文庫)
「万葉集」ではただそこにいる動物として詠まれた動物たちが、その頃には打ち続く戦禍のためにうらぶれ果てた都の退廃の象徴として詠み込まれるようになったことに注目しなければならない。そのような暗黒時代の中で「妹兄(いもせ)ノ島」はあえて豊饒な農耕文化に溢れるユートピアとして描かれた。例えば、かつてあった人々の目に見える繋がりが消滅したその瞬間、やおら「糸」という物語が立ち現われたりするのとたいへん似ている。実態はいつも事後的にしか可視化されない。
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「『和漢三才図会』に、元弘の乱に秦武文(はたのたけぶみ)兵庫が死んで蟹となったのが、兵庫や明石にあり、俗に武文蟹と言う、大きさ尺に近く螯(はさみ)赤く白紋あり、と見えるから、武文蟹は普通の平家蟹よりはずっと大きく別物らしい」(南方熊楠「平家蟹の話」『南方民俗学・P.145』河出文庫)
以前、その由来について「太平記」を追って述べた。クリックして参照可能。
「熊楠による熊野案内/土佐日記外伝・武文蟹」
その「武文蟹」(たけぶみがに)由来の舞台となった土佐国畑(はた)。今の高知県幡多郡(はたぐん)。ここから或る夫婦が新天地を求めて船出しようとしていたところ、「白地(あからさま)」=「一時的」に浜辺に置いておいた船から離れた。船のなかには夫婦の子ども二人を乗せたままだった。子どもは十四、五歳くらいの兄と十二、三歳くらいの妹の二人。両親が目を離し兄妹が船の中で居眠っているうち、潮が満ちてきて船は波の上に浮き上がり風も吹き出した。船は沖に出ると風はますます強く吹き付けてあっという間に南海上へ流されていく。驚いて目を覚ました兄妹は周囲を見渡すが手がかりになるようなものは何一つ見当たらない。
「白地(あからさま)ト思(おもひ)テ、船ヲバ少シ引据(ひきすゑ)テ、網ヲバ棄(すて)テ置(おき)タリケルニ、此(この)二人ノ童部(わらはべ)ハ船底ニ寄臥(よりふし)タリケルガ、二人乍(なが)ラ寝入(いり)ケリ。其(その)間ニ塩(しほ)満(みち)ニケレバ、船ハ浮(うき)タリケルヲ、放(はな)ツ風ニ少しシ吹被出(ふきいだされ)タリケル程ニ、干満(みちひ)ニ被引(ひかれ)テ、遥(はるか)ニ南ノ澳(おき)ニ出(いで)ケリ。澳ニ出(いで)ニケレバ、弥(いよい)ヨ風ニ被吹(ふかれ)テ、帆上(あげ)タル様(やう)ニテ行(ゆく)。其時ニ、童部驚(おどろき)テ見(みる)ニ、懸(かかり)タル方ニモ無(なき)澳ニ出(いで)ニケレバ、泣迷(なきまど)ネドモ、可為様(すべきやう)モ無(なく)テ、只被吹(ふかれ)テ行(ゆき)ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50」岩波書店)
慌てて駆けつけた子どもの両親は周辺を探してみたがもはや船も子どもたちも跡形もなくなってしまっていた。沖へ流された二人の兄妹は或る見知らぬ島に漂着する。返る方法がわからず途方に暮れる。そこで妹は先に気持ちを落ち着かせたようで、次のように兄に提案する。いつまで泣いていても喚いていても仕方がありません。船に積んできた食物があるうちに飢えをしのいで、そのあいだに一緒に積んでいた稲の苗を育ててみましょう。
「今ハ可為様(すべきやう)ナシ。然(さ)リトテ、命ヲ可棄(すつべき)ニ非(あら)ズ。此(この)食物(たべもの)ノ有(あら)ム限(かぎり)コソ、少シヅツモ食(くひ)テ命ヲ助ケメ、此(これ)ガ失畢(うせはて)ナン後ハ、何(いか)ニシテカ命ハ可生(いくべき)。然レバ、去来(いざ)、此(この)苗ノ不乾前(かれぬさき)ニ殖(うゑ)ン」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50」岩波書店)
大事なのは農耕文化、とりわけ稲作は女性の手で始められたという歴史に則っている点だろう。中世になっても日本各地では税金となる米と米を用いて造られる酒の管理は女性が担っていた。柳田國男は古くからの説話を記録に留めている。
「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)
「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)
それにしても遠くポリネシアと何の関係があるのか。あるのである。後で述べる。
船に積まれていた「馬歯(うまぐは)・辛鋤(からすき)・鎌(かま)・鍬(くは)・斧(をの)・鐇(たつぎ)」などを用いて付近の木を伐り、かろうじて家のようなものを作った。さらに漂着した島には「生物(なりもの)ノ木」=「果物」が多い。果物は実のなる季節に、そして必要に応じて、食べることにした。秋になった。妹の提案で植えてみた苗は成長し稲は大変よく実った。しばらくそうして暮らしていたが、「妹兄(いもせ)」=「兄妹」は二人とも当然成長する。歳月を過ごすうちに「妹兄、夫婦(めをうと)ニ成(なり)ヌ」=「妹兄(いもせ)は夫婦になって」子どもを産み育てることにした。
「生物(なりもの)ノ木、時ニ随(したがひ)テ多カリケレバ、其(それ)ヲ取食(とりくひ)ツツ明シ暮ス程ニ、秋ニモ成ニケリ。可然(さるべき)ニヤ有(あり)ケン、作(つくり)タル田、糸能(いとよく)出来(いでき)タリケレバ、多ク刈置(かりおき)テ、妹兄(いもせ)過(すぐ)ス程ニ、漸(やうや)ク年来(としごろ)ニ成(なり)ヌレバ、然(さ)リトテ可有(あるべき)事ニ非(あら)ネバ、妹兄、夫婦(めをうと)ニ成(なり)ヌ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.50~51」岩波書店)
妹兄(いもせ)が夫婦になって子どもを産み育てることは別に不思議でも何でもない。世界中で無数に残る民族創生神話の大部分はどれもそこから始まる。「日本書紀」もまた例に漏れない。伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)は兄妹として誕生するが、国造りのために夫婦(めおと)になる。
「乾坤(あめつち)の道(みち)、相参(あひまじ)りて化(な)る。所以(このゆゑ)に、此の男女(をとこをみな)を成(な)す。国常立尊より、伊弉諾尊(いざなきのみこと)・伊弉冉尊(いざなみのみこと)に迄(いた)るまで、是(これ)を神世七代(かみよななよ)と謂(い)ふ。ーーー伊弉諾尊・伊弉冉尊、天浮橋(あまのうきはし)の上(うへ)に立たして、共(とも)に計(はから)ひて曰(のたま)はく、『底下(そこつした)に豈国無(あにくにな)けんや』とのたまひて、廼(すなは)ち天之瓊(あめのぬ)〔瓊は、玉なり。此(これ)をば努(ぬ)と云ふ〕。矛(ほこ)を以(も)て、指(さ)し下(おろ)して探(かきさぐ)る。是(ここ)に滄溟(あをうなはら)を獲(え)き。其(そ)の矛(ほこ)の鋒(さき)より滴瀝(しただ)る潮(しほ)、凝(こ)りて一(ひとつ)の嶋(しま)に成(な)れり。名(なづ)けて磤馭慮嶋(おのごろしま)と曰(い)ふ。二(ふたはしら)の神、是(ここ)に、彼(そ)の嶋に降(あまくだ)り居(ま)して、因(よ)りて共為夫婦(みとのまぐはひ)して、洲国(くにつち)を産生(う)まむとす」(「日本書紀1・巻第一・神代上・第二、三、四段・P.22」岩波文庫)
二人の間に産まれた子どもたちが今度はさらに夫婦になって子どもを産む。何度も繰り返し反復される。今の世界各地で絶え間なく発生している諸民族紛争のように繰り返し反復される。
それはさておき、この島では田畑を広げることができた。島民も増えた。「土佐ノ国ノ南ノ沖ニ、妹兄(いもせ)ノ島トテ有(あり)」。島の名は「妹兄(いもせ)ノ島」と呼ばれている。
「然(さ)テ年来ヲ経(ふる)程ニ、男子(をのこご)・女子(をむなご)数(あまた)産次(うみつうづ)ケテ、其レヲ亦(また)夫婦ト成シツ。大(おほき)ナル島也ケレバ、田多ク作リ弘(ひろ)ゲテ、其(その)妹兄(いもせ)ガ産次(うみつづ)ケタル孫(そん)ノ、島ニ余ル許(ばかり)成(なり)テゾ、于今有(いまにある)ナル。土佐ノ国ノ南ノ沖ニ、妹兄(いもせ)ノ島トテ有(あり)トゾ、人語リシ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第二十六・第十・P.51」岩波書店)
ここで出てくる「妹兄(いもせ)ノ島」は今の「高知県宿毛市沖の島」のこと。この種の民族起源神話は沖縄県八重山群島、東南アジアのインドネシア、さらにポリネシアに多く分布する。
ちなみのこの説話は「今昔物語」だけでなく「宇治拾遺物語」にもほとんど同じものが載っていることでも知られている。前者は平安時代後半、後者は鎌倉時代。芥川龍之介が「羅生門」を近代文学として甦らせたように当時の京の都は荒れ果てていた。幕府滅亡の頃には京極派の歌人・永福門院が次の和歌を詠んでいる。鴉(からす)が出てくる。
「朝戸明(あさとあけ)の軒ばに近く聞ゆなり梢のからす雪ふかきこゑ」(新日本古典文学体系「永福門院百番御自歌合・一一二」『中世和歌集・鎌倉編・P.413』岩波書店)
また「玉葉和歌集」には野良犬の夜の遠吠えが登場する。
「音もなく夜はふけすぎて遠近の里の犬こそ聲あはすなれ」(「玉葉和歌集・巻第十五・従三位爲子・P.335」岩波文庫)
「万葉集」ではただそこにいる動物として詠まれた動物たちが、その頃には打ち続く戦禍のためにうらぶれ果てた都の退廃の象徴として詠み込まれるようになったことに注目しなければならない。そのような暗黒時代の中で「妹兄(いもせ)ノ島」はあえて豊饒な農耕文化に溢れるユートピアとして描かれた。例えば、かつてあった人々の目に見える繋がりが消滅したその瞬間、やおら「糸」という物語が立ち現われたりするのとたいへん似ている。実態はいつも事後的にしか可視化されない。
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