粘菌に関する話題の途中で神社合祀反対の一件を思い出したのか、「史蹟」と「古蹟」との相違について突然横滑りする熊楠。
「古蹟というに、史蹟(すなわち平清盛の塚とか、平井権八の碑とか)と、有史前の古蹟とあり(誰の家か分からぬが、古ゴール人の塚に似たるもの当地辺にて小生見出でたり。また何人のものとも知れねど、陵墓風のものあり、和歌浦に多く古石槨ありしを、十年ばかり前に打ち破りたり。これらは誰のものと知れねど、打ち破らずに置いたらいろいろの参考になるものなり。一度打ち破ったなら、再び巨細のことを研究すること能わず)」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.437~438』河出文庫)
平経盛伝説はさておき、熊楠は遺跡としての重要性を語る。「石室」があり「石鏃」などもある。構造上、世界史的建造物として創設された可能性がある。合祀に合わせて単純に壊してしまう前に「砕くなら砕くで、学者の調査を遂げしむること」が手続上肝要だと述べる。法的に変死と考えられる場合検死を行うように。
「備前国邑久郡朝日村に『王の塚』というものあり。大なる家にて、正中に大なる石室あり、ぐるりに小さき石室あり、みな髑髏を埋めたり。平経盛の墓なりという。平経盛は、敦盛の父で、『頼政集』などになんでもなき和歌残れり。別になんとてわが国に功ある人にあらず。しかるに、その辺に石鏃等を出し、また太古神軍ありしという。この例のごときは、平経盛の塚としては別に保存の要なきも、学術上かようの構造を具せる塚としては非常に参考になるものにて、例のわが国にむかし殉死の法ありしや否の問題等にはなはだ興味を添うるものなり。この社(飯盛神社)の社司は合祀大反対にて、小生と交りあり、はなはだ惜しみおれり。昨今合祀後この塚の荒廃はなはだしく、到底、二、三年中にわけもなく砕かれおわるべし、とのことなり。これを砕くなら砕くで、学者の調査を遂げしむること、法律上変死の検証を経て葬るようの手続きぐらいはありたきことに候わずや」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.438』河出文庫)
備前国の「邑久郡朝日村」は今でいう岡山県の旧・西大寺市(現・岡山市)。江戸時代、近隣の牛窓港は一般の日本史にも記述があるように朝鮮通信使の宿泊地であり、中世すでに瀬戸内海運の要港として栄えた。西大寺地区はその街道筋(牛窓往来)を中心に広がる。「裸祭」(はだかまつり)でも有名。裸祭の映像を見たが気になるのは参加者入場時と福男決定時。いずれも「肩車」(かたぐまる)されている点。「一遍聖絵」に次の文章がある。
「同年閏四月十六日、関寺より四条京極の釈迦堂にいり給。貴賤上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき」(「一遍聖絵・第七・P.72〜73」岩波文庫)
この箇所に相当する絵図は東京国立博物館に保管されている。関寺は今の滋賀県大津市関寺。そこで宿泊した後、京都入りした。絵図を見ると釈迦堂で一遍は「肩車」されており、肩車された状態のまま、周囲に群がる人々にお札を配っているのがわかる。一遍は仏教者だが「肩車」には神事としての意味がある。聖人はただ単に徒歩や車や馬で移動したばかりでない。目的地で何らかの儀式を執り行うとき、わざわざ肩車されることがあった。肩車された瞬間、その人物はただの人から次元の異なる「聖(ひじり)」へと転化する。命がけの飛躍を遂げる。言い換えれば、万能の存在=「貨幣」になる。
また備前国邑久の遺跡がかつての祭祀場であり「石の信仰」の名残りかもしれないと考えると、それは古墳時代の古墳ではなく、イギリス南部のストーンヘンジのような紀元前二〇〇〇年まで遡って測定されなければわかるものもわからなくなる。ちなみに日本の「今昔物語」に「辺地(へち)」という言葉が出てくる。海岸沿いの修行道を指していう。
「今昔(いまはむかし)、仏ノ道ヲ行(おこなひ)ケル僧、三人伴(とも)なひて、四国ノ辺地(へち)ト云(いふ)ハ伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あは)・土佐(とさ)ノ海辺(うみべ)ノ廻(めぐり)也、其ノ僧共(そうども)、其(そこ)ヲ廻(めぐり)ケルニ、思ヒ不懸(かけ)ズ山ニ踏入(ふみいり)ニケリ。深キ山ニ迷(まどひ)ニケレバ、浜辺(はまべ)ニ出(いで)ム事ヲ願ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十四・P.470」岩波書店)
また「梁塵秘抄」に歌われているものはそこそこ有名。「四国の辺地(へぢ)」を歩む時はいつも「潮(しほ)垂(た)れて」とある。衣は潮風で常に湿りきっているという意味。
「われらが修行せし様(やう)は 忍辱袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け また笈(おひ)を負ひ 衣(ころも)はいつとなく潮(しほ)垂(た)れて 四国の辺地(へぢ)をぞ常に踏む」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇一・P.128」新潮社)
一方、紀州熊野にも「辺地(へち)」がある。第一に「中辺地」(なかへじ)。今の田辺市から山中に入る巡礼路。第二に、田辺市から海岸沿いに那智・新宮へ至る「大辺地」(おおへじ)。さらに、能登半島の海岸沿いもまた巡礼路として詠み込まれている。
「われらが修行に出(い)でし時 珠洲(すず)の岬をかいさはり うちめぐり 振り捨てて ひとり越路(こしぢ)の旅に出でて 足占(あしうら)せしこそ あはれなりしか」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇〇・P.128」新潮社)
珠洲と数珠とが掛けてあることから「珠洲(すず)の岬」は能登半島北東端部の岬を意味していると考えられる。岬めぐりといっても観光ではなく岩場から岩場を巡る危険な修行だった時代のエピソードだ。そんなところか。
さて。熊楠の愛読書「男色大鑑」から続き。
「平家物語」や謡曲「俊寛」で有名な「鹿ヶ谷」が出てくる。鹿ヶ谷の奥に一人の念仏行者がいた。八十歳を越えてなお生きている。当時としては異例の長寿だ。この歳になって大往生間違いなしかと思われていたその頃、たまたま若衆盛りに育った篠岡大吉(しのおかだいきち)・小野新之助(おのしんのすけ)の姿を見かける。瞬間、出家者としての身の持ちようを忘れてしまう。
「その頃、鹿(しし)が谷(たに)の奥に念仏の行者(ぎやうじや)住みたまへり。八十余歳をたもち、今となつてかの両若(りやうじやく)の衆(しゆ)ざかりを見て、後世(ごせ)を取りはづし、前生(ぜんしやう)を忘れたまふとや」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324』小学館)
という老出家者がいるのだが。そう話に聞かされた大吉と新之助の二人は考える。大吉か新之助か一体どちらに気があるのかわからない。一度行って尋ねてみようと。すると案の定、桜も紅葉も捨てがたいという一日千愁の胸のうちを聞かされ、根っからやさしい二人は二人とも老人の思いを深々と遂げさせてやる。
「ある人の語りければ、『いづれに御心あるもしらず』とて、両人共にかの草庵を尋ね入るに、案のごとく花も紅葉(もみぢ)も捨てたまはず、春秋(はるあき)よりの思ひをはらさせ給へり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324~325』小学館)
言い忘れたことがあったかも知れないと、翌日二人はもう一度老出家者のもとを訪れる。だがそこには誰もいない。老出家者は姿を消していた。竹のおもてに記した日記が残っている。読んでみるとどうも一人でなく二人の若衆を同時に愛するという「二股を掛けた」罪悪感で心を病んでしまったらしい。
「残る言葉もあれば重ねて音信(おとづ)れけるに、はや御出家はましまさず、世を思ふ葉の二(ふた)またの竹に、きのふの日付(ひづけ)にて書きおかれしは、『旅衣なみだに染(そ)むるふた心思ひ切るよの竹の葉隠れ』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
大吉と新之助の二人には、かつて真雅僧正が在原業平に宛てて詠んだと言われる和歌のことが思い出されてくる。「読人知らず」とされてはいるが。
「思ひいづるときはの山のいはつつじ言はねばこそあれ恋しきものを」(「古今和歌集・巻第十一・四九五・P.130」岩波文庫)
罪悪感を述べた竹の木が遺書になって残された。二人は腕前で有名な竹細工者に頼み、「その竹を横笛(よこぶえ)二管に」仕上げてもらう。大吉も新之助も器用なもので、冷え冷えと寒い夜に二人が横笛を奏でると、天女が顔を覗かせ、敦盛(あつもり=「無官の太夫」)が出現し、今の森田庄兵衛と呼ばれる笛の名人などは二人の息吹のありかを指呼するすることができるというほど見事だった。
「その竹を横笛(よこぶえ)二管に細工のえものにおこさせ、寒夜の友吹きすれば、天人も雲より睨(のぞ)き、無官(むくわん)の太夫(たいふ)もあらはれ、今の世の庄兵衛など、息の出所(しゆつしよ)を感ずる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
それほど息が合っている二人。しかし「七つの鐘の鳴る時」(午前四時の鐘が鳴る頃)、やおら新之助は目覚め、と見るや目を閉じてそのまま死んでしまう。享年十四歳。形見は目の前を流れていく瀬音ばかり。一人残された大吉。
「現(うつつ)か幻(まぼろし)か、新之助せめて霜ならば昼消ゆべきに、夜のあくるを待たず七つの鐘の鳴る時、目覚まして目をふさぎ、十四歳にして、末期(まつご)にこの川水を残して、深くなげかすは大吉なり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
せっかくの横笛だが、他の誰でもない、新之助にこそ聴かせたかった音色である。もはや「今は聞く人もなし」と、「笛竹をうちくだき」焼いて葬り去ってしまう。その後すみやかに大吉は出家し、岩倉の山奥に閉じ籠もってしまった。広く洛中の老若男女を熱狂させた、あの黒髪をばっさり剃刀で剃り落として。
「『今は聞く人もなし』と、笛竹をうちくだき、これも煙となし、その身は常精進(じやうしやうじん)となつて、岩倉山にとり籠(こも)り、手づから剃刀(かみそり)にて惜しや黒髪を」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
世の中、恋愛模様は様々。それにしても「この道」が出家者を続出させて止まなかった時代があったことに間違いはない。
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「古蹟というに、史蹟(すなわち平清盛の塚とか、平井権八の碑とか)と、有史前の古蹟とあり(誰の家か分からぬが、古ゴール人の塚に似たるもの当地辺にて小生見出でたり。また何人のものとも知れねど、陵墓風のものあり、和歌浦に多く古石槨ありしを、十年ばかり前に打ち破りたり。これらは誰のものと知れねど、打ち破らずに置いたらいろいろの参考になるものなり。一度打ち破ったなら、再び巨細のことを研究すること能わず)」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.437~438』河出文庫)
平経盛伝説はさておき、熊楠は遺跡としての重要性を語る。「石室」があり「石鏃」などもある。構造上、世界史的建造物として創設された可能性がある。合祀に合わせて単純に壊してしまう前に「砕くなら砕くで、学者の調査を遂げしむること」が手続上肝要だと述べる。法的に変死と考えられる場合検死を行うように。
「備前国邑久郡朝日村に『王の塚』というものあり。大なる家にて、正中に大なる石室あり、ぐるりに小さき石室あり、みな髑髏を埋めたり。平経盛の墓なりという。平経盛は、敦盛の父で、『頼政集』などになんでもなき和歌残れり。別になんとてわが国に功ある人にあらず。しかるに、その辺に石鏃等を出し、また太古神軍ありしという。この例のごときは、平経盛の塚としては別に保存の要なきも、学術上かようの構造を具せる塚としては非常に参考になるものにて、例のわが国にむかし殉死の法ありしや否の問題等にはなはだ興味を添うるものなり。この社(飯盛神社)の社司は合祀大反対にて、小生と交りあり、はなはだ惜しみおれり。昨今合祀後この塚の荒廃はなはだしく、到底、二、三年中にわけもなく砕かれおわるべし、とのことなり。これを砕くなら砕くで、学者の調査を遂げしむること、法律上変死の検証を経て葬るようの手続きぐらいはありたきことに候わずや」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.438』河出文庫)
備前国の「邑久郡朝日村」は今でいう岡山県の旧・西大寺市(現・岡山市)。江戸時代、近隣の牛窓港は一般の日本史にも記述があるように朝鮮通信使の宿泊地であり、中世すでに瀬戸内海運の要港として栄えた。西大寺地区はその街道筋(牛窓往来)を中心に広がる。「裸祭」(はだかまつり)でも有名。裸祭の映像を見たが気になるのは参加者入場時と福男決定時。いずれも「肩車」(かたぐまる)されている点。「一遍聖絵」に次の文章がある。
「同年閏四月十六日、関寺より四条京極の釈迦堂にいり給。貴賤上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき」(「一遍聖絵・第七・P.72〜73」岩波文庫)
この箇所に相当する絵図は東京国立博物館に保管されている。関寺は今の滋賀県大津市関寺。そこで宿泊した後、京都入りした。絵図を見ると釈迦堂で一遍は「肩車」されており、肩車された状態のまま、周囲に群がる人々にお札を配っているのがわかる。一遍は仏教者だが「肩車」には神事としての意味がある。聖人はただ単に徒歩や車や馬で移動したばかりでない。目的地で何らかの儀式を執り行うとき、わざわざ肩車されることがあった。肩車された瞬間、その人物はただの人から次元の異なる「聖(ひじり)」へと転化する。命がけの飛躍を遂げる。言い換えれば、万能の存在=「貨幣」になる。
また備前国邑久の遺跡がかつての祭祀場であり「石の信仰」の名残りかもしれないと考えると、それは古墳時代の古墳ではなく、イギリス南部のストーンヘンジのような紀元前二〇〇〇年まで遡って測定されなければわかるものもわからなくなる。ちなみに日本の「今昔物語」に「辺地(へち)」という言葉が出てくる。海岸沿いの修行道を指していう。
「今昔(いまはむかし)、仏ノ道ヲ行(おこなひ)ケル僧、三人伴(とも)なひて、四国ノ辺地(へち)ト云(いふ)ハ伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あは)・土佐(とさ)ノ海辺(うみべ)ノ廻(めぐり)也、其ノ僧共(そうども)、其(そこ)ヲ廻(めぐり)ケルニ、思ヒ不懸(かけ)ズ山ニ踏入(ふみいり)ニケリ。深キ山ニ迷(まどひ)ニケレバ、浜辺(はまべ)ニ出(いで)ム事ヲ願ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十四・P.470」岩波書店)
また「梁塵秘抄」に歌われているものはそこそこ有名。「四国の辺地(へぢ)」を歩む時はいつも「潮(しほ)垂(た)れて」とある。衣は潮風で常に湿りきっているという意味。
「われらが修行せし様(やう)は 忍辱袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け また笈(おひ)を負ひ 衣(ころも)はいつとなく潮(しほ)垂(た)れて 四国の辺地(へぢ)をぞ常に踏む」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇一・P.128」新潮社)
一方、紀州熊野にも「辺地(へち)」がある。第一に「中辺地」(なかへじ)。今の田辺市から山中に入る巡礼路。第二に、田辺市から海岸沿いに那智・新宮へ至る「大辺地」(おおへじ)。さらに、能登半島の海岸沿いもまた巡礼路として詠み込まれている。
「われらが修行に出(い)でし時 珠洲(すず)の岬をかいさはり うちめぐり 振り捨てて ひとり越路(こしぢ)の旅に出でて 足占(あしうら)せしこそ あはれなりしか」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇〇・P.128」新潮社)
珠洲と数珠とが掛けてあることから「珠洲(すず)の岬」は能登半島北東端部の岬を意味していると考えられる。岬めぐりといっても観光ではなく岩場から岩場を巡る危険な修行だった時代のエピソードだ。そんなところか。
さて。熊楠の愛読書「男色大鑑」から続き。
「平家物語」や謡曲「俊寛」で有名な「鹿ヶ谷」が出てくる。鹿ヶ谷の奥に一人の念仏行者がいた。八十歳を越えてなお生きている。当時としては異例の長寿だ。この歳になって大往生間違いなしかと思われていたその頃、たまたま若衆盛りに育った篠岡大吉(しのおかだいきち)・小野新之助(おのしんのすけ)の姿を見かける。瞬間、出家者としての身の持ちようを忘れてしまう。
「その頃、鹿(しし)が谷(たに)の奥に念仏の行者(ぎやうじや)住みたまへり。八十余歳をたもち、今となつてかの両若(りやうじやく)の衆(しゆ)ざかりを見て、後世(ごせ)を取りはづし、前生(ぜんしやう)を忘れたまふとや」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324』小学館)
という老出家者がいるのだが。そう話に聞かされた大吉と新之助の二人は考える。大吉か新之助か一体どちらに気があるのかわからない。一度行って尋ねてみようと。すると案の定、桜も紅葉も捨てがたいという一日千愁の胸のうちを聞かされ、根っからやさしい二人は二人とも老人の思いを深々と遂げさせてやる。
「ある人の語りければ、『いづれに御心あるもしらず』とて、両人共にかの草庵を尋ね入るに、案のごとく花も紅葉(もみぢ)も捨てたまはず、春秋(はるあき)よりの思ひをはらさせ給へり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324~325』小学館)
言い忘れたことがあったかも知れないと、翌日二人はもう一度老出家者のもとを訪れる。だがそこには誰もいない。老出家者は姿を消していた。竹のおもてに記した日記が残っている。読んでみるとどうも一人でなく二人の若衆を同時に愛するという「二股を掛けた」罪悪感で心を病んでしまったらしい。
「残る言葉もあれば重ねて音信(おとづ)れけるに、はや御出家はましまさず、世を思ふ葉の二(ふた)またの竹に、きのふの日付(ひづけ)にて書きおかれしは、『旅衣なみだに染(そ)むるふた心思ひ切るよの竹の葉隠れ』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
大吉と新之助の二人には、かつて真雅僧正が在原業平に宛てて詠んだと言われる和歌のことが思い出されてくる。「読人知らず」とされてはいるが。
「思ひいづるときはの山のいはつつじ言はねばこそあれ恋しきものを」(「古今和歌集・巻第十一・四九五・P.130」岩波文庫)
罪悪感を述べた竹の木が遺書になって残された。二人は腕前で有名な竹細工者に頼み、「その竹を横笛(よこぶえ)二管に」仕上げてもらう。大吉も新之助も器用なもので、冷え冷えと寒い夜に二人が横笛を奏でると、天女が顔を覗かせ、敦盛(あつもり=「無官の太夫」)が出現し、今の森田庄兵衛と呼ばれる笛の名人などは二人の息吹のありかを指呼するすることができるというほど見事だった。
「その竹を横笛(よこぶえ)二管に細工のえものにおこさせ、寒夜の友吹きすれば、天人も雲より睨(のぞ)き、無官(むくわん)の太夫(たいふ)もあらはれ、今の世の庄兵衛など、息の出所(しゆつしよ)を感ずる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
それほど息が合っている二人。しかし「七つの鐘の鳴る時」(午前四時の鐘が鳴る頃)、やおら新之助は目覚め、と見るや目を閉じてそのまま死んでしまう。享年十四歳。形見は目の前を流れていく瀬音ばかり。一人残された大吉。
「現(うつつ)か幻(まぼろし)か、新之助せめて霜ならば昼消ゆべきに、夜のあくるを待たず七つの鐘の鳴る時、目覚まして目をふさぎ、十四歳にして、末期(まつご)にこの川水を残して、深くなげかすは大吉なり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
せっかくの横笛だが、他の誰でもない、新之助にこそ聴かせたかった音色である。もはや「今は聞く人もなし」と、「笛竹をうちくだき」焼いて葬り去ってしまう。その後すみやかに大吉は出家し、岩倉の山奥に閉じ籠もってしまった。広く洛中の老若男女を熱狂させた、あの黒髪をばっさり剃刀で剃り落として。
「『今は聞く人もなし』と、笛竹をうちくだき、これも煙となし、その身は常精進(じやうしやうじん)となつて、岩倉山にとり籠(こも)り、手づから剃刀(かみそり)にて惜しや黒髪を」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)
世の中、恋愛模様は様々。それにしても「この道」が出家者を続出させて止まなかった時代があったことに間違いはない。
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