白鑞金’s 湖庵 アルコール・薬物依存/慢性うつ病

二代目タマとともに琵琶湖畔で暮らす。 アルコール・薬物依存症者。慢性うつ病者。日記・コラム。

Blog21・シャルリュスとモレルとの文脈転回/風としての<私>

2022年09月25日 | 日記・エッセイ・コラム
シャルリュスはモレルとの話題を音楽に戻す。ショパンの「演奏を聴くことを禁じられた」ことについて。モレルは早とちりな反応を示すがシャルリュスはその理由をこう述べる。「わが師は身をもって聡明さを証明されたんだ。私が<特殊な人間>で、きっとショパンの影響をもろに受けるだろうと見抜いておられたんだ」。

「『ショパンが演奏するのを聴いたことは一度もないが』と男爵は言った、『しかしその機会がなかったわけじゃない。私はスタマティのレッスンを受けていたが、そのスタマティから、叔母のシメーのところで<ノクターン>の巨匠の演奏を聴くのを禁じられたんだ』。『その人もなんともばかなことをしたものですね!』とモレルが大きな声を出した。『それどころか』とシャルリュス氏は甲高い声で激しく言い返した、『わが師は身をもって聡明さを証明されたんだ。私が<特殊な人間>で、きっとショパンの影響をもろに受けるだろうと見抜いておられたんだ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.356~357」岩波文庫 二〇一五年)

そこからベートーヴェンの話題へ、さらに果物の梨の話題へと接続されていく。まるで珍妙この上ない話題の繋がり方に思えなくもない。ところがしかしそのような話題の転回を可能にしているのは他でもない、ベートーヴェンの話題の中で語られる言葉であり、その言葉が果物の梨の話題を呼び寄せるからである。本来なら或る話題と次の話題との間には何の関係もない。支離滅裂なくらい無惨に切断され散らばっている。一貫した文脈は解体されていてもはやない。だからこそ今度は逆に、或る身振り(言語)の出現が、いったん解体されて失われていた別の身振り(言語)を新しい文脈の出現と同時に到来させる。或る話題と別の話題との接続が可能なのは、あくまで、支離滅裂な最小単位にまで身振り(言語)が解体されていることを条件として始めて成立する。エルスチールが新しい絵画を見出し、ヴァントゥイユが新しい音楽を発見することができる理由もそこにある。習慣・因習に絡め取られてしまう寸前に依拠することが大事なのだ。こうある。

「ほかでもないエルスチールの努力は、ものごとを頭で理解するように示すのではなく、われわれの最初のヴィジョンがつくられる錯覚のままに提示するところにあった。画家はこのような遠近法の法則のいくつかを明るみに出したが、それが当時はるかに衝撃的なことだったのは、芸術がそれをはじめてあらわにしたからである」(プルースト「失われた時を求めて4・第二篇・二・二・P.424~425」岩波文庫 二〇一二年)

ところでシャルリュスから「お墨付き」を貰った形のモレル。シャルリュスは往年の大貴族ゲルマント家でも随一の芸術愛好家として知られている。モレルが舞い上がってしまうのも無理はない。かつてモレルの父親は<私>の大叔父の従僕だったため卑屈になっていたが、その件について今度一切口外しないという約束を取り付けて解き放たれたように、シャルリュスから「免状を授けられた芸術家としてのモレルという名前は、単なる『名前』以上に優れたものに思われた」という経過をたどる。プルーストは、「名前」とは何か、そして「肩書」とは何かを、それが常にどれほど激しい価値変動に見舞われて止まないかを焦点化し、たいへん上手く考えさせられる筆致を見せている。

「たしかにモレルは、シャルリュス氏を意のままにできると察知したからであろう、氏のことを知らないと言って嘲笑するほど卑劣な振る舞いにおよんでいて、それはモレルの父親が私の大叔父のところで果たしていた役柄のことを私が口外しないと約束したとたん、私を軽蔑のまなこで見るようになったのと軌を一にする。ところがその一方で、免状を授けられた芸術家としてのモレルという名前は、単なる『名前』以上に優れたものに思われたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.363~364」岩波文庫 二〇一五年)

一方、アルベルチーヌはサン=ジャン=ド=ラ=エーズにおり、しばらく絵を描いていた。周辺の町の野原には「海の微風」が吹いている。そこで<私>は「風」に<なる>。そうであって始めて<私>はアルベルチーヌと二重の繋がりを持つことができる。次のように。

「私のまなざしはそこまで届かなくても、私のそばを通りすぎるこの強くて優しい海の微風は、まなざしよりも遠くまで届くことができ、なにものにも妨げられずにケットオルムまで駆けおり、サン=ジャン=ド=ラ=エーズを葉叢(はむら)で覆っている木々の枝を揺らし、わが恋人の顔を撫でることによって、ふたりの子供がときに声も届かず姿も見えないほど遠く離れていても互いに結ばれている遊戯と同じように、かぎりなく広がりはするが危険の及ばないこの隠(かく)れ処(が)において、恋人から私へと二重のきずなを張りわたしてくれる気がしたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.364~365」岩波文庫 二〇一五年)

だがどうして<私>は「風」に<なる>ことができるのか。以前、二箇所引用した。

(1)「私としては、夫妻から指摘される美しいものには心を動かされず、わけのわからぬおぼろげな回想に陶然としていたのだ。ときに私は、その名から想像していたものが目の前の実物には見出せないと言って、私の幻滅を夫妻に打ち明けたこともある。ここはもっと田舎だと思っていたと言って、カンブルメール夫人を憤慨させもした。それにひきかえ戸口からはいってくるすきま風にはふと立ちどまり、その匂いを嗅いで陶然とした。『すきま風がお好きなんですね』と夫妻は私に言った」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.217~218」岩波文庫 二〇一五年)

(2)「『ヘリオトロープの繊細な馥郁(ふくいく)たる匂いが、ソラマメ畑の小さな一画から立ちのぼってきた。その匂いは、いささかも祖国の微風にてもたらされたものではなく、ニューファンドランド島の野生の風にてもたらされたものであり、国外へ追放された植物とは関係がなく、漠たる回想や感覚の悦楽と共鳴するものでもない。佳人に嗅がれるわけでもなく、その胸のなかで浄化されるわけでもなく、その人の歩んだあとに広がるわけでもなく、それらとは違った曙や畑作や世界がもたらすこの香りには、未練や不在や青春のあらゆる憂愁がこもっていた』」(プルースト「失われた時を求めて14・第七篇・二・P.24」岩波文庫 二〇一九年)

(2)はシャトーブリヤンからプルーストが引用した部分。作品「失われた時を求めて」の中で(1)と(2)とは別々の箇所に配置されている。けれどもむしろ、別々の箇所に配置できるということと、にもかかわらず両者はいとも容易く接続できるということ自体が、生成変化として<私>は「風」に<なる>ことを可能にする条件をなしている。

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Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて29

2022年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。ナンテンは渇水にさえ気をつけていれば毎年実をつけてくれるのでほとんど手間のかからない初心者向けエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“ナンテン”」(2022.9.24)

二〇二二年九月二十四日午前九時頃撮影。台風十四、十五号ともに乗り切ってくれました。その間に少しばかり色づいてきたように見えます。なお、このナンテンはタマの飼主が生まれた時すでに実家の庭にあったもの。引っ越しのたびに一緒に連れて来ました。樹齢五十四年以上ということになります。

参考になれば幸いです。

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Blog21(番外編)・アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて28

2022年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
アルコール依存症並びに遷延性(慢性)鬱病のリハビリについて。ブログ作成のほかに何か取り組んでいるかという質問に関します。

花壇。一日一度、水をやるだけ。継続して育てる場合は時宜に応じて肥料を加えています。なお、うつ症状がひどい時は水をやれないこともあります。そんな時は家族に頼んでみます。それも無理な場合は放置しておいても三、四日なら大丈夫です。またバラだと次々芽を出してくるのであまり手間のかからない良質なエクササイズであると言えるかもしれません。


「花名:“Princess of Infinity”」(2022.9.24)

二〇二二年九月二十四日午前九時頃撮影。この種は蕾の時期はピンク色、花弁が大きくなるにしたがって白く染まるタイプ。台風十四、十五号ともに乗り切ってくれた二輪。いずれも白く染まりました。今期のこの種ははおそらくこれが最後になると思います。

参考になれば幸いです。

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Blog21・せわしないシャルリュスと気ままなモレルの記号論的同性愛

2022年09月24日 | 日記・エッセイ・コラム
サン=マルス=ル=ヴェチュにある「細長いレストラン」。シャルリュスとモレルとの会話。二人はすでに恋仲なのだが、さらにモレルは女性同性愛者を見抜く名人でもある。「花売りの娘」も「奥のテーブルで食事をしているおばあさん」もそうだと。そして言う。「一瞬でも見抜けるんです。ふたりで人込みのなかを散歩でもすれば、私の勘が二度と外れないことがおわかりになりますよ」。プルーストは続ける。「このときモレルの男らしい美貌のなかに娘っぽい表情がただようのに目をとめた人がいたら、ある種の女たちがモレルに惹かれるのと同様に、モレルがその手の女たちに惹かれるという不思議な予見力を備えていることを理解したであろう」。

「『なあに、一瞬でも見抜けるんです。ふたりで人込みのなかを散歩でもすれば、私の勘が二度と外れないことがおわかりになりますよ』。このときモレルの男らしい美貌のなかに娘っぽい表情がただようのに目をとめた人がいたら、ある種の女たちがモレルに惹かれるのと同様に、モレルがその手の女たちに惹かれるという不思議な予見力を備えていることを理解したであろう」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.354」岩波文庫 二〇一五年)

モレルの「男らしい美貌のなかに娘っぽい表情がただよう」という一節。ドンシエールで見られたのとまるで同様の身振りである。

「そのとき楽師は、率直な、有無を言わせぬ、断乎とした身振りで花売り女のほうをふり向き、手のひらを掲げて女を押しとどめ、もう花はいらん、とっとと消えうせろ、との意向を伝えた。シャルリュス氏は、この威圧的な男らしい仕草がなんとも優雅な手によって断行されるのを、うっとりと眺めた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・二・P.39」岩波文庫 二〇一五年)

シャルリュスはそもそも花を愛する人物。だがこの時のシャルリュスにとって花は「花売り女」が差し出す花ではもはやなく、ドンシエール軍楽隊所属ヴァイオリン奏者モレルに置き換えられていた。モレルはシャルリュスにもっと官能的な話題を提供しようと続ける。

「『私の夢はですね、間違いのない純潔な娘を見つけだして私に惚れさせ、その処女を奪ってしまうことですね』。シャルリュス氏は、思わずモレルの耳を優しくつねらずにはいられなかったが、無邪気にこう言った、『そんなことをしてなんの役に立つんだい?その娘の処女を奪った日には、きみは結婚せざるをえなくなるだろう』。『結婚する?』とモレルは、男爵がほろ酔い気分だと感じたのか、それとも話し相手が見かけによらず小心翼々たる人間であることに想い至らなかったのであろう、大声をあげた『結婚する?とんでもない!そりゃ約束はしますが、ちょいと作戦さえうまくゆけば、その夜のうちにも捨てちゃいますよ』」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.355」岩波文庫 二〇一五年)

性愛の相手が女性なのでシャルリュスにすればほとんどどうでもいい話題ではあるものの、しかし見つけた娘と肉体関係を持つや「その夜のうちにも捨てちゃいますよ」という言葉は聞き捨てならない。道徳的な見地から聞き捨てならないのではもちろんなく、シャルリュスは、「このわしはどうなる?」と訊ねる。「もちろん、あなたはいっしょにお連れしますよ」とモレルは慌てて言い添えた。

ところで今のところ真っ先にモレルが狙いをつけている娘は誰か。「私が気に入った格好の娘がいるんです、公爵さまの館に店を出しているお針子でしてね」。シャルリュスのもう一人の愛人(ジュピアン)の店で働くジュピアンの姪のことだ。「そのときソムリエがはいってきた」。シャルリュスから見れば第三者の闖入でしかない。シャルリュスは<同性愛と異性愛の話題>と<ゲルマント家に関連するあらゆる人間関係>とをとっさに天秤にかけて言う。「いや!あれはいかん」。しかしモレルは一向に気にしていない様子だ。

「『ねえ、その相手として私が気に入った格好の娘がいるんです、公爵さまの館に店を出しているお針子でしてね』。『ジュピアンの娘だ!』と男爵は大声をあげたが、そのときソムリエがはいってきた。『いや!あれはいかん』と男爵はつけ加えた。第三者がそばに来たせいで熱が冷めてしまったのか、それとも最も神聖なものまで汚(けが)して喜ぶこの種の黒ミサにおいてさえ、友情をいだく相手まで巻き添えにする決心がつかなかったのかもしれない。『ジュピアンは実直な男だし、娘はかわいい子だ、あのふたりを悲しませるなんて考えるだけでぞっとする』。モレルは言いすぎたと感じて口をつぐんだが、そのまなざしはあいかわらず虚空に想い描かれた娘のうえにじっと注がれていた」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.356」岩波文庫 二〇一五年)

ここで「第三者がそばに来たせいで熱が冷めてしまったのか、最も神聖なものまで汚(けが)して喜ぶこの種の黒ミサにおいてさえ、友情をいだく相手まで巻き添えにする決心がつかなかったのかもしれない」というシャルリュスの身振り。シャルリュスに特徴的な「ずれ」(差異)の出現が見られる。自分自身の正体を隠そうとすればするほど逆の効果を出現させるいつもの身振りだ。シャルリュスはそれを何度も繰り返し反復してしまう。「あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである」。

「氏は、みずから巧妙と信じるこんなことばで、うわさが流れているとはつゆ知らぬ人たちにはそのうわさを否定し(というか、本当らしく見せたいという嗜好や措置や配慮ゆえに、些細なことにすぎないとみずから判断して真実の一端をつい漏らしてしまい)、一部の人たちからは最後の疑念をとりのぞき、いまだなんの疑念もいだいていない人たちには最初の疑念を植えつけたのである。というのも、あらゆる隠匿でいちばん危険なのは、過ちを犯した当人が自分の心中でその過ち自体を隠匿しようとすることである。当人がその過ちをたえず意識するせいで、ふつう他人はそんな過ちには気づかず真っ赤な嘘のほうをたやすく信じてしまうことにはもはや想い至らず、それどころか、自分ではなんの危険もないと信じることばのなかにどの程度の真実をこめれば他人には告白と受けとられるのか見当もつかないのだ」(プルースト「失われた時を求めて8・第四篇・一・二・一・P.264」岩波文庫 二〇一五年)

というようにそれぞれの登場人物の誰もが周囲の人々の身振り(言語)の先を読んで自分の身振り(言語)を決めていく。サン=マルス=ル=ヴェチュにある「細長いレストラン」でのシャルリュスとモレルとの会話一つ取っても、ここまでの引用だけで実は少なくとも三度は脱線している。するといつまで待ってもやって来ない決済のように、どこまでも引き延ばされていくばかりか、何度も脱線を繰り返すほかない記号論的コノテーションの増殖が作品を埋め尽くしていく。プルーストでは、一つの恋愛の終わりが次の恋愛の出発を準備するという常に新しい恋愛の出現が、まるで資本のように流通するのである。言語記号のテキストのように。

ところでモレルが狙いをつけているチョッキ店の娘はモレルについて「たえずそのハンサムな顔を想いうかべていた」。だけでなく、ゲルマント家のサロンに出入りする<私>の社会的地位ゆえ、「私といっしょにいるモレルを見てどこかの『紳士』だと想いこんだせいで、その顔が高貴なものと化していたのである」。

「ある日その娘の前で私から『親しい大芸術家』と呼ばれたいと願い、チョッキまで注文していた娘である。娘は、並はずれた働き者でバカンスをとったこともなかったが、ヴァイオリン奏者がバルベックの近辺にいるあいだは、たえずそのハンサムな顔を想いうかべていた。私といっしょにいるモレルを見てどこかの『紳士』だと想いこんだせいで、その顔が高貴なものと化していたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.356」岩波文庫 二〇一五年)

この場合、シニフィアン(意味するもの)は<私>の社会的地位であり、シニフィエ(意味されるもの・意味内容)は「私といっしょにいるモレルを見てどこかの『紳士』だと想いこんだせいで、その(モレルの)顔が高貴なものと化していた」ということでなくてはならない。モレルの美貌に「高貴な」という価値が付け加えられたのである。

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Blog21・プルーストとローカル鉄道/<或る夢>と<別の夢>とを架橋するトランス(横断的)記号性

2022年09月23日 | 日記・エッセイ・コラム
パリからバルベックへのローカル線の旅をこよなく愛する<私>。各駅ごとにその駅名が代表する様々な風景がまだ見ぬ姿で広がっているに違いない、という<私>の想像力の翼をどこまでも羽ばたかされてくれる夢がローカル線にはあるからだ。プルーストは鉄道と自動車とを比較していう。「自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない」。しかしプルーストのいう「いかなる神秘」とそのあっけない<解体>は一体どのような実感においてなのか。「私の連隊にいたある将校が、私には特別な存在に映り、名家の出にしてはあまりにも親切で飾り気がなく、ただの平凡な家の出にしてはあまりのも近寄りがたい神秘的存在に見えていたが、それは私がよその晩餐会で同席しただれそれの義兄や従兄だと知らされたときのようなもの」だと。以前はバルベックから「かけ離れたものと想いこんでいたさまざまな場所」を、自動車は<不意に結びつける>ことで、あらゆる神秘性を一挙に吹き飛ばす効果を持つ。資本主義の世界化に伴いあらゆるものがデジタル化され<接続・切断・別のものとの再接続>がますます可能になってくればくるほど不可避的に生じる脱神秘化の傾向であり、どんな<神話>も解体せずにはおかない資本主義の本領の一つである。<神話>は始めからア・プリオリに存在するわけではまるでなく、逆にあちこちに散らばった<諸断片>の人為的モザイクこそ<神話>に他ならないとプルーストは教えている。

「ところが自動車というものは、いかなる神秘も尊重しない。アンカルヴィルを通りすぎ、私の目にまだその家並みの残像が焼きついている最中、パルヴィル(パテルニ・ヴィラ)へ通じる抜け道のだらだら坂をくだっていたとき、通りかかった高台から海を目にした私は、ここはなんという場所かと訊ねた運転手が答えないうちに、それがボーモンだと気づいた。じつは小鉄道に乗るたびに、そうとは知らぬまま同じようにボーモンのそばを通りかかっていたのだ。そこはパルヴィルから二分のところだったからである。私の連隊にいたある将校が、私には特別な存在に映り、名家の出にしてはあまりにも親切で飾り気がなく、ただの平凡な家の出にしてはあまりのも近寄りがたい神秘的存在に見えていたが、それは私がよその晩餐会で同席しただれそれの義兄や従兄だと知らされたときのようなもので、ボーモンも、私がかけ離れたものと想いこんでいたさまざまな場所と不意に結びついてその神秘性を喪失し、この地方のなかに然るべき位置を占めたのである」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.348~349」岩波文庫 二〇一五年)

例えば<私>にとって「小説」というステレオタイプ(紋切型)な枠組みが無効化され、実際の道端など「べつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」というふうに。「小説という閉ざされた雰囲気」=<暴露>、「べつのところで出会ったなら」=<覗き見>。「ほかの人たちとなんら変わらぬ存在」=<冒瀆>。どれもプルーストが目指した三大テーマである。

「私は、ボヴァリー夫人やサンセヴェリーナ夫人も、もし小説という閉ざされた雰囲気とはべつのところで出会ったなら、ほかの人たちとなんら変わらぬ存在に見えたかもしれないと考えてぞっとした」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349」岩波文庫 二〇一五年)

しかし<私>はなぜ鉄道にこだわるのか。「町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる」限りで、それは<或る夢>と<別の夢>とを架橋するトランス(横断的)記号性を持っている。ゆえに「鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」ことを実現する。或る場所から別の場所への移動がまるで異なる二つの世界への価値変動であるような場合、その移動がもたらすトランス(横断的)記号性はより一層深い快感を与えてくれるからに他ならない。鉄道は駅ごとに停車する。切断と横断とがめくるめく入れ換わる。そのたびに次々と場面を切り換え回転させるスペクタクルのように<神話化><脱神話化><再神話化>をどんどん実現していく。

「鉄道における目的地というのは、出発時にはほとんど観念的なものであり、また到着時にも観念的なものにとどまるので、だれひとり住む者とてなく町の名のみ掲げる駅という広大な場所への到着は、駅がその町の具体化であるように、ようやくその町へ近づけることを約束してくれるものと思われる。鉄道の場合、われわれは夢想にさそわれ、町の名に要約される全体像として最初に想い描いた町のなかへと、劇場の観客よろしく幻想をいだきながら運ばれる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.349~350」岩波文庫 二〇一五年)

だからといってプルーストは自動車の登場が鉄道旅行固有の想像力・幻想性を壊したといって非難しているわけではない。両者の比較はプルーストにとって<科学とは何か>という問いかけなのだ。

「そのかわり自動車は、その目的地を発見させ、コンパスで測ったみたいにわれわれ自身でその位置を確定させ、列車の場合よりもずっと入念な探検家の手つきで、はるかに精密な正確さでもって、正真正銘の幾何学、みごとな『土地の測量』を実感させてくれるように思われる」(プルースト「失われた時を求めて9・第四篇・二・二・三・P.350~351」岩波文庫 二〇一五年)

第一次世界大戦前夜。科学は比類ない高度化を果たしていた。もとよりそれは一層厳密化していた科学の分野で使用される専門用語の比類ない高度化だった。近現代における<他者の土地>への侵略はいつも<土地の測量>から始まる。作家プルーストの見地からすれば当然、<科学とは何か>という問いかけはいつも<言語とは何か>という問いかけへ横断せずにはいられないのだ。

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