シャルリュスはモレルとの話題を音楽に戻す。ショパンの「演奏を聴くことを禁じられた」ことについて。モレルは早とちりな反応を示すがシャルリュスはその理由をこう述べる。「わが師は身をもって聡明さを証明されたんだ。私が<特殊な人間>で、きっとショパンの影響をもろに受けるだろうと見抜いておられたんだ」。
「『ショパンが演奏するのを聴いたことは一度もないが』と男爵は言った、『しかしその機会がなかったわけじゃない。私はスタマティのレッスンを受けていたが、そのスタマティから、叔母のシメーのところで<ノクターン>の巨匠の演奏を聴くのを禁じられたんだ』。『その人もなんともばかなことをしたものですね!』とモレルが大きな声を出した。『それどころか』とシャルリュス氏は甲高い声で激しく言い返した、『わが師は身をもって聡明さを証明されたんだ。私が<特殊な人間>で、きっとショパンの影響をもろに受けるだろうと見抜いておられたんだ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.356~357」岩波文庫 二〇一五年)
そこからベートーヴェンの話題へ、さらに果物の梨の話題へと接続されていく。まるで珍妙この上ない話題の繋がり方に思えなくもない。ところがしかしそのような話題の転回を可能にしているのは他でもない、ベートーヴェンの話題の中で語られる言葉であり、その言葉が果物の梨の話題を呼び寄せるからである。本来なら或る話題と次の話題との間には何の関係もない。支離滅裂なくらい無惨に切断され散らばっている。一貫した文脈は解体されていてもはやない。だからこそ今度は逆に、或る身振り(言語)の出現が、いったん解体されて失われていた別の身振り(言語)を新しい文脈の出現と同時に到来させる。或る話題と別の話題との接続が可能なのは、あくまで、支離滅裂な最小単位にまで身振り(言語)が解体されていることを条件として始めて成立する。エルスチールが新しい絵画を見出し、ヴァントゥイユが新しい音楽を発見することができる理由もそこにある。習慣・因習に絡め取られてしまう寸前に依拠することが大事なのだ。こうある。
「ほかでもないエルスチールの努力は、ものごとを頭で理解するように示すのではなく、われわれの最初のヴィジョンがつくられる錯覚のままに提示するところにあった。画家はこのような遠近法の法則のいくつかを明るみに出したが、それが当時はるかに衝撃的なことだったのは、芸術がそれをはじめてあらわにしたからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.424~425」岩波文庫 二〇一二年)
ところでシャルリュスから「お墨付き」を貰った形のモレル。シャルリュスは往年の大貴族ゲルマント家でも随一の芸術愛好家として知られている。モレルが舞い上がってしまうのも無理はない。かつてモレルの父親は<私>の大叔父の従僕だったため卑屈になっていたが、その件について今度一切口外しないという約束を取り付けて解き放たれたように、シャルリュスから「免状を授けられた芸術家としてのモレルという名前は、単なる『名前』以上に優れたものに思われた」という経過をたどる。プルーストは、「名前」とは何か、そして「肩書」とは何かを、それが常にどれほど激しい価値変動に見舞われて止まないかを焦点化し、たいへん上手く考えさせられる筆致を見せている。
「たしかにモレルは、シャルリュス氏を意のままにできると察知したからであろう、氏のことを知らないと言って嘲笑するほど卑劣な振る舞いにおよんでいて、それはモレルの父親が私の大叔父のところで果たしていた役柄のことを私が口外しないと約束したとたん、私を軽蔑のまなこで見るようになったのと軌を一にする。ところがその一方で、免状を授けられた芸術家としてのモレルという名前は、単なる『名前』以上に優れたものに思われたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.363~364」岩波文庫 二〇一五年)
一方、アルベルチーヌはサン=ジャン=ド=ラ=エーズにおり、しばらく絵を描いていた。周辺の町の野原には「海の微風」が吹いている。そこで<私>は「風」に<なる>。そうであって始めて<私>はアルベルチーヌと二重の繋がりを持つことができる。次のように。
「私のまなざしはそこまで届かなくても、私のそばを通りすぎるこの強くて優しい海の微風は、まなざしよりも遠くまで届くことができ、なにものにも妨げられずにケットオルムまで駆けおり、サン=ジャン=ド=ラ=エーズを葉叢(はむら)で覆っている木々の枝を揺らし、わが恋人の顔を撫でることによって、ふたりの子供がときに声も届かず姿も見えないほど遠く離れていても互いに結ばれている遊戯と同じように、かぎりなく広がりはするが危険の及ばないこの隠(かく)れ処(が)において、恋人から私へと二重のきずなを張りわたしてくれる気がしたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.364~365」岩波文庫 二〇一五年)
だがどうして<私>は「風」に<なる>ことができるのか。以前、二箇所引用した。
(1)「私としては、夫妻から指摘される美しいものには心を動かされず、わけのわからぬおぼろげな回想に陶然としていたのだ。ときに私は、その名から想像していたものが目の前の実物には見出せないと言って、私の幻滅を夫妻に打ち明けたこともある。ここはもっと田舎だと思っていたと言って、カンブルメール夫人を憤慨させもした。それにひきかえ戸口からはいってくるすきま風にはふと立ちどまり、その匂いを嗅いで陶然とした。『すきま風がお好きなんですね』と夫妻は私に言った」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.217~218」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「『ヘリオトロープの繊細な馥郁(ふくいく)たる匂いが、ソラマメ畑の小さな一画から立ちのぼってきた。その匂いは、いささかも祖国の微風にてもたらされたものではなく、ニューファンドランド島の野生の風にてもたらされたものであり、国外へ追放された植物とは関係がなく、漠たる回想や感覚の悦楽と共鳴するものでもない。佳人に嗅がれるわけでもなく、その胸のなかで浄化されるわけでもなく、その人の歩んだあとに広がるわけでもなく、それらとは違った曙や畑作や世界がもたらすこの香りには、未練や不在や青春のあらゆる憂愁がこもっていた』」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.24」岩波文庫 二〇一九年)
(2)はシャトーブリヤンからプルーストが引用した部分。作品「失われた時を求めて」の中で(1)と(2)とは別々の箇所に配置されている。けれどもむしろ、別々の箇所に配置できるということと、にもかかわらず両者はいとも容易く接続できるということ自体が、生成変化として<私>は「風」に<なる>ことを可能にする条件をなしている。
BGM1
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「『ショパンが演奏するのを聴いたことは一度もないが』と男爵は言った、『しかしその機会がなかったわけじゃない。私はスタマティのレッスンを受けていたが、そのスタマティから、叔母のシメーのところで<ノクターン>の巨匠の演奏を聴くのを禁じられたんだ』。『その人もなんともばかなことをしたものですね!』とモレルが大きな声を出した。『それどころか』とシャルリュス氏は甲高い声で激しく言い返した、『わが師は身をもって聡明さを証明されたんだ。私が<特殊な人間>で、きっとショパンの影響をもろに受けるだろうと見抜いておられたんだ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.356~357」岩波文庫 二〇一五年)
そこからベートーヴェンの話題へ、さらに果物の梨の話題へと接続されていく。まるで珍妙この上ない話題の繋がり方に思えなくもない。ところがしかしそのような話題の転回を可能にしているのは他でもない、ベートーヴェンの話題の中で語られる言葉であり、その言葉が果物の梨の話題を呼び寄せるからである。本来なら或る話題と次の話題との間には何の関係もない。支離滅裂なくらい無惨に切断され散らばっている。一貫した文脈は解体されていてもはやない。だからこそ今度は逆に、或る身振り(言語)の出現が、いったん解体されて失われていた別の身振り(言語)を新しい文脈の出現と同時に到来させる。或る話題と別の話題との接続が可能なのは、あくまで、支離滅裂な最小単位にまで身振り(言語)が解体されていることを条件として始めて成立する。エルスチールが新しい絵画を見出し、ヴァントゥイユが新しい音楽を発見することができる理由もそこにある。習慣・因習に絡め取られてしまう寸前に依拠することが大事なのだ。こうある。
「ほかでもないエルスチールの努力は、ものごとを頭で理解するように示すのではなく、われわれの最初のヴィジョンがつくられる錯覚のままに提示するところにあった。画家はこのような遠近法の法則のいくつかを明るみに出したが、それが当時はるかに衝撃的なことだったのは、芸術がそれをはじめてあらわにしたからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.424~425」岩波文庫 二〇一二年)
ところでシャルリュスから「お墨付き」を貰った形のモレル。シャルリュスは往年の大貴族ゲルマント家でも随一の芸術愛好家として知られている。モレルが舞い上がってしまうのも無理はない。かつてモレルの父親は<私>の大叔父の従僕だったため卑屈になっていたが、その件について今度一切口外しないという約束を取り付けて解き放たれたように、シャルリュスから「免状を授けられた芸術家としてのモレルという名前は、単なる『名前』以上に優れたものに思われた」という経過をたどる。プルーストは、「名前」とは何か、そして「肩書」とは何かを、それが常にどれほど激しい価値変動に見舞われて止まないかを焦点化し、たいへん上手く考えさせられる筆致を見せている。
「たしかにモレルは、シャルリュス氏を意のままにできると察知したからであろう、氏のことを知らないと言って嘲笑するほど卑劣な振る舞いにおよんでいて、それはモレルの父親が私の大叔父のところで果たしていた役柄のことを私が口外しないと約束したとたん、私を軽蔑のまなこで見るようになったのと軌を一にする。ところがその一方で、免状を授けられた芸術家としてのモレルという名前は、単なる『名前』以上に優れたものに思われたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.363~364」岩波文庫 二〇一五年)
一方、アルベルチーヌはサン=ジャン=ド=ラ=エーズにおり、しばらく絵を描いていた。周辺の町の野原には「海の微風」が吹いている。そこで<私>は「風」に<なる>。そうであって始めて<私>はアルベルチーヌと二重の繋がりを持つことができる。次のように。
「私のまなざしはそこまで届かなくても、私のそばを通りすぎるこの強くて優しい海の微風は、まなざしよりも遠くまで届くことができ、なにものにも妨げられずにケットオルムまで駆けおり、サン=ジャン=ド=ラ=エーズを葉叢(はむら)で覆っている木々の枝を揺らし、わが恋人の顔を撫でることによって、ふたりの子供がときに声も届かず姿も見えないほど遠く離れていても互いに結ばれている遊戯と同じように、かぎりなく広がりはするが危険の及ばないこの隠(かく)れ処(が)において、恋人から私へと二重のきずなを張りわたしてくれる気がしたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.364~365」岩波文庫 二〇一五年)
だがどうして<私>は「風」に<なる>ことができるのか。以前、二箇所引用した。
(1)「私としては、夫妻から指摘される美しいものには心を動かされず、わけのわからぬおぼろげな回想に陶然としていたのだ。ときに私は、その名から想像していたものが目の前の実物には見出せないと言って、私の幻滅を夫妻に打ち明けたこともある。ここはもっと田舎だと思っていたと言って、カンブルメール夫人を憤慨させもした。それにひきかえ戸口からはいってくるすきま風にはふと立ちどまり、その匂いを嗅いで陶然とした。『すきま風がお好きなんですね』と夫妻は私に言った」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.217~218」岩波文庫 二〇一五年)
(2)「『ヘリオトロープの繊細な馥郁(ふくいく)たる匂いが、ソラマメ畑の小さな一画から立ちのぼってきた。その匂いは、いささかも祖国の微風にてもたらされたものではなく、ニューファンドランド島の野生の風にてもたらされたものであり、国外へ追放された植物とは関係がなく、漠たる回想や感覚の悦楽と共鳴するものでもない。佳人に嗅がれるわけでもなく、その胸のなかで浄化されるわけでもなく、その人の歩んだあとに広がるわけでもなく、それらとは違った曙や畑作や世界がもたらすこの香りには、未練や不在や青春のあらゆる憂愁がこもっていた』」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.24」岩波文庫 二〇一九年)
(2)はシャトーブリヤンからプルーストが引用した部分。作品「失われた時を求めて」の中で(1)と(2)とは別々の箇所に配置されている。けれどもむしろ、別々の箇所に配置できるということと、にもかかわらず両者はいとも容易く接続できるということ自体が、生成変化として<私>は「風」に<なる>ことを可能にする条件をなしている。
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