新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

きのうの帰省Uターンは、懐と心痛むことが…

2025-01-10 15:46:21 | 旅行記

私が新幹線で帰省するとき、Uターンは、月曜日か木曜日別邸最寄りのバス停から「平日のみ4本」しか走っていない路線バスに乗って秋田駅まで行くのが「お約束」になっています。
昨日も、水道の元栓4か所を閉じ、便器に不凍液を流し込み、ゴミ出しをしたあと、バス停へと向かいました。

バス停でしばらくバスが来るのを待っているとき、別邸から持ってきた「鍵「違うことに気づきました。

本来なら本宅(メイン&サブロックの鍵)と別邸の鍵を一つにまとめたものを持ってこなければならないのに、このとき私のポケットに入っていたのは「別邸専用の鍵」別邸の鍵セコムのホームセキュリティの鍵をセットにしたものでした。
つまり、この鍵では本宅に入れません

「非常用として本宅のメインロックの鍵小銭入れに入れていますが、問題は、本宅のサブロックをかけたか否かということ。
普段、本宅で暮らしているときは、もっぱらサブロックを使っていますが、帰省のときはメインロックだけ使うことが多く、今回もそうした気がするのですが、確証はありません
このまま「別邸専用の鍵を持って帰った場合、「非常用」の鍵オートロックは突破できても、サブロックがかかっていたら家に入れません
「イチかバチか」はあまりにもリスキーなため、バスの時刻を気にしつつも、別邸に戻り、鍵セット交換してくることにしました。

小走り気味別邸に戻り、鍵を開けて玄関を開けると、玄関口にある鍵ボックスから「帰省セットを取りだし、玄関の鍵を締めて、バス停に戻ろうとしました。

このとき、セコムのホームセキュリティ「外出モード」のままで一連の作業を済ませたのですが、ほんの1分ほどの作業だったというのに、セキュリティシステムが作動し、スマホに、セコムから電話がかかってきました。
事情を説明したことで理解してもらえたのですが、セキュリティシステムをリセットしなければならない由

こりゃバスには乗れないかもしれないと思いつつ、再び別邸に戻り、セキュリティシステムのメイン機器で「リセット」

これでホームセキュリティは通常の「外出モード」に戻ったのですが、バス停に戻る途中、バス走りさる様子が見えました

予定がガラガラと音をたてて崩れ去ったのです

   

別邸最寄りのバス停から徒歩10分ほどの羽州街道沿いのバス停まで歩けば、新幹線に間に合うバスがあるかもしれない…と行ってみると、私が乗る予定だったバスの30分後、つまりこの約20分後に次の秋田駅行きのバスが来ることが判りました。
でも、バスの時刻表はあてにならないし、朝8:30頃というのは交通ラッシュも心配で、バスタクシーか、先に来た方で秋田駅に向かうことにしました。

そして、結局、タクシーを拾い(よく拾えた)、2,000円近く払って(バスなら300円弱)、秋田駅に行くことになりました。

その途中、太平川橋太平川を渡ったとき、河岸のサクラ大々的伐採中であることに気づきました (この3日前にバスにのって墓参りに行った時は気づかなかった)

秋田市内でも有数サクラの名所太平川であれほどの伐採が行われているというのは、何事だ??? 病気か???

何やら胸騒ぎがして、スマホを使って「太平川 サクラ」で検索してみると、、、昨年10月の読売新聞の記事が出てきました。

なんでも太平川沿いのサクラの半数治水対策として伐採されるのだそうで、、

工事は昨年(2023年)7月の記録的大雨で河川の流域が浸水したことなどを受け、今年度から5年間の工期で行われる。範囲は、桜大橋付近から旭川との合流地点付近までの約4.6キロで、今年度から桜並木がある下流部側で工事が始まっている。

とな
あの水害(記事) を受けての治水対策としてサクラを伐っているのか

何十年かに一度の水害の対策としてあれほどの桜並木を伐採するなんて… と、個人的にはゾワゾワするのですが、これは、太平川が氾濫したとして別邸にまでは影響が及ばないだとういう感覚が私にあるからかもしれません。
毎年あのサクラを楽しんできた一方で、氾濫の恐れのある川のそばで暮らしている近所の人たちの思いの方が大事だとは判るのですが…。

2023年春に観てきた(記事) 太平川のサクラの写真を載せて、さらに感慨にふけりたいと思います

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4

2024-11-07 18:04:46 | 旅行記

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #3」のつづきです。

今回の鶴岡探訪の目玉は「致道博物館」だったわけですが、この名称は庄内藩の藩校「致道館」から採ったものだそうな。
その「致道館」は、施設の一部が現存していて、しかも無料公開されているというので、行ってみました。

鶴岡カトリック教会天主堂から南に歩いて行くと、羽黒街道の向こう側になんとも印象的な建物が見えました。

これは荘銀タクト鶴岡(鶴岡市文化会館)という多目的ホール。
キャパは1,120名と、地方都市らしくこぢんまりしていますが、客席は外観並みにかなり大胆な構造になっているみたいです (写真は荘銀タクト鶴岡のHPから拝借)

アンシンメトリーな客席のホールって珍しいのではなかろうか?

もちろん、私はホールに入ることなく素通り…のつもりだったのですが、

生垣越しに致道館の建物が見えました

いやぁ~江戸時代 と盛り上がった私は、いそいそと正面に回り、受付で観覧票に記入して(こんなとき、住所をさいたまにするか秋田にするかで悩む私です)、リーフレットを受け取り、藩主専用の入口だったという表御門から入場

ここで、受付の前にある説明板を転記しておきます。

致道館は、庄内藩酒井家9代酒井忠徳公が、士風を刷新して藩政の振興を図るために、文化2年(1805)に創設した庄内藩の学校です。
当時は鶴岡駅前通りにありましたが、政教一致の趣旨から、文化13年(1816) 10代酒井忠器公によって鶴ヶ岡城三の丸(現在地)に移されました。
明治6年(1873)の廃校までのおよそ70年間、徂徠学を基本に、孝悌忠信を重んじて庄内武士道の根源を培い、多くの人材を輩出しました。
その後、鶴岡県庁、鶴岡警察署、女子教育の明倫学校、朝晹第一・第二尋常小学校などに使われました。
昭和26年(1951)に貴重な文化財として国の史跡に指定されました。

説明板にはこのあと「観覧のご案内」が書かれていまして、入館無料は知っていましたが、休館日が、

毎週水曜日 12月29日から1月3日

だというのは意外で、ふ~危なかった…(この日は木曜日)となりました

さて、表御門から校内に入ると、正面に講堂、右側に藩主がお成りになったときの4部屋からなる専用スペース御入間(おいりのま)があり、

致道館 御入間

左側にあったのが孔子を祀る聖廟でした。

聖廟は、毎年2月と8月に孔子を祭る「釋奠(せきてん)」が行われた場所なのだそうな。
「釋奠」(ATOKでは「せきてん」から「釈奠」と一発で変換できた)というのは、東京国立博物館のHPから引用すると、

釈は「置く」奠は「据える」という意味の文字で、釈奠とは孔子やその門人の霊前にいろいろなお供え物を置き据えるお祭りなのです。(中略)
江戸時代には、全国各地に建てられた藩校や孔子を祀る聖堂において、春と秋の年2回、釈奠の祭儀が絶えず催されていました。幕府が建立した湯島聖堂では現在も、4月の第4日曜日に孔子祭として釈奠の儀式が行われています。

だそうで、江戸時代の儒教ベースの公的教育機関では欠かせない行事だったんですな。
で、致道館の聖廟では、釋奠の際に飾られた孔子聖像のほか、使われた祭器の一部が陳列されていました。

その祭器(釈奠器)の名前が難しい さすがは中国由来…。

と、ここで東京の湯島聖堂のこと。
もともとは江戸時代の朱子学「家元」的な林家孔子廟と私塾が、時代を経て、「大成殿」の扁額を掲げる聖堂昌平坂学問所(昌平黌)になったといういきさつがあります。
江戸幕府直轄の学校が、孔子廟を備えているのですから、各藩の藩校もこれに倣ったのは自然なことだったのでしょう。

   

聖廟の次は、講堂の見学です。

と、その前に、さっき生垣越しに見えた、講堂の東側を見物しました。

当時の他の建物の間取りが再現されていました。
藩校というのは、こんなに大規模なものだったのか…

と驚くのもつかの間、リーフレットによれば、

約15,000㎡の広大な敷地には、現存する建物のほかに神庫や養老堂、句読所をはじめ舎生の寄宿する本舎などの学舎が建てられ、武術稽古所、さらには矢場馬場までありました。

だそうで、講堂の中に展示されていた平面図を見ると、

現存する建物は全体の1/5くらいで、お隣の荘銀タクト鶴岡(鶴岡文化会館)の敷地も、かつては致道館のエリアだったようです

これだけの大規模施設だった致道館、「生徒はどれくらいいたのかと思いきや、350名くらいに達したといいます」だと
まさに庄内藩のエリート養成機関だったんですなあ

さて、「致道館」の額が掲げられた講堂内部を拝見しましょう。

これは大宝寺地内にあった旧学校時代からずっとこの講堂に掲げられていた額である。
文化3年(1806)、当時、侍医であり、致道館の助教兼司業であり、庄内を代表する書家でもあった重田道樹(1752~1811)が揮毫したもので、この時、下書が長持にいっぱいになったという逸話が残っている。

だとか。

ところで、「致道館」の名前の由来ですが、「まぁ、論語の一節だろう」というのは想像に難くないところ。
ちょっと調べると、論語巻10 子張 第19の7

子夏曰、百工居肆以成其事、君子學以

から採られたものでした。
意味としては、

子夏が言うには、職人はそれぞれの仕事場でその仕事をなし遂げ、人々の手本たるべき人間は学問によってその道を究める

といったところでしょうか。
なお「君子」とは、「学識・人格ともにすぐれた立派な人」という意味です。

私、藩校の教育は、現在のように教員がいて、生徒・学生に講義するイメージを漠然と持っていたのですが、講堂内の展示を見て、目から鱗が落ちました

数え年10歳で今の小学校にあたる「句読所(くとうしょ)」に入ると、そこは学級担任がついてくれますが、中学校にあたる「終日詰(しゅうじつづめ)」以降は自習と、今の大学のゼミのような「課題と期日を定めて研修の成果を個人ごとに発表し、互いに討論して疑問を明らかにしながら理解を深める」という「会業(かいぎょう)」だけになります。

句読所終日詰、現在の高校にあたる外舎(がいしゃ)は年4回、大学にあたる試舎生(ししゃせい)は年1回のテストがあり、年齢や就学年数にかかわらず順次進級したのだとか。
こりゃ「自主自律」(私の母校のモットーでもある)が求められますなぁ。

自習が主とはいえ、終日詰は6~7人/室、外舎は2人/室だそうですから、相部屋の学友との討論や教え合いとか、会業はかなり重要っぽい。

しかも、藩主が国許にいる場合は、「正月15日の講初(始業式みたいなもの?)をはじめ、毎月日を定めて昇校し、生徒の会業、武芸修練の場に臨み、これを激励した」そうですから、こりゃ盛り上がる一方で緊張する

   

ところで、庄内藩の藩主は江戸時代を通じて譜代大名の酒井氏(左衛門尉家)でした。

現在の山形県内にあった他藩はというと、米沢藩上杉家新庄藩戸沢家(いずれも外様大名)も転封も改易もされず乗り切りましたが、上山藩松平(能見)家⇒蒲生家[外様]⇒土岐家⇒金森家[外様]⇒松平(藤井)家と変遷したし、山形藩に至っては、最上家[外様]⇒鳥居家⇒保科家[親藩]と変わったあとは、Wikipediaでは、

山形藩は幕府重職から失脚した幕閣の左遷地となり、親藩・譜代大名の領主が12家にわたって頻繁に入れ替わった。

と書かれる始末

庄内藩でも、藩主交替の「危機」を迎えたことがありました。
致道館を現在地に移転した10代藩主酒井忠器が、天保11(1840)年、幕府から長岡への転封命令を受けたのだとか。

そのきっかけとなったのは、こちらの記事で書いた唐物抜荷事件(中国産品密輸事件)」だったのですが、なんと、領民反対運動を繰りひろげ、外様大名・水戸徳川家・田安家の同情を集めると、ついには将軍(徳川家慶)まで巻き込んで(?)、結局、転封は撤回されたのだそうな(天保義民事件)

殿様はさぞかし感激したことだろうな。
昭和期になって酒井家鶴岡に居を構え、現在の当主も鶴岡在住(致道館の指定管理者である(公財)致道博物館の理事長をお務め)だというのは、こんな歴史も影響しているのかもしれません。

ところで、江戸幕府「官学」朱子学だったわけですが、鶴岡藩の「藩学」朱子学を批判した荻生徂徠「徂徠学」
その違いはよく判りませんが、「縁は異なもの味なもの」と思ったのが、前記の「転封問題」との関係です。

川越藩主松平斉典庄内へ、庄内藩主酒井忠器長岡へ、長岡藩主牧野忠雅川越へ転封させるという「三方領知替え」は、松平斉典公が庄内への転封を画策して、あえなく失敗したできごとだったわけですが、致道館において孔子に次ぐ聖なる人だったはずの荻生徂徠は、川越藩主だった柳沢出羽守吉保に仕えたことがありました。
なんだか「伏線」のようなものを感じます。

こうして期待以上の収穫を得て致道館をあとにすることになりました

最後に庄内への転封が叶わなかった松平斉典公が建てたという川越城本丸御殿の写真を置いて、「#5」につづきます。

川越城本丸御殿の訪問記こちら

つづき:2024/11/08 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #5

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #3

2024-11-05 13:28:44 | 旅行記

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #2」のつづきです。

鶴岡への遠征を決めたあと、ネットで観光情報を調べたとき、「無量光苑 釈迦堂」は、仏堂か何かだと思ってしまったのですが、「風間家旧別邸」と冠されているように、「#1」「#2」で紹介した「丙申堂」に住んでいた風間家別邸です。

丙申堂が建てられてから14年後

明治43(1910)年、風間家の別邸として建てられ、主にお客様の接待に使われました。敷地820坪(約2,700㎡)建坪24坪(約79㎡)、広い日本庭園が特徴です。

だそうで、敷地の一部には、現在も風間家の方が暮らしていらっしゃるのだとか。
本邸の「丙申堂」と比べると、敷地「丙申堂」より広いのに、建坪1/17くらい
なんという建ぺい率の低さでしょう
贅沢ですなぁ

ご自慢のでは、庭師さんたちが雪吊りの作業に励んでいらっしゃいました。

ところで、私が仏堂かと思ってしまった「無量光苑 釈迦堂」の名称ですが、リーフレットによると、

この建物は創建時より「無量光」(黄檗宗の三筆と称された木庵の書」の額が掲げてあったので、8代目当主が建物と庭園を含めて「無量光苑」と名づけました。
さらに9代目当主が、東京帝国大学インド哲学科・常磐大定師より寄贈された石仏釈迦像を安置し、現在の建造物及び庭園を含めて「無量光苑 釈迦堂」命名しました。

だそうです。
今にして思えば、もっとしっかりと「無量光」の額を観てくればよかった…

建物は、木造平屋建、妻入、入母屋造、銅板葺で、構造については基本的に良質な杉材を主体としており、丙申堂の小座敷の構造細部に類似しています。別邸建築を考える上で非常に貴重な遺構と言われています。

とあります。

玄関の横にある庭への入口(門)が、なんともでした

   

行き慣れていない街では、食事する場所に困ってしまう私でして(食事場所は事前調査しない)、丙申堂で、街のどの辺りに行けば食事できる店が集まっているのか尋ねてみました。
すると、いかにも手作り感満載「お食事処マップ」を頂戴し、お勧めの店まで教えていただきました

そこで、内川を渡り、お勧めの店があるという銀座通りに行ってみたのですが…。

地方都市でよく見かける「シャッター通り」でした

クルマもほとんど走っていないし、人通りも極わずかで、鶴岡のさびれっぷりも相当なものです…

しかも、お勧めしていただいた店も、マップに描かれている場所は駐車場になっていて、あれま です。
仕方なく、のれんは下がっているものの、内部がさっぱり判らない店に、勇気を出して入店しました。

店内にお客さんが誰もいなかったらどうしようかと思いましたが、カウンターでおばあさんが食事中なのを見てちょっと安心…。(奥の座敷では会社員のグループも食べてた)

カウンター席につくと、お店の人から「日替わり定食でよろしいですか?」と尋ねられ、日替わり定食が1,000円であることしか判らないまま、「お願いします」となりました。
店内を見渡したところ、夜のメニューしか見当たらなかったですし…。

そして出された「日替わり定食」がこちら。

メインディッシュは、カレーか? と思いますが、「コロッケのカレー掛け」でして、「コロッケカレー」のご飯以外を皿に盛ったものでした。

でも、小皿3品に、食後の飲み物もついて1,000円なら、これはアリでしょう

ちなみに、食事中、店内のTVのニュース速報で、ドジャース優勝を知りました

食事を終えて、次の目的に向けて銀座通りを歩くと、あれま丙申堂お勧めの店がありました

「お食事処マップ」デフォルメし過ぎでしょう
まぁ、スマホでGoogleマップを確認しなかった私が悪いのですけど…

   

食事を終えた私は、再び内川を渡り、次なる目的地、鶴岡カトリック教会天主堂へと向かいました。

裏側から近づいていくと、低い陽に照らされたペンキ塗りの壁がなかなかの風情です

正面に回ると、詳細な説明板がありました。
テクニカルタームが多くて難解ですが、備忘録として転記しておきましょう。

この天主堂は、フランス人パピノ神父の設計といわれ、明治36(1903)年鶴岡市三日町に在住した大工相馬富太郎が棟梁となって完成した建物でヨーロッパ中世期頃に建築されたロマネスク様式を持つ教会であり、昭和48(1973)年山形県指定有形文化財、昭和54(1979)年5月国から重要文化財として指定されたものである。
特色は、教会堂特有の三廊式バジリカ型の平面をとりいれたことで、中央と両側にそれぞれ身廊 側廊とよばれる部分と多角形の平面をもつ後陣とが型成されており、身廊の高い天井と側廊の低い天井とにはそれぞれ交差されたヴォルトが用いられ、それが直角に交わり集合されて、その下部は葉形の柱に力強く支えられている。
外観は鐘楼が中央に突出して高く、ロンバルト帯といわれる半円の連続模様がその壁をとりまき、身廊の主棟と低い側廊の屋根との間には小さな丸窓を設け、側廊に半円の窓枠を取り付けたのもロマネスク特有のもので、中世に建てられたヨーロッパ大寺院そのままの形を摸したものである。

転記したあと、テクニカルタームを調べていくと、なんだか教会建築に詳しくなった気がします

「庄内藩家老末松十蔵屋敷跡の武家門」だというひたすら和風をくぐると、一気に「西洋」です

なんとも瀟洒な教会です

パピノ神父が設計した教会は、博物館明治村にもなかったかな? とこのブログの過去記事を探したら、出てきました (記事)
明治23(1890)年に京都・河原町三条に建てられた「聖ザビエル天主堂」です。
木造瓦葺き鶴岡カトリック教会天主堂に対して、聖ザビエル天主堂は、側廊が木造身廊はレンガ造ですが、どちらも「三廊式バジリカ型」ですな

内部を拝観できるということで、靴を脱いで入堂してみました。

教会の内部というと、椅子と机が一体となった講義室のような眺めのイメージでしたが、が敷かれ、パイプ椅子が並んでいます
なんだか浄土真宗のお寺みたい…

この写真だと、「身廊側廊」、「多角形の平面を持つ後陣」、「交差されたヴォルト」もよく判ります。

そして振り返ると、パイプオルガンと、その演奏台や鐘楼に登るための螺旋階段がありました。

1階の隅にはエレクトーンが置かれていて、普段のミサでは、こちらを使っているのかな?

教会にはステンドグラスがつきものですが、鶴岡カトリック教会天主堂はちょっと雰囲気が違いました(写真には撮りませんでした)。
あとでフライヤーを見たところ、説明がありました

ステンドグラスでも色ガラスを組み合わせたものでもないこの教会の窓の絵は、通称「貼り絵」(プリンティド・フィルム・ステンドグラス)と言われている。
二重になっている窓ガラスの内側から描いて外側に透明ガラスをはめ込んだものと、この教会のように薄い透明な紙に描かれた聖画を外側から貼り、さらに外側にガラスを設け二枚のガラスで挟んだものがある。いずれも高価なステンドグラスに代えて使用したと考えられるが、現在、この種の窓絵は日本ではこの教会の他に見ることはできない

へぇ~ です。
もっとじっくりと観てくれば良かった(この記事2回目)

「もっとじっくりと観てくれば良かった」のはもうひとつありまして、それは、左側の側廊に佇むマリア像です。(写真はフライヤーから拝借)
教会のマリア像は珍しいものではありませんが、鶴岡カトリック教会天主堂のマリア像は、日本で唯一「黒い聖母マリア」(教会が建てられたときにフランスのデリヴランド修道院からやってきた)なんですと
Wikipediaを引用しますと、

黒い聖母(くろいせいぼ)は、黒色の聖母マリアおよび聖母子像
キリスト教信仰以前にオリエント一帯、またはケルト文化圏に広まっていた大地母神信仰が吸収されたものともいわれる。
マグダラのマリアを信仰するグノーシス主義キリスト教の一派は、特徴として、黒い聖母マリア像を持っていたとされる。
芥川龍之介の短編作品に「黒衣聖母」の名で登場し、不気味なモチーフとして扱われている。

とな。
キリスト教のことはよく知らない私ですので、単にお顔が煤けたのかと思っていました

あとからやってきた若者は、スマホでバシャバシャとあちこちの写真をとりまくっていましたが、聖なる場所あればちょっと… と思ったこともあって、写真は少なめにした私であります。

鶴岡カトリック教会天主堂の拝観を終えた私は、次なる目的地へとむかったのでありました。

つづき:2014/11/07 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #4

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #2

2024-11-02 18:18:29 | 旅行記

「懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #1」のつづきです。

「旧風間家住宅 丙申堂」の一番の特徴は屋根にあって、入口の「みせ」や「聖徳太子光寿無量堂」や土蔵瓦葺きですが、主屋の屋根は「杉皮葺きの石置き屋根」という珍しいもの。

防水シートを敷いた板の上に杉皮を並べ、その上に平らな石をびっしり並べています。

リーフレットには、

明治の頃はこの地方でよくあった形式の屋根ですが、現在この規模の屋根では、酒田の「旧鐙屋」と2軒だけとなった貴重な屋根です。約4万個の石が置かれています。

だそうですが、そういえば、別邸の近くにある(街の中心部から移設)久保田藩上級武士の家「旧黒澤家住宅」(訪問記)も、表門「石置き板葺」土蔵「石置き杉皮葺」でしたっけ…
ちなみに旧黒澤家住宅の主屋は「こけら葺き」

庄内と秋田とは気候も似ていますからねぇ。
冬の暴風雪に耐えるには「石置き」が適しているのかもしれません。とんでもない豪雪地帯でもありませんし。

なお、丙申堂では、ほぼ20年ごと「葺き替え」をしているそうで、杉皮のストックも用意されていました。

それにしても、約4万個もの石が屋根に乗っかっているというのは、相当な重さがあるわけで、構造的にどうなんだろ

案内してくれた人によると、トップヘビー石置き屋根は、やはり地震には弱いそうなのですが、丙申堂は、明治27(1894)年の酒田地震を教訓に建てられたそうで、天井の無い「いたのま」で、その耐震対策を見ることができました。

三角形を組み合わせたトラス構造になっています。

日本でトラス構造の小屋組が登場したのはいつ頃なんだろ? と思って調べてみたところ、こちらのサイトによると、

日本での洋小屋、トラス構造は明治10年代後半以降と言われている。

だとか。
そうだとすると、明治5(1872)年操業開始の富岡製糸場の繰糸所最古級かもしれません。

なお、丙申堂を建てた大工さんは新潟からはるばるやって来た小松由松さんという方だそうで、

ここを建てる2年前に『酒田大地震』があり、家屋の倒壊被害が甚大であったため、当時の最先端耐震技術ボルト吊り式トラス工法(洋式トラス)を取り入れ、更に和式トラスと組み合わせることで縦横あらゆる方向の揺れにも強く、現在の震度6にも耐えられるといわれています。

だとか。

   

小屋組を見ることができた「いたのま」は、使用人さんや小作人さんたちの食事や懇親会などに使われた場所だそうで、これがまた広い (60畳)
武道場か? と思うような空間です

北海道開拓の村で見た「旧青山家漁家住宅」(「ゴールデンカムイ 北海道刺青囚人争奪戦」にも出てきた)を思い出しました。

ちなみに、この「青山さん」は、庄内遊佐町から北海道に渡って成功を収めた人で、故郷の遊佐町には青山家本邸があって、公開されているらしい(今回知った)

この「いたのま」別格としても、丙申堂の各部屋は、12畳敷き基本になっているようで、どの部屋も広い

そんな中で、家族が寝起きしたいたという「なんど」という区画の多くは8畳敷きと、ちょっと庶民感覚
おもしろいのは、当主の部屋(10畳敷の日本間)の金庫蔵(木造の建物の中にある内蔵)になっていて、4つの金庫が置かれていることでした。
金庫が置かれている場所は石貼りの床ですが(なにせ重量物)、その他のスペースは鶯張り木の床になっていて、夜、盗っ人が金庫蔵に侵入すると、床がキコキコと鳴って、隣の部屋で寝ている当主が気づけるという仕組みとか
でも、当主が最初に現場に駆けつけるというのは、危なくないか?

それはさておき、4つの金庫のうちの一つ、竹内製造製の金庫のダイヤルは、数字ではなく「イロハ」

初めて見ました、こんな金庫

恐らくは風間家の家族専用のトイレは、畳敷きで、便器は染付

染付の便器は、博物館明治村で見たっけな…。(記事)

そして、丙申堂の最後は

なんだか高級旅館みたいな風情です

こんなところで「旧風間家住宅 丙申堂」の探訪記はおしまいにして、「#3」は、すぐ近くにある「風間家旧別邸 無量光苑 釈迦堂」の探訪記です。

あ、そうだ

書き忘れていましたが、

平成8(1996)年12月に主屋、同11(1999)年6月に付属の表門(薬医門)、各蔵、板塀、風呂場等国登録有形文化財となり、また、同12(2000)年12月に国指定重要文化財となりました。

だそうです。

つづき:2024/11/05 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #3

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懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #1

2024-11-01 18:57:40 | 旅行記

10月27日(日)から別邸に帰省中です。

今回の帰省は、今シーズン最後のドライブ帰省の予定で、もし天気が良くかつ気分が乗れば、懸案にしている山形県鶴岡市の街歩きを決行したいなと考えていました。
鶴岡には、2019年9月の帰省の際に出かけたのですが(記事)、このときは、羽黒山で思いつきで始めた「登山」に思いもよらず時間と体力を使ってしまい、羽黒山の後は加茂水族館にしか行けなかった過去があります。
羽黒山から加茂水族館への移動の途中、鶴岡の市街地で、なんとも魅力的建物たちの近くを通りながら、「いつかは絶対に鶴岡の街歩きをすると心に決めました。

「心に決めたのはいいのですが、その後、なかなか機会に恵まれず(って、その気になれなかっただけ)、2021年には津軽半島(記事)酒田(記事)2022年には弘前(記事)、そして今年青森市へ泊まりがけ(記事)と、別の近県ドライブを楽しんできました。

これではイカン と思っていたところ、一昨日の夕方、天気予報を見ていたところ、10月31日は良い天気になるということから、急遽、鶴岡の街歩きの決行を決めました

さっそく、ネットで観光情報を収集し、こちらのサイトから観光マップをダウンロードして、クルマの駐車場所街歩きルートを検討しました。

すると、驚いたことに、無料駐車場が数か所にあるんですな (土日祝日には市役所の駐車場も無料で使える)

そして、使う駐車場といくつかの観光スポット(致道博物館最優先)と巡る順番を決め、準備完了となりました。

   

当日(昨日)は、9:10頃に別邸を出発し、R7をしばらく走ったあと、岩城ICから日本海東北道(日東道)に乗り、まずは象潟ICを目指しました。

日東道は、秋田・山形県境の象潟IC~遊佐鳥海ICミッシングリンクになっていて、その代わりなのかどうか知りませんが、岩城IC~象潟ICは無料で走れます

その象潟ICのひとつ手前の金浦ICで一般道に降りるクルマ(とくに大型車)が多くて、こんなところ(失礼)で降りてどこに行くんだろうと不思議に思ったのですが、どうやら、象潟ICからR7に出るまでの道が長くかつ細いことから、日東道を走り慣れた人たちは、R7にほぼ直結している金浦ICで降りてR7を走った方が良いと判断しているようでした。

R7を走って県境を越え遊佐鳥海ICから再び日東道に乗ると、ちょこまかと設置されている料金所を通過し、鶴岡JCTから山形道に入り、鶴岡ICから一般道に降りました。

そして、一般道をしばし走ると、目的地鶴岡公園東駐車場に到着しました。

約140km所要時間2時間15分のドライブでした。
一般道をけっこう走ったし、日東道・山形道ともにほぼ片側1車線で制限速度も低いので、どうしても時間がかかります。やたらとトロトロ走るクルマもいたし…

   

さて、お昼時ではありましたが、しっかりと朝食を摂ってきたので、朝飯前ならぬ昼飯前にちょっと観光することにしました。

最初の観光スポットは、「旧風間家住宅 丙申堂」「風間家旧別邸 無量光苑 釈迦堂」にしました。

隣接するブロックにあるこの2つの観光スポットは、その名のとおり、風間家のそれぞれ住宅(兼店舗)別邸だった建物です。

まずは明治29(1896)年丙申(ひのえさる)の年に風間家7代当主・幸右衛門さんが住居兼営業拠点として建てた「丙申堂」

堂々とした薬医門(ご参考)をくぐると、

正面に「聖徳太子光寿無量堂」が建っているのですが、実は私、裏側から入ったので、写真は「聖徳太子光寿無量堂」の裏側と、内側から見た薬医門です。

そして主屋の前には、風間家の家紋「丸に二重亀甲花菱」が描かれた提灯となにやらシンボルマーク的なモノと「風間銀行」と書かれた提灯が掲げられていました。

風間家(私は今回初めて知った)についてリーフレットから引用しますと、

風間家の祖は、沢海(そうみ)(現新潟県新潟市沢海)の武士であったが、商人となり村上、酒田を経て、鶴岡には18世紀後半に移住したと伝えられている。その後、鶴岡城下で藩の御用商人として呉服太物屋を営み幕末には鶴岡第一の豪商となった。
明治期には貸金業に転じ、庄内地方では酒田の本間家に次ぐ大地主に成長し、鶴岡の産業振興に力を注いだ。その一方で児童福祉などの慈善事業を行い、現在は育英事業等に尽力している。

だそうです。
Wikipedia「風間氏」「沢海藩」を見ると、事情や経緯はもっと複雑で、どうやらご先祖様は沢海藩の改易(1687年)に伴って商人に転じ、その後、幾重もの分家を経て、一族の一人が鶴岡に土着したっぽい

そして、鶴岡風間氏の7代目が、風間銀行を設立し、その後、他の銀行と合併して現在の荘内銀行に至る、ということだそうな。

主屋に入ってすぐ、現在は丙申堂の受付になっている場所は「みせ」というエリアで、ここで銀行業務を行っていたそうな。

ここで丙申堂の平面図を。

「部屋数19室」というだけでもひやぁ なんですが、多くの部屋が12畳敷きだというのがなんともはや…です。

「みせ」の前を通って左に曲がり、居住区に入ったところの眺めが、、、

どこまで続くこの土間(石敷き)
その名も「とおり」というだけのことはあります

しかも、「とおり」の両側の長押も天井の竿縁も、

 長さ8間(約14.5m)の一本物の杉材
 使用しています

ですと

#2以降で紹介する予定の「いたのま」にあった大黒柱も、

なんとも見事

使っている素材だけでなく、

釘隠しも、風間家の家紋の一部「花菱」はもちろん、あり、なんだろこれ? 的なものありと、部屋や場所によって使い分けられていなど、芸も細かい

いやはや、眼福です。

「金に糸目をつけない施主に巡り会った職人さんは、もちろんプレッシャーはあるでしょうけれど、やりがいハンパないのでしょうねぇ

そして、わたしのようなトーシローは、こんな豪勢な建物を観るときは、非日常性と細部に至るまでの美しさをひたすら楽しむのでありますよ。

ということで、「#2」につづきます。

つづき:2024/11/02 懸案の鶴岡市の街歩きを決行 #2

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河口湖遠征の復路のこと

2024-10-05 06:51:13 | 旅行記

「河口湖遠征の復路のこと」のつづきは、「MISIA SOUL JAZZ 2024 (MSJ2024)」終演後、駐車場でクルマに乗り込んだところから始まります。

クルマのナビの目的地に自宅を設定すると、ナビが推奨したのは中央道ルートでした。
でも、ナビの地図を拡大してみると、中央道はしっかと渋滞しています。
東名渋滞しているでしょうけれど、2車線しかない中央道の渋滞は東名のそれよりずっとタチが悪いので、東名で帰ることにしました。

そして、町民グラウンド駐車勢悪戦苦闘がつづいているであろう中、私は18:20に駐車場からクルマを出して公道に入ると、交差点ごとに信号で止められながらも、富士吉田ICから東富士五湖道路に乗り、R138を通って、19:05には御殿場ICから東名に乗れました。

   

東名では、しばらくは順調に走れたのですが、交通情報によると、伊勢原から先はずっと渋滞しているとのこと。

それならばと、渋滞直前中井PAトイレ & 軽い夕食を摂ることにしました。

そして、中井PAでトイレを済ませ、肉うどんを食べ、自宅で食べる用のコンビニおにぎりを購入し、クルマに戻ろうと駐車場を歩いていると、こちらに向かって歩いてくる外国人さんが目に止まりました。
この人、ベーシストのラシャーン・カーターさんに似てる
え" もしかして と、周りを見回すと、トイレに向かって歩いている、お団子ヘアのガタイの良い人(クロタクさん?)と、めちゃ背の高いスリムな人(コーリー・キングさん?)ともう一人(クレイグ・ヒルさん?)の後ろ姿がありました

こりゃ、間違いなく、数十分前まで河口湖ステラシアターのステージに立っていたクロタクバンドのうち海外組の皆さんです

私が冷静で、かつ、高速回転できていれば、

Hi Mr. Carter!
I enjoyed tonight's concert, very much.
Your peformance was very exciting and marvelous! 

とかなんとか声かけできたでしょうけれど、この時は、あまりにも予期せぬできごとで、ただただアワワ…
何も行動できませんでした

恐らく、大林さんトモさん自分のクルマで、クロタクさんを含む海外組ハイヤー東京に向かっていて、ハイヤーの運転手さん「渋滞に嵌まる前にトイレ休憩をとりましょう」と提案したんだろうな

   

こんなできごとのあと、本線に戻ってしばらく走ると、情報どおり渋滞に嵌まりました

私は以前から、渋滞中の高速道路では一番左の車線が比較的速く流れる」というイメージを持っていたのですが、その後、TVの情報番組私の仮説を裏づけるデータが紹介されていたことから、一番左の車線を走り続けてみることにしました。

すると、ホントに、一番左(第一走行車線)>真ん中(第二走行車線)>一番右(追越車線)の序列ができていました
追越車線が一番遅いだなんて

PA/SAやICから合流してきたクルマが第一走行車線を走るクルマを邪魔しそうなものですが、そうしたクルマのほとんどは、ちょっと走ると、「より遅い」車線に移っていって、第一走行車線は他の車線より速く走れる状況が維持されていました
これはかなり興味深い現象です

海老名SA出口から横浜町田ICの辺りまで、第一走行車線さらに左側「付加車線」が設けられているのですが、この車線がダントツに速く流れていたのはいうまでもありません。
ただ、やがて絞られることが判っている車線を走ることは、良心がとがめるというか「ちょとズルいと思ってしまい、渋滞が終わるまで第一走行車線を走り続けた私でありました

   

東名渋滞区間を抜けた私が迫られた次の選択は、首都高速を使うか、東京ICで降りて環八を走るか、ということでした。

1か月前の関西旅行の帰り、羽田空港からのリムジンバス首都高速の中央環状線スムーズに走り続けたこと(記事)が記憶に新しい一方、 あれは土曜日の夜だったと懐疑心を持ったり、かつて河口湖からの帰り、深夜だったにもかかわらず環八渋滞に嵌まったことを思い出したり…

結局、まだ20:30遅くない時刻だったことから、早さより安さを選び、東京ICから環八に降りました。

ということで、帰路のETC利用履歴は、

帰路のETC利用履歴

でした。

あれま
御殿場IC⇒東京ICの所要時間は約1時間半

あの「本格的な渋滞に嵌まりながら、前日の往路ほぼ同じトラウマとなっていた2022年5月の河口湖遠征帰路2時間20分より1時間近く短縮してます
これは「第一走行車線作戦」功を奏したのか????

で、かつての帰宅ルート、「環八⇒笹目通り⇒新大宮BPルート」は、そこそこの流れ(相変わらず杉並区内流れが悪い)で、自宅に帰着したのは 21:31でした。

東京ICから自宅まで約1時間というのは、まぁ、早くもなく遅くもなく…ビミョーな感じ
でも、首都高速スムーズに走れたとしても、短縮できるのは30分くらいで、1,000円ほどかかる(帰るときは戸田南で首都高から降りる)ことを考えれば、下道(したみち)を選んだのは妥当な判断だったかと思えるわけで…

何はともあれ、河口湖遠征無事に終えられて、なによりでありました。

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河口湖遠征の往路のこと

2024-10-04 18:21:09 | 旅行記

「MISIA SOUL JAZZ 2024に行ってきた話」のつづきのようなもので、河口湖ステラシアターに行き着くまでの備忘録です。

9月28日(土)は、御殿場のホテルまで行けばいいだけの日程で、渋滞必至土曜日の東名下りをいかに楽に走り抜けるかが課題でした。

私にとってトラウマになっているのは、2022年5月Misia Candle Night 2022 PEACE OF MIND」@河口湖ステラシアターの3-4日目に行ったときのことで(初日は電車で日帰り、2日目はチケットとれず)5月3日の下り方面の渋滞は酷かった

首都高速区間は1時間20分と、通勤で使ったときのド平均から30分増しで済んだものの、東名区間は東京料金所から御殿場まで3時間15分を要しました。
このとき、トイレ問題が重大で、どこのPA/SAもかなり手前からクルマが行列していて入る気になれず、冷や汗ものでした

今回の場合は、「16:00頃に御殿場に着けばいい」気楽なものだったのですが、それでも、起きがけに交通情報をチェックしました。
すると、、、

あれ 渋滞が無い
まるで日曜日朝のような状況です

これなら、昼過ぎに出発しても十分だな…
と思ったのもつかの間、その後、ジワジワと中央道と東名の両方の下りが混み始め10:35の時点ではこんな具合になっていました。

東名は、お約束の大和トンネル付近と、工事で容量が半減している大井松田付近を先頭に渋滞が発生していました

その後、この渋滞が徐々に緩和していく様子を適宜観察し、私は13:15に自宅を出発。

首都高速は「がら空きといっても良い状況で、浦和南⇒東名接続34分で通過でき、そして、予定どおり、東名・港北PAで遅めの昼食を摂りました。

私がクルマ通勤していた頃、朝食はいつも港北PA食べるか調達していました。
あれから5年以上経ち、メニューやレシピは変わったようですが、ご飯の盛りの良さ変わっていませんでした(かつては朝食に焼肉定食を食べるときは、ご飯を少なめにしてもらってた)

   

東名の渋滞は緩和しつづけ、スローダウンはあったものの、止まるようなこともなく、そこそこ順調足柄SAまでやって来ました。

ここまで来れば、そのまま御殿場ICまで行ってホテルに向かう手もありましたが、まぁ、ちょっと早いので…

そして、ちょっと足柄SAを見物した後、クルマに戻り、御殿場ICからR138でホテルに向かいました。

この往路のETC利用履歴はこんな具合。

所要時間は、首都高速区間が29分東名区間が1時間26分と、2022年5月の往路の半分以下で済みました
もし「MISIA SOUL JAZZ 2024」初日にも参加する予定だったら、こうはいかなかったことでしょうな

ホテルにチェックイン後、コンビニからビールや食料を買ってきて(チェックイン前に寄るべきだった)大浴場でさっぱりして、近所のKFCから買ってきたチキンビールを飲んで、まったりと遠征初日を終えたのでした。

   

遠征2日目は、午前中観光に費やす手もありましたが、「13時までに河口湖ステラシアターの駐車場にクルマを止める」をことを最優先に行動することにしました。

とはいえ、ホテルのチェックアウトタイム10:00だし、ホテルから河口湖までは御殿場BP・須走道路東富士五湖道路を使えば40分ほどしかかかりません。
さて、どうする?

朝食を食べながら考えましたが、結論は、

チェックアウトタイムギリギリホテルを出発旧R138をたらたらと走る⇒山梨県立富士山世界遺産センターを見学する

という、しごくシンプルなものでした

ところが、旧R138スムーズに流れ、ホテルを出発して30分後には山中湖畔に着いてしまいました
駐車場にクルマを止め、車外に出てみると、寒い

そして、が低い
いつが降り出しても不思議ではない天候です。
そそくさとクルマに戻り、さらに北上しました。

と、忍野八海への分岐の辺りにさしかかると、思いがけない渋滞

「渋滞末尾注意」の看板があるということは、渋滞頻発ポイントなんでしょうな

しばらく渋滞は続き、それを抜けると、気も抜けたのか、道を間違えてしまいましたが、大事には至らず11:00には富士山世界遺産センター到着しました。

今回の遠征では、どこからもまったく富士山見ることができませんでした
前記の足柄SAからもそうでしたし、富士山世界遺産センター「展望広場」からも、見えるのはのみでした

しかたありませんので、富士山のオブジェと、

カフェの「フジヤマソフト」で我慢しました

富士山世界遺産センターでは、もちろん、山口晃画伯の「冨士北麓参詣曼荼羅」もしげしげと鑑賞いたしました

この作品は、116.7×182cmの原画5×8mに拡大したパネルなんですが、デカ過ぎて、その全貌をカメラに収めることができません

それにしても、約4倍に拡大しても、それとは見えないというのは、どれだけ細かく描かれているんだ です。

いつか原画を拝見したいものです

さて、ここからしばらくは「MISIA SOUL JAZZ 2024に行ってきた話」重複してしまいますので、一気にMSJ2004終演後に飛び、その話は「河口湖遠征の復路のこと」で書きます。

つづき:2024/10/05 河口湖遠征の復路のこと

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #3-2 [完結編]

2024-09-18 07:27:25 | 旅行記

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #3-1」のつづき、ついに旅行記完結編です。

閑散とした三条通りを歩いてJR奈良駅まで戻って来た私は、ホテルから荷物を引き取り、昼食として車内で食べるべく「柿の葉寿司」を購入して(結局本宅で食べた)大阪(伊丹)空港行きのリムジンバスに乗り込みました。

私が乗ったリムジンバスは、定刻だと空港到着が14:26で、フライトまでは約2時間余裕があります。1本遅いバス便でも1時間弱余裕があったのですが、この私の意図については後ほど…

   

バスは、奈良・生駒市内のバス停で乗客を拾った後、第二阪奈道路阪神高速13号東大阪線東大阪JCT近畿自動車道吹田JCT中国自動車道豊中ICというルートをきわめて順調に進みます。

途中、近畿道から見えたこの奇妙な建物は何?

Googleマップほかで調べたところ、「鶴見はなぽ~とブロッサム」という「大阪鶴見花き卸売市場」とした旧三井アウトレットパーク大阪鶴見(昨年3月に閉館)複合施設でした。

月下美人の花のイメージを表現した外観」だそうですが、大阪らしいといえば大阪らしい外連味たっぷりの建物です。
三井アウトレットパークが抜けた跡はどうなっているんでしょうか

ここから10分ほどで、中国道から太陽の塔が見えました

ここまで来れば、大阪(伊丹)空港はすぐ近くです

そして、15分もかからず、定刻前大阪(伊丹)空港到着しました。

   

空港に着くと、まずはトイレに入り最後のTシャツ交換

今回の旅行には、2泊3日にもかかわらず、替えのTシャツ5枚持ってきていました。
1日2枚の勘定です。

過去の旅行では、旅行先でTシャツを購入したことが何度かあったという経験を活かせたわけで、大正解でした

夏の旅行には、Tシャツハンドタオル「多すぎるかな?と思えるくらい持って行くのがお勧めです。どちらもそれほど嵩張りませんし。

   

さて、なぜ私は余裕がありすぎるくらいのタイミングで空港に行ったのか、ということです。

今年1月、JALマイレージプログラム改訂しました。

このおかげで、ながらく「JALカードSuica」を使ってきた私には、今年2月に「さくらラウンジ」年2回の利用権がやって来て、4月にはステータスが上がったことで、利用権が年6回に増えました

私は、さっそく今年 4月「MISIA 25週年星空現場Ⅻ:Starry Night Fantasy」台湾公演への遠征で羽田空港のさくらラウンジ朝食をいただこう楽しみにしていたのですが…

それから半年近く経ち、東海道新幹線運休という思いがけない展開から、さくらラウンジを使うチャンスが巡ってきたというわけです。

Tシャツを着替えた私はバッグと傘を預けて、セキュリティチェックを無事通過すると、まったりするべく、さくらラウンジへ向かいました。
この行動は、あとで後悔することになります

久しぶりのさくらラウンジで、まずは、柿の種を摘まみながらビール

やはり、この落ち着いた雰囲気良いなぁ~
喫煙室もあるし…

と思っていたら、ラウンジに入ってきた人が手に提げていた「551 HORAI」のペーパーバッグが目に入りました

私も豚まんを買って帰りたいと思ってスマホで調べると、大阪(伊丹)空港の551 HORAIの店は、セキュリティチェック前だったぁ~

これは失敗しました

   

飛行機は定刻から若干遅れて離陸しました。

始めのうちは、万博記念公園が見えたぁ とか、

琵琶湖が見えたぁ とか、

眺めが良かったのですが、すぐに厚いの中に入り、また、気流の状況が良くないということで、飲み物サービスは冷たいもののみ(私はいつもコンソメスープなんだけど…)になってしまいました。

航路を見ると、かなりいびつなもの(逆S字形)で、やはり静岡県上空は相当に状況が悪いようです

再び地上が見えたときは、すでに千葉県上空でした(真ん中に見える緑地陸上自衛隊習志野駐屯地)

そして、TDRの近くを通過した飛行機は、

北東側から羽田空港B滑走路に無事着陸しました。

   

羽田空港から本宅までは、待ち時間は1時間半近くもあるけれど、楽ちん空港リムジンバスを利用しました。
やはり旅行用のバッグを連れて電車を乗り換えるのは大変ですから。
私の場合、電車で帰ろうとすると、最低2回の乗り換えが必要で、中でも品川駅での京急⇒JRの乗り換えが最悪だと思っています(JR⇒京急はまだマシ)

土曜日の夜なら、首都高速空いているだろうな と思ったら、案の上、渋滞どころかスローダウンなく、定刻より15分ほど早く、自宅最寄り駅前到着

さいたま市は土砂降りで、傘からはみ出すバッグは10分たらずの間にびしょ濡れになりましたが、ここまで来れば問題無し

ということで、台風10号には邪魔されたものの、村上隆展興福寺国宝館ホテル日航奈良の朝食、という三大タスクコンプして、関西旅行を終えたのでした。
めでたしめでたし…。

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #2-5

2024-09-16 18:49:32 | 旅行記

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-4」のつづきです。

奈良博の東・西新館での二つの展覧会を見終えた段階で時刻は13時を過ぎていました。
ここは興福寺後回しにして昼食を食べようということで、ミストを浴びて涼む鹿を横目に猿沢池の畔に降り、もちいどのセンター街に行き、ある意味行きつけ(もちろん奈良に行ったときだけ)レストランで食事しました。

食後、再び興福寺に戻ったんですが、五重塔修理用素屋根の大きいこと

まるでビルを建設しているみたいです

昨年始まったこの五重塔修復工事の完了予定は2031年だそうで、約8年を要する大工事です。
120年ぶりの大規模修理(瓦の葺き替え、軒回りや木部の修理、漆喰壁の塗り直し)ですから、これくらいの期間はかかるんだろうな

境内で見ると、北隣りに比較対象となる東金堂(現在閉堂中)が立っていることもあって、素屋根のデカさが際だちます。

興福寺のHPによれば、今年7月素屋根の外構が完成しているはずなのに、五重塔相輪最上層の屋根が見えていて、まだ屋根が無い状態のようです

工事が遅れ気味なのかな…
まぁ、8年間の長丁場ですから、ちょっと遅れるときも、はかどるときあるでしょう

それはともかく、私は壮麗中金堂にお参りしました。
落慶した2018年以来約6年ぶり2度目(前回の探訪記)です。

勧進所の自販機で拝観料500円也をお納めして、拝観受付でリーフレットを頂いて、中金堂に入堂

初めて中金堂に入堂したときのこちらの記事で、

金ピカ釈迦如来坐像と、なんとなく頭でっかちバランスの良くない薬王・薬像菩薩立像は、初めて拝観させていただいたような気がします。

としか書かなかった御本尊の釈迦如来坐像は、当然ながら今回も金ピカでした
真新しい中金堂にはふさわしい新しい御本尊かもしれない
と思ったのですが、

像内墨書から文化8年(1811)に定朝31世、運慶28世と称する仏師赤尾右京が造立したことが知られます。古様を模したスケールの大きな像で、伝統ある興福寺本尊としてふさわしいものです。2018年の中金堂再建落慶にあわせて修復されました。

他の仏像に比べれば比較的新しいものの、それでも江戸時代後期の作です。
いわゆる「化政文化華やかなりしころ」ですが、化政文化江戸の町人を中心に盛り上がったものですから(来年のNHK大河ドラマの舞台)、その影響は無いと考えていいでしょう。
それにしても、新調したのではないかと思うような金ピカ御本尊です。
「結局、そこかいですな
なお、

中金堂創建当初の本尊は、藤原鎌足蘇我入鹿の打倒を祈願して造立した釈迦如来像と伝えます。現在の像は5代目。

だそうで、初代7世紀に造立された飛鳥仏だったのか…

ところで、中金堂の英文呼称は“Central Golden Hall”だそうで、ほんと直訳
では、東大寺の金堂たる大仏殿どう訳すんだろ? と調べたところ、"Great Buddha Hall (Daibutsu-den)" でした。
でも、東大寺は、「鐘楼=Bell Towerを除いて、ローマ字読みを基本にしているみたいです。

一方の興福寺意訳

両寺のポリシーの違いがあって興味深いです

   

中金堂へのお参りの次は「久しぶり」(といっても2年ぶり)興福寺国宝館です。

私、2012年から2022年まで、リニューアル工事中だった2017年を除いて年に一度興福寺国宝館を訪れていました。

去年も、東大寺大仏殿前庭で開催された「東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌慶賛『MISIA PEACEFUL PARK Dialogue for Inclusion 2023』」に参加するべく奈良に来たのですが(旅行記「MISIA編」を含み長編です)、
この時は、東大寺のお堂たち(大仏殿⇒二月堂⇒法華堂⇒手向山八幡宮⇒鐘楼⇒戒壇堂)じっくり巡ることと、行ったことのなかった大神神社郡山城趾への訪問を優先して、興福寺ほぼ境内を通過するだけでした。

興福寺国宝館の展示は2年前から変わることなく、相変わらずステキでした。

金剛力士像も、天燈鬼・龍燈鬼も、二つの仏頭も、弥勒菩薩半跏像とその厨子も、板彫十二神将像も、十大弟子像も、千手観音菩薩立像も、華原磬も、そして八部衆像も、どれもホンットにイイ 大好き

やはり年に一度は拝見したいよなぁ と思いながら興福寺国宝館を出て、路線バス県庁前からJR奈良駅まで行き、そして、ホテルチェックインしました。

ところで、ずっと心の奥底でモヤモヤしていた帰宅するための東海道新幹線ですが、にはリマインドメールが来ました
ところが、ホテルにチェックインしたときには、31日の運休が決まっていました

さて、どうする????

試しに、飛行機の空き具合をチェックしたところ、31日の夕方以降なら空席がある
すぐさま飛行機の予約を入れ新幹線キャンセルしました。

費用的には新幹線⇒飛行機の差額(3千円ちょっと)に加えて、リムジンバス2区間の運賃痛いところですが、仕方ありますまい
でも、帰宅する手段を確保できたことでホッとしつつ、シャワーを浴びてTシャツを新しいのに替えて気分もスッキリ

このあと、これまた「奈良に行くといつも」の店まで歩いて行って、ビール串カツをかっくらっていい気分

だったのですが、お勘定の段階で、ホテルに財布を忘れてきたことが判明しました

恐る恐る「交通系ICカードが使えるのかを聞いたところ、OKということで、大事には至りませんでした

過去にはいつも現金払いだった店でしたので、ほんと、どうしようかと思いましたよ

終盤に波乱はあったものの、旅行2日目はこうして幕を閉じたのでした。

つづき:2024/09/17 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #3-1

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #2-1

2024-09-12 12:31:22 | 旅行記

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-6」のつづき、ここからは旅行2日目(8月30日(金))のあれこれです。

朝食前に、散歩という距離ではないけれど、京都駅八条口前にある喫煙所まで歩き、そこで一服しました。
東海道新幹線は始発から新大阪~東京運転見合わせになっているんだけど、京都駅の新幹線ホームには車両が止まっていました。

車両基地まで戻れなかったのかねぇ?
それにしても、青空皮肉です

前日、この竹田街道八条交差点で、とんでもない運転をするクルマを見かけました。
南北方向が赤信号右折可⇒が出ている状態で、から走ってきたアルファード右折車線を通って、信号待ちしている左折・直進車線のクルマたちを追い抜いて左折していったのです。
あんなのを初めて見ました
対向車がいなくてよかったんだけれど、少なくとも信号無視&通行区分違反で、4点&反則金18,000円です。
あのアルファードほど極端ではないにしろ、京都のドライバーの運転が荒い気がするのは私だけでしょうか?

   

私は、旅行のお楽しみホテルの朝ごはんを食べたあと、チェックアウト。
そして、奈良のホテルJR奈良駅前なので、近鉄ではなくJR京都9:37発みやこ路快速奈良に向かいました。

車内には多くの外国人が 
そして、この列車が稲荷駅には停車しないことがしきりに数カ国語でアナウンスされていました。
伏見稲荷に行きたい場合は、東福寺駅京阪電車に乗り換えるんですな。
そういえば、京都駅から奈良線の各停に乗って宇治まで行ったとき(記事)は、観光客らしい乗客のほとんどが稲荷駅で降り、車内は閑散となったっけ…

みやこ路快速に乗っている大勢の外国人旅行者たちはどこに行くのだろうかと思っていたら、半分くらいが宇治駅で降り、残り半分が終点の奈良駅まで乗っていました。
まぁ、そんなもんだろうな

さて、京都から約45分奈良に到着し、例によって、ホテルに行き、荷物を預かってもらいました。
そして、JR奈良駅前から路線バスに乗って奈良公園方面へ

バス乗り場も外国人だらけ
一時期、奈良や京都で聞こえてくる外国語は中国語かハングルばかりでしたが、欧米系の比率がかなり上がった印象です

それはともかく、どこに行く?

この時点でも、目的地として決めていたのは興福寺(とりわけ久しぶりの国宝館)だけで、まったくもって気ままな旅です
そして、とりあえずは東大寺に行くことにして、氷室神社・国立博物館でバスを降りました。

と、「なんとも奈良」な光景が

「置物ですか?」と聞きたくなるような見事シカです

シカだって日陰でをとりたくなる日差し強さと暑さです

東大寺大仏殿鴟尾の輝きまで暑そう

ここまで来て、久しぶりに正倉院を観に行こう と思い立ちました。
東大寺ではなく宮内庁が管理する正倉院、その外構が公開(無料)されるのは、奈良博恒例の「正倉院展」期間中(今年は10月26日~11月11日)を除けば、平日限定です。

いまや「平日こそ活動日」になっている私ですが (年休を取って正倉院の外構を観に行ったことがあったっけ…)、せっかくのタイミングですから、拝見させていただきましょう。

ということで、大仏殿前駐車場の縁を通って、途中の喫煙所で外国人観光客に混じって一服したあと、参道に出て、南大門をくぐり、大仏殿回廊右回りに迂回して、正倉院に向かいました。

そして大仏殿回廊北西隅からいつものよう南北通路を通って正倉院に行こうとすると、あれま

「史跡整備工事」のため近道通れない…
そういえば、昨年10月(MISIA PEACEFUL PARKのとき)に来た際、大仏殿裏手(北側)講堂跡周辺の整備を実施中だという看板を見ましたっけねぇ。

そんなわけで、さらに迂回して正倉院の正門の前を右折し、

「参観者出入口」に到着しました。

正門の脇に銅板葺き立派な、しかし真っ黒読めない説明板がありましたが(かつては説明板は白く、柵外からも読めた)、ご丁寧に、その内容が柵に掲示されていました。
曰く、

正倉院
正倉(校倉)はもと東大寺の宝庫で奈良時代に建造されたものである。
以来1200余年の間 聖武天皇の御遺物をはじめ数々の貴重な宝物がここに収められてきた。
現在宝物は防災設備を施した構内の新宝庫に移してある。
 平成13年 1月                  宮内庁

だそうで、東西二つある新宝庫のうち西宝庫が、正門の左手奥に見えました。

宮内庁のこちらのサイトによれば、二つの新宝庫のうち、整理済みの宝物を収納している西宝庫勅封されていて、「染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵経巻が収納」されている東宝庫はそうではないらしい。
そして、毎年秋の点検(このタイミングで正倉院展が開催される)の際には勅使がやって来て勅封を解き、終わったら再び勅封するのだとか。(動画)

ちなみに、世にも名高い織田信長による正倉院宝物蘭奢待切り取りも、ちゃんと勅使を伴って奈良にやって来て事に及んだそうな

さて、正倉院正倉です

いつながら大きい いつもながら閑散としてる

写真で見ると「ちょっとした倉庫」のイメージなのですが、実際に目の当たりにすると大きい大きい
「正倉院展」のキッズサイトからを拝借するとこんな具合です。

それにしても、いつ写真を撮っても、暗く写って、せっかくの校倉見えないのはなぜ? (壁に露出を合わせると屋根が白く飛ぶ)

軒が深く壁が影になるからなんだけど、宮内庁のHPのような写真はどうやったら撮れるんだろ?

まだ日の低い朝のうちに撮るしかないのかな? (私が行ったのは11:20頃)

そんなことを考えているところで、「#2-2」につづきます。

つづき:2024/09/13 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-2

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