白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・劇的変化はなぜ起こる/<ナイーヴ・無遠慮・退屈>としてのサニエット

2022年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
ゲルマント夫人に会うことが大変困難に思えていた頃、<私>は、夫人と自由に会える立場のサン=ルーがうらやましく思えた。ところが今やそうではない。「隔世の感がある」とさえ思う。その理由についてプルーストはいう。「他者という存在は、われわれとの位置をたえず変えているのだ」。もっとも、<他者>の場所移動に伴う価値変動が出現するためには<他者>の社会的価値変動が生じていなければならない。その意味で「位置をたえず変えている」とある中の「位置」という言葉は<社会的立場>を指している限りで始めて意味を持つ。

「その昔、ゲルマント夫人がサン=ルーとすごす時間をうらやましく想いうかべ、サン=ルーと会うことをあれほど重視していたときとは隔世の感がある!他者という存在は、われわれとの位置をたえず変えているのだ。感知されはしないがこの世の永遠につづく運動のなかで、われわれは他者をある瞬間の光景において動かぬものとして眺めるが、その瞬間はあまりにも短く、そのあいだにも他者が巻きこまれている運動などとうてい感知されない」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)

としてもしかし、プルーストの場合、サン=ルーと<私>との関係においてそのような社会的価値変動がどこで生じたか、述べていないではないかと思われるかもしれない。ところが実際は述べている。<私>のことはもとよりサン=ルーについても時間をかけて徐々に述べている。このように両者ともに或る程度詳細に少しづつ記述されていくような場合、仮に劇的変化があったとしても、それはほとんどのケースで変化に、少なくとも劇的変化には<見えない>。

「しかし記憶のなかでその他者の相異なる時点、とはいえ他者がひとりでに変化してしまうほどには離れていない時点、すくなくともその手の変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.384」岩波文庫 二〇一五年)

この箇所で「変化が実感できるほどには離れていない時点でのふたつのイメージを選びさえすれば、そのふたつのイメージの違いは、他者がわれわれとの関係でどれほど移動したかを測定させてくれる」とある。そういうことができるのはなぜか。また「測定」されるのは何か。ニーチェはいう。

「意識にのぼってくるすべてのものは、なんらかの連鎖の最終項であり、一つの結末である。或る思想が直接或る別の思想の原因であるなどということは、見かけ上のことにすぎない。本来的な連結された出来事は私たちの意識の《下方で》起こる。諸感情、諸思想等々の、現われ出てくる諸系列や諸継起は、この本来的な出来事の《徴候》なのだ!ーーーあらゆる思想の下にはなんらかの情動がひそんでいる。あらゆる思想、あらゆる感情、あらゆる意志は、或る特定の衝動から生まれたものでは《なく》て、或る《総体的状態》であり、意識全体の或る全表面であって、私たちを構成している諸衝動《一切の》、ーーーそれゆえ、ちょうどそのとき支配している衝動、ならびにこの衝動に服従あるいは抵抗している諸衝動の、瞬時的な権力確定からその結果として生ずる。すぐ次の思想は、いかに総体的な権力状況がその間に転移したかを示す一つの記号である」(ニーチェ「生成の無垢・下・二五〇・P.148~149」ちくま学芸文庫 一九九四年)

次の箇所ではサニエットが登場する。といってもサン=ルーと比較されたからではなく、比較されなかったからでもなく、サン=ルーが<私>の訪問客として描かれたすぐ後に登場するように出来ている。問題になっているのは訪問客としてのサニエットであり、サニエットを呼び寄せたのは「訪問客」という言葉なのだ。またこの箇所ではこれまで何度か話題に上っているように、どこのサロンに顔を出してもなぜサニエットは嫌われてしまうのかという説明が繰り返される。サニエットの欠点。その第一はナイーヴ過ぎて遠慮がちな言動。第二は社交界における平均点をクリアしたと認められるやたちどころに無遠慮になる言動。あたかも政治家のように小心翼々としており、にもかかわらず一度承認されたとなるとたちまち無遠慮極まりない言動を繰り返すという極端な自惚れである。最悪なのはサニエットの話が退屈この上ない点なのではなく、自分の語る話が相手を退屈させてしまうのではないかと正直に打ち明けない身振り(態度)なのであって、社交界の側が要求しているのはサニエットの正直さに他ならない。ゆえにサニエットから正直さを引き去ってしまうと<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という魔の三点セットしか残らなくなってしまうという悪循環を起こす。

「サニエットは、ヴェルデュラン夫人のところや小さな路面(トラム)のなかで私に会ったとき、お邪魔でなければバルベックでお目にかかれると嬉しいのですが、と言うこともできたはずである。そうした申し出を受けても、私は尻込みしなかったであろう。ところがサニエットはなにも申し出ず、それどころか苦悶に顔をゆがめ、七宝焼ほどにも堅固なまなざしを投げかけ、しかもそのまなざしの成分に、なんとしてもーーーもっとおもしろい人が見つからないかぎりーーー目の前の相手を訪ねたいという悶々たる欲望とともに、その欲望は気取(けど)られまいとする意志を組みこみつつ、恬淡(てんたん)とした表情をで私に言うのだ、『ここ数日のご予定はおわかりではないでしょうか?と申しますのも、おそらくベルベックの近くへ出かけるものですから。いえ、べつになんでもないんです。ちょっとお訊ねしただけですから』。こうした面持ちがこちらの判断を誤らせることはなかった。われわれが自分の感情をそれとは裏腹な形であらわすときに用いる逆の符牒はきわめて明快に解読されるものなので、たとえば自分が招待されていないことを隠すため、いまだに『招待が殺到しててんてこ舞いなんです』などと言う人がいるのは不可解なことである。おまけにこの恬淡として表情は、その成分に裏の本心が含まれるせいであろう、相手を退屈させるのではないかという危惧や相手に会いたいという欲望の率直な告白であればけっして感じさせなかったはずの不快感、嫌悪感を相手にひきおこした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.387~388」岩波文庫 二〇一五年)

しかしプルーストがサニエットを登場させて<ナイーヴ・無遠慮・退屈>という相異なる人格を詰め込んでいるのはどうしてだろうか。それこそサニエットという登場人物に仮託されてはいるものの、人間というのは、どんな人間であっても人間でしかない以上、多少なりともその種の多様な人格(サニエットなら<ナイーヴ・無遠慮・退屈>)といった多様な人格に内部分裂しつつ、「見た目」だけはたった一人でしかないという自己欺瞞を知らず知らずのうちに演じているのみならず、演じないではいられないのではないか、と問いかけていることを忘れるわけにはいかない。そうでなければプルーストがサニエットを何度も繰り返し登場させてくる必然性などまるで見あたらないのである。

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Blog21・破綻を繰り返す<手形>としてのアルベルチーヌ/<妄想>としての<私>

2022年09月27日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>は自動車でアルベルチーヌをパルヴィルまで送っていく。二人で何時間も過ごしていたので<私>の気分はとても平穏である。「ところがそのとき、アルベルチーヌが別れぎわに、叔母や女友だちにこう言うのが聞こえてくる。『じゃ、あした、八時半にね。遅れちゃダメよ、あの人たちは八時十五分にはもう用意ができてるんだから』」。<私>はそんなことだとは一つも知らされていない。そこでプルーストはいう。「愛する女の会話は、危険な地下水を覆い隠している地面のようなものだ」と。

「ところがそのとき、アルベルチーヌが別れぎわに、叔母や女友だちにこう言うのが聞こえてくる。『じゃ、あした、八時半にね。遅れちゃダメよ、あの人たちは八時十五分にはもう用意ができてるんだから』。愛する女の会話は、危険な地下水を覆い隠している地面のようなものだ。そのことばの裏には、いつなんどきでも、目には見えぬ水の層の存在が、その身にしみる冷気が感じられる。そこかしこに油断ならぬ水がしみ出ているのは目につくが、水の層そのものは依然として隠れている。アルベルチーヌのそのことばを耳にしたとたん、私の心の平穏は崩れ去った」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.376~377」岩波文庫 二〇一五年)

言葉というものは残酷なものだ。「アルベルチーヌのそのことばを耳にしたとたん、私の心の平穏は崩れ去った」。<私>の知らないうちに<私>の知らない時間が粛々と進行していたとは。言葉は覆い隠す。貨幣のように。

(1)「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫 一九七二年)

(2)「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

アルベルチーヌは<私>と恋愛関係にある。だからといってアルベルチーヌは<私>に、目覚めている間の言動を何もかも漏れなく報告しなければならない義務を負っているだろうか。そんなことはまるでない。アルベルチーヌは<私>に逮捕され連日検察に呼び出されすべてを自白しなくては許されない立場では決してないからである。恋愛は時として互いが互いを束縛し合い、互いの自由を奪い去り、互いに見ぐるみ剥いで拘束してなお飽きたらぬというくらい、あたかも戦時下の捕虜の拷問にも似た状態を出現させる。両者ともに過労死してしまいそうだ。そこで局面を打開するためには相手を特権的な位置から解放するしかない。すると中心はなくなる。脱中心化する。アルベルチーヌは<私>にとってただ単なる諸商品の無限の系列の中の一つに等しくなる。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

アルベルチーヌが特権的位置から解放されない限り、二人ともがずたずたになるまで、しばしば一方か二人ともかが死んでしまうまで、何度も繰り返し傷つけ合わないと気が済まないという緊迫した状態が延々と引き延ばされていくほかない。この種の状態が他人からみて大層へんてこに映るのは、例えば手形がまだ有効かどうかを瞬き一つせず確かめ合っていないと一睡たりともできないような資本家の態度に余りに似ているがゆえでもある。

「私は前に(第一部第三章第三節b)、どのようにして単純な商品流通から支払手段としての貨幣の機能が形成され、それとともに商品生産者や商品取引業者のあいだに債権者と債務者との関係が形成されるか、を明らかにした。商業が発展し、ただ流通だけを念頭において生産を行なう資本主義的生産様式が発展するにつれて、信用制度のこの自然発生的な基礎は拡大され、一般化され、完成されて行く。だいたいにおいて貨幣はここではただ支払手段としてのみ機能する。すなわち、商品は、貨幣と引き換えにではなく、書面での一定期日の支払約束と引き換えに売られる。この支払約束をわれわれは簡単化のためにすべて手形という一般的な範疇のもとに総括することができる。このような手形はその満期支払日まではそれ自身が再び支払手段として流通する。そして、これが本来の商業貨幣をなしている。このような手形は、最後に債権債務の相殺によって決済されるかぎりでは、絶対的に貨幣として機能する。なぜならば、その場合には貨幣への最終的転化は生じないからである。このような生産者や商人どうしのあいだの相互前貸が信用の本来の基礎をなしているように、その流通用具、手形は本来の信用貨幣すなわち銀行券などの基礎をなしている。この銀行券などは、金属貨幣なり国家紙幣なりの貨幣流通にもとづいているのではなく、手形流通にもとづいているのである」(マルクス「資本論・第三部・第五篇・第二十五章・P.150~151」国民文庫 一九七二年)

前夜二人が一緒に過ごしたあとでさえ、もう翌日になると「私の不安は募る」。理由はわからないが「アルベルチーヌが気もそぞろといった冷淡な顔をしている」からだが、それだけでなく、バルベックの堤防にいると「アルベルチーヌの知り合いがつぎからつぎへと通りかかる。きっときょうの午後のために私をのけ者にしたさまざまな計画を立てていたのだ」と考えないではいられないからである。「こうして私の前に立ちはだかるのは、私の午後を幸せにもすれば不幸にもする相手の謎めいた意図であり、知られざる決意である」。ほとんど妄想というべきだろう。

「翌日、目を覚ましたあと、堤防でアルベルチーヌを見かけた私は、相手からその日は都合が悪い、いっしょに散歩したいという私の願いには応じられないという返事を聞かされるのではないかと怖れて、その願いを口にするのをできるかぎり遅らせた。アルベルチーヌが気もそぞろといった冷淡な顔をしているだけに、私の不安は募る。アルベルチーヌの知り合いがつぎからつぎへと通りかかる。きっときょうの午後のために私をのけ者にしたさまざまな計画を立てていたのだ。私はアルベルチーヌを眺め、その魅力的な身体とバラ色の顔を見つめるが、こうして私の前に立ちはだかるのは、私の午後を幸せにもすれば不幸にもする相手の謎めいた意図であり、知られざる決意である」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.382~383」岩波文庫 二〇一五年)

しかしこの種の妄想はただ単に<私>一人だけでは出現することができない。対象となるものがまるで存在しないところでは嫉妬も妄想も何一つ起こりはしない。プルースト自身、こう述べている。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

さらに人間はこの「後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」ということを知っているにもかかわらず、なかなか一旦停止することができない。すると事態は次のように進展する。

「というのもわれわれが愛や嫉妬と思っているものは、連続して分割できない同じひとつの情念ではないからである。それは無数の継起する愛や、無数の相異なる嫉妬から成り立っており、そのひとつひとつは束の間のものでありながら、絶えまなく無数にあらわれるがゆえに連続しているという印象を与え、単一のものと錯覚されるのだ」(プルースト「失われた時を求めて2・第一篇・二・二・P.401」岩波文庫 二〇一一年)

ばらばらの<諸断片>から幾つかの諸部分のみを取り出してきて、本来ありもしない連続性を縦横無尽にでっち上げるのである。ニーチェから二箇所。

(1)「《『内的世界の現象論』》。《年代記的逆転》がなされ、そのために、原因があとになって結果として意識される。ーーー私たちが意識する一片の外界は、外部から私たちにはたらきかけた作用ののちに産みだされたものであり、あとになってその作用の『原因』として投影されているーーー『内的世界』の現象論においては私たちは原因と結果の年代を逆転している。結果がおこってしまったあとで、原因が空想されるというのが、『内的世界』の根本事実である。ーーー同じことが、順々とあらわれる思想についてもあてはまる、ーーー私たちは、まだそれを意識するにいたらぬまえに、或る思想の根拠を探しもとめ、ついで、まずその根拠が、ひきつづいてその帰結が意識されるにいたるのであるーーー私たちの夢は全部、総体的感情を可能的原因にもとづいて解釈しているのであり、しかもそれは、或る状態のために捏造された因果性の連鎖が意識されるにいたったときはじめて、その状態が意識されるというふうにである」(ニーチェ「権力への意志・下・四七九・P.23~24」ちくま学芸文庫 一九九三年)

(2)「『統一』として意識されるにいたるすべてのものは、すでにおそろしく複合化している。私たちはつねに《統一の見せかけ》をもつにすぎない」(ニーチェ「権力への意志・下・四八九・P.33」ちくま学芸文庫 一九九三年)

このような状態について「進展」と呼ぶことに慣れてしまった人間社会。習慣・因習というものは実に恐ろしい。いったん定着してしまえば全世界のカルト化すら可能にしてしまいかねないというのに。しかし事実はニーチェのいうように遠近法的倒錯であり歴史的逆行でしかないのだが。

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Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて30

2022年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。ナンテンは渇水にさえ気をつけていれば毎年実をつけてくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“ナンテン”」(2022.9.26)

前回撮影は二〇二二年九月二十四日午前九時頃。今回は九月二十六日午前九時三十分頃。また少しばかり色づいてきたように見えます。なお、このナンテンはタマの飼主が生まれた時すでに実家の庭にあったもの。引っ越しのたびに一緒に連れて来ました。樹齢五十四年以上ということになります。

参考になれば幸いです。

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Blog21・プルースト的ダイナミズム/記号としての<私>

2022年09月26日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>とアルベルチーヌとの関係は順調に進んでいるかのように見える。例えば二人で昼食を取ろうとリヴベルへ出かけた際、レストラン内の光景は次のように描かれる。

「バラ色の顔のうえに、炎のようによじれた黒髪をのせたボーイが、この広い空間を駆けまわっているが、その足どりが以前ほど遅くないのは、もはやコミではなく、シェフ・ド・ランに昇進していたからである。とはいえボーイの活動としては当然のことながら、ときに遠くのダイニングルームにいるかと思えば、ときにはもっと近くの庭で昼食をとる客たちに給仕していることもあり、そのすがたがあるときはこちらに別のときはあちらに登場するさまは、まるで駆けまわる若い神の移りゆく数多くの彫像が、いくつかは緑の芝生にまで広がる建物の明るく照らされた室内に、べつのいくつかは戸外の生活がくり広げられる緑陰の明るい光のなかに配置されたかに見えた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.373」岩波文庫 二〇一五年)

黒髪のボーイの動き。プルーストはそれを「当然のことながら」としつつ、しかし何を言わんとしているのか。「ときに遠くのダイニングルームにいるかと思えば、ときにはもっと近くの庭で昼食をとる客たちに給仕していることもあり」、「あるときはこちらに別のときはあちらに登場する」、「駆けまわる若い神の移りゆく数多くの彫像」、「いくつかは緑の芝生にまで広がる建物の明るく照らされた室内に、べつのいくつかは戸外の生活がくり広げられる緑陰の明るい光のなかに配置されたかに見えた」、など。そこでふと気づく。作品「失われた時を求めて」では数々のエピソードが時系列を無視して同時多発的かつ立体的に配置されながら次々と出没するわけだが、その講義をプルースト自身が読み聞かせているかのように思われないだろうかと。作品が書かれた一九〇〇年前後、構造主義という思想はもちろんなかったし、なおのことプルーストが第二次世界大戦後の世界へやってきたとしても構造主義者として創作するとは考えられもしない。プルースト作品は構造主義のように静的な創作ではなく逆に動的なダイナミズムによって作品自体が作者を突き放し、作品自ら突き動いていくという前代未聞の運動性で充満しているからである。

アルベルチーヌはボーイの動きについて、店内のあちこちを「黒髪の神が駆けてゆくのを見つめ」ながら、「レストランと庭とを明るく照りはえる走路としか考えていない」、とある。走路を黒髪のボーイが駆け抜けていくのではなく、黒髪のボーイがもはや走路なのだ。

また<私>はアルベルチーヌを伴わず一人でリヴベルで食事を取ることもあった。一人でいるといつも飲み過ぎてしまう<私>は「白い壁に描かれた丸形花模様(ロザーヌ)を見つめ」、「私の感じている快楽をそのうえに振り向け」る。すると「私にとって世界にはその丸形花模様(ロザーヌ)しか存在しなくなる」。壁に出現する「丸形花模様(ロザーヌ)」が差し当たり<私>の欲望対象になる。そこで<私>は「チョウ」に<なる>(生成変化する)とともに「無上の快楽のなかで息絶えんとする」ことができる。

「そんなときの私は、最後のグラスを飲みほしながら、白い壁に描かれた丸形花模様(ロザーヌ)を見つめ、私の感じている快楽をそのうえに振り向けた。私にとって世界にはその丸形花模様(ロザーヌ)しか存在しなくなる。私は、ふらふらと焦点の定まらぬ目でそれを追い、それに触れたかと思うと、今度はそれを見失い、未来のことには関心がなくなり、ひとえにその丸形花模様(ロザーヌ)だけに満足しているさまは、まるで静止したチョウのまわりをひらひらと舞い、その相手のチョウと味わう無上の快楽のなかで息絶えんとするチョウのようであった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.374~375」岩波文庫 二〇一五年)

ちなみにこの「丸形花模様(ロザーヌ)」という言語表現について、余りにも露骨ではないかという問いかけが今なお論じられている。女性器なのかそれとも肛門なのかあるいは両方なのかと。<私>がアルベルチーヌと二人で味わう性的快楽を対象として述べられている箇所で、アルベルチーヌの女性器と置き換え可能な器官となると何があると考えられるのか。いずれでも構わないではないかと思われる。とはいえしかし、<私>はあくまで異性愛者として設定されているため、この問いは延々どこまでも続く不毛な問いとして宙吊りにされ、読者の目の前から消え去ることなく投げ出されたまま放置されるほかない経過をたどる。

シャルリュスが男性同性愛しか認めない絶対的ソドムの人間であるのに対し、<私>は異性愛以外考えられない人間として登場しているのだが、にもかかわらず作品は<私>の語りという形式を通してのみ記述されている。それなら<私>は差し当たり異性愛者を演じるほかないものの、すべての場面を読者に提供する作品そのもの、「失われた時を求めて」を隅々まで可視化させていく「記号」とその連鎖以外の何ものでもないことになる。そしてアルベルチーヌはトランス(横断的)両性愛者である。この錯綜性をどうまとめればよいのか。というより、そもそもまとめる必要性が見あたらない。プルーストはストーリーの一貫性や一元化などまるで望んでいない。逆にコード化・脱コード化・再コード化という世界的諸運動、資本主義の世界化に伴って出現した支離滅裂性について、様々な価値体系を移動しつつ、世界の多様性について延々書きつけ続けているということを忘れるべきでない。

ところで<私>はほとんど毎日アルベルチーヌと会っているのだが、しかし不安は消えない。アルベルチーヌが<私>と会っている時間帯は限られている。アルベルチーヌが<私>の行動について知らない時間を持っているように、<私>もまた<私>の知らないアルベルチーヌの時間を持たざるを得ない。アルベルチーヌは「本人の叔母や女友だちの家から引き離されているという」限りで「魅力を備えていた」。そうでなければアルベルチーヌはいつなんどきゴモラ(女性同性愛)の住人として<私>のことなどまるっきり忘れ果ててかえりみない時間を楽しんでいるか、少なくともその可能性は十分にあると言えるわけで、気が気でない。このような場合、鎮静剤の役割を演じるのはアルベルチーヌをその他の女性から引き離しておくであって、それ以外に手はない。

「そのときこの散策は、私には翌日への期待としか考えられず、しかもその翌日自体、私に欲望をそそられるとはいえ前日となんら変わらぬものであることは承知していたが、それでもアルベルチーヌがそのときまでいて私が居合わせなかった場所、つまり本人の叔母や女友だちの家から引き離されているという魅力を備えていた。その魅力は、積極的な歓びをもたらすものではなく不安を鎮めてくれるだけであったが、それでも非常に力強いものであった」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.375」岩波文庫 二〇一五年)

<私>は思う。ただ単に引き離しておくだけでも鎮静剤としては「非常に力強いものであった」。だがどんな鎮静剤でも、むしろ鎮静剤ゆえに、それが強力であればあるほどかえって耐性を増していくのも速い。<私>は加速的に<不安>それ自体へ変貌していく。

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Blog21・「道」のステレオタイプ(紋切型)化に伴う無数の「幻影」の反復強迫

2022年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
<私>にとってアルベルチーヌはもはやいつでも手に入る存在になり、そこへの「道」が「アルベルチーヌのところへ戻るための手段」に過ぎなくなると、「道」そのものの価値もまるで違ったものへと変わる。かつては様々な想像力をかき立てて愛と嫉妬に満ちためまぐるしい幻影を出現させた「道」。それが今や勝手知ったただ単なるルートになるや、アルベルチーヌではなく、過去に<私>の気持ちを騒がせて止まなかった何人かの女性たちを思い出させる「道」へと化す。「昔はこの道をステルマリア嬢のことを考えながらたどったこと」。あるいは「パリでゲルマント夫人とすれ違うはずの道をくだりながら感じたこと」。プルーストは、なるほど見た目ばかりは一つの「道」でしかなくとも、それぞれの人間次第で一つの「道」の中に実は無数の多様性が存在する、と言うのである。

「その道が以前とことごとく同じで、どこまでまっすぐでどこから曲がるのかを知り尽くしてしまうと、昔はこの道をステルマリア嬢のことを考えながらたどったこと、またアルベルチーヌに会いたいとはやるこの同じ気持を、パリでゲルマント夫人とすれ違うはずの道をくだりながら感じたことを想い出した」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.365」岩波文庫 二〇一五年)

しかしそれらはどれもただ単なる「幻影」でしかないのではという反論は当然あるに違いない。ところが<私>の思い描く幾つかの「幻影」はただ単に根も葉もない「幻影」では全然なく、アルベルチーヌ、ステルマリア嬢、ゲルマント夫人、ジルベルトたちが実際にいなくては出現することができない「幻影」であり、その根拠は<私>が負っているとともにそれら対象にも負わされていると言わねばならない。

「その道は、幻影ばかりを追うのが、つまりその現実の大部分が私の想像のなかにある存在ばかりを追うのが、私の宿命だと想い出させてくれた。実際、そんな人たちがいるものでーーー若いときから私の場合がそうだったーーー、その人たちにとっては、ほかの人たちが認める定評ある価値、すなわち財産や出世や高い地位などは、ものの数にはいらない。その人たちが必要とするのは幻影なのだ。そうした幻影に出会うために他のすべてを犠牲にし、すべてを動員してあらゆる手を尽くす。ところが幻影は早くも消えてしまう。そうなるとべつの幻影を追いはじめるが、やがて最初の幻影にたち戻ることもある」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.365~366」岩波文庫 二〇一五年)

ではなぜ、その根拠は<私>が負っているとともにそれら対象にも負わされている、と言えるのか。プルーストの言葉から引くとこうだ。「もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」とあるうち、この「後者こそ」がどこまでも引き延ばされていく「幻影」の役割を演じるからである。

「われわれが自然なり、社会なり、恋愛なり、いや芸術なりをも、このうえなく無私無欲に観賞するときでさえ、あらゆる印象にはふたつの方向が存在し、片方は対象のなかに収められているが、もう片方はわれわれ自身のなかに伸びていて、後者こそ、われわれが知ることのできる唯一の部分である」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.481~482」岩波文庫 二〇一八年)

さらに「ところが幻影は早くも消えてしまう。そうなるとべつの幻影を追いはじめるが、やがて最初の幻影にたち戻ることもある」。愛と嫉妬に関するプルースト固有の何度も繰り返し反復される現象を別の言葉で文章化したものだ。こうある。

「われわれは、最も愛した女にたいしても自分自身にたいするほどには忠実でなく、早暁その女を忘れて、またまたーーーこれがわれわれ自身の特徴のひとつだーーー新たな恋をはじめることができるからである」(プルースト「失われた時を求めて13・第七篇・一・P.515~516」岩波文庫 二〇一八年)

プルーストが問題にしているのは次にあるように「最初に愛したアルベルチーヌと、現在ほとんどそのそばを離れないアルベルチーヌとのあいだ」である。その「あいだ」に「ほかの女性たち」、とりわけゲルマント夫人と過ごした<時間>、あるいはジルベルトと過ごした<時間>が、もはや消せない過去のように束になって詰め込まれている。

「私が最初の年に海辺で見かけた少女という意味なら、私がそのようなアルベルチーヌを追い求めたのはなにも初めての経験ではない。最初に愛したアルベルチーヌと、現在ほとんどそのそばを離れないアルベルチーヌとのあいだには、たしかにほかの女性たちが介在した。ほかの女性たちとは、とりわけゲルマント公爵夫人がそうである。しかし以前になぜジルベルトのことであんなに想い悩んだのか、ゲルマント夫人の友人となっても結局はもうゲルマント夫人のことなど考えずアルベルチーヌのことだけを考える結果になるのなら、なぜあれほどゲルマント夫人のために苦労したのか、当然そんな疑問が出るだろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.366」岩波文庫 二〇一五年)

アルベルチーヌは人間であって商品ではない。わかりきったことだ。ところがアルベルチーヌは、ステルマリア嬢、ゲルマント夫人、ジルベルトたちにとって、まるで貨幣にも似た役割を演じている。最初のうち、特権的なのはアルベルチーヌばかりではない。アルベルチーヌはバルベックの浜辺を行き来する何人もの女性の一団の中から徐々に浮かび上がってきた一人の女性でしかなかった。言い換えれば、諸商品の無限の系列の中の一つの記号でしかなかった。唯一絶対的存在のない状態、中心のない脱中心化された状態における、アルベルチーヌ、ステルマリア嬢、ゲルマント夫人、ジルベルトたち、という無限の系列である。

「B 《全体的な、または展開された価値形態》ーーーz量の商品A=u量の商品B、または=v量の商品C、または=w量の商品D、または=x量の商品E、または=etc.(20エレのリンネル=1着の上着、または=10ポンドの茶、または=40ポンドのコーヒー、または=1クォーターの小麦、または=2オンスの金、または=2分の1トンの鉄、または=その他.)

ある一つの商品、たとえばリンネルの価値は、いまでは商品世界の無数の他の要素で表現される。他の商品体はどれでもリンネル価値の鏡になる。こうして、この価値そのものが、はじめてほんとうに、無差別な人間労働の凝固として現われる。なぜならば、このリンネル価値を形成する労働は、いまや明瞭に、他のどの人間労働でもそれに等しいとされる労働として表わされているからである。すなわち、他のどの人間労働も、それがどんな現物形態をもっていようと、したがってそれが上着や小麦や鉄や金などのどれに対象化されていようと、すべてのこの労働に等しいとされているからである。それゆえ、いまではリンネルはその価値形態によって、ただ一つの他の商品種類にたいしてだけではなく、商品世界にたいして社会的な関係に立つのである。商品として、リンネルはこの世界の市民である。同時に商品価値の諸表現の無限の列のうちに、商品価値はそれが現われる使用価値の特殊な形態には無関係だということが示されているのである。第一の形態、20エレのリンネル=1着の上着 では、これらの二つの商品が一定の量的な割合で交換されうるということは、偶然的事実でありうる。これに反して、第二の形態では、偶然的現象とは本質的に違っていてそれを規定している背景が、すぐに現われてくる。リンネルの価値は、上着やコーヒーや鉄など無数の違った所持者のものである無数の違った商品のどれで表わされようと、つねに同じ大きさのものである。二人の個人的商品所持者の偶然的な関係はなくなる。交換が商品の価値量を規制するのではなく、逆に商品の価値量が商品の交換割合を規制するのだ、ということが明らかになる」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・第三節・P.118~120」国民文庫 一九七二年)

しかし<私>の中でアルベルチーヌだけが唯一絶対性を獲得する。貨幣化する。

「一般的等価形態は価値一般の一つの形態である。だから、それはどの商品にでも付着することができる。他方、ある商品が一般的等価形態(形態3)にあるのは、ただ、それが他のすべての商品によって等価物として排除されるからであり、また排除されるかぎりでのことである。そして、この排除が最終的に一つの独自な商品種類に限定された瞬間から、はじめて商品世界の統一的な相対的価値形態は客観的な固定性と一般的な社会的妥当性とをかちえたのである。そこで、その現物形態に等価形態が社会的に合生する特殊な商品種類は、貨幣商品になる。言いかえれば、貨幣として機能する。商品世界のなかで一般的等価物の役割を演ずるということが、その商品の独自な社会的機能となり、したがってまたその商品の社会的独占となる。このような特権的な地位を、形態2ではリンネルの特殊的等価物の役を演じ形態3では自分たちの相対的価値を共通にリンネルで表現しているいろいろな商品のなかで、ある一定の商品が歴史的にかちとった。すなわち、金である」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.130~131」国民文庫 一九七二年)

しかしこの過程は常に逆説を伴う。アルベルチーヌが貨幣の役割を演じるということは他の女性たち、ステルマリア嬢、ゲルマント夫人、ジルベルトたちを、たちまち「一つの道」の中へ覆い隠してしまうのである。

「商品世界のこの完成形態ーーー貨幣形態ーーーこそは、私的諸労働の社会的性格、したがってまた私的諸労働者の社会的諸関係をあらわに示さないで、かえってそれを物的におおい隠すのである」(マルクス「資本論・第一部・第一篇・第一章・P.141」国民文庫 一九七二年)

ゆえに「或る道」がもはやただ単なるルートに過ぎなくなり、そこの行き来も習慣化してしまうと、過去の多様な思い出、ステルマリア嬢、ゲルマント夫人、ジルベルトたちと過ごしたそれぞれに違った<時間>もまた、アルベルチーヌという名において、「或る道」の中へ<幽閉される>ことになる。のちに<私>はそのアルベルチーヌをも<幽閉・監禁・監視>せざるを得なくなるわけだが。

「大いに幻影を愛したあのスワンなら、死ぬ前にこの問いに答えることができたかもしれない。追い求めては、忘れ去られ、あらたに探し求めた多くの幻影、ときには一度なりとも会ってみたい、その生活に触れてみたいと願っても、その現実ばなれした生活はたちどころに消え失せてしまう幻影、そうした多くの幻影がこのバルベックの道にはあふれていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.366~367」岩波文庫 二〇一五年)

もはや消え失せた過去とその幻影。「そうした多くの幻影がこのバルベックの道にはあふれていた」。<私>にとって「このバルベックの道」は<私>固有の死体置場に似るがゆえに、そこを通る時、実に多様な死体とその思い出とが共に「幻影」として立ち現れてきたとしても何一つ驚くことはないのである。

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