白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

熊楠による熊野案内/巡礼回帰

2020年11月25日 | 日記・エッセイ・コラム
粘菌に関する話題の途中で神社合祀反対の一件を思い出したのか、「史蹟」と「古蹟」との相違について突然横滑りする熊楠。

「古蹟というに、史蹟(すなわち平清盛の塚とか、平井権八の碑とか)と、有史前の古蹟とあり(誰の家か分からぬが、古ゴール人の塚に似たるもの当地辺にて小生見出でたり。また何人のものとも知れねど、陵墓風のものあり、和歌浦に多く古石槨ありしを、十年ばかり前に打ち破りたり。これらは誰のものと知れねど、打ち破らずに置いたらいろいろの参考になるものなり。一度打ち破ったなら、再び巨細のことを研究すること能わず)」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.437~438』河出文庫)

平経盛伝説はさておき、熊楠は遺跡としての重要性を語る。「石室」があり「石鏃」などもある。構造上、世界史的建造物として創設された可能性がある。合祀に合わせて単純に壊してしまう前に「砕くなら砕くで、学者の調査を遂げしむること」が手続上肝要だと述べる。法的に変死と考えられる場合検死を行うように。

「備前国邑久郡朝日村に『王の塚』というものあり。大なる家にて、正中に大なる石室あり、ぐるりに小さき石室あり、みな髑髏を埋めたり。平経盛の墓なりという。平経盛は、敦盛の父で、『頼政集』などになんでもなき和歌残れり。別になんとてわが国に功ある人にあらず。しかるに、その辺に石鏃等を出し、また太古神軍ありしという。この例のごときは、平経盛の塚としては別に保存の要なきも、学術上かようの構造を具せる塚としては非常に参考になるものにて、例のわが国にむかし殉死の法ありしや否の問題等にはなはだ興味を添うるものなり。この社(飯盛神社)の社司は合祀大反対にて、小生と交りあり、はなはだ惜しみおれり。昨今合祀後この塚の荒廃はなはだしく、到底、二、三年中にわけもなく砕かれおわるべし、とのことなり。これを砕くなら砕くで、学者の調査を遂げしむること、法律上変死の検証を経て葬るようの手続きぐらいはありたきことに候わずや」(南方熊楠「粘菌の神秘について」『南方民俗学・P.438』河出文庫)

備前国の「邑久郡朝日村」は今でいう岡山県の旧・西大寺市(現・岡山市)。江戸時代、近隣の牛窓港は一般の日本史にも記述があるように朝鮮通信使の宿泊地であり、中世すでに瀬戸内海運の要港として栄えた。西大寺地区はその街道筋(牛窓往来)を中心に広がる。「裸祭」(はだかまつり)でも有名。裸祭の映像を見たが気になるのは参加者入場時と福男決定時。いずれも「肩車」(かたぐまる)されている点。「一遍聖絵」に次の文章がある。

「同年閏四月十六日、関寺より四条京極の釈迦堂にいり給。貴賤上下群をなして、人はかへり見る事あたはず、車はめぐらすことをえざりき」(「一遍聖絵・第七・P.72〜73」岩波文庫)

この箇所に相当する絵図は東京国立博物館に保管されている。関寺は今の滋賀県大津市関寺。そこで宿泊した後、京都入りした。絵図を見ると釈迦堂で一遍は「肩車」されており、肩車された状態のまま、周囲に群がる人々にお札を配っているのがわかる。一遍は仏教者だが「肩車」には神事としての意味がある。聖人はただ単に徒歩や車や馬で移動したばかりでない。目的地で何らかの儀式を執り行うとき、わざわざ肩車されることがあった。肩車された瞬間、その人物はただの人から次元の異なる「聖(ひじり)」へと転化する。命がけの飛躍を遂げる。言い換えれば、万能の存在=「貨幣」になる。

また備前国邑久の遺跡がかつての祭祀場であり「石の信仰」の名残りかもしれないと考えると、それは古墳時代の古墳ではなく、イギリス南部のストーンヘンジのような紀元前二〇〇〇年まで遡って測定されなければわかるものもわからなくなる。ちなみに日本の「今昔物語」に「辺地(へち)」という言葉が出てくる。海岸沿いの修行道を指していう。

「今昔(いまはむかし)、仏ノ道ヲ行(おこなひ)ケル僧、三人伴(とも)なひて、四国ノ辺地(へち)ト云(いふ)ハ伊予(いよ)・讃岐(さぬき)・阿波(あは)・土佐(とさ)ノ海辺(うみべ)ノ廻(めぐり)也、其ノ僧共(そうども)、其(そこ)ヲ廻(めぐり)ケルニ、思ヒ不懸(かけ)ズ山ニ踏入(ふみいり)ニケリ。深キ山ニ迷(まどひ)ニケレバ、浜辺(はまべ)ニ出(いで)ム事ヲ願ヒケリ」(新日本古典文学体系「今昔物語集5・巻第三一・第十四・P.470」岩波書店)

また「梁塵秘抄」に歌われているものはそこそこ有名。「四国の辺地(へぢ)」を歩む時はいつも「潮(しほ)垂(た)れて」とある。衣は潮風で常に湿りきっているという意味。

「われらが修行せし様(やう)は 忍辱袈裟(にんにくけさ)をば肩に掛け また笈(おひ)を負ひ 衣(ころも)はいつとなく潮(しほ)垂(た)れて 四国の辺地(へぢ)をぞ常に踏む」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇一・P.128」新潮社)

一方、紀州熊野にも「辺地(へち)」がある。第一に「中辺地」(なかへじ)。今の田辺市から山中に入る巡礼路。第二に、田辺市から海岸沿いに那智・新宮へ至る「大辺地」(おおへじ)。さらに、能登半島の海岸沿いもまた巡礼路として詠み込まれている。

「われらが修行に出(い)でし時 珠洲(すず)の岬をかいさはり うちめぐり 振り捨てて ひとり越路(こしぢ)の旅に出でて 足占(あしうら)せしこそ あはれなりしか」(新潮日本古典集成「梁塵秘抄・巻第二・三〇〇・P.128」新潮社)

珠洲と数珠とが掛けてあることから「珠洲(すず)の岬」は能登半島北東端部の岬を意味していると考えられる。岬めぐりといっても観光ではなく岩場から岩場を巡る危険な修行だった時代のエピソードだ。そんなところか。

さて。熊楠の愛読書「男色大鑑」から続き。

「平家物語」や謡曲「俊寛」で有名な「鹿ヶ谷」が出てくる。鹿ヶ谷の奥に一人の念仏行者がいた。八十歳を越えてなお生きている。当時としては異例の長寿だ。この歳になって大往生間違いなしかと思われていたその頃、たまたま若衆盛りに育った篠岡大吉(しのおかだいきち)・小野新之助(おのしんのすけ)の姿を見かける。瞬間、出家者としての身の持ちようを忘れてしまう。

「その頃、鹿(しし)が谷(たに)の奥に念仏の行者(ぎやうじや)住みたまへり。八十余歳をたもち、今となつてかの両若(りやうじやく)の衆(しゆ)ざかりを見て、後世(ごせ)を取りはづし、前生(ぜんしやう)を忘れたまふとや」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324』小学館)

という老出家者がいるのだが。そう話に聞かされた大吉と新之助の二人は考える。大吉か新之助か一体どちらに気があるのかわからない。一度行って尋ねてみようと。すると案の定、桜も紅葉も捨てがたいという一日千愁の胸のうちを聞かされ、根っからやさしい二人は二人とも老人の思いを深々と遂げさせてやる。

「ある人の語りければ、『いづれに御心あるもしらず』とて、両人共にかの草庵を尋ね入るに、案のごとく花も紅葉(もみぢ)も捨てたまはず、春秋(はるあき)よりの思ひをはらさせ給へり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324~325』小学館)

言い忘れたことがあったかも知れないと、翌日二人はもう一度老出家者のもとを訪れる。だがそこには誰もいない。老出家者は姿を消していた。竹のおもてに記した日記が残っている。読んでみるとどうも一人でなく二人の若衆を同時に愛するという「二股を掛けた」罪悪感で心を病んでしまったらしい。

「残る言葉もあれば重ねて音信(おとづ)れけるに、はや御出家はましまさず、世を思ふ葉の二(ふた)またの竹に、きのふの日付(ひづけ)にて書きおかれしは、『旅衣なみだに染(そ)むるふた心思ひ切るよの竹の葉隠れ』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)

大吉と新之助の二人には、かつて真雅僧正が在原業平に宛てて詠んだと言われる和歌のことが思い出されてくる。「読人知らず」とされてはいるが。

「思ひいづるときはの山のいはつつじ言はねばこそあれ恋しきものを」(「古今和歌集・巻第十一・四九五・P.130」岩波文庫)

罪悪感を述べた竹の木が遺書になって残された。二人は腕前で有名な竹細工者に頼み、「その竹を横笛(よこぶえ)二管に」仕上げてもらう。大吉も新之助も器用なもので、冷え冷えと寒い夜に二人が横笛を奏でると、天女が顔を覗かせ、敦盛(あつもり=「無官の太夫」)が出現し、今の森田庄兵衛と呼ばれる笛の名人などは二人の息吹のありかを指呼するすることができるというほど見事だった。

「その竹を横笛(よこぶえ)二管に細工のえものにおこさせ、寒夜の友吹きすれば、天人も雲より睨(のぞ)き、無官(むくわん)の太夫(たいふ)もあらはれ、今の世の庄兵衛など、息の出所(しゆつしよ)を感ずる」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)

それほど息が合っている二人。しかし「七つの鐘の鳴る時」(午前四時の鐘が鳴る頃)、やおら新之助は目覚め、と見るや目を閉じてそのまま死んでしまう。享年十四歳。形見は目の前を流れていく瀬音ばかり。一人残された大吉。

「現(うつつ)か幻(まぼろし)か、新之助せめて霜ならば昼消ゆべきに、夜のあくるを待たず七つの鐘の鳴る時、目覚まして目をふさぎ、十四歳にして、末期(まつご)にこの川水を残して、深くなげかすは大吉なり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)

せっかくの横笛だが、他の誰でもない、新之助にこそ聴かせたかった音色である。もはや「今は聞く人もなし」と、「笛竹をうちくだき」焼いて葬り去ってしまう。その後すみやかに大吉は出家し、岩倉の山奥に閉じ籠もってしまった。広く洛中の老若男女を熱狂させた、あの黒髪をばっさり剃刀で剃り落として。

「『今は聞く人もなし』と、笛竹をうちくだき、これも煙となし、その身は常精進(じやうしやうじん)となつて、岩倉山にとり籠(こも)り、手づから剃刀(かみそり)にて惜しや黒髪を」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.325』小学館)

世の中、恋愛模様は様々。それにしても「この道」が出家者を続出させて止まなかった時代があったことに間違いはない。

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熊楠による熊野案内/八〇〇年の孤独

2020年11月24日 | 日記・エッセイ・コラム
類似しているからといって同一と考えてよい場合とそうでない場合の区別は厳密でなくてはならない。それが熊楠の研究方針だった。

「熊楠按ずるに、霊魂不断人身内に棲むとは、何人にも知れ切ったことのようなれど、また例外なきにあらず。極地のエスキモーは、魂と身と名と三つ集まりて個人をなす。魂常に身外にありて、身に伴うこと影の身を離れざるごとく、離るれば身死す、と信ず」(南方熊楠「睡眠中に霊魂抜け出づとの迷信」『南方民俗学・P.267~268』河出文庫)

熊楠は「迷信を信じない」と述べているが、だからこそ魂があちこち離れたり別人にくっ付いたりする説話があることに高い感心を持っていた。柳田國男もまた人間が実際に八〇〇年も生きられるとは考えていない。にもかかわらずなぜ「八百比丘尼」なのか。

「若狭の八百比丘尼は本国小浜(おばま)のある神社の中に、玉椿(たまつばき)の花を手に持った木像を安置しているのみではない。北国は申すに及ばず、東は関東の各地から西は中国、四国の方々の田舎に、この尼が巡遊したと伝うる故跡は数多く、たいていは樹を栽え神を祭り時としては塚を築き石を建てている。それが単なる偶合でなかったと思うことは、どうしてそのように長命をしかたの説明にまで、書物を媒介とせぬ一部の一致と脈略がある。つまりは霊怪なる宗教婦人が、かつて巡国をして来たことはあったので、その特色は驚くべき高齢を称しつつ、しかも顔色の若々しかった点にあったのである。人はずいぶんと白髪の皺(しわ)だらけの過去をしていても、八百といえば嘘だと思わぬ者はないであろうに、とにかくにこれを信ぜしめるだけの、術だか力だかは持っていたのである。それが一人かはた幾人もあったのかは別として、京都の地へも文安から宝徳の頃に、長寿の尼が若狭からやって来て、毎日多くの市民に拝まれたことは、『臥雲日件録』(がうんにっけんろく)にも書いてあれば、また『康富記』(やすとみき)などにもちゃんと日記として載せてあるから、それを疑うことはできないのである。もっともこの時代は七百歳の車僧(くるまぞう)のように、長生を評判にする風は流行であった。しからば何か我々の想像し得ない方法が、これを証明していたのかも知れぬが、何にしても『平家物語』や『義経記』の非常な普及が、始めて普通人に年代の知識と、回顧趣味とを鼓吹(こすい)したのはこの時代だから、比丘尼の昔語りは諸国巡歴のために、大なる武器であったことと思う。ただ自分たちの想像では、単なる作り事ではこれまでに人は欺き得ない」(柳田國男「山の人生・十一・仙人出現の理由を探求すべき事」『柳田國男全集4・P.118~119』ちくま文庫)

柳田は様々な著書の中から類例を上げている。「本朝故事因縁集」、「提醒紀談」(ていせいきだん)、「広益俗説弁」(こうえきぞくせつべん)、「清悦物語」(せいえつものがたり)、など。その上で柳田はこういう。

「さてこれらの話を集めてみて、結局目に立つのは、常に源平の合戦を知っていることが長命の証拠になったという点である」(柳田國男「山の人生・十一・仙人出現の理由を探求すべき事」『柳田國男全集4・P.124』ちくま文庫)

平安時代後半。呪術政治の時代は終わり武家政権の世になる。両者の境界線に位置するのが「平家物語」だ。それを語り歩くことができること。八百比丘尼にしてもその他多くの遊行者にしても「平家物語」から始まり、「太平記」、「熊野勧進地獄絵図」、など「語り」こそ衣食住を確保するためになくてはならない武器となった。また座頭の場合、盲人芸能者の常として「語り」の途中で上手く伝えられない場合がある。そのような時は目の見える比丘尼らが応援に駆けつけ身振り手振りで座頭の「語り」を助けた。「語り」だけで食べていくのに苦労が伴うのは今も昔も変わらない。かおかつ「語り」はいつも生本番である。現場でのリハーサルややり直しがきかない。だから年季を積んだ一人前の座頭ではなくプレッシャーのため途中で気持ちが折れそうになってしまう若い座頭もいる。そんな時は機転の効く美形の比丘尼が素早く駆けつけ観客に向け、「目くばせ」、「歌」、「体全体の動作」、などの技術を用いて間を持たせてやり、半人前の若年座頭の気持ちを持ち直させた。今でいう「共助」という言葉がなかった遥か昔、彼らは「共助」とは何か、身を持って知っていたのである。

さて。熊楠の愛読書「男色大鑑」から。

京の上賀茂の山影に住んだ男性の話から始まる。この男性はいつも「組戸(くみど)さし籠(こ)め」ている。格子戸を閉ざしている。一種の世捨人。とはいえ、十一月になると四条河原の顔見世興行が始まり、新しい美形揃いの若衆が登場してくる頃だとどきどきわくわくする。だが一方、師走になってもっと冬めいてくると「山草被(かづ)きし者の声」=「正月用の羊歯類売りの声」、辺りはばからぬ「餅突き」の音頭、「書出(かきだ)し」=「歳末に必ず届けられる諸々の請求書」など、周囲はやおら慌ただしさを増すが、今の自分の境遇には関係がなくて済む。世捨人としては、そのような俗世のしきたりと無縁でいられるのが徳といえば徳かも知れない。

「組戸(くみど)さし籠(こ)め、川原(かはら)の顔見世芝居も、今時なん、入れ替(か)はる若衆方を思ひやるばかりに、その程を過ぎ、なほ冬めきて、人の足音もはやく、山草被(かづ)きし者の声、餅突き、書出(かきだ)し、今の徳はそれを知らず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.321』小学館)

おそらくこの男性は、当時の武士の流行としてもてはやされた、遊び半分の男色家ではない。根っからの同性愛者であったろうと思われる。西鶴の文章を見ると、「玉むすびの黒髪の見ゆるもうたてく、北の方の窓ぬりふさぎ」、とある。天皇行幸の際に随伴する女官の姿とその衣装が一切目に入らないように北の方に向いて設置してある窓を塗りつぶして閉じたまま。もしかしたら過去に女性から手酷い目にあった経験から男性同性愛者へ転向したタイプなのかもしれないが原文を見る限りその様子は感じられない。もっと日陰者としての自覚があり、これといって生きがいを感じることもなく、まだ若い頃すでに隠棲したようだ。しかしどうやって食っているのだろう。「歌と読みとあって」=「かるた遊びに歌と読みと両方あるように」、それなりに方法がある。周辺の子供たちを集めて寺子屋を開き、「童子経(どうじきやう)」を教えてやっていた。「童子経」は江戸時代、「庭訓往来」(ていきんおうらい)とともに寺子屋で用いられた教科書の一つ。で、男性は「手習ひ屋の一道(いちだう)」と呼ばれていた。

「玉むすびの黒髪の見ゆるもうたてく、北の方の窓ぬりふさぎて、日影草のあるに甲斐(かひ)なき身も、歌と読みとあって、里ちかき童子経(どうじきやう)ををしへ、手習ひ屋の一道(いちだう)と名によばれて年月をおくりぬ」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.323』小学館)

寺子屋に通ってくる子供たちの中に、「下賀茂(しもがも)の地侍(じざぶらひ)」(下鴨神社近くの土着の郷士)の息子がいた。そのうちの二人はとても仲が良かった。一人は篠岡大吉(しのおかだいきち)、もう一人は小野新之助(おのしんのすけ)といった。ともに九歳。しかしあなどるなかれ、「肩をぬげば、草子錐(さうしぎり)封じ小刀にて、若道(じやくだう)の念約の印(しるし)紫立ち」とあるように、二人は早くも男色の契りを結んで深い仲になっている。男色があちこちで行われていた当時、特に女性がそれを嫌うということもなく、むしろ大吉・新之助ともに備わった美貌ゆえ、二人が若衆盛りになると周囲の僧侶、町衆、性別、いずれにかぎらず大人気となり、彼ら二人に憧れるあまり「千愁百病」=「恋わずらいで寝込んでしまう」連中が続出した。

「なほさかんになる時は、二人が美形(びけい)にひかれて、僧俗男女にかぎらず、千愁百病となつて、焦が(こが)れ死(じに)その数しらず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻一・二・この道いろはにほへと」『井原西鶴集2・P.324』小学館)

ところで「手習ひ屋の一道(いちだう)」だが、彼らに手を出すことは一切ない。詫び住まいの世捨人で自ら四条河原の歌舞伎若衆のことが忘れられないくらいなのだが。それより注目したいのは、底辺暮らしで日陰者の「手習ひ屋の一道(いちだう)」の手元から眩いばかりの華麗な二輪の男花が出現した点である。この小説はここから後半へ続く。と同時に「手習ひ屋の一道(いちだう)」の役割は終わっていてもう出てこない。

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熊楠による熊野案内/男色恋塚「祭場=斎場」論

2020年11月23日 | 日記・エッセイ・コラム
熊楠は「大峰山上」、「出羽三山」、「熊野三山」、を例に上げ、「寵愛の稚児」であろうと「艶容の若衆」であろうと「創負いたる老夫」であろうと、葬らなければ同行の者らもまた死んでしまうほかなかったような時代について語る。戊辰戦争でもまだそのようなことがあった。

「平安朝とか鎌倉・足利時代に、日光・湯本間よりずっと峻路多かりし大峰山上とか、出羽三山とか熊野三山とかの道路を思いやれば如何(いかが)あるべき。いかに寵愛の稚児なりとも、艶容の若衆なりとも、一人病み出されては限りある日数に予定の行方を遂ぐることならず。今のごとき担架もなければ、かんづめの食菜もなし。山伏などみなみな斧を手にして山に分け入るを要するほどの困難な道中に、そんな病人など出来ては、涙に咽んでこれを捨て去るの外なきなり。近く徳川勢が伏見より紀州へ落ち来たりし、小生二歳のときなどすら、江戸旗下(はたもと)の士で創負いたる老夫を介抱して立ち退くことならずより、首を打ち落とし腰に付けて来たりしもの一人に止まらざりしと、これを目撃したる亡母の語られし」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.470』河出文庫)

松永久秀の名も出てくる。

「落城とか、自分が追放さるるとかの時に、最愛のものが敵の手に落つるを憂いて、納得させた上、または欺きて、寵愛の男女を谷へ落とし滝壺に沈むるほとのことは、いかほどもあるべし。ーーー松永久秀が自殺する前に、信長が垂涎する平蜘(ひらぐも)の釜を打ち破りしと同じ覚悟なり。君寵を得る童は殉死を覚悟し、僧兵に囲われた若衆は谷に沈むくらいのことを覚悟せねば、戦国などには相応の立身も出世もならざりしことに候」(南方熊楠「ちご石、北条綱成、稚児の谷落とし、『思いざし』、その他」『浄のセクソロジー・P.471~472』河出文庫)

平蜘蛛の釜のエピソードは有名だが織田信長の手に渡ってはいない。松永久秀は自分の自害と同時に平蜘蛛の釜に火薬を仕掛けて爆破したらしい。

「平蜘蛛 松永の代に失す」(「山上宗二記」『日本の茶書1・P.170』東洋文庫)

さて。熊楠の愛読書の一つ、西鶴「男色大鑑」の中に、主人公より関心を引く人物が登場する。主人公は京の四条河原の歌舞伎役者・千之丞。超絶的人気を誇る模範的女形である。十四歳から四十二歳まで振袖で通したという設定。

「十四の春よりも都の舞台を踏みそめ、四十二の大厄(たいやく)まで振袖(ふりそで)をきて、一日も見物にあかれぬ事、末の世の若女形(わかおんながた)これにあやかるべし」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.480』小学館)

しかも大変気が利く。大寺院に所属する僧侶らは寺院の貴重な物品を売り払い、あるいは「山林竹木(さんりんちくぼく)」=「寺領」を金に換え、こぞって千之丞に入れあげる。富裕な商人らも同様。それゆえ身を滅ぼす者が絶えなかった。さらに噂を聞きつけた公家は似顔絵を書かせたりしたが、千之丞人気を妬む役者や絵師もいて、滑稽な姿をした千之丞の絵が出回ったりもした。

「すこし酔(ゑ)ひいての座配(ざはい)、紅葉(もみぢ)のあさき脇顔、見しに恋をもとめて、高尾・南禅寺(なんぜんじ)・東福寺(とうふくじ)にかぎらず、諸山(しよさん)のうき坊主、代々(よよ)の筆のものを売りはらひ、又は山林竹木(さんりんちくぼく)までを切り絶やし、皆この君の御為(おんため)となし、後はひらきて傘(からかさ)に身をかくしぬ。あるいは商人(あきびと)の手代(てだい)、その親方をだしぬき、かぎりもなく金銀をつひやし、かりなる御情(なさけ)に家をうしなふ人、その数をしらず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.481~482』小学館)

一方、五条の橋の下で暮らしている或る男性がいた。火打石を売って糊口をしのいでいる。朝方に鞍馬山へ出かけて火打石を拾い、昼に洛中に帰ってきて五条橋の下で売る。売れ残りはその日のうちに捨てた。その日暮しに迷う様子もないようで、周囲はその男性のことを「都の今賢人(いまけんじん)」と呼んで一目置いていた。

「風のはげしき夕暮(ゆふぐれ)、しかも雪日和(ゆきびより)にして、はや北山は松の葉しろく見わたし、物のさわがしき道橋(みちはし)の下、五条の川原を夜(よる)の臥(ふ)し所(どころ)として、渡世(とせい)夢のやうに極(きは)めて、まことに石火(せきくわ)の光、朝(あした)に鞍馬川(くわまがは)の火打石(ひうちいし)をひろひ、洛中(らくちゆう)を売り廻(めぐ)りて、残れば夕(ゆふべ)に捨てて、その日暮しの思ひ出(で)、これを都の今賢人(いまけんじん)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.482~483』小学館)

話題は千之丞の耳にも入った。むかしは「尾州(びしう)にかくれもなき風流男(やさおとこ)」。尾張国では知らぬ者のない伊達男だったという。思い返してみると、千之丞がまだ若女方として登場した頃から贔屓にしてくれ、さらに互いに男色関係を深く暖め合った、まさにその人に違いない。よく聞くと今「五条の河原(かはら)に浅ましき形(かたち)にてまします」という。うらぶれはてて五条河原にいるらしい。或る時、どこへ行ったのかわからなくなり残念に思っていたのだが、こんな近くにいたとは。

「この人のむかしを聞けば、尾州(びしう)にかくれもなき風流男(やさおとこ)なり。千之丞太夫なりの自分より、深く申しかはして逢ひぬ。身をかくし給ひて、久しく御行方(ゆきがた)のしれざる事を嘆きしに、ある人伝へて、『五条の河原(かはら)に浅ましき形(かたち)にてまします』」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.483』小学館)

霜夜の明け方の寒さが身にこたえる朝。千之丞は一人、燗酒の用意を持って五条橋の下でかつての愛人の名を呼びながら探し歩く。

「曙霜夜(あけぼのしもよ)身にこたへて、嵐もはげしき河原を思ひやりて、袂(たもと)に盃(さかづき)を入れ、燗鍋(かんなべ)を提げて、人をもつれず岸根(きしね)の小石を踏みこえて、水鳥の浪(なみ)の瀬枕(せまくら)をさわがし、はるかなる橋の下に行きて、『尾張の三木(さんぼく)様』と、むかしの名を呼べども知れず」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.484』小学館)

男性のかつての名は「尾張の三木(さんぼく)」。「三木(さんぼく)」は三木(みき)とも読む。さらに三木は「神酒」(みき)、または「三木」(そうぎ)とも言う場合がある。「そうぎ」は「葬儀」のことで、葬儀と神酒との用意は両者合わせて一つの職として成り立つことがあったらしい。仏事と神事とはそう厳密に分割されていたわけではない。意味は違っていても行われることは同じであることが縷々あった。今でも結婚式の後に食事があり葬式の締め括りにも食事が出る。もっとも、今は打ち続く不況のため、食事を省略するケースは加速的に増えたが。それはそれとして、古代、いずれも儀式という意味で元々の形式は一つだったと考えられる。それにしても、「尾張の三木(さんぼく)」の身体は長い間のその日暮らしで傷だらけだ。千之丞は懸命になって三木の足をさするけれども「あかぎれより紅(くれなゐ)乱してなほいたましき」。あちこち血が滲んでいて見るに忍びない。

「しばし過ぎにし事を語りて、手づからもりし酒に明方(あけがた)の風をしのぎ、東の空もしらみて、『御有様をみるに、風俗の残りし所はひとつもなし。かくも又替はる物ぞ』と御足をさすれば、あかぎれより紅(くれなゐ)乱してなほいたましき」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.484~485』小学館)

芝居の太鼓を打つ時間(午前六時頃開場)が迫ってきた。なので今日の夕暮れにまた来ますと千之丞はいう。三木はどこか憂鬱そうな風情のまま千之丞に黙って五条河原を立ち去った。去った理由に少しばかり思い当たるふしがないだろうか。遠く古代ギリシア文献の一節。

「もし人がこれら地上のものから出発して少年愛の正しい道を通って上昇しつつ、あの美を観じ始めたならば、彼はもうほとんど最後の目的に手が届いたといってもよい」(プラトン「饗宴・P.125~126」岩波文庫)

ともかく、立ち去られてしまった千之丞にすれば残された火打石だけが三木の形見だ。火打石をかき集め、「東山今熊野(いまぐまの)の片陰にはこばせて、枯葉の小笹(をざさ)が奥に塚をつき」、亡くなった人を「弔(とぶら)ふごとく」、草庵を結んで法華経を唱える法師を連れてきて塚の守りとした。「新恋塚(しんこひづか)」とあるが、そもそもの「恋塚」は鳥羽の恋塚伝説。

「その後千之丞この事をなげきて、都の中をたづねしにその甲斐(かひ)もなく、残れる火打石(ひうちいし)を取り集めて、東山今熊野(いまぐまの)の片陰にはこばせて、枯葉の小笹(をざさ)が奥に塚をつき、その御方の定紋(ぢやうもん)なれば、、しるしに桐の一本をを植ゑおき、世になき人を弔(とぶら)ふごとく、辺(ほと)りに草庵をむすび、日蓮(にちれん)の口まねをせられし法師をすゑて、ここを守らせける。ある人名づけて、これを新恋塚(しんこひづか)といへり」(日本古典文学全集「男色大鑑・巻五・三・思ひの焼付は火打石売り」『井原西鶴集2・P.485』小学館)

そこで、なぜ「塚」なのか。神酒、葬儀、そして埋葬。古くはそれらはまとめられて一つの「祭場」を形成した。「祭場」は同時に「斎場」でもあった。柳田國男はいう。

「人間の埋葬のために築いた以外の塚は、どうもまだ明白にその性質を断言する事は自分にもできぬが、とにかくそれが一種の祭場であった事はほぼ疑いがない。この風は、あるいは古く外国から輸入せられたものだという事もできるかも知れぬが、もちろんこれに関するなんらの証拠はない。ただ支那などでも祭祀の場所は、山とか丘とかいう天然の高味を用ゆるほかに、しばしば人間の足で踏み散らす場所では、必ず祭壇として清浄なる土を盛った事があるから、わが邦においても、最初の趣旨は多分これと同様であったであろう」(柳田國男「塚と森の話・塚は一種の祭場である」『柳田國男全集15・P.476』ちくま文庫)

人々はそこで、笑い、泣き、踊り、祈り、飲み、食い、そしてまた新しく始めることが可能だったのである。

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熊楠による熊野案内/比丘尼たちの輪廻転生

2020年11月22日 | 日記・エッセイ・コラム
自分で自分自身についてしっかりした理解がないような場合、人間の魂はふらふら出ていく。学校、職場、通勤、通学、買い物、道端、いずれのシーンにおいても人々はついうっかり他人の姿形に心を奪われてしまいがちだ。相手がどれほど馬鹿な人間だとわかっていてもなお。落ち着きのない性愛の動きはしばしば家庭を崩壊させ政治運動を挫折させ地域社会に致命傷を与えることさえある。しかし古代には、より一層不可解な説話がなかったわけではない。輪廻転生。証拠物件を提示しつつ生まれ変わったエピソードがある。「黶(ふすべ)」は「ほくろ」のこと。「山部の天皇(すめらみこと)」は桓武天皇。善殊善師(ぜんじゅぜんじ)は「尺(しゃく)=釈迦の弟子」である。善殊は死ぬ前に占い専門の巫女を呼んで卜占を行った。巫女は告げた。同じところに同じ「黶(ふすべ)」を持って親王として復活するだろうと。

「而して彼(そ)の善師の頤(おとがひ)の右の方に、大きなる黶(ふすべ)有りき。平城(なら)の宮に天(あめ)の下治めたまひし山部の天皇(すめらみこと)の御世の延暦の十七年の此頃(ころほひ)に、善師善殊、命終(みやうじゆ)の時に臨みて、世俗(よのひと)の法に依りて、飯占(いひうら)を問ひし時に、神霊、卜者(かみなぎ)に託(くる)ひて言はく、『我、必ず日本の国王の夫人(ぶにん)丹治比(たぢひ)の嬢女(をみな)の胎(はら)に宿りて、王子に生(うま)れむ。吾が面の黶(ふすべ)著(つ)きて生れむを以(も)て、虚実(こじつ)を知らまくのみ』といふ」(「日本霊異記・下・智と行(ぎやう)と並(とも)に具(そな)はれる禅師の重ねて人身を得て、国皇のみ子と生れし縁 第三十九・一・P.287」講談社学術文庫)

すると、しばらくしてその通りに復活した。ただ、「三年許(ばかり)経(へ)、世に存(あ)りて薨(う)せたまふ」とあり、なぜ「三年」だったのかはわからない。ところでこの説話の中に「丹治比(たぢひ)の夫人(ぶにん)」という名が見える。

「命終(みやうじゆ)の後、延暦の 十八年の此頃(ころほひ)に、丹治比(たぢひ)の夫人(ぶにん)、一(ひとり)の王子を誕生(うみま)す。其の頤(おとがひ)の右の方に黶(ふすべ)著(つ)くこと、先の善殊善師の面の黶(ふすべ)の如し。失(う)せずして著(つ)きて生る。故(そゑ)にみ名(な)を大徳(だいとこ)の親王(みこ)と号(まう)す。然して三年許(ばかり)経(へ)、世に存(あ)りて薨(う)せたまふ」(「日本霊異記・下・智と行(ぎやう)と並(とも)に具(そな)はれる禅師の重ねて人身を得て、国皇のみ子と生れし縁 第三十九・一・P.287~288」講談社学術文庫)

熊楠はトーテムについての論考の中で「丹治比(たぢひ)」の名について触れている。

「反正天皇降誕の時タジヒ(虎杖)の花の瑞あり、よって多遅比端歯別命(たじひのみつはわけのみこと)と号し奉り、諸国に丹治比部をおきその主宰に丹治比姓を賜う」(南方熊楠「トーテムと命名」『動と不動のコスモロジー・P.82』河出文庫)

日本書紀から該当箇所。

「時(とき)に多遅(たぢ)の花(はな)、井の中(なか)に有り。因(よ)りて太子の名(みな)とす。多遅の花は、今(いま)の虎杖(いたどり)の花なり。故(かれ)、多遅比端歯別天皇(たぢひのみつはわけのすめらみこと)と称(たた)へ謂(まう)す」(「日本書紀2・巻第十二・反正天皇即位前紀~元年十月・P.300」岩波文庫)

なるほど「多遅(たぢ)の花(はな)」は日本書紀編纂期すでに「虎杖(いたどり)の花」とされていた。今でいう「イタドリ」。茎は食用にもなる。だが「丹治比(たぢひ)」の名は「多遅(たぢ)の花(はな)」に由来したのではなく、都が置かれた河内の丹比(たじひ)に由来するものだろう。今の大阪府羽曳野市丹比付近。

さらにこの時に巫女が行った卜占術は「飯占(いひうら)」とある。飯の炊き具合を見て判断する方法。飯と占いとは遥か古代からずっと関係が深い。前に「飯盛山」について柳田國男の論考を引いた。

「飯盛(いいもり)山は、通例山の形が飯を盛り上げた形に似ているからこの名があるというが、それだけでは命名の理由の不明な飯盛山が、自分の集めているだけでも、全国にわたって百以上もある。いずれも形の整った孤峰であるが、一方には、飯盛塚というものが無数にある。単に形似の偶然によって、気軽に命名したとはとうてい考えられないほど無数にある。自分等の推測では、平野の中に起った村で神を祀る場合、山村で紙を祀ると同じように、特に高く土を盛ったものと見る。山の名と塚の名と共通しているのは、飯盛山ばかりではない。茶臼(ちゃうす)山、茶臼岳が多いと同時に、茶臼塚が無数にある。かめ塚とかめ山ともまた非常に数が多い。一方にはまた塚の名と神様の名とに、幾つも共通なのがある。野神と野塚、松神と松塚、牛神と牛塚、狐神と狐塚という風に、神様がある所には、同名の塚のある例がたくさんある。そこで、天然に存在する嶺も、人工によって成ったところの一丈二丈の塚も、信仰上共通の要素を有しておったと想像することができる」(柳田國男「飯盛山と飯盛塚」『柳田國男全集15・P.555』ちくま文庫)

ところで、江戸時代に入ると琵琶法師や歌比丘尼らにとって年末は、泣くに泣いてもいられない時期だ。あれこれ芸に工夫をこらして少しでも義理は果たさねばならない。できなければ明日にでも死ぬほかない。工夫は当たり前。それ以上に大事なのはなぜか伝統的に確実に観衆受けする絵解きであり物語である。そのため技術を磨いておくのは日々の練習次第だが、中心となる技はいつも音色とリズムとの妙なる融合である。

「言葉の妙味などは国限りのものであって、之を国際的に品評すべき尺度とては無いが、我々の歌謡や語り物の面白さ、さては謎とか諺とかの文句に、意味を離れてなお幼い者をまで引付ける力があったのは、ひとえに音と間拍子とを粗末にしなかった永い間の習練のおかげであった。個々の新語の世に行われて、永く廃れなかったのも惰性だけではなかった。単なる落想の奇警は飽きられる時が来るが、音の興味には愛着の念が副うたのである」(柳田國男「口承文藝史考・口承文藝とは何か・十一」『柳田國男集・第六巻・P25~26』筑摩書房)

江戸時代。なかでも琵琶法師は宗教的庇護を頼みにすることが難しくなってきた。

「琵琶法師を題材とした笑話やからかひの歌も相当多い。亦同様に彼らの自作であろうと思う。平家は如何にも物悲しい語り物であるが、座頭に随従する小盲は、あとで必ず口直しのように、腹を抱えさせるような早物語をした。東北地方で大家という程の家は、台所が馬鹿に大きくて、始終色々の旅の者が泊って居た。ボサマなどは殊に人気があって、芸と話で夜は遅くまで遊ぶのが習いであった。常居の爐の周りにも、一冬は毎夜のように夜話の寄合があった。後には単なる閑潰しの如く、考えられるようになったらしいが、実は是も亦欠くべからざる年中行事であった。殊に近世の三〇〇年を一貫して、日待といい庚申待というが如き、ほとんど夜話を主たる目的とした会合が当番を以て催され、必ずその席に招かれる者は座頭であった。座頭という名称はあるいはこういうところから出たかと思う。旧家には持仏の前などに盲人を泊める小座敷さえもあった。奥州の昔話の今日の形は、思うに此一間の中で改造せられたものであろう。というわけはこの階級の宗教上の勢力は、他の何れの法師よりも一番先に失墜して、直接技芸を以て飯の種としなければならなかったからである」(柳田國男「昔話覚書・昔話解説」『柳田國男集・第六巻・P.506』筑摩書房)

柳田が、「この階級の宗教上の勢力は、他の何れの法師よりも一番先に失墜して、直接技芸を以て飯の種としなければならなかった」というのは、そもそも琵琶法師は「語り部」として出現したことと関係がある。折口信夫は「ほかひびと」と呼んでいるが、上代の日本には主に祝言職を生業とした語り専門の人々の集団があった。琵琶法師が「平家物語」を語り始めるのは言うまでもなく源平合戦以後である。それ以前に「平家物語」は存在しない。そしてその特徴は「鎮魂歌」として出現した点であり、そのこと自体に着目する必要がある。折口信夫が論じているように、流浪民らが全国を放浪しなくてはならなくなっていった経緯には、特に江戸時代になって以降、ほぼ誰も「鎮魂歌」を必要としなくなった歴史がある。以下、折口の論考の中から要点を列挙しておく。

(1)「鎮魂の第一義は『たまふり』で、魂を鎮めることは第二儀になる。日本在来の『たまふり』と鎮魂とは似てゐたので、鎮魂の文字を宛てたのである。『ふる』とは元来、くつ箸けることであつて、魂を著けるのが鎮魂、即、『たまふり』である。この鎮魂は、唐土では、内の魂が外へ出ぬやうに鎮めることであるから、日本でも、一般には同じ様に考えられてゐるが、実は、古くは、外部から魂を取つて来て、それを著ける事であつた。ーーー鎮魂とは、このやうに人間の外部にある精力の源を身体に固著させる事である」(折口信夫「歌謡を中心とした王朝の文學・鎮魂歌」『折口信夫全集・第十二巻・P.268~269』中公公論社)

(2)「流離民(ウカレビト)が澤山生じた原因は、幾つか挙げられるであらう。譬へば、聖武の朝に、行基門徒に限つて托鉢生活を免して以来、得度せぬ道心者の階級が認められる様になり、其とともに、乞食行法で生計を立てつものを、寺の所属と認めた。即、『ほかひ人』が、寺奴の唱門師となつて行く道は開けたのである。併し、其以前に、流離の民を多く生じさせねばならなかつた根本的な理由が別にある。元、地方の権威者たちと倭宮廷との交渉には、大体、二通りの行き方があつた。其村が、倭の本村から、一目も二目も置かれた強大な村ならば、其神人の生活は、次第に倭化することは免れぬとしても、先、幸福な推移を続けて行つたに相違ない。併し、中央の命令のよく徹る村々では、さうは行かなかつたらしいのである。中でも、村君と血統上結びつきのない、神の本縁を説く神人たちは、内外から受ける圧迫に抗し切れず、夙く亡命の旅に出ねばならなかつた。又、その奉ずる神が村君ーーー國造ーーーに対しては力があつても、中央から任ぜられて来る官吏ーーー國司ーーーに対しては、完全に無力であるといふ、悲しい境遇も生じた。譬へば、日向風土記逸文の記すところは、其である。更に、部曲の保護者を失うて、無理解な國司の治下に置かれた、その神人の生活は、二重に桎梏に悩む、奴隷の境遇であつた。手職をうけ襲いだ家は、どうにか自活することが出来るとしても、其以外の大多数の者は、本貫を離れて苦の世界を脱しよう、と図らねばならぬ様にせられてゐたのである。かうした亡命の民が、行く先々で受けたのは、その異神を奉ずる者であるがために受ける境涯であつた。里人の畏れと、期待との交錯した注目のうちに、益、其悲しい本質から離れられぬ様になり、同時に、祝福者としての屈従生活に、深入りせねばならなかつた。さうして、此間の事情を深く知らぬ為に、世間は、その異部族である点を誇張して考へ、その人たちは一層、其独自の生活方法に據らずには、生活しにくいことになつたのである」(折口信夫「上世日本の文學・巡遊怜人」『折口信夫全集・第十二巻・P.336~337』中公公論社)

(3)「古代人の漠然とした考への上で、周期的に異神の群行があつて、邑村の生活に祝福を垂れて通り過ぎる、と信じた信仰が深まるとともに、時あつて、忽然として極めて新しい神の来臨に遭ふ事も、屢あることであつた。これを迎へる者の心は、楽しい期待ばかりに充たされてゐたのではなく、畏しい感じもまじつてゐた。だから、後に乞食者の字面を、『ほかひ人』に宛てたのは、必しも正確に当つては居らぬのである。乞ふのではなく、寧、此方からその機嫌をとり、其呪術に依つて、よい結果を残して行つて貰はうとする心持ちから、出来るだけ豊富に物を与へた訣である。この二様の交錯する気持ちが分れて、おとづれ人を、一つには、妖怪と信じ、一つには、祝言職から乞食者と考へる様になつたのである」(折口信夫「上世日本の文學・呪詞」『折口信夫全集・第十二巻・P.337~338』中公公論社)

しかし他の宗教教団とは異なり、熊野三山ばかりは彼らにとってどこまでも偉大な聖地だった。

(4)「千載集には、神のお告げの歌が出てゐる。衣通姫・人麿呂・住吉明神を和歌三神といふやうになつたのは、歌の統傅爭ひからのことであるが、起りは熊野にある。平安時代には熊野の信仰が盛んだつたが、熊野では歌によつて託宣を下し、其風が全國の社寺に擴つたのである」(折口信夫「歌謡を中心とした王朝の文學・歌の文學化」『折口信夫全集・第十二巻・P.321』中公公論社)

ちなみに京都へ出張し東山山麓の岡崎に住居を構えた熊野比丘尼「妙壽(めうじゆ)」は有名だ。

「山つつき岡崎といふ所に、妙壽(めうじゆ)といへる比丘尼(びくに)、草庵を結び、東南の明(あか)りをうけず、襖(ふすま)障子(しやうし)も、假名文(かなふみ)の反故張(ほうぐばり)、上書(うはがき)、悉(ことごとく)やぶりしは、わけらしく見えて、一間(ひとま)、子闇(こくら)く、こしらえけるこそ、くせものなれ、爰(ここ)はと、友どちにきけば、洛中のくら宿(やど)なり」(井原西鶴「好色一代男・卷二・女はおもはくの外・P.52」岩波文庫)

西鶴は文藝において、熊楠や柳田は学術研究面から当然、琵琶法師や歌比丘尼の渡世がどれほど苦悶に満ちていたか、十分過ぎるほどよくわかっていた。とりわけ年末は。

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熊楠による熊野案内/消えた狼のエコロジー

2020年11月21日 | 日記・エッセイ・コラム
口承文芸の中には動物による報恩譚がしばしば出てくる。が、通りがかりの人間から危機を救われたとか餓死しそうになっているところを見つけてもらい食物を恵まれたとか、人間の側はさっぱり覚えがないにもかかわらず、人間を支援する場合が見られる。このような場合、動物は人間の「援助者」として登場する。柳田國男は幾つか列挙している。また柳田はこの種の論考の最初に「継子いじめ」のエピソードから入っている。この点で、なぜもう一つの系列に属する話から始めているのか。そちらの理由の側がむしろ関心をそそる。

「動物はもと人間から、何らの行為を寄せられなかった場合にも、はやり往々にして昔話の主人公を援助している。栗福米福の継子が、継母に命ぜられた大きな仕事に困って泣いていると、沢山の雀が来て嘴で稗の皮を剥いてっくれる。西洋にはそれを実母の亡霊の所為の様にいうものもあるが、日本ではただ雀等が感動して助けに来るというのが多い。瓜子姫が柿の木の梢に縛られて居るのを、教えてくれたという鳥類は色々あったが、これもその時まで主人公と、何かの関係があったとも説かれて居らぬのである。それから同じ報恩という中にも、命を助けて貰ったなどはどんな礼をしてもよいが、たった一つの握飯を分けてやって、鼠の浄土へ招かれて金銀を貰ったり、あるいは蟹寺の如く無数の集まって大蛇と闘ったり、取ると与えるとの釣合いは少しもとれていない。これなどは禽獣蟲魚に対する我々の考え方がかわって、斯様に解釈することが比較的もっともらしくなったからで、こうしてまでも人が非類の物から、大きな援助を受けることがあるものだということを、永く記憶していたのは昔話の賜と言ってよい。人と動物とが対等な交際をした時代があったことを、伝えている歴史というものは昔話の他には無いのである」(柳田國男「口承文藝史考・昔話と傅説と神話・七十八」『柳田國男集・第六巻・P.119』筑摩書房)

昔話はあなどれない。「人と動物とが対等な交際をした時代があった」。飼い犬や飼い猫だけでなくごく当たり前に耳にする日々の鳥の声、どこか剽軽な亀、アシカやジュゴンの遊泳、あるいは動物園でひとときの憩いを惜しげもなく提供する彼ら。人々は金銭を支払ってまでそこへ赴こうとする。「人と動物とが対等な交際をした」どころか今や逆に、動物の側から癒しを与えられるまでに人間の側は「零落した」と言えるかもしれない。

さらに狼の場合。「オホカミ」と書く。「大神」であって、古代から既に「神格」を与えられていた。第一に柳田が述べるのは「義理固い」点について。ニーチェのいう債権債務関係意識が非常に高い。

「狼が人の恩誼に報ずるの念に厚く、今の言葉でいうと義理固い獣類であったことは、既に数多くの実例が記憶せられている。最も古くからあるのは咽に骨を立てて、それを抜いてもらって礼に来た話、あるいは喧嘩をしていたのを仲裁してやっただけでも、非常に感謝せられたという話さえある。それから子を産んだ時に産見舞を持って行ってやると、その重箱に鳥などをオタメに入れて、そっと返しに来たなどといい、又は送り狼には門口の戸を閉てる前に、大きに御苦労でござったと一言挨拶をせぬと、怒って家のまわり荒して行くと言ったり、又は山中で狼の食い残した野獣を拾ったとき、代りに少量の鹽(しお)を置いて来るか、少なくとも肉の一部分を残して来ぬと、いつ迄も覚えていて仇をするとも言い伝えているが、これらは何れは皆人間の側からの働きかけがあって、その反応だというのだからやや信じやすい。言わば我々の方にも少々の心当りがあったのである。しかしそれにしたところが、他の獣にはあまり言わぬことを、どうして狼だけにはそう言い始めたものかが問題になる。所謂霊獣思想が特に狼に於て濃やかであったことは、オホカミという一語からでも若干は推測せられるのである」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.462』筑摩書房)

何が狼を神格化させるに至ったか。犬の嗅覚は警察犬として用いられているほど高度である。ところが狼は嗅覚もさることながら、犬の「嗅覚以上の何物かがあった」。そして狼が持つそのような特質に人々は気づき畏怖していたことは確実だと言える。また二点目は「本来はそうやたらに人を食おうとするもので無かった」こと。

「東京の近くでは三峯御嶽、遠州の春野山や山住神社、但馬では妙見山という類の信仰は、まだ多く知られざる小区域に、神職無しに保管せられているものが多いかと思う。尋常片々たる田畠の害鳥獣を駆除するということまでは、あるいは本能の過信とも見られようが、夜行く人の中から悪人と善人、盗賊と番の者とを見定めて、一方だけを咬むということは、単なる主神の神徳を実行するだけとは考えにくい。つまりは此獣の持前の力に、狗の嗅覚以上の何物かがあったこと、及び本来はそうやたらに人を食おうとするもので無かったこと、この二つの信用がもとは遥かに今よりも高かったので、狼の睫毛を目に翳すと、よくない人の姿が猫にも鳥にも見えたという昔話なども、それから岐れて出たものとして、漸くその成立の事情が明かになるのである」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.462』筑摩書房)

今になって言えるわけだが、嗅覚以上の何物かというのは自然生態系に密着した生育環境に対する大変敏感で、なおかつ常に細やかな感受性である。人間は知らず知らずのうちに狼に適した自然生態系を絶滅させた。しばらくして人間が人間の手によって犠牲になる番がやってきたわけだが。ともあれ、漫画や映画、あるいはアニメなどに登場する狼を見ていると、ときどき狼は人間の言葉を話していないだろうか。大神(オホカミ)は人間の凡庸性を遥かに凌駕する《過剰-逸脱》を、その獣性とともに感性として持ち得た極めて稀な獣だった。「追記」として柳田は引いている。

「宮本常一君が最近公けにした『吉野西奥民俗採訪録』三九四頁に、やはり備後と同一の話が、大和吉野郡の大塔村にも行われていることを記して居る。狼が人語して、『お前はあたり前の人間だから喰ひ殺されぬ。わしは人に生れて居ても畜生であるものだけ喰ふのだ』と語ったとある」(柳田國男「昔話覚書・食わぬ狼」『柳田國男集・第六巻・P.463』筑摩書房)

さて「大和吉野郡の大塔村」の名が出てきた。ここからは熊楠の任せるのがよい。

「当国の山は大塔峰(おおとうのみね)〔東西牟婁郡界に連亙す〕三千八百尺ばかりを最高とす。次は大雲取(三千二百尺)、大甲(たいこう、三千三百尺ばかり?)、また小生がつねに往く安堵峰(三千四百尺?)等なり。しかるに、これらはいずれも北国に比してつまらぬもので、頂上は茅原(かやはら)リンドウ、ウメバチソウ、コトジソウ、マルバイチヤクソウ等ありふれたものを散在するのみ。それより下にブナの林あり。ブナは伐ったらすぐ挽(ひ)かねば腐って粉砕す。故に濫伐の日には実に濫伐を急ぐなり。この半熱帯地にブナ林あるもちょっと珍しければ、少々はのこされたきことなり。しかるに目下そんな制度少しもなく、郡長などいうもの、何とかしてこれを富豪に払い下げ、コンミッションを得て安楽に退職せんと民を苦しめ、入りもせぬ道路開鑿(かいさく)をつとめること大はやりなり」(南方熊楠「南方二書」『森の思想・P.432~433』河出文庫)

熊楠が意識しているのは「太平記」に出てくる護良親王熊野落ちの条だろうと思われる。

「般若寺(はんにゃじ)を御出であって、熊野(くまの)の方(かた)へぞ落ちさせ給ひける」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.250」岩波文庫)

次の文章で護良親王は「柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)」を選択している。平泉へ落ち延びる源義経を連想させずにはおかない。

「宮を始め奉つて、御共の者ども、皆柿(かき)の衣(ころも)に笈(おい)を懸けて、頭巾(ときん)眉半(まゆなか)ばに責めて、その中の年(とし)長ぜるを先達(せんだち)に造り立てて、田舎山伏(いなかやまぶし)の熊野詣でする体(てい)にぞ見せたりける」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.251」岩波文庫)

さらに物づくしの手法が取られている。

「由良(ゆら)の湊(みなと)を見渡せば、門(と)渡る船の梶(かじ)を絶え、浦の夕塩(ゆうじお)幾重(いくえ)とも、知らぬ浪路(なみじ)に鳴く千鳥(ちどり)、紀(き)の路(じ)の遠山(とおやま)遥々(はるばる)と、藤代(ふじしろ)の松に懸かる浪、和歌(わか)、吹上(ふきあげ)を余所(よそ)に見て、月にみがける玉津島(たまつしま)、さらでだに長汀曲浦(ちょうていきょくほ)の旅の道は、心を砕(くだ)く習ひなるに、雨を含める孤村(こそん)の樹(き)、夕べを送る遠寺(えんじ)の鐘、あはれを催(もよお)す時しもあれ、切目(きりめ)の王子(おうじ)に着き給ふ」(「太平記1・第五巻・8・大塔宮十津川御入りの事・P.251~252」岩波文庫)

王子信仰はどれも夭折した皇子(みこ)の物語から発生した。けれどもそれらが熊野一円を覆い尽くしているのはなぜだろうか。「熊野の本地の草子」は救いようのない血塗れの物語である。だが人々はそれに魅かれて止まない。大峰山の修験者も多く通過していく。古代だけでなく中世に入ってなおこの地は長く天皇を始めとする宮廷人のミソギの地だった。「平家物語」にもあるように有名な多くの武将らが繰り返し訪れた。ただし、それらの名を全国規模で有名にしたのは誰か。琵琶法師、座頭、比丘尼、瞽女、などの芸能者を忘れてはならないだろう。

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