或る伝説に注目する熊楠。熊野とは地続きの奈良県大峰山で僧侶が道に迷う。しばらくうろうろしているうちに忽然と「大(おほき)ナル人郷(ひとざと)ニ出(いで)ニケリ」とある。
「今昔(いまはむかし)、仏ノ道ヲ行(おこな)フ僧有ケリ。大峰(おほみね)ト云フ所ヲ通(とほり)ケル間ニ、道ヲ踏違(ふみたがへ)テ、何(いづ)クトモ不思(おぼ)エヌ谷ノ方様(かたざま)ニ行(ゆき)ケル程ニ、大(おほき)ナル人郷(ひとざと)ニ出(いで)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.466」岩波書店)
歩き疲れた僧侶はその郷でともかく飲み水を探してみたところ、たまたま酒が湧き出る泉を発見する。よく見るとやや黄色を帯びている。野ざらしでなく石などを用いて囲いが施されており、村落共同体の共同管理に置かれているようだ。
「其ノ郷ノ中ニ泉有リ。石ナドヲ以て畳(たた)ムデ微妙(めでた)クシテ、上(う)ヘニ屋(や)ヲ造リ覆(おほひ)タリ。僧、此レヲ見テ、此ノ泉ヲ飲(のま)ムト思テ寄タルニ、其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ。『何(いか)ナレバ此ノ泉ハ黄(きば)ミタルニカ有ラム』ト思テ、吉(よ)ク見レバ、此ノ泉、早(はや)ウ、水ニハ非(あら)ズシテ酒ノ湧出(わきいづ)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467」岩波書店)
とはいえ熊楠は科学者であって、世界各地の酒の醸造方法については重々承知である。熊野の山野を見て廻るだけでも自然発酵するケースがあることを知っていた。
「予は熊野の山野でしばしば棕櫚等の切株に柿のごとく赤くて柿が腐ったような臭ある半流動体湧き出づるを見、その標本は現に座右にあり、鏡検して一種または数種の糸菌と黴菌(バクテリア)とが共同生活で醗酵を起こすものと知った」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.261』河出文庫)
この論文の主題は、説話や民話の発生にしばしば霊泉神話が伴うのはなぜか、というものなのであえて古代説話から始めたわけだ。滋賀県にもその種の霊泉神話が残っている。近松門左衛門が上げているのは神社ではなく寺院のケース。
「煉貫水(ねりぬきみず)の大津酒夢々(ゆめゆめ)しうござります」(日本古典文学体系「けいせい反魂香」『近松浄瑠璃集・下・P.136』岩波書店)
近江の歴史書「近江国與地志略」にこうある。
「酒 大津の出す処也。此地の水の性清して柔に、其味淡してよし。故に酒も美味甘美にして、京都の酒に劣らず。造醸すること多しといへり」(「近江国與地志略・九十七」)
また遠く「日本書紀」や「続日本紀」を見ると、近江だけでなく近江と美濃の境の地で酒が湧き出たという霊泉神話が記されている。
「己亥(つちのとのゐのひ)に詔して曰(のたま)はく、『粤(ここ)に七年の歳次癸巳(ほしみづのとのみにやどるとし)を以て、醴泉(こさけのいづみ)、近江国(あふみのくに)の益須郡(やすのこほり)の都賀山(つがやま)に涌(わ)く。諸(もろもろ)の疾病人(やまひびと)、益須寺(やすでら)に停宿(やど)りて、療(をさ)め差(い)ゆる者衆(おほ)し。故(このゆゑ)に水田(こなた)四町(よところ)・布(ぬの)六十端(むそむら)入(い)れよ。益須郡の今年(ことし)の調役(えつき)・雑徭(くさぐさのみゆき)原(ゆる)し除(や)めよ。国司(くにのみこともち)の頭(かみ)より目(さくうわん)に至(いた)るまでに、位一階(ひとしな)進(すす)めしむ。其(そ)の初(はじ)めて醴泉(こさけのいづみ)を験(みしるし)する者葛野羽衝(かどののはつき)・百済土羅羅女(くだらのつららめ)に、人ごとに絁(ふとぎぬ)二匹(ふたむら)・布(ぬの)十端(とむら)・鍬(すき)十口(おわ)賜ふ』とのたまふ」(「日本書紀5・巻第三十・持統天皇八年正月~四月・P298」岩波文庫)
「十一月十七日 天皇は宮殿の端近くまで出られて、次のように詔した。朕は今年九月、美濃国不破の行宮に赴き、数日間逗留した。その時、当耆郡の多度山の美泉を見、手や顔を洗ったところ、肌が滑らかになるようであった。また痛いところを洗うと、痛みが全く除かれてしまった。私の体にとって大きな効き目があった。また聞くところによると、これを飲んだり浴びたりする者は、白髪が黒くなったり、禿げ髪にあらたに生えたり、あるいは見えない眼が見えるようになったという。その他永らくの病気もすべて治ったという」(「続日本紀・巻第七・元明天皇養老元年(七一七)年・P.187~188」講談社学術文庫)
注目したいのは酒が湧き出たとか水が何か他の菌と混ざり合って自然発酵した伝説そのものではなく、「持統天皇」、「元明天皇」、とあるようにどちらもが女性天皇の時代のエピソードとして残されている点である。時代を下って西鶴「好色一代男」の中に次の文章が見える。
「三井の古寺(ふるてら)、つかひ捨(すて)る、かねはあれど、隙(ひま)なくて、終(つい)に柴屋(しばや)町をみぬ事新し、昔(むか)し長柄(ながら)の山の芋が、鰻(うなぎ)になるとや、もしも替(かは)つた事のあればなり、いざゆかん、心得たと、白川橋より、大津(あふつ)への、もどり駕篭に、のつたりや勘六、是は俄(にはか)に、ゆくも帰るも、はや八町に着(つけ)ば、泊(とま)りじや御ざらぬか、廣ふてきれいな、宿(やど)をとりて、なんと女郎衆、今爰(ここ)ではやるは、誰(たれ)じやと問(と)へば、石山の観音様(くはんをんさま)が、時花(はやり)ますといふ、さても人を見立るやつかなと、其後(そののち)、亭主にあふて、傾城町の案内頼むと申せば、是は無用になされ、六刄や七刄では、たらぬといふ」(井原西鶴「好色一代男・卷五・ねがひの掻餅・P.132~133」岩波文庫)
ただ単に「八町」(はっちょう)とあり、同時に「柴屋(しばや)町」は遊郭街としては高級なので「六刄や七刄では」とてもではないが遊べない。と言われても今やその実態はほとんど混同されてしまっていてよくわからない。「近江国與地志略」にはこうある。
「上八町・下八町 あるひは南北を以て呼び、東西を以てよび、其町八町あり。世に大津八町といふはこれなり。この辺旅館にして、往還の旅人をとどむ」(「近江国與地志略・六」)
旅館、茶屋、遊郭などが集まっていたことはわかる。しかしその中で働いていた女性は「芸妓なのか茶屋女なのか遊女なのか」もはや判別できない。
熊楠は「芸妓と茶屋女と遊女を混じて一団として見るようなこと」は研究者の態度として厳に慎まねばならないと言っている。書籍ばかりに頼るのではなく出来る限りフィールドワークして実話に耳を傾ける姿勢の重要さ。それを失ったところではどんな時代考証も不十分に終わってしまう。
ちなみに今の大津市長柄(ながら)から三井寺の辺りが「大津八町」の中心地に当たる。西鶴は江戸時代前半の戯作者だが大津八町は後々まで残り、明治から大正、さらには昭和の第二次世界大戦後も残った。戦前から戦時中にかけて生まれた子供たちは戦後も長柄から逢坂山を京都側へ越えて高台にある藤尾(ふじお)小学校へ通っていた。冬になるととてもではないが関西圏だと信じがたいほど凍てついた寒風が吹き付ける逢坂山をてくてくと歩いて通っていた。八町から通ってくる生徒がいると、男子生徒は別として女子生徒の場合、「あの子ははっちょうから来てる子やで」と変なものでも見るような目で噂する風土が残っていた。京都側に住んでいる女子生徒が大津八町から通ってくる友達の家へ遊びに行った時の様子を話すと「すごく大きな家やった」と思ったという。代々茶漬屋を営んでいた家らしい。そのような当時の女子生徒ももはや八十歳を越えた世代がほとんどで、記憶もあやふやになってきている。さらに子供の頃は「飯盛女」という言葉が残っていて、熊楠が区別に苦労したように、芸妓も茶屋女も遊女も皆「飯盛女」としてごちゃごちゃに混ぜ合わされて子供達の記憶に残されてしまったようだ。そうなるのはそのまた上の世代の大人たちがただ単なる興味本位で「大津八町」を見下ろしていた証拠である。かつて東海道五十三次の終着点・京都三条の一つ手前の宿場町として大いに栄えた大津八町。浮世絵には堂々たる町筋が描かれている。とはいえ今や観光資源としての役割さえ風前の灯というに等しくなっている。しかし柳田國男は書き残している。
「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)
「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)
彼女らの活躍なしに「記紀神話」や「万葉集」編纂時期すでに始まっていた「妹の力」を語ることはできない。にもかかわらず、いつ頃から、どこで、何が理由で、大津八町から通ってくる女子小学生は何か変な目でじろじろ見られ噂されるようになってしまったのだろうか。
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「今昔(いまはむかし)、仏ノ道ヲ行(おこな)フ僧有ケリ。大峰(おほみね)ト云フ所ヲ通(とほり)ケル間ニ、道ヲ踏違(ふみたがへ)テ、何(いづ)クトモ不思(おぼ)エヌ谷ノ方様(かたざま)ニ行(ゆき)ケル程ニ、大(おほき)ナル人郷(ひとざと)ニ出(いで)ニケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.466」岩波書店)
歩き疲れた僧侶はその郷でともかく飲み水を探してみたところ、たまたま酒が湧き出る泉を発見する。よく見るとやや黄色を帯びている。野ざらしでなく石などを用いて囲いが施されており、村落共同体の共同管理に置かれているようだ。
「其ノ郷ノ中ニ泉有リ。石ナドヲ以て畳(たた)ムデ微妙(めでた)クシテ、上(う)ヘニ屋(や)ヲ造リ覆(おほひ)タリ。僧、此レヲ見テ、此ノ泉ヲ飲(のま)ムト思テ寄タルニ、其ノ泉ノ色、頗(すこぶ)ル黄バミタリ。『何(いか)ナレバ此ノ泉ハ黄(きば)ミタルニカ有ラム』ト思テ、吉(よ)ク見レバ、此ノ泉、早(はや)ウ、水ニハ非(あら)ズシテ酒ノ湧出(わきいづ)ル也ケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三十一・第十三・P.467」岩波書店)
とはいえ熊楠は科学者であって、世界各地の酒の醸造方法については重々承知である。熊野の山野を見て廻るだけでも自然発酵するケースがあることを知っていた。
「予は熊野の山野でしばしば棕櫚等の切株に柿のごとく赤くて柿が腐ったような臭ある半流動体湧き出づるを見、その標本は現に座右にあり、鏡検して一種または数種の糸菌と黴菌(バクテリア)とが共同生活で醗酵を起こすものと知った」(南方熊楠「酒泉等の話」『森の思想・P.261』河出文庫)
この論文の主題は、説話や民話の発生にしばしば霊泉神話が伴うのはなぜか、というものなのであえて古代説話から始めたわけだ。滋賀県にもその種の霊泉神話が残っている。近松門左衛門が上げているのは神社ではなく寺院のケース。
「煉貫水(ねりぬきみず)の大津酒夢々(ゆめゆめ)しうござります」(日本古典文学体系「けいせい反魂香」『近松浄瑠璃集・下・P.136』岩波書店)
近江の歴史書「近江国與地志略」にこうある。
「酒 大津の出す処也。此地の水の性清して柔に、其味淡してよし。故に酒も美味甘美にして、京都の酒に劣らず。造醸すること多しといへり」(「近江国與地志略・九十七」)
また遠く「日本書紀」や「続日本紀」を見ると、近江だけでなく近江と美濃の境の地で酒が湧き出たという霊泉神話が記されている。
「己亥(つちのとのゐのひ)に詔して曰(のたま)はく、『粤(ここ)に七年の歳次癸巳(ほしみづのとのみにやどるとし)を以て、醴泉(こさけのいづみ)、近江国(あふみのくに)の益須郡(やすのこほり)の都賀山(つがやま)に涌(わ)く。諸(もろもろ)の疾病人(やまひびと)、益須寺(やすでら)に停宿(やど)りて、療(をさ)め差(い)ゆる者衆(おほ)し。故(このゆゑ)に水田(こなた)四町(よところ)・布(ぬの)六十端(むそむら)入(い)れよ。益須郡の今年(ことし)の調役(えつき)・雑徭(くさぐさのみゆき)原(ゆる)し除(や)めよ。国司(くにのみこともち)の頭(かみ)より目(さくうわん)に至(いた)るまでに、位一階(ひとしな)進(すす)めしむ。其(そ)の初(はじ)めて醴泉(こさけのいづみ)を験(みしるし)する者葛野羽衝(かどののはつき)・百済土羅羅女(くだらのつららめ)に、人ごとに絁(ふとぎぬ)二匹(ふたむら)・布(ぬの)十端(とむら)・鍬(すき)十口(おわ)賜ふ』とのたまふ」(「日本書紀5・巻第三十・持統天皇八年正月~四月・P298」岩波文庫)
「十一月十七日 天皇は宮殿の端近くまで出られて、次のように詔した。朕は今年九月、美濃国不破の行宮に赴き、数日間逗留した。その時、当耆郡の多度山の美泉を見、手や顔を洗ったところ、肌が滑らかになるようであった。また痛いところを洗うと、痛みが全く除かれてしまった。私の体にとって大きな効き目があった。また聞くところによると、これを飲んだり浴びたりする者は、白髪が黒くなったり、禿げ髪にあらたに生えたり、あるいは見えない眼が見えるようになったという。その他永らくの病気もすべて治ったという」(「続日本紀・巻第七・元明天皇養老元年(七一七)年・P.187~188」講談社学術文庫)
注目したいのは酒が湧き出たとか水が何か他の菌と混ざり合って自然発酵した伝説そのものではなく、「持統天皇」、「元明天皇」、とあるようにどちらもが女性天皇の時代のエピソードとして残されている点である。時代を下って西鶴「好色一代男」の中に次の文章が見える。
「三井の古寺(ふるてら)、つかひ捨(すて)る、かねはあれど、隙(ひま)なくて、終(つい)に柴屋(しばや)町をみぬ事新し、昔(むか)し長柄(ながら)の山の芋が、鰻(うなぎ)になるとや、もしも替(かは)つた事のあればなり、いざゆかん、心得たと、白川橋より、大津(あふつ)への、もどり駕篭に、のつたりや勘六、是は俄(にはか)に、ゆくも帰るも、はや八町に着(つけ)ば、泊(とま)りじや御ざらぬか、廣ふてきれいな、宿(やど)をとりて、なんと女郎衆、今爰(ここ)ではやるは、誰(たれ)じやと問(と)へば、石山の観音様(くはんをんさま)が、時花(はやり)ますといふ、さても人を見立るやつかなと、其後(そののち)、亭主にあふて、傾城町の案内頼むと申せば、是は無用になされ、六刄や七刄では、たらぬといふ」(井原西鶴「好色一代男・卷五・ねがひの掻餅・P.132~133」岩波文庫)
ただ単に「八町」(はっちょう)とあり、同時に「柴屋(しばや)町」は遊郭街としては高級なので「六刄や七刄では」とてもではないが遊べない。と言われても今やその実態はほとんど混同されてしまっていてよくわからない。「近江国與地志略」にはこうある。
「上八町・下八町 あるひは南北を以て呼び、東西を以てよび、其町八町あり。世に大津八町といふはこれなり。この辺旅館にして、往還の旅人をとどむ」(「近江国與地志略・六」)
旅館、茶屋、遊郭などが集まっていたことはわかる。しかしその中で働いていた女性は「芸妓なのか茶屋女なのか遊女なのか」もはや判別できない。
熊楠は「芸妓と茶屋女と遊女を混じて一団として見るようなこと」は研究者の態度として厳に慎まねばならないと言っている。書籍ばかりに頼るのではなく出来る限りフィールドワークして実話に耳を傾ける姿勢の重要さ。それを失ったところではどんな時代考証も不十分に終わってしまう。
ちなみに今の大津市長柄(ながら)から三井寺の辺りが「大津八町」の中心地に当たる。西鶴は江戸時代前半の戯作者だが大津八町は後々まで残り、明治から大正、さらには昭和の第二次世界大戦後も残った。戦前から戦時中にかけて生まれた子供たちは戦後も長柄から逢坂山を京都側へ越えて高台にある藤尾(ふじお)小学校へ通っていた。冬になるととてもではないが関西圏だと信じがたいほど凍てついた寒風が吹き付ける逢坂山をてくてくと歩いて通っていた。八町から通ってくる生徒がいると、男子生徒は別として女子生徒の場合、「あの子ははっちょうから来てる子やで」と変なものでも見るような目で噂する風土が残っていた。京都側に住んでいる女子生徒が大津八町から通ってくる友達の家へ遊びに行った時の様子を話すと「すごく大きな家やった」と思ったという。代々茶漬屋を営んでいた家らしい。そのような当時の女子生徒ももはや八十歳を越えた世代がほとんどで、記憶もあやふやになってきている。さらに子供の頃は「飯盛女」という言葉が残っていて、熊楠が区別に苦労したように、芸妓も茶屋女も遊女も皆「飯盛女」としてごちゃごちゃに混ぜ合わされて子供達の記憶に残されてしまったようだ。そうなるのはそのまた上の世代の大人たちがただ単なる興味本位で「大津八町」を見下ろしていた証拠である。かつて東海道五十三次の終着点・京都三条の一つ手前の宿場町として大いに栄えた大津八町。浮世絵には堂々たる町筋が描かれている。とはいえ今や観光資源としての役割さえ風前の灯というに等しくなっている。しかし柳田國男は書き残している。
「酒の生産はもと女性の専業でありました。ーーー醸(かも)すという語の早い形はカムであって、大昔は我々もポリネシア人がカヴを作るように、また沖縄諸島の人が神酒(みき)を製するごとく、清き少女をして噛(か)ませ吐き出さしめたものを、酒として用いていたのであります。酵母が別の方法で得られるようになってからも、女でなくては酒を作ることができなかったのは、何か有形無形の宗教的秘密があったからであります。ーーートジは単にマダムということであって、要するに婦人が造っていた名残であります。宮廷の造酒司(みきのつかさ)などでは神の名も刀自(とじ)、酒をしこんだ大酒甕(さけがめ)の名も刀自で、大昔以来刀自がこれに参与したことを示しています」(柳田國男「女性と民間伝承・刀自の職業」『柳田國男全集10・P.584~586』ちくま文庫)
「酒を売る者は女であります。刀自の酒造りの早くから売るためであったことは、少しも疑いがなかった上に、古くは『日本霊異記』の中にも、すでに女が酒によって富を作った話が出ており、また和泉式部とよく似た諸国の遊行女婦の物語、たとえば加賀の菊酒の根原かと思う仏御前(ほとけごぜん)の後日譚、それから前に半分だけ申した白山(はくさん)の融(とおる)の尼などが、登山を企てて神に許されなかったという話にも、酒を造って往来の人に売ろうとしたことを伝えております」(柳田國男「女性と民間伝承・酒の話」『柳田國男全集10・P.586~587』ちくま文庫)
彼女らの活躍なしに「記紀神話」や「万葉集」編纂時期すでに始まっていた「妹の力」を語ることはできない。にもかかわらず、いつ頃から、どこで、何が理由で、大津八町から通ってくる女子小学生は何か変な目でじろじろ見られ噂されるようになってしまったのだろうか。
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