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白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/死化粧3

2020年11月20日 | 日記・エッセイ・コラム
江戸時代。主人殺しは死刑。だから小吟は捕まりしだい処刑されるわけだが、なおかつ当時は連累制だったので小吟の両親がまず牢屋へ入れられた。

「小吟(こぎん)が出(いづ)るまでは、その親ども蘢舎(ろうしや)」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)

牢の番人は哀れを感じる。子どもの犯罪ゆえ親が処刑されるシステムは法律で決まっているためどうにもできない。せめて今夜ここでの一盛りとばかりに父親に酒を勧める。と、牢番の思いとはまるで違い小吟の父親はしたたかに酔って嘆く様子一つ見せない。

「この者あづかりし役人、不便(ふびん)におもひ、『子ゆゑにかくはなりゆくなり。臨終を覚悟して、又の世を願へ』と、夜もすがら、酒をすすめけるに、この親仁(おやじ)め、機嫌(きげん)よく、さらになげくけしきなし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)

牢番は不可解に思う。処刑される罪人はこれまで何人も見てきた。彼らは自分の悪事について決して口にせずかえって自分の身の不運を嘆いて見せる者ばかりだった。しかしなぜ小吟の父親はそうでないのか。死刑前日にもかかわらず。尋ねてみると答えが返ってきた。小吟の父はいう。俺は七年前のちょうど明日に当たる日、見たこともない大金に目がくらみ、熊野参詣に訪れた出家者を殺してしまった。うすうす観念していましたよ、と。

牢番が聞かされたこの実話がどこから漏れたのか知らない。が、いっぺんに世間の話題になった。殺しは確かに悪事だろうけれど、それにしたって小吟の父親は物事の筋というものを知る男だ、哀れ過ぎると。

「『外(ほか)にも科(とが)ありて、命をとらるる者、我(わ)が悪(あく)はいはで、嘆きしに、汝(なんぢ)の子のかはりに、かかるうき事に』といへば、この者、出家を殺せし因果の程(ほど)をかたりて、『七年目にめぐり、月も日もあすに当たれり。この筈(はず)』と思ひさだめ、観念したる有様(ありさま)、悪(あく)は悪人にして、今この心ざしを、皆々、あはれに感じける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)

世間がどれほど哀感の情を示したとしても、どこにでもぞろぞろいる江戸の大衆の声に耳を傾けているほど幕府は甘くない。予定通り小吟の父は斬首に処された。その話を聞きつけた小吟はとうとう出頭し、彼女もまた斬首された。

「とても遁(の)がれぬ道をいそがせ、首打つての明(あけ)の日、親の様子を聞きて、隠れし身をあらはし出(いで)けるを、そのまま、これもうたれける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.224』小学館)

小吟の役割は終わった。主人殺しの刑罰が死刑並びに連累制なのを最もよく知っていたのは何を隠そう作者・西鶴である。どのような過程を辿ったとしても小吟が逃げ切る手段はあらかじめ断たれている。承知の上でこのような小説を書いた。西鶴の狙いは、よく言われるような戯作者の「反骨精神」を示すことだろうか、もちろん、そうでは《ない》。星の数ほどもある江戸時代の浮世草子(浮世小説)の中に「お金・小銀」という名の童女は幾らも出てくる。一方、熊野の野生、熊野の聖地性は徐々に衰亡していく。記紀神話以前から連綿と伝えられてきた熊野信仰もまた元禄バブルの大騒ぎの中で形骸化していく。その少し前、西鶴は今後失われていくことが目に見えている熊野在来の異形の精神の重要性を、小吟という大人の女性を通して書き残しておく必要性を感じていたことは間違いない。「好色一代女」では性的次元へ遡行することで、あっけなく散ってしまいがちではあるものの、それでもなお周囲の人々の脳裏に強烈に記憶される《力としての女性》を描き切った。その生涯はしかし京都東山の「石垣町、祇園町、八坂社」でほとんど終わる。今の三条通から七条通りの鴨川東側全域をまとめて統合される前の、かつての小さな中学校区内にすっかり収まってしまう。西鶴の作風は今のマスコミ受けするような態度を取ってこない。だからこそ「男色大鑑」(なんしょくおおかがみ)という今なお西鶴作品において世界中で最も評価の高い作品を仕上げることができた。日本では「異色作」、ところが世界の文学界ではそれこそ「代表作」だ。熊楠の眼に狂いはなかったのである。

そんな熊楠。解剖学用語「大網膜」(だいもうまく)について、そこから発生した迷信のあれこれを追っている。大網膜は胎児の頭を覆う羊膜のこと。英語で“caul”と表記する。ところが熊楠の論考はまさしく劇的リゾーム状を呈している。説話としては何と「ヒョウタケ」と繋がるのだから。

「カウルは時として児の頭を裹んで生まるる小膜にして、父母交会の際常軌に外れたることあるより生ずるらしし。かくて生まるる児は幸運あり。俗説にはこれを買い持つ人は危禍を免るという。ーーー豹蕈(ひようたけ)など申す菌がaより開裂してcとなるとき、全く外被層を脱し出づるは稀にて、幾分かdのごとく外被層多少の断片をかぶり出づるなり。ブラウンの説はこの通りの意味なり。これ最内層被の靱性強過ぎるか、児の脱被力弱きかの致すところなり、と。レムニウス説に、この膜赤きはその児吉、黒きはその児凶を示す、と。ルジマン説に、スコットランドにては婦女これをholy or sely how(holy or fortunate cap or hood 帽子)という。これを冒って生まれたる人の安否を知り得。その人生きおる間は堅固に槢襞(ひだ)あれど、病みまた死するときはたちまち柔(やわ)く寛(ゆる)くなる、と。ギアネリウス説に、愚人あり、その児これを冒って生まれたるを見、これ必ずかような帽子を冒って来る法師が自分の妻を姦して孕ませたるなりと怒り、その僧を殺さんとせり、と。一説にカウルを持つもの、これを失えば幸運も失せ去り、これを拾い獲しものに移る、と。けだし、この物医薬の妙効あるのみならず、これを持たば水に溺るることなしというゆえに、時々新聞へ広告出で、船頭等争うてこれを求む、と。またこれを持たば弁舌よくなるとて、産婆がこれを取り弁護師に売ることあり」(南方熊楠「カウルとヒョウタケ」『森の思想・P.341~343』河出文庫)

医薬品として買い手が殺到した。日本列島のみならず探してみると世界各地に同様の説話が点在している。雄弁になること間違いなしというキャッチコピーは弁護士を引きつけた。“caul”はどこで手に入るか。産婆の手元である。それはそれとして、産婆は出産現場で生まれてくる小児を取り上げる。が、言葉がなまって「子取り」と混同されるに至った。柳田國男はいう。

「神戸市ではこれをカクレババという者がある。小児は夕方に隠れんぼをすることを戒められる。路次の隅や家の行きつまりなどに、隠れ婆というのがいてつかまえて行くからという。島根県その他ではこれをコトリゾといっていた。子取りは本来は産婆のことだが、夙(はや)くそういう名をもってこの妖怪を呼んだのである」(柳田國男「妖怪談義・五」『柳田國男全集6・P.22』ちくま文庫)

なぜ妖怪か。産婆は高齢女性が多かった。要するにここでも人々の生死を仕切っているのは山姥(やまんば)なのだ。さらに柳田は、この種の説話を全国各地へ流通させた「比丘尼」や「子取婆」に注目する。

「昨年中私のしていた仕事は、地方の言葉の驚くべき異同に心づいて、その現象が如何にして起ったかを尋ねて見ることと、今一つはこれも子供みたようなことだが、昔話があまり広範に全国の隅々まで一致して居るのを見て、誰が此様なものをかくも丹念に、遠くまで運んであるいたのかを知ろうとすることであった。どこにも日本人が居るのだから当り前の話だと、言ってもしまわれないのは、近世の特徴が多く入って居ることで、人が移住してしまってからずっと後に、荷造りして届けて来たらしい形跡が有ったからである。それで一つ一つの説話の用途や形態を考察して、まずその中に男のした話と、女物とが有るらしいことを考え出した。それから段々に見て行くうちに、比丘尼や子取婆などの知っていたものかと思う分と、盲人でなければ話すまいと思う話とが、見分けられるような気がした」(柳田國男「口承文藝史考・文藝とフォクロア・二」『柳田國男集・第六巻・P.147~148』筑摩書房)

彼らはただ単に絵解きだけで勧進したわけではない。流通=運輸業者をも兼ねた。場所移動そのものから新しい価値が生まれるのである。商品価値が変わるという古典的な意味でだけでなく、場所移動によってニーチェのいう意味での《別様の方法》が出現する。マルクス「資本論」にしても場所移動によってまったく新しい読みが出現したことは一九六〇年代後半から一九八〇年代一杯をかけて世界を席巻した構造主義・ポスト構造主義の大流行が示した通りである。

「運輸業が売るものは、場所を変えること自体である。生みだされる有用効果は、運輸過程すなわち運輸業の生産過程と不可分に結びつけられている。人や商品は運輸手段といっしょに旅をする。そして、運輸手段の旅、その場所的運動こそは、運輸手段によってひき起こされる生産過程なのである。その有用効果は、生産過程と同時にしか消費されえない。それは、この過程とは別な使用物として存在するのではない。すなわち、生産されてからはじめて取引物品として機能し商品として流通するような使用物として存在するのではない。しかし、この有用効果の交換価値は、他のどの商品の交換価値とも同じに、その有用効果のために消費された生産要素(労働力と生産手段)の価値・プラス・運輸業に従事する労働者の剰余労働がつくりだした剰余価値によって規定されている。この有用労働は、その消費についても、他の商品とまったく同じである。それが個人的に消費されれば、その価値は消費と同時になくなってしまう。それが生産的に消費されて、それ自身が輸送中の商品の一つの生産段階であるならば、その価値は追加価値としてその商品そのものに移される」(マルクス「資本論・第二部・第一篇・第一章・P.98~99」国民文庫)

ちなみに「瞽女」(ごぜ)は女性の盲人芸能者のこと。

「全体に日本は語りごとを職とする者が、法師とか比丘尼とかその種類の数多い国であったが、その中でも一番活発に、長く働いていたのが瞽女と座頭であった。幸か不幸か盲人には仕事の多い国であった。彼等の特徴はその専心の暗記力によって、長い時間一座をもてなすことの出来たのと、師弟の恩誼によって団結の力を養うことがたやすかったことであったろう」(柳田國男「口承文藝史考・口承文藝とは何か・二十四」『柳田國男集・第六巻・P.47』筑摩書房)

さらに女性の盲人芸能者による歌舞音曲の発展はコーカサス地方でも見られると熊楠は紹介している。

「瞽者が琵琶ひくこと、また『平家物語』様のものをかたり士気を鼓舞することは、蒙古および西亜の高迦索(カフカス)辺にも有之(これあり)」(南方熊楠「無鳥郷の伏翼、日本人の世界研究者、その他」『南方民俗学・P.465』河出文庫)

思いのほか世界は広かったのである。

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熊楠による熊野案内/死化粧2

2020年11月19日 | 日記・エッセイ・コラム
家に置いていては持て余すばかりの小吟。父母が途方に暮れていると小吟みずから手っ取り早く結婚相手を見つけてきた。「契約の酒事(さかごと)」を済ませる。婚約決定。周囲がほっとしたのも束の間、相手の耳にほとんど見えないほどの「出来物(できもの)の跡」があるのを理由に「和歌山(わかやま)の姥(うば)のかたへ」逃走した。「出来物(できもの)の跡」は取ってつけた言い訳に過ぎない。小吟の狙いは和歌山に出ることだ。というのは和歌山は当時、紀州徳川家の城下町だったからだ。女性の側から言い出した結納。それを済ませたにもかかわらず、さらに女性の側から一方的に婚約破棄するという手段。「結納後の男憎み」というのはタブーであり、婿殿のメンツを立てるために女性側の家族は村落共同体から娘をそのまま村に置いておくわけにはいかないのが通例だった。小吟が目を付けたのはその風習である。窮屈な「熊野の山家(やまが)」から追放してもらうことが狙いだったとすればこれ以上ないほど徹底的に郷里の父母に恥をかかせる必要があった。

「契約の酒事(さかごと)まで済みてのち、この男の耳の根に、見ゆる程(ほど)にもなき出来物(できもの)の跡をきらひ、和歌山(わかやま)の姥(うば)のかたへ、逃げ行きしを、所に置きかね、屋敷方(がた)の腰元(こしもと)づかひに、遣(つか)はしける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.222』小学館)

周囲は小吟の思う壺である。追放された小吟には居場所がない。かといって見殺しにはできない。となると、武家屋敷の「腰元(こしもと)づかひ」(女中)あたりが穏当な処置ではないか。昼なお幽遠な熊野土着の艶女・小吟は、女の弱みにつけ込むばかりか金銭に目がなく、何かといえば女房子供らに当たり散らしている馬鹿馬鹿しい男どもの忌々しい摩羅(まら)を腰が立たぬほど総なめにした後、今度は紀州徳川家の城下町一帯を視野に入れる。腰元の身分でさっそく主人の体を奪って見せた。とはいえ、武家の主人というのはしょっちゅう女中・下女に手を出しては遊び暮らしている者が多かった。この主人もそうだ。いとも容易に小吟の手に落ちた。

「その身、いたづらなれば、奥様の手前を憚(はばか)らず、旦那(だんな)に戯(たはぶ)れを仕かけて、いつとなく、我(わ)が物になしける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.222』小学館)

主人は武士。その奥様は「武士の息女」である。腰元風情に旦那を寝取られたからといって単純な考えでかんかんになって取り乱すような平民並みの振る舞いはできない。夜の寝室でやんわり夫を諫め諭す。武士身分という大看板があるだろうと。そんな態度で良いのですかと。旦那はふと我に帰る。紀州徳川家の膝下で何をやっていたのかと。それ以降、主人は小吟との関係をぷっつり絶ってしまった。小吟は思う。武士であるにもかかわらず武士《身分》が惜しいのか。かび臭い山奥の風習と同じだな。だらしがない。愚図だ。それなら武士《身分》と「武士の息女」たる奥様とを天秤にかけてみてはどうか。面白いと思うが。

しかし、原文には「奥様をふかく恨み」とある。ところが奥様の仕業に執着して、あるいは嫉妬のあまり復讐しようとするわけでは全然ない。ただそれだけのことならどこにでもごろごろ転がっている二流三流の草子(小説)であってわざわざ西鶴みずから筆を取ったこと自体が逆に不可解な問いになってくる。ここで西鶴が出してきた「恨み」は復讐ではないのであって、言い換えれば奉公している武家屋敷に蔓延している「俗物性」に対する殺戮宣告というに等しい。一方で男性を俗物化する女性がおり、もう一方で女性を俗物化する男性がいる。そしてそのような風習が世の中を支配している。例の小判百両の顛末が何よりの証拠だ。なるほど小吟は熊野の山家(やまが)の育ちだ。ゆえに繁栄している城下町に出現するやますます明確に見えるものがある。「下賤・卑俗・劣悪」なものとは一体何かと。ともかく主人の夫人を殺さなければならない。天秤にかけるとはそういうことだ。どちらに傾くか。武士身分の主人が見なければならないのはそれだ。小吟は夜勤が席を空けている時間帯を見計らい、夫人の心臓を「御守刀(おんまもりがたな)」で突き刺す。夫人は長刀(なぎなた)で抵抗するが、見るみるうちに虫の息となり死ぬ。

「小吟(こぎん)、奥様をふかく恨み、ある夜(よ)、御番(ごばん)の留守(るす)を見合はせ、御寝姿(ねすがた)の、夢の枕(まくら)もとに立ち寄り、御守刀(おんまもりがたな)にして、心臓(こころもと)をさし通しければ、おどろき給ひ、『おのれ遁(の)がさじ』と、長刀(なぎなた)の鞘(さや)はづして、広庭(ひろには)まで、追ひかけ給へども、かねて、抜け道こしらへおき、行方(ゆきがた)しらずなりにき。色々、御身(おんみ)を揉(も)み給へども、深手なれば、よわらせ給ひ、『小吟(こぎん)めを打ちとめよ』と、二声三声めよりかすかに、はや命はなかりき」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.223』小学館)

小吟が体現しているのは野生である。小吟はいつも「野生の思考」で考える。野獣の感性を失っていない。さらに用意周到だ。「かねて、抜け道こしらへおき」とある。ちなみに「太平記」に登場する熊野軍の描写を見ておこう。他の軍勢の武装様式と比べると、熊楠のいうように、随分異様だ。

「ここに、黒皮の大荒目(おおあらめ)の鎧、同じ毛の五枚冑(ごまいかぶと)に、指の先まで鏁(くさり)たる小手(こて)、臑当(すねあて)、半首(はつぶり)、涎懸(よだれかけ)、透(す)き間(ま)もなく裏(つつ)みたる一様(いちよう)なる武者、賾(おぎ)ろ事柄(ことがら)、誠(まこと)に尋常(よのつね)の兵どもの出で立つたる風情(ふぜい)を替へて、物の用に立ちぬと見えければ、高豊前守(こうのぶぜんのかみ)、悦(よろこ)び思(おも)ふ事斜(なの)めならず。やがて対面して、合戦の異見を訪(たず)ね問ひければ、湯浅庄司(ゆあさのしょうじ)、殊更(ことさら)前(すす)み出(い)でて申しけるは、『紀伊国(きのくに)そだちの者どもは、少(おさな)くより悪処岩石(あくしょがんせき)に習ひて、鷹を仕(つか)ひ、狩りを旨(むね)と仕(つかまつ)る者にて候ふ間、馬の通(かよ)はぬ程の嶮岨(けんそ)をも、平地(ひらち)の如くに存ずるにて候ふ。ましてや申し候はん、この山なんどを見て、難所なりと思ふ事は、露(つゆ)っばかりも候ふまじ。威毛(おどしげ)こそよくも候はねども、自ら撓(た)め拵(こしら)へて候ふ物具(もののぐ)をば、いかなる筑紫八郎殿(つくしのはちろうどの)も、左右(そう)なく裏かかする程の事は、よも候はじ。将軍の御大事、ただこの時にて候へば、われら武士の矢面(やおもて)に立つて、敵の矢を射ば、物具にて請(う)け留(と)め、斬らば、その太刀、長刀(なぎなた)に取り付けて、敵の中へ破(わ)り入(い)る程ならば、いかなる新田殿(にったどの)も、やはか怺(こら)へられ候ふ』と、傍若無人(ぼうじゃくぶじん)に申しければ、聞く人見る人、いづれも偏執(へんじゅう)の思ひをなさず、さぞあらんと見たりけり」(「太平記3・第十七巻・2・熊野勢軍の事・P.123~124」岩波文庫)

小吟はそのような風土の中から忽然と出現した。西鶴によって「見出された」わけだ。ニーチェはいう。

「これこそは《責任》の系譜の長い歴史である。約束をなしうる動物を育て上げるというあの課題のうちには、われわれがすでに理解したように、その条件や準備として、人間をまずある程度まで必然的な、一様な、同等者の間で同等な、規則的な、従って算定しうべきものに《する》という一層手近な課題が含まれている。私が『風習の道徳』と呼んだあの巨怪な作業ーーー人間種族の最も長い期間に人間が自己自身に加えてきた本来の作業、すなわち人間の《前史的》作業の全体は、たといどれほど多くの冷酷と暴圧と鈍重と痴愚とを内に含んでいるにもせよ、ここにおいて意義を与えられ、堂々たる名分を獲得する。人間は風習の道徳と社会の緊衣との助けによって、実際に算定しうべきものに《された》」(ニーチェ「道徳の系譜・第二論文・P.64」岩波文庫)

ニーチェは「算定しうべきものに《された》」人間の悲惨さについて大いに語っている。その意味で小吟は、「算定され《ない》女性」としてふわりと降り立った。ニーチェ=フーコーに言わせれば、生きる《算定不可能性》として現われたと言うに違いない。それぞれに異なる人々はなぜ「算定しうべきものに《された》」か。刑罰を与えるために都合がよいからである。誰もかれも「同じ人間」だということにしてしまえば後は言動の質を量の大小へ転化するだけで刑罰体系を整えることができる。例えば、近代ヨーロッパでは、すべての人々が「算定しうべきものに《された》」ため、それまではあらゆる「狂人」に多かれ少なかれ与えられていた「聖性」が奪われた。

子殺しや姥捨が日常茶飯事だった江戸時代。小吟は自分で自分自身のことを「大人」によって守られるべき「子供」だなどとはまるで思っていない。大人だとも思っていない。というのも「大人/子供」の分割がなされたのは明治近代になってからのことに過ぎないからである。小吟は突如熊野から舞い降りた女性として、小吟の行くところ、ただひたすら太古の野生の反復を見ないわけにはいかない。

さて熊楠。魂が出たり入ったりする「迷信」について、また何か見つけたようだ。

「大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)自殺して三日なるに、みずから髪を解き屍に跨り三呼せしに、太子蘇り、用談を果たして薨じたまえる由を載す。ただし、魂を結び留めしこと見えず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.264』河出文庫)

該当箇所は「日本書紀」の次の部分。

「太子(ひつぎのみこ)の曰(のたま)はく、『我、兄王(このかみのきみ)の志(みこころざし)を奪う(うば)ふべからざることを知(し)れり。豈(あに)久(ひさ)しく生(い)きて、天下(あめのした)を煩(わづらは)さむや』とのたまひて、乃ち自(みづか)ら死(をは)りたまひぬ。時に大鷦鷯尊、大志、薨(かむさ)りたまひぬと聞(きこ)して、驚(おどろ)きて、難波より馳(は)せて、菟道宮に到(いた)ります。爰(ここ)に太子、薨りまして三日(みか)に経(な)りぬ。時に大鷦鷯尊、摽擗(みむねをう)ち叫(おら)び哭(な)きたまひて、所如知(せむすべし)らず。乃ち髪(みぐし)を解(と)き屍(かばね)に跨(またが)りて、三(み)たび呼(よ)びて曰(のたま)はく、『我(わ)が弟(おと)の皇子(みこ)』とのたまふ。乃(すなは)ち応時(たちまち)にして活(いき)でたまひぬ。自(みづか)ら起(お)きて居(ま)します。爰(ここ)に大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)、太子(ひつぎのみこ)に語(かた)りて曰(のたま)はく、『悲(かな)しきかも、惜(を)しきかも。何(なに)の所以(ゆゑ)にか自ら逝(す)ぎます。若(も)し死(をは)りぬる者(ひと)、知(さとり)有(あ)らば、先帝(さきのみかど)、我(やつかれ)を何請(いかがおもほ)さむや』とおんたまふ。乃ち太子、兄王(あにのみこ)に啓(まう)して曰(まう)したまはく、『天命(いのちのかぎり)なり。誰(たれ)か能(よ)く留(とど)めむ。若し天皇(すめらみこと)の御所(おほみもと)に向(まうでいた)ること有(あ)らば、具(つぶさ)に兄王の聖(ひじり)にして、且(しばしば)譲(ゆづ)りますこと有(ま)しませることを奏(まう)さむ。然(しか)るに聖王(ひじりのみこ)、我(われ)死(を)へたりと聞(きこ)しめして、遠路(とほきみち)を急(いそ)ぎ馳(い)でませり。豈(あに)労(ねぎら)ひたてまつること無(な)きこと得(え)むや』とまうしたまひて、乃ち同母妹(いろも)八田皇女(やたのひめみこ)を進(たてまつ)りて曰(のたま)はく、『納采(あと)ふるに足(た)らずと雖(いへど)も、僅(わづか)に掖庭(うちつのみや)の数(かず)に充(つか)ひたまへ』とのたまふ。乃ち且(また)棺(ひとき)に伏(ふ)して薨(かむさ)りましぬ」(「日本書紀2・巻第十一・仁徳天皇即位前紀・P.230~232」岩波文庫)

デンマーク、ウェールズ、ギリシア、と類似の伝説を順に追ってきた後に引用されている。

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熊楠による熊野案内/死化粧1

2020年11月18日 | 日記・エッセイ・コラム
熊野参詣の帰り。或る僧侶が「山々の難所(なんじよ)を越え、漸々(やうやう)、麓(ふもと)に」下りてきた。といってもまだまだ辺鄙な山里である。「雪こんこんや、丸雪(あられ)こんこん」と、里の子どもらの声が聞こえる。僧侶はそちらへ歩いていき「人家はまだ遠いだろうか」とたずねた。一晩なりとも休憩させてもらうつもりである。が、熊野の山岳地帯を下りてきたばかりの僧侶姿が不気味に見えたのか子どもらはいっぺんに逃げ帰ってしまった。しかしたった一人、小吟(こぎん)という娘が残り、声を掛けてくれた。九歳だが「長(おと)なしく」(大人びて)見える。もう少し歩けますか。そうしたらわたしの家があります。風呂で体を休めていかれてはいかがですか、と申し出る。

「今少し行けば、我(わ)がかたなり。湯をも進(まゐ)らすべし」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.219』小学館)

小吟の両親はささやかながら僧侶をもてなす。出家した理由は両親を亡くしたのをきっかけに、その死後の供養のため諸国巡礼していると。だからまたお会いできるかもしれませんと礼を述べて夜明け前に立ち去った。その姿を見届けて小吟は両親にささやく。さっきの僧は革の財布に大量の小判を持っているようです。こんな雪の道中、しばらくは誰も見ている者はいないはず。殺すのも手かと。

「今の坊様(ぼんさま)は、風呂敷包(ふろしきづつみ)の中に、小判のかさたかく、革袋(かはぶくろ)に入れさせ給ふを見付けたり。おひとりなれば、人のしる事にもあらず。殺して金を取り給へ」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.220』小学館)

もっとも、小吟の言葉が出る前に両親の胸のうちに殺しの観念はない。両親の欲望は小吟の言葉とともに出現したという点に注意しておこう。人間の欲望を出現させるのはいつも言語である。ただ、鄙びた「熊野の山家(やまが)」で暮らす女子児童がなぜ小判の意味を知っていたかは謎だ。

「殊更(ことさら)、熊野の山家(やまが)なれば、干鯛(ひだい)も木になる物やら、傘(からかさ)も何のためになる物をもしらざる所に、小判といふ物、見しりけるも不思議なり」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.220』小学館)

歩く欲望と化した小吟の父は僧侶襲撃に赴く。僧侶はいう。もはや出家の身なので命を惜しいとは思わない。しかし普段の生活に何か不自由があって金銭に困っているというのであれば、小判百両があるので命の代りに惜しむことなく差し出そう。小吟の父は言葉を返す。「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ」。言うや否や僧侶の脇腹を鑓(やり)で貫き通して金を奪う。旅の僧侶は「おのれ、この一念、幾程(いくほど)かあるべし、口をしや」と言い残して死んだ。お前さんもいずれ死ぬ身であるのにましてや僧侶に手をかけて路銀を奪った。のちの呪いを楽しみにしておけと。

「『我出家の身なれば、命をしきにあらず。しかれども、何の意趣ありて、かく害し給ふぞ。路銀を取るべき望みあらば、命にかへてをしまじ』と、小判百両、ありのままに抛出(なげいだ)せば、これを請(う)け取り、『銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ』と、脇腹(わきばら)をさし通せば、困(くる)しき声をあげ、『おのれ、この一念、幾程(いくほど)かあるべし、口をしや』」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.221』小学館)

小吟の父は僧が川辺に倒れたところを止めの一撃で刺し貫き、死骸を川の藻の下に隠して去った。手に入れた百両を用い、村落共同購入でない単独の牛を飼い、田畑も買った。そして綿花がなる頃や米の収穫の秋には有り余るほどの金が転がり込んでくるようになった。殺害されたのは僧侶だが、琵琶法師・座頭などの盲人も熊野三山への勧進を解いて全国を廻った。僧侶殺しと同じく座頭殺しはより一層罪が重いとされた。

五年が過ぎて小吟は十四歳。美貌に育ち山村の若い男らを手玉に取って遊びまくるようになる。なお、本文に「桜色なる顔を作れば」とあるのは、素顔でも十分魅力的に見えるのに、さらに化粧すること。また化粧の色を桜色に似せたとは必ずしも限らない。

小吟の両親はだんだん気が気でなくなる。熊野の山里で男遊びに惚けている年頃の娘の親としては外聞をはばかるのは当然だろう。諫めようと注意すると小吟はいう。

「この富貴は、自(みづか)らが智恵(ちゑ)付けて、箇様(かやう)になりける」(日本古典文学全集「本朝二十不孝・巻二・旅行の暮の僧にて候」『井原西鶴集2・P.221~222』小学館)

直訳すれば「裕福な暮らしができるのは誰の知恵のおかげか」となるわけだが、小吟がほのめかしているのはずばり貨幣の力である。小吟は自分自身の知恵を誇っているように見えるけれども、実のところ小吟は、小判百両に目がくらんで殺人まで平気で犯して辺りはばからない自分の両親自身を軽蔑しないではいられないわけだ。小吟はもはや金と男なしでは生きていけない女になっていく。かつての僧侶殺害に際して「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世と思へ」、と言い放った小吟の父の言葉がここで大きく響いている。

一方、明治時代になり近代国家の仲間入りを果たした日本。輸入したばかりの資本主義の創成期に当たる。その当時は見知らぬ他人を殺害して金銭を得られない場合、明治維新以前から別の方法でこっそり行われていた殺人が表面化したばかりか大量続発するようになった。子殺しである。

「三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で伐(き)り殺したことがあった。女房はとくに死んで、後には十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰って来て、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻って来て、飢えきっている小さい者の顔も見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。眼がさめてみると、小屋の口いっぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りの処にしゃがんで、しきりに何かしているので、傍へ行ってみたら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(みが)いていた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむ)けに寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落としてしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出て来たのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んでみたことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持の底で蝕(むし)ばみ朽ちつつあるであろう」(柳田國男「山の人生・山に埋もれたる人生ある事」『柳田國男全集4・P.81~82』ちくま文庫)

急速に深刻になってくる柳田とは対照的に熊楠は、一九一二年(大正一年)、相変わらず学術研究者であって、人間の「魂」が身体を出たり入ったりする「迷信」について論じたりしていた。熊楠ははっきり「迷信」としている。が、なぜそのような迷信が定着するに至ったのか「伊勢物語」から次の和歌を引いている。

「思いあまり出(い)でにし魂(たま)のあるならむ夜深く見えば魂むすびせよ」(新潮日本古典修正「伊勢物語・百十・在原業平・P.126」新潮社)

熊楠がわざわざ「魂むすび」と書かれた歌を引いているのにはもちろん理由がある。二〇二〇年の今なお「地鎮祭」を行わないでいられないのはなぜか。人間はどうしてこうも原始時代の信仰を持ち続けたがるのか。良い悪いは問題外だ。一方に高度テクノロジーへの意志があり、もう一方で原始的アニミズムを捨て去ることができない人間という生物。

なお、香港民主化運動について、ではなく、日本のマスコミ報道におけるその取り上げ方について。周庭氏は日本のアニメや漫画がとても好きなようだが周庭氏自身はアニメキャラではない。歴然たる政治運動家である。民主化運動が再び激化すると香港警察は非常事態宣言を出す。すると中国人民解放軍が軍事介入してくる。その動きに合わせて米軍はより一層中国に近づく。日米安保条約があるため日本政府も米軍に同調する。しかしそうすればするほど日本は中国経済圏から一歩遠のくことを意味する。とりわけ中小企業はさらなる危機的状況へ叩き込まれる。その間、激化の一途を辿っている東欧やバルカン、アフリカの紛争地帯に関する報道はますます手薄になる。なかでも最も不明瞭になるのはアメリカ合衆国の実状そのものだ。東京五輪も日に日に怪しい。政府与党が選挙対策のために流用したとされる金の出所はまだ追求されきっていない。もともとは税金なのだが。と、そこで周庭氏のアニメキャラ化を始めた日本のマスコミ。「銀(かね)が敵(かたき)となる浮世」。

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熊楠による熊野案内/聖(ひじり)の条件・身代り交換可能性

2020年11月17日 | 日記・エッセイ・コラム
源氏物語にある通り、光源氏は「わらわ病」を患ったことがある。俗にいう「瘧(おこり)」。マラリアの一種に分類される。そこで京の「北山」に「かしこきおこなひ人侍る」と聞いて訪ねてみることにする。

「北山になむなにがし寺といふ所にかしこきおこなひ人侍る」(新日本古典文学大系「若紫」『源氏物語1・P.152』岩波書店)

描写から推定すると「かしこきおこなひ人」は「聖(ひじり)」として信奉されているようだ。本文にも「聖(ひじり)」とある。

「やや深(ふか)う入(い)る所なりけり。三月のつごもりなれば、京の花盛(ざか)りはみな過(す)ぎにけり、山(やま)の桜(さくら)はまだ盛(さか)りにて、入(い)りもておはするままに、霞(かすみ)のたたずまひもをかしう見(み)ゆれば、かかるありさまもならひ給はず、ところせき御身にて、めづらしうおぼされけり。寺のさまもいとあはれなり。峰高(みねたか)く深(ふか)き岩(いは)の中にぞ聖(ひじり)入(い)りゐたりける」(新日本古典文学大系「若紫」『源氏物語1・P.152』岩波書店)

北山の奥深く。「峰高(みねたか)く深(ふか)き岩(いは)の中」に聖はいた。聖はいつもそのような場に出現する。仏教者として始めたのかもしれないが、年月を経るうちに修験者に近い聖者と化した。そう言えるかもしれない。比丘尼は女性だが夫がいることは柳田國男が述べている。

「歌比丘尼の本国は熊野であったと申します。中には旅先で弟子を取り、または町中に住居を定めた者も多かったようですが、少なくとも年に一度は、還るといって熊野に往復しました。媚(こび)をひさぐような境遇に落ちた比丘尼までが、熊野の牛王札(ごおうふだ)を売ると称して男の中に出入りし、箱には酢貝(すがい)という貝殻を入れて、土産と名づけて得意の家へ贈ったことが西鶴の小説などにあります。どうして熊野にばかり、このような特殊な職業婦人をたくさんに産するに至ったかはむつかしい問題ですが、本来この偏卑(へんぴ)な土地の信仰が、一時日本の隅々までも普及したのは、最初から神人の旅行ということが要素であったからで、永くその状態を続けていれば、後には故郷に不用なる人が多くなり、何としてなりとも外で生計を立てることが必要になったことかと思います。多くの熊野比丘尼には配偶者がいて、たいていは修験者(しゅげんじゃ)でありました。女の供給によって一山富むとさえいっていますが、彼等が正当の収入は遊芸の報酬ではなく、普通には勧進(かんじん)と称して、人に喜捨を勧めたのであります。神の社、仏の社、それから橋や山道の改修までも勧進し、後には伊勢の神宮の地にも来て住んで、ある時には大廟(だいびょう)造営のためにも働いています。こういう目的の比丘尼たちが国々をあるく場合に、歌にして聴かせた物語の種類が、一種や二種に限られていなかったのは、むしろ当然のことかと思います」(柳田國男「女性と民間伝承・熊野比丘尼」『柳田國男全集10・P.466~467』ちくま文庫)

比丘尼は勢力的に勧進を行った。

「艫(とも)に、年(とし)がまへなる親仁(おやじ)、居(ゐ)ながら、楫(かぢ)とりて、比丘尼(びくに)は、大かた、浅黄(あさぎ)の木綿布子(もめんぬのこ)に、竜門(りうもん)の中幅帯(ちうはばおび)、まへむすびにして、黒羽二重(くろはぶたへ)の、あたまがくし、深江(ふかゑ)の、お七ざしの加賀笠(かががさ)、うねたび、はかぬといふ事なし、絹(きぬ)のふたのの、すそみじかく、とりなり、ひとつに拵(こしら)へ、文臺(ぶんだい)に入れしは、熊野(くまの)の牛王(ごわう)、酢貝(すがい)、耳(みみ)がしましき四つ竹、小比丘尼(こびくに)に、定(さだ)まりての、一升(せう)びしやく、勧進(くはんじん)といふ声(こゑ)も、引(ひき)きらず、はやり節(ぶし)をうたひ、それに気(き)を取(と)り、外(ほか)より見るも、かまはず、元(もと)ぶねに乗(の)り移(うつ)り、分立(わけた)てて後(のち)、百つなぎの銭(ぜに)を、袂(たもと)へなげ入れけるも、おかし、あるはまた、割木(わりき)を、其あたひに取り、又は、さし鯖(さば)にも替(か)へ、同じ流(なが)れとはいひながら、是を思へば、すぐれて、さもしき業(わざ)なれども、昔日(そのかみ)より、此所(ところ)に目馴れて、おかしからず、人の行(ゆ)くすゑは、更(さら)にしれぬものぞ、我もいつとなく、いたづらの数(かず)つくして、今惜(お)しき黒髪(くろかみ)を剃(そ)りて、高津(たかつ)の宮(みや)の北(きた)にあたり、高原(たかはら)といへる町(まち)に、軒(のき)は笹(ささ)に葺(ふ)きて、幽(かすか)なる奥(おく)に、此道(みち)に身(み)をふれし、おりやうをたのみ、勤(つと)めてかくも、浅(あさ)ましく、なるものかな、雨(あめ)の日、嵐(あらし)のふく日にも、ゆるさず、かうした、あたま役(やく)に、白米(はくまい)一升(せう)に、銭(ぜに)五十、それより、しもづかたの、子(こ)共にも、定(さだ)めて、五合づつ、毎日(まいにち)、取(と)られければ、をのづと、いやしくなりて、むかしは、かかる事には、あらざりしに、近年(きんねん)、遊女(ゆうぢよ)のごとくなりぬ」(井原西鶴「調謔哥船(たはふれのうたぶね)」『好色一代女・卷三・P.107~111』岩波文庫)

声が出なくなるほど歌を歌い、精一杯勧進して諸国を廻った。

「熊野びくにが、身の一大事の地ごく極楽の絵図を拝ませ、又は息(いき)の根のつづくほどはやりうたをうたひ、勧進(くはんじん)をすれども、腰(こし)にさしたる一升びしやくに一盃(ぱい)はもらひかねける」(井原西鶴「才覚のぢくすだれ」『世間胸算用・巻五・P.147』角川文庫)

夫は何をしていたのか。比丘尼の夫はただ単純に比丘(びく)という。比丘(びく)は時として聖(ひじり)と呼ばれる。要するに、比丘(びく)の中で頭角を現わしてきた人物を指して周囲の人々は必然的に聖(ひじり)と呼んで崇め奉るようになる。単なる比丘(びく)が聖(ひじり)と化す条件とは何か。「今昔物語」に次の説話が載っている。

かつて近江国の三井寺に智興という高僧がいた。智興が聖になったわけではない。高僧はすでに押しも押されもしない地位にあった。問題はその弟子の一人である。智興が重病を患った時、なぜかはわからないが陰陽師の安倍晴明(あべのせいめい)が呼ばれた。晴明はいう。「太山府君(たいさんぶくん)」に病気平癒を祈ったとしても治癒は困難。しかし方法はある。重病人となった智興の「御代(かわり)」を差し出せば「太山府君(たいさんぶくん)」の利益が出現する。「太山府君」は「秦山府君」のこと。道教の神。「祭の都状(とじよう)」は秦山府君に奉る祭文。身代りを用意できれば「申代(もうしか)」を試みて、身代りは死ぬが智興を生かすことができると。

「此の病を占(うらな)ふに、極(きわめ)て重くして、譬(たと)ひ太山府君(たいさんぶくん)に祈請(きしよう)すと云とも、難叶(かないがた)かりなむ。但し、此の病者の御代(かわり)に一人の僧を出し給へ。然(さら)ば、其の人の名を祭の都状(とじよう)に注(しる)して、申代(もうしか)へ試みむ。不然(さらず)は更に力不及(およば)ぬ事也」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十四・P.105」岩波文庫)

当然といえばいえるかも知れないが弟子の誰一人として身代りを買って出る者はいない。と、これといって華々しい活躍を見せたことはなくただ年齢だけは食ってきた中年の弟子が身代りになると名乗り出た。中年になってこの先短いことはわかっているし、最後の奉公として身代りになるという。ついては「己を彼の祭の都状に注(しる)せ」と晴明に告げてその日はずっと一人で念仏を唱えることにした。

「年来(としごろ)其の事とも無くして相(あ)ひ副(そえ)る弟子有り。師も此(こ)れを懃(ねんごろ)にも不思(おもわ)ねば、身貧(まずし)くして壺屋住(つぼやずみ)にて有る者有りけり。此の事を聞て云く、『己れ年既に半ばに過ぬ。生(いき)たらむ事今幾(いまいくばく)に非ず。亦身貧(まずし)くして、此(これ)より後善根(ぜんこん)を修(しゆ)せむに不堪(たえ)ず。然れば、同(おなじ)く死(しに)たらむ事を、今師に替(かわり)て死なむ。と思ふ也。速(すみやか)に己を彼の祭の都状に注(しる)せ』」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十四・P.105」岩波文庫)

すると重病だった智興は死ぬどころか逆に治癒した。翌朝、安倍晴明が再びやって来て言った。

「師、今は恐れ不可給(たまうべから)ず。亦、『代らん』と云し僧も不可恐(おそるべから)ず。共に命を存する事を得たり」(「今昔物語集・本朝部(中)・巻第十九・第二十四・P.106~107」岩波文庫)

智興師は治癒し、また、身代りを買って出た中年の僧侶も命に別状なく、二人ともども無事に済んだと。旧約聖書の一節に似たエピソードだがどちらにしても試されたのは信じる力である。

「アブラハムは燔祭の薪をとってその子イサクに背負わせ、手に火と刀をとり二人一緒に進んで行った。イサクがその父アブラハムに向かって、『お父さん』と言う。アブラハムは、『はい、わが子よ』と答える。イサクは言う、『火と薪の用意はあるのに、燔祭の子羊は何処にあるのです』。アブラハムは答えて言った、『神御自身が燔祭の子羊を備え給うだろう、わが子よ』。かくて二人はともに進んで行った。ついに彼らはアブラハムに言われたその場所に着いた。アブラハムはそこに祭壇を築き、薪を並べ、その子イサクをしばって祭壇の薪の上においた。かくてアブラハムはその手を伸ばし、刀を執って、まさにその子をほふろうとした。その時ヤハウェの使いが天より彼に呼びかけて、『アブラハムよ、アブラハムよ』と言った。アブラハムは『はい、ここに』と言う。ヤハウェの使いが言われた、『君の手を子供に加えるな。彼に何もしてはいけない。というのは今こそわたしは君が神を畏れる者であることを知ったのだ。君は君の子、君の独子(ひとりご)をも惜しまずにわたしに献げようとしたからだ』。アブラハムが眼をあげて見ると、見よ、一匹の牡羊がいてやぶにその角がひっかかっていた。アブラハムは行ってその牡羊を備え、それをその子のかわりに燔祭(はんさい)として捧げた」(「創世記・第二十二章・P.59~60」岩波文庫)

なお「燔祭(はんさい)」は日本では余り聞き慣れない。翻訳すると「ホロコースト」。二十世紀になってナチスドイツがユダヤ教徒、反政府運動、共産主義者、社会主義者、そしてナチス政権にとって批判的な研究者などをあぶり出しガス室で皆殺しにした。その強烈さゆえホロコーストというと今ではナチス政権による大量殺戮を指すことが多いのだが、そもそもナチス党はその言葉をユダヤ教の聖典「旧約聖書」から借りてきた。

さて、聖(ひじり)のことを沙門(しゃもん)という場合もある。「日本霊異記」に出てくる「老僧観規(くわんき)」は沙門であり、さらにその言動から考察すると明らかに聖(ひじり)といってよいだろう。観規は「自性天年(うまれながら)にして雕巧(てうかう)を宗(むね)とせり」。先天的なアスペルガー症候群で特に彫刻に長けていたと。俗姓を持っていた。「三間名干岐(みまなのかぬき)」。任那(みまな)かと思われるが、違っていたとしても朝鮮半島の王族出身者であることは明白とされる。「干岐」(かぬき)は「旱支・旱岐」が正しい。古代朝鮮の王侯の通称。「紀伊国名草郡(きのくになくさのこほり)」は今の和歌山県海草郡。

「老僧観規(くわんき)は、俗姓を三間名干岐(みまなのかぬき)といひき。紀伊国名草郡(きのくになくさのこほり)の人なりき。自性天年(うまれながら)にして雕巧(てうかう)を宗(むね)とせり。有智(うち)の特業(とくごふ)にして、並(また)衆才を統(す)べたり。俗に著(つ)きて営農(なりはひ)をし、妻子を蓄(たくは)へ養ふ。先祖の造れる寺、名草郡の能応(のお)の村に有り。名をば弥勒(みろく)寺と曰(い)ひ、字(あざな)を能応寺(のおでら)と曰ふ」(「日本霊異記・下・沙門の功を積みて仏像を作り命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 第三十・P.208」講談社学術文庫)

宝亀十年(七七九年)、丈六(一丈六尺)の釈迦像とその脇士(文殊菩薩・普賢菩薩)を仕上げる。さらに十一面観音像を彫ろうとするが「八十有余歳」という老齢のため途中で作業中断に追い込まれた。それが「山部(やまべ)の天皇のみ代の延暦元年の癸亥(みづのとゐ)」。

「又願を発(おこ)して、十一面観音菩薩の木造高さ十尺許(ばかり)なるを雕(ゑ)り造り、半(なかば)造りて未(いま)だ畢(をは)らず。縁(えに)小(すくな)く年を歴(へ)て、老耄(らうまう)して力弱りぬ。自(みづか)ら彫(ゑ)ること得ず。爰(ここ)に老僧八十有余歳の時を以て、長岡の宮に大八嶋国(おほやしまのくに)御宇(をさ)めたまひし山部(やまべ)の天皇のみ代の延暦元年の癸亥(みづのとゐ)の春の二月十一日に、能応寺(のおでら)に臥して命終(みやうじゆ)しぬ」(「日本霊異記・下・沙門の功を積みて仏像を作り命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 第三十・P.208~209」講談社学術文庫)

ところがなぜか蘇生する。死んだはずにもかかわらず。弟子らは驚嘆のあまり、作業半ばで放置されていた十一面観音像を完成させる。仏教説話なのでそのようなエピソードになるわけだが、問題は、老僧観規(くわんき)が聖(ひじり)と呼ばれ崇め奉られることになった点にある。

「是(こ)れ聖なり。凡には非(あら)ず」(「日本霊異記・下・沙門の功を積みて仏像を作り命終の時に臨みて異しき表を示しし縁 第三十・P.208~209」講談社学術文庫)

比丘尼だけでなくその夫たる比丘もまた多方面で奇瑞奇徳を現わして始めて聖(ひじり)の称号を得た。聖(ひじり)だから奇瑞奇徳を出現させて見せるのではなく、奇瑞奇徳を出現させて見せて始めて聖(ひじり)として信仰対象化されるわけである。例えば、現在の医薬品で治療可能な病気でもかつては死ぬことが多かった時代、薬草類を用いて見るみる間に治療してみせた。そのためには全国規模の情報ネットワークがなければならない。「熊野の本地の草紙」を見れば明らかなように、熊野の地は古代宮廷との長い付き合いがある。それら多種多様な情報の総合に適していた。黒潮に乗って移住した人々からの情報も取り入れていくと、とりわけ薬草類に関する情報は古代中国を含む東アジア全域から寄せられる。俗世間ではなるほど様々な聖(ひじり)がいたわけで、年中酔っ払ってばかりいる聖(ひじり)もいた。三度の飯より女好きという聖(ひじり)もいた。ただ女性の場合、比丘尼の資格という点でいうと、ただ単なる平民ではない。遊女化した部分を含めてみても、それでもなお神仏に仕える身分であったことに変わりはない。平民身分に近づきはしたが平民ではなく平民になりたくてもなれないという見えない壁があった。下層身分になろうとしても一旦は神仏に仕えた身分なので社会的な掟がかえって邪魔になった。あえて言えば、室町時代に俗化していった「歩き巫女」に近いと言えるかもしれない。

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熊楠による熊野案内/美女と長寿の年末地獄絵図

2020年11月16日 | 日記・エッセイ・コラム
八百比丘尼の「八百」はどこから来たか。八百歳まで生きるという神話から来た。さらにこの神話はどこから来たか。出身が熊野だからである。熊野に関する神話発生条件は早くも記紀神話の中に見られる。またそれに関しては文献(主に「古事記」、「日本書紀」)しか資料がないこともあり記紀神話中心に既に述べた。ここからは全国各地へ散っていった熊野比丘尼が残した聖地について、その特色に関し触れていきたいと思う。しかし真っ先に、比丘尼自身が有した特徴に触れておこう。柳田國男は述べている。

「白比丘尼(しらびくに)はまたの名を八百比丘尼(はっぴゃくびくに)という。ーーー常に十六、七の娘のように肌の色が美しかったから白比丘尼ともよばれた」(柳田國男「山島民譚集(二)・第六・八百比丘尼・白比丘尼の栽えた木」「柳田国男全集5・P.316」ちくま文庫)

このすぐ後に「旅する女性」としての比丘尼論が入ってくる。しかしそれはまだもっと先の論考へ回避させておく。前回、農商務相時代の山本達雄に研究所運営資金を寄付させるため、熊楠は「媚薬」としての「紫稍花(ししょうか)」で誘惑したと述べた。直接関係はないが「白比丘尼(しらびくに)=八百比丘尼(はっぴゃくびくに)」という公式が有効だとすれば、比丘尼は長寿でありなおかつ美形の象徴的存在として信奉されていたことは間違いない。「長寿でありなおかつ美形」。両立しがたい二つの条件を満たす存在。次の文章を見てみよう。

「『康富記』(やすとみき)などの一説では白比丘尼(しらびくに)の白は白髪の白だということである。比丘尼には毛がないという近世の思想からこの説のごときはあるいは否定し得る」(柳田國男「山島民譚集(三)・第七・諸国の長者屋敷」「柳田国男全集5・P.331」ちくま文庫)

白髪の女性。例えば北欧の女性は年齢が後期高齢者になってなお、さらには死してなお白髪の場合はぞろぞろいる。今の日本でも髪を染めただけでいともたやすく十年くらい年齢をさば読むことは可能だし、むしろ以前より妖艶に見える場合が少なくない。また白髪を丁寧に束ねると「上品」に見える、という点も見逃せない。「毛がない」というのは頭髪を丸刈りにしていたからそうだというに過ぎない。

中世、熊野から全国へ出張するようになり、手始めに勧進が期待できる都会といえばまず京の都が手っ取り早い。だから京で比丘尼といえば頭巾姿が常識だった。柳田は述べているが比丘尼はまた「持経者(じきょうしゃ)」と呼ばれることがあった。「沙石集」に次の文章がある。

「或時(アルトキ)、北野(キタノ)ニ参籠(サンロウ)シタリケルニ、祈リテ持経者(ジキヤウジヤ)ノ読経(ドツキヤウ)スルヲ聞(きき)テ、簾(スダレ)ヨリ走出(ハシリいで)テ、の僧ノ頭(かう)ベヲハリケレバ、驚(おどろき)テミルニ尋常(ジンジヤウ)ゲナル女房也」(日本古典文学体系「沙石集・巻第十末・一・P.432」岩波書店)

「北野」(きたの)は今の京都市上京区御前通今出川上る馬喰(ばくろう)町にある「北野天満宮」のこと。菅原道真を祭神とするが、より緻密にいえば、太宰府に流され怨霊と化した道真の魂鎮(たましづめ)のための御霊社である。戦国時代に豊臣秀吉が造営した遺構である御土居(おどい)は今も残るが、土塁探索が目的なら天満宮より大徳寺北西にある大宮土居町、鷹峯(たかがみね)土居町のものが本格的。それはそれとして。北野天神に参籠していた僧侶が或る日、境内で「持経者(じきょうしゃ)」が読経する声を聞きつけ、誰かと思い僧侶姿の頭の頭巾を引っぺがしたところ、大層慎ましやかな風情の女性だったという。

江戸時代になると日々の生活維持はますます苦しくなる一方だった。とりわけ師走(十二月・年末)は。西鶴から引こう。

「又牢人の隣に、年ごろ三十七、八ばかりなる女、親類(しんるい)とても、かかるべき子もなく、ひとり身なりしが、男にはなれたるよしにて、髪(かみ)を切、紋(もん)なしのものは着(き)れども、身のたしなみは、目だたぬやうにして昔を捨(すて)ず。しかも、すがたもさもしからず。常住(じやうじう)は、奈良苧(ならそ)を慰みのやうにひねりて日をくらせしが、はや極月初(はじめ)に、万事を手廻しよく仕廻(しまひ)て、割木(わりき)も二、三月迄のたくはへ、肴(さかな)かけには二番(ばん)の鰤(ぶり)一本、小鯛(だい)五枚、鱈(たら)二本、かんばし・ぬりばし・紀伊(きの)国五器(き)、鍋(なべ)ぶた迄さらりと新(あたら)しく仕替て、家主(いへぬし)殿へ目ぐろ一本、娘御(むすめご)に絹緒(きぬを)の小雪踏(こせきだ)、お内儀様(ないぎさま)へうね足袋(たび)一足(そく)、七軒(けん)の相借屋へ餅に牛房(ごぼう)一抱(わ)づつ添(そへ)て、礼儀(れいぎ)正(ただ)しく、としを受ける。人のしらぬ渡世(とせい)、何をかして、内証(ないしやう)の事はしらず」(井原西鶴「長刀はむかしの鞘」『世間胸算用・巻一・P.27』角川文庫)

西鶴のいう「三十七、八ばかりなる女」はほとんど一般名詞と言うに等しい。それほど多くの中年独身女性がただ生きていくだけのために何かと気を回さねばならなかった。「身のたしなみは、目だたぬやうにして昔を捨(すて)ず」の「昔を捨(すて)ず」は、目だたないよう慎ましやかに内職していても「昔の色香」は容赦なく周囲に漏れ漂ってくるという意味。そして同時にあちこちへ様々な御歳暮をしっかり納めている。西鶴は「人のしらぬ渡世(とせい)」と書いているが、この女性の場合、たまたま容色に恵まれたためだろう、来年もよろしくという意味であり、要するに「妾」である。また「奈良苧(ならそ)」を糸に紡いで日々を送っていたとある。「奈良苧(ならそ)」は「苧麻」(まお)のこと。「からむし」ともいう。歴史は古い。

「丙午(ひのえうまのひ)に、詔して、天下(あめのした)をして、桑(くは)・紵(からむし)・梨(なし)・栗(くり)・蕪菁等(あをなら)の草木(くさき)を勧(すす)め殖(う)ゑしむ」(「日本書紀5・巻第三十・持統天皇七年正月~三月・P290」岩波文庫)

東アジアから東南アジア一帯に自生する。雑草に匹敵するほど逞しい。だから昔は麻と同じくらい強い衣服の原料として重宝された。現在では福島県会津と沖縄県宮古島で栽培され独自の上布原料に用いられている。

また、墨染の衣(ころも)に身をやつし「乞食坊主」として生きている或る女性は、おそらく食中毒かと思われる病気を患って治療のために商売道具の衣(ころも)を質に入れた。病が癒える頃には収入が途絶えており、僧侶にとって命ともいえる墨染の衣(ころも)を質屋から請け出すことができなくなった。

「過(すぎ)にし夏(なつ)、くはくらんをわづらひて、せんかたなく衣を壱刄八分(ふん)の質に置(おき)けるが、そののち請(うく)る事成(なり)がたく、渡世(とせい)の種(たね)のつきける。人の後世信心(ごせしんじん)に替(かは)ることはなきに、衣を着(き)たる朝は米五合ももらはれ、衣なしには弐合も勧進(くはんじん)なし。殊に極月坊主(はすぼうず)とて、此月はいそがしきに取まぎれ、親の命日(めいにち)もわすれ、くれねば是非(ぜひ)もなく、銭八文にて年をこしける。まことに世の中の哀(あは)れを見る事、貧家(ひんか)の辺(ほと)りの小質(こじち)屋、心よはくてはならぬ事なり。脇(わき)から見るさへ、悲(かな)しきことの数々なる、年のくれにぞ有りける」(井原西鶴「長刀はむかしの鞘」『世間胸算用・巻一・P.28』角川文庫)

信心する気持ちに変わりはない。だが黒衣で物乞いするのと黒衣なしで物乞いするのとでは大違い。「墨染の衣(ころも)」が手元にあった頃は「米五合」を貰えたりしたが、衣なしでは「米二合」がせいぜい。たった「銭八文」で迎える新年。そこで西鶴は書いている。「まことに世の中の哀(あは)れを見る事、貧家(ひんか)の辺(ほと)りの小質(こじち)屋」。貧家近くの小質屋をよく観察して始めて民衆の実生活の一端に触れることができると。そしてそれは「脇(わき)から見るさへ、悲(かな)しきことの数々なる」。赤の他人が見てさえ悲惨に思われる事情ばかりが目につくほど多いと。

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