白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/異形の山神

2020年12月08日 | 日記・エッセイ・コラム
蛙(かえる)には漢方薬として用いられているものがある。熊楠はいう。

「赤蛙は、今も紀州などで疳(かん)薬とて小児に食わす。国樔人(くずびと)が蝦蟇(がま)を食うたと『日本紀』に見え、また諏訪明神に供えた由、『郷土研究』一巻三号一六三頁〔「郷土研究第一巻第二号を読む」〕に引いた」(南方熊楠「牛肉蕈」『森の思想・P.312』河出文庫)

日本書紀の記述は次の通り。

「今(いま)国樔(くずひと)、土毛(くにつもの)献る日(ひ)に、歌(うたよみ)訖(をは)りて即(すなは)ち口を撃(う)ち仰ぎ咲(わら)ふは、蓋(けだ)し上古(いにしへ)の遺則(のり)なり。夫(そ)れ国樔は、其の為人(ひととなり)、甚(はなはだ)淳朴(すなほ)なり。毎(つね)に山(やま)の菓(このみ)を取(と)りて食(くら)ふ。亦(また)蝦蟆(かへる)を煮(に)て上味(よきあぢはひ)とす。名(なづ)けて毛瀰(もみ)と曰(い)ふ。其の土(くに)は、京(みやこ)より東南(たつみのすみ)、山を隔(へだ)てて、吉野河(よしのかは)の上(ほとり)に居(を)り。峯(たけ)儉(さが)しく谷(たに)深(ふか)くして、道路(みち)狭(さ)く巘(さが)し。故(このゆゑ)に、京(みやこ)に遠(とほ)からずと雖(いへど)も、本(もと)より朝来(まうく)ること希(まれ)なり。然(しか)れども此(これ)より後(のち)、婁(しばしば)参赴(まうき)て、土毛(くにつもの)を献る。其の土毛は、栗(くり)・菌(たけ)及(およ)び年魚(あゆ)の類(たぐひ)なり」(「日本書紀2・巻第十・応神天皇十六年八月~二十年九月・P.208」岩波文庫)

とはいえ蛙の種類によっては外敵から身を守るためブフォトキシンなど有毒物質を分泌するので注意が必要。しかしこの論考は「牛肉蕈」とあるように山間部で食べることができる動植物についてだ。熊楠は信州「諏訪明神」に言及しているが「山の神」と蛇との関係を示唆するものと考えられる。柳田國男は折口信夫の論考「髯籠(ひげこ)の話」に触れて次のように述べる。

「卯月八日を山登りの日とする習慣はいたって弘く行われているらしい」(柳田國男「年中行事覚書・卯月八日」『柳田國男全集16・P.87~88』ちくま文庫)

注目すべきは「婦人が登る」という点である。「諏訪」での神事を含めて列挙している。

「たとえば玉依姫(たまよりひめ)を祭るという下総香取(しもうさかとり)郡の東ノ大神、草奈井比売(くさないひめ)という諏訪の蓼宮(たで)宮社、倭迹々百襲姫(やまとととひももそひめ)を祀ると伝えた讃岐(さぬき)の一ノ宮田村神社、あるいは倭姫命(やまとひめのみこと)を祭ったのが始めという江州土山(ごうしゅうつちやま)の田村神社などの類」(柳田國男「年中行事覚書・卯月八日」『柳田國男全集16・P.88』ちくま文庫)

そして「蛇」と「宇賀神」(うがじん)との関連について。

「神蛇体なりという言い伝えの往々にして存することで、しばしば水の辺においてこの日の祭を行うことがこれと関聯するらしい。伊勢鈴鹿(すずか)郡の鶏足山は(けいそくさん)は卯月八日の登山をもって聞えたる霊地である。寺では千手観音を本尊にしているが、しかも山上に鏡ヶ池というがあって、傍に善女・竜王・雨壺の三祠を斎(いつ)き祈雨(きう)の神として仰がれていた(三国地志二十六)。浮島をもって知られている羽前大沼の浮島稲荷(いなり)神社も古くから例祭は四月八日で、祭神宇迦之御霊(うかのみたま)とうも元は宇賀神(うがじん)すなわち弁才天の信仰に始ったものらしい。鍋(なべ)の祭で評判の江州筑摩(つくま)神社のごときも、社殿大湖に臨んで竹生島(ちくぶしま)に向い、今は主神を大御食津神(おおみけつのかみ)としているが、以前は市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)と伝えていた(木曽路名所図会)」(柳田國男「年中行事覚書・卯月八日」『柳田國男全集16・P.88~89』ちくま文庫)

それにしてもまたなぜ「蛇、竜」が「米倉」と深く関わっているのか。

「外国にも、コメと竜と関係ある話がある。これは蛇が鼠を啖(くろ)うて、庫を守より出た事か、今も日本に米倉中の蛇を、宇賀神など唱え、殺すを忌む者多し」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.134』岩波文庫)

蛇の呼び名について。「蟒」は「うわばみ」と読む。

「予は大蛇をオロチ、巨蟒をヤマガマチと読むなどを参考し、『和名抄』や『書紀』に、蛟(こう)や虬(きゆう)いずれも竜蛇の属の名の字をミヅチと訓(よ)んだから、ミヅチは水蛇(みずへび)、野蛟(のづち)は野蛇(のへび)の霊異なるを崇(あが)めたものと思う。今も和泉、大和、熊野に野槌と呼ぶのは、尾なく太短い蛇だ(『東京人類学会雑誌』二九一号の拙文を見よ)」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.168』岩波文庫)

さらに話題は「蜥蜴」(とかげ)にも及ぶ。

「紀州日高郡丹生(にゆう)川で、百年ばかり昔淋しい川を蜥蜴二匹上下に続いて游(およ)び遊ぶを見、怖れて逃げ帰りしを今に神異と伝え居る」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.185』岩波文庫)

なぜ「蛇」から「竜」そして「蜥蜴」なのか。「怖れて逃げ帰りしを今に神異と伝え居る」とある中に「神異」の存在として考えられていた経緯が見える。「太平記」の中になぜか唐突に「俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)」の伝説が出てくる。このエピソードもまた蛇と関係が深い。

「承平(じょうへい)の比(ころ)、俵藤太秀郷(たわらのとうたひでさと)と云ふ者ありけり。或る時、この秀郷、ただ一人(いちにん)勢多(せた)の橋を渡りけるに、長(たけ)二十丈ばかりなる大蛇(だいじゃ)、橋の上に横たはりて臥したり。両の眼(まなこ)は耀(かかや)いて、天に二つの日を掛けたるが如く、並べたる角(つの)高く峙(そばだ)つて、冬枯れの森の梢(こずえ)に異ならず。鉄(くろがね)の牙(きば)上下に生ひちがうて、紅(くれない)の舌炎(ほのお)を吐(は)くかと怪しまる。もし尋常(よのつね)の人これを見ば、目暮れ、魂(たましい)消えて、則ち地にも倒れつべし」(「太平記2・第十五巻・5・竜宮城の鐘の事・P.445~446」岩波文庫)

秀郷は或る「大蛇」(この場合は「巨大な蜈蚣(むかで)」)の威嚇を恐れず通り過ぎた。蜈蚣(むかで)退治の一件だが、秀郷に蜈蚣退治を依頼したのは近江・唐橋の下に棲んでいた龍神(この場合は「蛇」(へび))である。長年、巨大蜈蚣の襲撃に苦しめられていた。なのでその巨大蜈蚣を倒してくれた秀郷に様々な宝物を贈る。その中に一つの「鐘」が含まれていて、今の三井寺の鐘がそれだということになった。

「龍神、これを悦(よろこ)びて、秀郷を様々(さまざま)にもてなして、巻絹(まきぎぬ)一つ、鎧一両、首を結ひたる俵(たわら)一つ、赤銅(しゃくどう)の推鐘(つきがね)一つを与へて、『御辺(ごへん)の門葉(もんよう)に、必ず将軍になる人多かるべし』とぞ示しける。秀郷、都に帰つて後(のち)、この絹を切つて使ふに、尽(つ)くる事なし。俵は、中なる納物(いれもの)を取れども取れども尽きせざる間、財宝は蔵に満ち、衣裳(いしょう)身に余れり。ゆゑに、その名を俵藤太(たわらのとうた)とは云ひけるなり。これは産業(さんぎょう)の財(たから)なればとて、倉廩(そうりん)に収む。鐘は梵砌(ぼんぜい)の物なればとて、三井寺(みいでら)へこれを献(たてまつ)る」(「太平記2・第十五巻・5・竜宮城の鐘の事・P.449」岩波文庫)

また割れた鐘を蛇が一夜にして修理したという伝説も一緒に書かれている。

「無動寺(むどうじ)の上より、数千丈高き岩の上をころばかしたりける程に、この鐘二つに破(わ)れにけり。『今は何の用にか立つべき』とて、その破れを取り集めて、本寺(ほんじ)へぞ送りける。或る時、一尺ばかりなる小蛇(こへび)一つ来たつて、この鐘を尾にて叩き居たりけるが、一夜の程にまた本(もと)の鐘になつて、疵(きず)付いたる所一つもなかりけり」(「太平記2・第十五巻・5・竜宮城の鐘の事・P.150」岩波文庫)

ところが、一三七〇年頃に完成したとされる「太平記」より二五〇年ほども前の一一二〇年頃にできた「今昔物語」を見ると既に、貧乏な若者が助けた小さな蛇がお礼に宝物を持たせて帰してくれたという説話が掲載されている。

ある日、京の山階の南辺りで蛇取りの男性とばったり出会った貧乏な若者。蛇取りの男性は商売柄、蛇の油を必要としているため蛇を取っただけのことで、商売のための必要上仕方ないのだという。見るとまだまだ小さな小蛇である。そこで貧乏な若者は自分の着ていた「綿衣」(わたぎぬ)と小蛇とを交換して小蛇を元々いた近くの池の中へ戻してやる。しばらくすると「年十二、三許(ばかり)の女の形(かた)ち美麗なる、微妙(みみょう)の衣(きぬ)・袴を着たる、来(きた)り会へり」。そして童女は言う。さきほどの事情をわたしの父母に話すと大変よろこんで、その男性を呼んできなさいとのこと。お迎えに上がりましたと。

「年十二、三許(ばかり)の女の形(かた)ち美麗なる、微妙(みみょう)の衣(きぬ)・袴を着たる、来(きた)り会へり。男此れを見て、山深く此れ値(あ)へれば、奇異也と思ふに、女の云(いわ)く、『我れは、君の心の哀れに喜(うれし)ければ、其の喜(よろこ)び申さむが為(ため)に来(きたれ)る也』と。男の云く、『何事に依(より)て喜びは宣(のたま)はむぞ』と。女の云く、『己(おの)れが命を生(い)け給へるに依(より)て、我れ父母(ぶも)に此の事を語(かたり)つれば、〈速(すみやか)に迎へ申せ。其の喜び申さむ〉と有(あり)つれば、迎(むかえ)に来(きた)れる也』と。男、『此(こ)は有(あり)つる蛇(へみ)か』と思ふ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十五・P.351」岩波文庫)

貧乏男性は怪しげに思いながらも童女に付いていく。少し眠って下さいと言われたので眠る。次に目を開けてくれと言われて目を開けると水中の御殿が広がっていた。そこへ「鬢(びん)長く年六十許(ばかり)なる人」が出迎えていう。「小蛇=童女」の父親のようだ。

「此の人の云く、『世に有る人、子の思(おもい)は更に不知(しら)ぬ事無し。己(おの)れは、子数(あまた)有る中に、弟子(おとご)なる女童(めのわらわ)の、此の昼適(たまた)ま此の渡り近き池に遊び侍(はべり)けるを、極(きわめ)て制し侍れども不聞(きか)ねば、心に任(ま)かせて遊ばせ侍るに、〈今日既(すで)に人に被取(とられ)て可死(しぬべ)かりけるを、其(そこ)の来(きた)り合(あい)て命を生(い)け給へる〉と、此の女子(おんなご)の語り侍れば、無限(かぎりな)く喜(うれし)くて、其の喜(よろこ)び申さむが為(ため)に迎(むかえ)つる也』と。男、『此れは蛇(へみ)の祖(おや)也けり』と心得つ」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十五・P.353」岩波文庫)

贅沢な持てなしを受けた後、「金(こがね)の餅(もちい)」の半分に割ったものを土産に持たされて帰る。必要に応じて使う限り、決して絶えることはないとその父親は請け合う。

「金(こがね)の餅(もちい)一つ有り。厚さ三寸許(ばかり)也。此れを取出(とりいだ)して中(なから)より破(わ)りつ。片破(かたわれ)をば箱に入れつ。今片破(いまかたわれ)を男に与へて云く、『此(これ)を一度に仕(つか)ひ失ふ事無くして、要(よう)に随(したがい)て片端より破(わ)りつつ仕(つか)ひ給はば、命を限(かぎり)にて乏(ともし)き事有(あら)じ』」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十五・P.354」岩波文庫)

ということで貧乏男性は貧乏でなくなり逆に長者となって生涯を終えた。とともに、この男性の死と同時に土産に手渡された宝物も消え失せた。

「此の餅、破れども破れども同じ様に成り合ひつつ有ければ、一生の後(のち)は、其の餅失(う)せて、子に伝ふる事無かりけり」(「今昔物語集・本朝部(上)・巻第十六・第十五・P.355」岩波文庫)

このように蛇を助けた代わりに一代限りの恩義として宝物を手に入れるエピソードは「太平記」の元種として「今昔物語」から引用・アレンジされたものだ。しかし俵藤太の蜈蚣退治のエピソードはまた別に掲載されている。次の機会に述べよう。ここではいったん、通例では見かけることがほとんどない異形・異類の動植物は、しばしば神格化されやすいという事例を上げておこう。

「鮫の一種に撞木鮫(しゆもくざめ)英語でハンマー・ヘッデッド・シャーク(槌頭の鮫)とて頭丁字形を成し両端に目ありすこぶる奇態ながインド洋に多く欧州や本邦の海にも産するのが疑いなくかの佐比神だ、十二年前熊野の勝浦の漁夫がこの鮫を取って船に入れ置き、腓(こむら)を大部分噛み裂(さ)かれ病院へ運ばるるを見た、獰猛な物で形貌奇異だから古人が神としたも無理でない」(南方熊楠「田原藤太竜宮入りの話」『十二支考・上・P.199~120』岩波文庫)

そう熊楠はいっている。

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