新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

台風に邪魔されながらの関西旅行記 #2-5

2024-09-16 18:49:32 | 旅行記

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-4」のつづきです。

奈良博の東・西新館での二つの展覧会を見終えた段階で時刻は13時を過ぎていました。
ここは興福寺後回しにして昼食を食べようということで、ミストを浴びて涼む鹿を横目に猿沢池の畔に降り、もちいどのセンター街に行き、ある意味行きつけ(もちろん奈良に行ったときだけ)レストランで食事しました。

食後、再び興福寺に戻ったんですが、五重塔修理用素屋根の大きいこと

まるでビルを建設しているみたいです

昨年始まったこの五重塔修復工事の完了予定は2031年だそうで、約8年を要する大工事です。
120年ぶりの大規模修理(瓦の葺き替え、軒回りや木部の修理、漆喰壁の塗り直し)ですから、これくらいの期間はかかるんだろうな

境内で見ると、北隣りに比較対象となる東金堂(現在閉堂中)が立っていることもあって、素屋根のデカさが際だちます。

興福寺のHPによれば、今年7月素屋根の外構が完成しているはずなのに、五重塔相輪最上層の屋根が見えていて、まだ屋根が無い状態のようです

工事が遅れ気味なのかな…
まぁ、8年間の長丁場ですから、ちょっと遅れるときも、はかどるときあるでしょう

それはともかく、私は壮麗中金堂にお参りしました。
落慶した2018年以来約6年ぶり2度目(前回の探訪記)です。

勧進所の自販機で拝観料500円也をお納めして、拝観受付でリーフレットを頂いて、中金堂に入堂

初めて中金堂に入堂したときのこちらの記事で、

金ピカ釈迦如来坐像と、なんとなく頭でっかちバランスの良くない薬王・薬像菩薩立像は、初めて拝観させていただいたような気がします。

としか書かなかった御本尊の釈迦如来坐像は、当然ながら今回も金ピカでした
真新しい中金堂にはふさわしい新しい御本尊かもしれない
と思ったのですが、

像内墨書から文化8年(1811)に定朝31世、運慶28世と称する仏師赤尾右京が造立したことが知られます。古様を模したスケールの大きな像で、伝統ある興福寺本尊としてふさわしいものです。2018年の中金堂再建落慶にあわせて修復されました。

他の仏像に比べれば比較的新しいものの、それでも江戸時代後期の作です。
いわゆる「化政文化華やかなりしころ」ですが、化政文化江戸の町人を中心に盛り上がったものですから(来年のNHK大河ドラマの舞台)、その影響は無いと考えていいでしょう。
それにしても、新調したのではないかと思うような金ピカ御本尊です。
「結局、そこかいですな
なお、

中金堂創建当初の本尊は、藤原鎌足蘇我入鹿の打倒を祈願して造立した釈迦如来像と伝えます。現在の像は5代目。

だそうで、初代7世紀に造立された飛鳥仏だったのか…

ところで、中金堂の英文呼称は“Central Golden Hall”だそうで、ほんと直訳
では、東大寺の金堂たる大仏殿どう訳すんだろ? と調べたところ、"Great Buddha Hall (Daibutsu-den)" でした。
でも、東大寺は、「鐘楼=Bell Towerを除いて、ローマ字読みを基本にしているみたいです。

一方の興福寺意訳

両寺のポリシーの違いがあって興味深いです

   

中金堂へのお参りの次は「久しぶり」(といっても2年ぶり)興福寺国宝館です。

私、2012年から2022年まで、リニューアル工事中だった2017年を除いて年に一度興福寺国宝館を訪れていました。

去年も、東大寺大仏殿前庭で開催された「東大寺開山良弁僧正1250年御遠忌慶賛『MISIA PEACEFUL PARK Dialogue for Inclusion 2023』」に参加するべく奈良に来たのですが(旅行記「MISIA編」を含み長編です)、
この時は、東大寺のお堂たち(大仏殿⇒二月堂⇒法華堂⇒手向山八幡宮⇒鐘楼⇒戒壇堂)じっくり巡ることと、行ったことのなかった大神神社郡山城趾への訪問を優先して、興福寺ほぼ境内を通過するだけでした。

興福寺国宝館の展示は2年前から変わることなく、相変わらずステキでした。

金剛力士像も、天燈鬼・龍燈鬼も、二つの仏頭も、弥勒菩薩半跏像とその厨子も、板彫十二神将像も、十大弟子像も、千手観音菩薩立像も、華原磬も、そして八部衆像も、どれもホンットにイイ 大好き

やはり年に一度は拝見したいよなぁ と思いながら興福寺国宝館を出て、路線バス県庁前からJR奈良駅まで行き、そして、ホテルチェックインしました。

ところで、ずっと心の奥底でモヤモヤしていた帰宅するための東海道新幹線ですが、にはリマインドメールが来ました
ところが、ホテルにチェックインしたときには、31日の運休が決まっていました

さて、どうする????

試しに、飛行機の空き具合をチェックしたところ、31日の夕方以降なら空席がある
すぐさま飛行機の予約を入れ新幹線キャンセルしました。

費用的には新幹線⇒飛行機の差額(3千円ちょっと)に加えて、リムジンバス2区間の運賃痛いところですが、仕方ありますまい
でも、帰宅する手段を確保できたことでホッとしつつ、シャワーを浴びてTシャツを新しいのに替えて気分もスッキリ

このあと、これまた「奈良に行くといつも」の店まで歩いて行って、ビール串カツをかっくらっていい気分

だったのですが、お勘定の段階で、ホテルに財布を忘れてきたことが判明しました

恐る恐る「交通系ICカードが使えるのかを聞いたところ、OKということで、大事には至りませんでした

過去にはいつも現金払いだった店でしたので、ほんと、どうしようかと思いましたよ

終盤に波乱はあったものの、旅行2日目はこうして幕を閉じたのでした。

つづき:2024/09/17 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #3-1

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #2-1

2024-09-12 12:31:22 | 旅行記

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-6」のつづき、ここからは旅行2日目(8月30日(金))のあれこれです。

朝食前に、散歩という距離ではないけれど、京都駅八条口前にある喫煙所まで歩き、そこで一服しました。
東海道新幹線は始発から新大阪~東京運転見合わせになっているんだけど、京都駅の新幹線ホームには車両が止まっていました。

車両基地まで戻れなかったのかねぇ?
それにしても、青空皮肉です

前日、この竹田街道八条交差点で、とんでもない運転をするクルマを見かけました。
南北方向が赤信号右折可⇒が出ている状態で、から走ってきたアルファード右折車線を通って、信号待ちしている左折・直進車線のクルマたちを追い抜いて左折していったのです。
あんなのを初めて見ました
対向車がいなくてよかったんだけれど、少なくとも信号無視&通行区分違反で、4点&反則金18,000円です。
あのアルファードほど極端ではないにしろ、京都のドライバーの運転が荒い気がするのは私だけでしょうか?

   

私は、旅行のお楽しみホテルの朝ごはんを食べたあと、チェックアウト。
そして、奈良のホテルJR奈良駅前なので、近鉄ではなくJR京都9:37発みやこ路快速奈良に向かいました。

車内には多くの外国人が 
そして、この列車が稲荷駅には停車しないことがしきりに数カ国語でアナウンスされていました。
伏見稲荷に行きたい場合は、東福寺駅京阪電車に乗り換えるんですな。
そういえば、京都駅から奈良線の各停に乗って宇治まで行ったとき(記事)は、観光客らしい乗客のほとんどが稲荷駅で降り、車内は閑散となったっけ…

みやこ路快速に乗っている大勢の外国人旅行者たちはどこに行くのだろうかと思っていたら、半分くらいが宇治駅で降り、残り半分が終点の奈良駅まで乗っていました。
まぁ、そんなもんだろうな

さて、京都から約45分奈良に到着し、例によって、ホテルに行き、荷物を預かってもらいました。
そして、JR奈良駅前から路線バスに乗って奈良公園方面へ

バス乗り場も外国人だらけ
一時期、奈良や京都で聞こえてくる外国語は中国語かハングルばかりでしたが、欧米系の比率がかなり上がった印象です

それはともかく、どこに行く?

この時点でも、目的地として決めていたのは興福寺(とりわけ久しぶりの国宝館)だけで、まったくもって気ままな旅です
そして、とりあえずは東大寺に行くことにして、氷室神社・国立博物館でバスを降りました。

と、「なんとも奈良」な光景が

「置物ですか?」と聞きたくなるような見事シカです

シカだって日陰でをとりたくなる日差し強さと暑さです

東大寺大仏殿鴟尾の輝きまで暑そう

ここまで来て、久しぶりに正倉院を観に行こう と思い立ちました。
東大寺ではなく宮内庁が管理する正倉院、その外構が公開(無料)されるのは、奈良博恒例の「正倉院展」期間中(今年は10月26日~11月11日)を除けば、平日限定です。

いまや「平日こそ活動日」になっている私ですが (年休を取って正倉院の外構を観に行ったことがあったっけ…)、せっかくのタイミングですから、拝見させていただきましょう。

ということで、大仏殿前駐車場の縁を通って、途中の喫煙所で外国人観光客に混じって一服したあと、参道に出て、南大門をくぐり、大仏殿回廊右回りに迂回して、正倉院に向かいました。

そして大仏殿回廊北西隅からいつものよう南北通路を通って正倉院に行こうとすると、あれま

「史跡整備工事」のため近道通れない…
そういえば、昨年10月(MISIA PEACEFUL PARKのとき)に来た際、大仏殿裏手(北側)講堂跡周辺の整備を実施中だという看板を見ましたっけねぇ。

そんなわけで、さらに迂回して正倉院の正門の前を右折し、

「参観者出入口」に到着しました。

正門の脇に銅板葺き立派な、しかし真っ黒読めない説明板がありましたが(かつては説明板は白く、柵外からも読めた)、ご丁寧に、その内容が柵に掲示されていました。
曰く、

正倉院
正倉(校倉)はもと東大寺の宝庫で奈良時代に建造されたものである。
以来1200余年の間 聖武天皇の御遺物をはじめ数々の貴重な宝物がここに収められてきた。
現在宝物は防災設備を施した構内の新宝庫に移してある。
 平成13年 1月                  宮内庁

だそうで、東西二つある新宝庫のうち西宝庫が、正門の左手奥に見えました。

宮内庁のこちらのサイトによれば、二つの新宝庫のうち、整理済みの宝物を収納している西宝庫勅封されていて、「染織品を中心とした整理中の宝物と聖語蔵経巻が収納」されている東宝庫はそうではないらしい。
そして、毎年秋の点検(このタイミングで正倉院展が開催される)の際には勅使がやって来て勅封を解き、終わったら再び勅封するのだとか。(動画)

ちなみに、世にも名高い織田信長による正倉院宝物蘭奢待切り取りも、ちゃんと勅使を伴って奈良にやって来て事に及んだそうな

さて、正倉院正倉です

いつながら大きい いつもながら閑散としてる

写真で見ると「ちょっとした倉庫」のイメージなのですが、実際に目の当たりにすると大きい大きい
「正倉院展」のキッズサイトからを拝借するとこんな具合です。

それにしても、いつ写真を撮っても、暗く写って、せっかくの校倉見えないのはなぜ? (壁に露出を合わせると屋根が白く飛ぶ)

軒が深く壁が影になるからなんだけど、宮内庁のHPのような写真はどうやったら撮れるんだろ?

まだ日の低い朝のうちに撮るしかないのかな? (私が行ったのは11:20頃)

そんなことを考えているところで、「#2-2」につづきます。

つづき:2024/09/13 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-2

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #1-6

2024-09-11 10:09:53 | 旅行記

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-5」のつづきです。

きのう、「#1-5」をほぼ書き終えて、下書きをいったん保存したあと仕上げを、と思ったところ、「本文に不正な書式が含まれています」とかで保存できず、かつ、記事後半が消滅してしまいました
気を取り直して、消滅した部分を半分ほど再び書いて、仮保存しようとすると、またもや同じ現象が起こって、描き直した部分が消滅

こんなことは、過去にも何度かあったんですが、昨夜はここで心が折れてしまい、中途半端なところで「#1-5」としてアップした次第です。

「不正な書式」がどの部分なのか教えてくれればいいのに、なんて不便なんだろ。
日が変わったことでもう一度気を取り直し東本願寺のところから書き始めます。

   

私が東本願寺にお参りするのは、20113(記事)202012(記事)につづいて今回が3回目です。
過去2回は、共にMISIAのライヴ絡みの遠征はずだったのですが、2011東日本大震災2020MISIAの落馬事件ライヴが中止になったという「空振り遠征でした。
もちろん今回はMISIAとは何の関係もありません

さて、私は、備え付けのレジ袋に入れた靴を持って、御影堂にお参りし、ついで、渡り廊下(造り合い廊下)を通って、となりの阿弥陀堂に移動しました。

きまりが変わったのか、私が気づかなかっただけなのか判りませんが、東本願寺では、堂内での写真撮影OKでした。

おことばに甘えまして、キンキラキン内陣を撮影。

説明板によりますと、

阿弥陀堂の内陣は、「仏説阿弥陀経」の世界を表現するため、天井から柱にいたるまで金色に荘厳されている。
また、御本尊・阿弥陀如来の左右には、法然上人をはじめとする七高僧聖徳太子の御影像が掛けられている。

だそうです。
別邸の仏壇キンキラキンなのも同様の理由なんだろね
そして、阿弥陀如来像に向かって右奥に掛けられている聖徳太子の御影像は、うちにも掛軸がある「孝養像(きょうようぞう:みずらを結った若き聖徳太子が柄香炉を持って立っている図象)」でした。

阿弥陀堂にお参りしたあとは、「お買い物広場」で別邸用の線香を買い、阿弥陀堂門を通って外に出ました。

買ってきた線香がこちら。

けさ、うちの仏壇に線香をあげて気づいたのですが、この線香3年半前に東本願寺から買ってきたものと同じでした この香り私の好みということなんでしょ
「線香が短いとお思いの方もいらっしゃるでしょうけれど、浄土真宗では、火をつけた線香を香炉に寝かすしきたりなので、一般家庭用にはこの長さがイイのです。

   

東本願寺へのお参りを終えた私は、烏丸通をた~らた~ら「下がり京都駅の自由通路から八条口に抜けて、喫煙所で一服したあと、コンビニお茶缶ビールを仕入れ、そして、ちょいと早めながら、ホテルにチェックインしました。

シャワーを浴びてスッキリしたところで、TV台風10号の動向をチェックしながら、東京駅で買ってきた「国技館やきとり」をつまみに、ちょいと早い晩酌を楽しみました

台風10号は相変わらずトロトロ動いていて、東海道・山陽新幹線は、広島以西名古屋~三島運転見合わせとな
さらに、翌30日もこの区間での運転見合わせになることが発表されていました。

さて、缶ビール2本「国技館やきとり」で私のお腹は落ち着いてしまい、いつも難関になっている「京都での夕食」に出かける気が薄れてしまいました。

そこで、「551 HORAI」豚まんコンビニおにぎりで済ませちゃおうと、京都駅へ。

以前は、京都駅の新幹線中央口に向かい合っていた「551 HORAI」の店が、いつのまにやら新幹線中央口の隣に引っ越していました。
そしていつもなら乗る新幹線の出発時刻を気にしながら長い行列に並んでいるのに、この日は行列が短い
代わって、新幹線中央口には出張や旅行の人たちが大勢群れていました。

東京には新幹線で行けなくなってしまった人たちは、結局どうしたんだろうな
私にとっては他人事ながら、同情を禁じ得ないまま、豚まんを買い(京都駅の 551 HORAIでは豚まんは蒸したてのみ販売)、コンビニおにぎりと追加の缶ビールを買って、再びホテルで部屋飲みしました。

そうこうしているうちに、JR東海から、30日は始発から新大阪~東京間での東海道新幹線の運転を見合わせるとともに、「8月31日~9月2日にかけても、全線もしくは一部区間で、計画運休長時間にわたる運転見合わせ等を実施する可能性があるという発表がありました

あれまぁ あさって31日に新幹線で帰れるのか

なんですが、ジタバタする意味も意義もありませんので、とりあえず、京都に来られて、目的の「村上隆」展を観られたことを喜びつつ、関西旅行初日を終えたのでした。

つづき:2024/09/12 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #2-1

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #1-5

2024-09-10 21:21:28 | 旅行記

「台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-4」のつづきです。

京都市京セラ美術館を後にした私は、とりあえず、近くのセブンイレブンSDカードを買うことにしました。
ここまで写真はすべてスマホで撮ってきましたが、せっかくデジカメを持ってきたのですから、デジカメを使いたいよね。PCカードリーダーも持ってきていますので、安価な小容量のSDカードで構わないですから。
で、陳列棚からSDカードの商品タグ(万引き防止用)を取ってレジへ。
ところが、店員さんがレジ裏の棚をゴソゴソ探してもSDカードが見つからないみたいです。セブンイレブンともあろう店が、雑な在庫管理をしているものだ と呆れかけたら、「すみません、在庫を切らしていまして」だと。
ふつう、商品タグの枚数と在庫とは一致しているものじゃないのかな?

まぁ、コンビニはここだけではないし、京都駅前まで行けば、ビックカメラ閉店したけれどヨドバシカメラはあるので、「じゃぁ結構ですと店を出ました。

そして、東山駅近くのローソンでは、無事にSDカードを購入でき、さっそく、店の前のベンチ(?)デジカメにセットしました

   

平安神宮から南に伸びる神宮道三条通との交差点付近は「粟田口」と呼ばれる地域で、東海道・中山道からの京都の入口です。東海道の起点・三条大橋まで数百mの地点。
私にとって「粟田口」は中世の関所というよりは、日本刀の名産地としてのイメージが強いのですが、東山駅の階段を下りていると、こんな広告が目に入りました。

う~む、歴史と伝統を感じます

でも、東山駅での広告はこちらが好き

それはそうと、京都の地下鉄の駅は、東京の地下鉄の駅に比べて、エレベーターやエスカレーターが極端に少なくて、とってもバリアフルが気がします。
京都の人は不便に感じないのかな?

   

この旅行の京都での行動は、「村上隆」展以外に予定を立てておらず、さぁどうしよう? だったのですが、久しぶりに東本願寺に行ってみることにしました。

来た時と逆に、烏丸御池駅地下鉄東西線から烏丸線に乗り換え、京都駅の一つ手前の五条駅を降りてちょいと歩けば、東本願寺です。
ものの見事な北東角の鬼門除けを見て(こちらの記事をご参照方)、巨大な御影堂門をくぐると、宗祖親鸞聖人をおまつりする御影堂(ごえいどう)です。

大きく壮麗な建物です。

正面76m、側面58m、高さ38mの規模をもつ世界最大級の木造建築物で、2019年に国の重要文化財に指定されています。

だそうですが、「世界最大級の木造建築物」といえば、東大寺大仏殿を思い浮かべますよね。
調べると、東大寺大仏殿は、「正面約57m、奥行き約50m、高さ約48mだそうですから、確かに、高さを除いて御影堂の方が大きい
なお、創建時及び鎌倉再興時の東大寺大仏殿「正面約88m、奥行き約52m、高さ約47m」という破格の大きさだったそうです。

という中途半端なところですが、記事を書き上げて保存しようとすると、「本文に不正な書式が含まれています」が頻発して先に進めませんので、不本意ながら、以下は「#1-6」につづきます。

つづき:2024/09/11 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-6

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台風に邪魔されながらの関西旅行記 #0

2024-09-01 21:05:03 | 旅行記

約3か月ぶりブログ更新です。

5月の帰省途中の「えさし藤原の郷」を楽しんだ話は3回で止まっているし、青森へのドライブ旅行ダイジェストだけ7月の金沢旅行に至っては旅行記に手をつける気もないという情けない状況です。
まぁ、いろいろあって、ブログを書く気分になれなかったということ…。

そんな私ですが、8月29~31日の2泊3日の日程で今年最初の関西旅行に行ってきました。
台風10号の影響を受けて、「行きはヒヤヒヤ、帰りは大変」の旅行になりましたが、それでも当初の目的はしっかりとクリアできたのはなかなか悪運が強いといいますか…
なんとなく「運」が向かってきたかな? という予感のもとに、久しぶりのブログ書き再開です。

   

今回、関西に旅行しようと思い立ったのは8月23日(金)のこと。

なんとも急な旅行ですが、これは、「絶対に観に行きたいと思っていた京都市京セラ美術館での「村上隆 もののけ 京都」展が、9月1日(日)で終わってしまうことを知ったのが発端でした。
会期が長いからそのうちに…と思ううちに時が経つのはよくある話
そして、「村上隆」展に行くとすれば、8月27日(火)~30日(金)のいずれかだろうし(会期末の土日は激混み必至)23日の時点では、台風10号27日~28日に関西地方を直撃する予報だったことから、29日~31日に旅行を決行することを決め、新幹線ホテル予約し、「村上隆」展チケット購入しました。

そして、27日(火)は、皇居三の丸尚蔵館「いきもの賞玩」(気がつくと私から数mの距離で秋篠宮殿下ご夫妻が鑑賞されてた)東京ステーションギャラリー「空想旅行案内人 ジャン=ミッシェル・フォロン」(素晴らしかった)をハシゴし、

その足で東京国立博物館に行き、8月3日で期限切れになっていた「友の会」(年間パス)更新しました。
トーハクの「友の会」の会員証(パス)は、京都・奈良・九州各国立博物館でも便利に使える(平常展は無料、企画展は前売料金で観られる)ので、もしかしたらこの関西旅行で使う機会があるかも…という算段

そんな「準備」のようなことをしながら、台風10号が当初の予報どおりさっさと通り過ぎることを期待したのですが、台風10号トロいのなんのって…

「台風一過の関西を楽しむ目論見がもろくも崩れ去りました
こりゃ、下手すると帰ってこられなくなる と、31日帰りの新幹線2時間ほど早めて、奈良のホテルをチェックアウトしたらさっさと京都に移動し、帰宅することに予約変更しました。これで最終日ホテルで朝食を摂るだけの予定になってしまいましたが、しかたありません。
さらに私を不安に陥れたのは、台風から遠く離れた静岡大雨が降り、28日夜には東海道新幹線が一時不通になる事態まで発生

それでも、29日は朝から東海道新幹線通常運行していていざ、関西へ

私が乗った博多行きのぞみは、心配していた静岡県内もスムーズに通過し、昼前、定刻京都に到着しました。

それは良しとしても、29日の夕方には山陽新幹線は広島以西での運転を取りやめ、つづいて東海道新幹線東京~新大阪運転を取りやめ。そして30日始発から運転を見合わせるとともに、「8月31日~9月2日にかけても、全線もしくは一部区間で、計画運休や長時間にわたる運転見合わせ等を実施する可能性がある」という発表がありました。
まさにハシゴを外されかけた感じになってしまいましたな

そしてそして、30日には、東海道新幹線「31日も運転見合わせ」確定
私は関西滞在を1日延長することも考えましたが、台風10号の進路はまったく読めないし、一度止まった鉄道は復旧に時間がかかることを考えれば(結局、東京~新大阪の通常運行の再開は明日9月2日から)、帰宅日の繰り延べはリスクが大きそうです

ものは試し と、飛行機の予約状況を見てみると、31日の夕方以降には空席があるじゃないですか
これで腹が固まった私は、新幹線の予約をキャンセルし、大阪(伊丹)空港16:30に出発する便を予約しました。
さらに、奈良からの空港リムジンバスの時刻を確認
この結果、31日10時ちょい過ぎには奈良を離れるはずだったのが、13時まで余裕ができました。

そして、昨夜、20:30には本宅に無事帰着したのでありました

   

ということで、いつものように、3日間の行程です。

【初日】8月29日(月)

本宅⇒徒歩最寄り駅埼京線赤羽駅上野東京ライン東京駅東海道新幹線京都駅⇒徒歩ホテル(荷物を預けた)昼食京都駅地下鉄烏丸線烏丸御池駅地下鉄東西線東山駅⇒徒歩京都市京セラ美術館(村上隆 もののけ 京都)⇒徒歩東山駅地下鉄東西線烏丸御池駅地下鉄烏丸線五条駅東本願寺⇒徒歩ホテル

【2日目】8月30日(火)

ホテル⇒徒歩JR京都駅みやこ路快速JR奈良駅⇒徒歩ホテル(荷物を預けた)⇒徒歩JR奈良駅前路線バス氷室神社・国立博物館⇒徒歩正倉院⇒徒歩東大寺大仏殿⇒徒歩奈良国立博物館(「泉屋博古館の名宝」「フシギ! 日本の神さまのびじゅつ」)⇒徒歩もちいどのセンター街(昼食)⇒徒歩興福寺(国宝館中金堂)県庁前路線バスJR奈良駅⇒徒歩ホテル⇒徒歩夕食⇒徒歩ホテル

【3日目】8月31日(土)

ホテル⇒徒歩JR奈良駅路線バス氷室神社・国立博物館奈良国立博物館(なら仏像館)⇒徒歩ホテル(荷物引き取り)JR奈良駅空港リムジンバス大阪(伊丹)空港ラウンジでまったり飛行機東京(羽田空港)空港リムジンバス最寄り駅⇒徒歩本宅

久しぶりにブログを書いたら、時間がかかるし、疲れる

がんばって旅行記を完結させるぞ

つづき:2024/09/03 台風に邪魔されながらの関西旅行記  #1-1

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帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #3

2024-05-29 19:51:38 | 旅行記

「帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2」のつづきです。

平安時代貴族の屋敷といえば「寝殿造」です。
写真は、国立歴史民俗博物館で見た藤原道長の邸宅「東三条殿」の復元模型。

なんとも広大なお屋敷です。
なんでも2町(≒220m)四方だそうですから、二条城(東三条殿のすぐ西)二の丸御殿&庭園くらいの感じ。
もともと室町時代以前の建物が中心部にはあまり残っていない京都ですから、現存する寝殿造の建物は皆無だそうで、「平安時代の寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物」を標榜する「えさし藤原の郷」伽羅御所(きゃらのごしょ)貴重な存在です。

「伽羅御所」というのは、

奥州藤原氏の最盛期を築いた三代目・秀衡公の館を再現しました。
平安時代の寝殿造の様式で、寝殿を中心に東・北・西の対屋が渡殿(廊下)で結ばれ、家臣たちのいる侍廊、蔵人所・料理所・玄関にあたる中門あどとも繋がれています。寝殿は主人の住居であり、公的な行事の場でもありました。

だそうで、本物は平泉にあったのだそうな。

寝殿の正面にあるの向こうに、京都・宇治の平等院鳳凰堂(訪問記)とよく似たお堂のミニチュアみたいなのがありました。

どうしてここに平等院鳳凰堂が? と思ったら、

庭園の屋には、京都・宇治の平等院鳳凰堂を模して建立したと言われる無量光院が造られています。実際には400m離れた位置に建てられていたので、ここでは距離感をもたせて4分の1の大きさになっています。

ですって。
なるほど…
無量光院は、藤原氏三代秀衡によって建立された寺院で、宇治平等院鳳凰堂を模して建立された阿弥陀堂と、その周囲を取り巻く池を中心に伽藍が構成されていた」そうです。ただ、ご本家よりも大きかったらしい。
ただ、方角が違うような…

さてさて、寝殿造には棟と棟をつなぐ渡り廊下が必須ですが、廊下や橋がいい風情を漂わせていました。

そしてメインの寝殿には、知ってたけれど、壁が無い

京都の夏には涼しく良さげですが、平泉の冬寒いだろうに…

は、御簾几帳屏風(その名のとおり、元は風除けの調度品)で居住空間を囲んだそうですが、暖房器具といえば火鉢程度だろうし、蔀戸を下ろせば室内は真っ暗だろうし、部屋を閉め切れば一酸化炭素中毒の恐れもあるしなんとも辛い季節だったろうなと推察されます。

   

「東の対」では、藤原秀衡・泰衡親子と源義経とのご対面シーンが再現されていました。

秀衡公の背後の屏風は、内裏・紫宸殿(訪問記)を飾っている賢聖障子(けんじょうのしょうじ)(記事)を意識したものなのかな?
そして、お三方がお召し上がり中の食事を作る料理所も再現されていました。

当時の貴族の食事1日に2回だったそうで(相撲取りみたい)

米を主食に、副食は山菜やキノコ、魚介類、木の実、野菜類、キジやイノシシの干肉など。生ものは干したり、塩漬けや味噌漬けにして保存されました。調味料は四種器と呼ぶ酢・酒・塩・醤(ひしお:現在のもろみのこと)で、これらの食べ物をつけたり、かけたりして用いました。

とな。
そして、主食のは、

蒸した強飯(こわいい)、水で柔らかく炊いた姫飯(ひめいい)、それになどがありました。

だそうです。

それにしても、この伽羅御殿、もともと誰かのお屋敷だった建物をに手を入れてテーマパークとして公開しているのではなく、「新築したものなのに、作り込みが素晴らしい

東京・丸の内/大手町に何棟かある「旧建物の外観のイメージを残してみましたという姑息さ皆無で、本気度100%です
だからこそ、ドラマや映画のロケ地として重宝されているのでしょうねぇ

いやぁ、お見事 と唸りながら、伽羅御所をあとにしました。

で、あとになって判明したのは、寝殿を正面から撮った写真1枚も無かったこと
いやぁ~、失態です
まぁ、また行けばいいや とも思います。なにせ、別邸からならクルマで2時間で行けますから

【追記】きょう、NHK「いいね!光源氏くん し~ずん2」(録画してある)を視たら、第1回の冒頭(沙織の夢)が、ガッツリ「えさし藤原の郷」伽羅御殿でのロケ・シーンだった (2024/05/30 21:31) 

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帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2

2024-05-21 16:26:17 | 旅行記

「帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #1」のつづきです。

えさし藤原の郷は、20haの広大な敷地に厳密な時代考証のもと再現された日本初の平安時代の歴史テーマパークだというだけあって、エリアが広い

もちろん、20haの敷地内をくまなく歩き回れるわけではないけれど、自然たっぷりの中に「平安時代」が点在しています。

政庁南門を出ると、そこは「大路」

なんてことのない通りのようにも思えますが、政庁南門にあった説明板によると、

「麒麟がくる」のロケスポットだそうで、

道の真中に門を建てて京の都として使われました。戦のあとの荒廃した都や、本能寺の正門、華やかな京の市中と、美術スタッフがその都度装飾を変更しています。
足利義輝と光秀の出会いの場面や、旅芸人の一座が練り歩く場面などを撮影しました。

だとか。

別邸には近年の大河ドラマ総集編BDにダビングしてコレクションしていますので(「どうする…」は敢えて録画していない)「麒麟がくる」の総集編を超早送りで見直したら、

おぉ、確かにえさし藤原の郷の「大路」

なお、大路に面した左側の門、実際はトイレの入口です

   

さて、次は案内看板にあった「藤のトンネル」を拝見しようと、大路を真っ直ぐに進みました。

丁字路を左に曲がってすぐに右に曲がると、蓮やアヤメ、ツツジが咲くがあり、その先には城柵が見えました。

説明板によると、宮城県築館(学生時代に世論調査のアルバイトで行った思い出の町)にあったという伊治城の門。
伊治城は、こちらによると、

『続日本紀』によれば神護景雲元年(767)に設置され、律令政府による古代陸奥国経営の重要拠点の一つ

だとか。
この時代(8世紀)新潟を含む北日本にあった律令政府の拠点は「○○柵」がほとんどで、「城」と呼ばれたのは、多賀城秋田城くらいものですから、この伊治城は、陸奥国府(多賀城)の北方支所のような位置づけだったのではなかろうか

私が見た順番は前後しますが、この他にも、朝廷と対立した安倍氏の拠点の一つで北上川をはさんで伊治城と対峙した河崎柵(一関市)とか、

安倍氏の拠点にして前九年の役(1051~1062年)安倍氏滅亡の場所となった厨川柵(盛岡市)とかも再現されていました。

さてさて、「藤のトンネル」です。

「藤原の郷」というくらいですから、やはりがないとね…

とてもきれいだし、藤の香りがかぐわしくて、大変良かったのではありますが、を愛でる観光客に負けじとたくさんの大きなたちが狂喜乱舞していて、ちょっとビクビクでした

   

厨川柵を入り、さらに奥に進んでいくと、初めて聞く「アラハバキ」(秋葉原のアナグラムではない)というものがありました。

説明板には、

アラハバキの神は、古代の神で、朝廷にとって「まつろわぬ民」であった蝦夷の神様という伝承があります。
このアラハバキは、平成5年(1993)大河ドラマ『炎立つ』で、朝廷軍と奥六郡の豪族・安倍氏の戦いの火ぶたが切られた「鬼切部の戦い」に際し、安倍貞任が自分の行く末と戦いの勝敗を占ったシーンに使われたものです。

とありますが、見た感じ、大湯環状列石(ストーンサークル)みたいだ… と思いました。
あとになって「園内散策マップ」を読んでみると、

東北でさかんに行われていた古代神信仰の霊場を、秋田県鹿角市の大湯ストーンサークルを参考に再現したものです。

ですって
やはり… です。

   

次に見たのは、奥州藤原氏のシンボルともいえるこちら。

言わずと知れた中尊寺金色堂です。

説明板には、

平泉黄金文化の象徴である金色堂を、建立当時を想定して覆堂のないかたちで再現しています。奥州の覇者となった藤原清衡公は平泉で新都建設に着手しました。その中心となったのが中尊寺で、諸堂の造営にかかった歳月は約21年に及びました。
現存する金色堂は三間四方の建物で、全体に漆が塗られその上に金箔が張られています。清衡公は戦乱で罪なくして死んだ魂を弔い、奥羽の安寧と国家の安泰を祈念するとともに、辺境と言われた地に都と同じ仏教文化を築くという願いを込めて金色堂を建立しました。

と、ありました。
今年1月、私は東京国立博物館「中尊寺金色堂」展を観て、こちらで書いたように、あらためて金色堂にお祀りされている仏像その他の素晴らしさと、奥州藤原氏の凄さ感服しまくったことを思い出していました。

なお、3か月にわたって東京出張されていた諸仏は、こちらによると、先月24日までに無事に金色堂に戻られたそうです。

この金色堂は、実際にそうであるように高台にあって、そこからの眺めは格別でした。

これほど本格的な建物群ですから、そりゃ、ドラマ・映画の製作陣は放っておけないよな…
まるでオープンセットみたいですが、もとをただせば、大河ドラマ「炎立つ」の撮影用につくられたオープンセットを引き継いだのがこのえさし藤原の郷だそうです。
えさし藤原の郷の運営主体NHKとの費用分担はどのようにしたんだろ と下世話なことを考えたりして…

金色堂から急な石段を下りた私は、眼下に見えた「平安時代の寝殿造の様式を再現した日本唯一の建造物」だという「伽羅御所」に向かいました。
その見聞録は「#3」で。

【追記】記憶違いが判明しましたので、最後のパラグラフをちょいと修正しました (2025/05/29 09:32) 

つづき:2024/05.29 帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #3 

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帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #1

2024-05-20 17:45:10 | 旅行記

先週の日曜日から別邸帰省中です。

私が帰省 & Uターンするときは、クルマのときも新幹線のときも、ほとんどどこにも立ち寄らず本宅⇔別邸を移動するだけです。例外は、郡山・仙台・盛岡とかでのMISIAのライヴに絡めて帰省したとき(たとえばこの記事)と、一関に1してして平泉(記事)小坂を楽しんだ時(記事)くらいのもの。

今回は、水沢ICでいったん東北道を降り、えさし藤原の郷(さと)に行ってきました。
「えさし藤原の郷」には以前から興味を持っていて、どこにあるのだろうかと調べたら、水沢ICから遠くないではないか と、今回の帰省ではなくても、いつかは行こうと思っていました。
それが、今回は午前中に岩手県内に入れるペースでしたし、なによりも天気「暑からず寒からず」で上々でしたので、さっそく行ってみました。

水沢ICから一般道を走ること15分ほどで、「えさし藤原の郷」に到着しました。

駐車場が広くて驚き、そして、それがかなり埋まっているのにも驚きました
NHK大河ドラマ「光る君へ」のロケで使われ、「紀行」でも紹介された影響もあるのだろうな…
しかも日曜日だったし…

さもそも、この「えさし藤原の郷」とはなんぞや? ですが、説明板を抜き書きしてしまいましょう。

歴史公園えさし藤原の郷は、平成5(1993)年7月20haの広大な敷地に厳密な時代考証のもと再現された日本初の平安時代の歴史テーマパークです。国内唯一の「寝殿造」の再現をはじめ、大小合わせて約120棟の建築物が建ち並びます。
ここ「江刺」奥州藤原氏初代清衡公の生誕の地で、清衡公が平泉に移るまで暮らし、平和都市平泉の構想を思案した地と伝えられています。清衡公の父・経清公は、亘理地方(現・宮城県亘理郡)を治めていた朝廷側の役人でしたが、岩手県の豪族「安倍氏」の娘婿となり江刺に移り住みました。江刺と奥州藤原氏の密接な関係は、この時から始まりました。(中略)
経清公・清衡公親子の偉業を顕彰し、奥州黄金文化発祥の地として「歴史公園えさし藤原の郷」は誕生しました。また、平成5年の大河ドラマ「炎立つ」のメインロケ地となったことをきっかけに、数多くのドラマや映画の撮影も行われています。
一千年の時間を超え、さあ出かけましょう、超時代旅行へ!

だそうです。

説明文にある数多くのドラマや映画の撮影も行われていますはダテではなく、入場門脇には、ここで撮影されたドラマや映画の紹介パネルがズラリ

NHK大河ドラマなんて、3作に1作はここでロケをやってるんじゃないのか という感じで、反対側には「陰陽師0」「首」の紹介パネルもありました。
さっそく、観覧料1,000円(安い)Suicaでお支払いして入場 (駐車場は無料)

まずは、「政庁北門」をくぐって

8~9世紀頃の様式で再現されたという「政庁」から。

8~9世紀の様式の政庁

「政庁」と聞いて思い出したのは、秋田城趾で見た政庁の模型と、

東北歴史博物館で見た多賀城の政庁の模型(どちらも8世紀頃)でした。

なお、秋田城多賀城も、「城」といいつつ、実質は古代の地方行政機関です。
念のため…

えさし藤原の郷「政庁」のおもしろいところは、この8~9世紀の様式「政庁」背中合わせに、平泉藤原時代の様式「政庁」が建てられていることです。

説明板によると、

平安時代後期の政庁は12世紀頃のもので、唐の影響を受けて正殿を中心に左右対称に建物が配置され、太い朱塗りの丸柱は格の高いことを示しています。檜皮葺入母屋造の正殿と脇殿は回廊で結ばれ、高床式の蔵を築地塀揚土塀(あげつちべい)で囲んでいます。
中央政権の権威を表した華麗な造りになっています。

とのこと。

築地塀は判るけど、揚土塀って何???
こちらのサイトにある「練塀」みたいなものかな???

判らないまま先にすすみますと正殿脇殿の中にはいろいろなモノが展示されていまして、楽器とか、

遊び道具とか、

そして、いかにも平安時代らしい3領の大鎧とか…。

そして、正殿の中では、「源頼義の陸奥守着任」の様子が再現されていました。

この正殿意外だったのは、天井がなく、小屋組が丸見えだったこと。

このえさし藤原の郷は「厳密な時代考証のもと再現」されたというのですから、こういう造りだったのでしょう

ところで、「光る君へ」第4回「五節の舞」は、この政庁の前庭に舞台を特設して撮影されたそうな。

と、ここまで2つの建物を見ただけだというのに、30分が経過していました。

でも、まだ12:30ちょい過ぎですから、のんびりとまいりましょう。

ということで、「#2」につづきます。

つづき: 2024/05/21 帰省の途中で平安時代にタイムトリップ #2 

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3

2024-03-10 16:48:00 | 旅行記

「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2」のつづきです。

吉野活版所の前を通り過ぎてからは、スマホのGoogleマップを頼りに、ひたすら新潟市歴史博物館みなとぴあを目指しました。
とはいえ、もうお昼時で、どこかで食事をしたい。
みなとぴあにはレストランなさそうで、Googleマップを見ても、私が歩く方向には食事ができるお店は2軒しか表示されません。
選択の余地は少ないな… と、ちょっと不安になりながら「御祭堀(五菜堀)」という道を東に歩いて行くと、その2軒のうちの最初の店がありました。

なにやら立派な建物です (この写真は第四北越銀行住吉町支店を背に撮ったもの。今にして思えば、この銀行の写真も撮っておくべきでした)
このお店は「魚や 片桐寅吉」という和食屋さんで、建物は登録有形文化財だそうな
ちょっと敷居が高そうでしたが、店頭に出された「お品書きを見ると、2,000円程度昼食がいただけるようなので、このお店で食べることにしました。
店内に入ると、古いけれど立派ひな飾りがあって(写真はありません)、いかにも「旧家」の雰囲気です。

このお店のリーフレットによると、

1885(明治18)「片桐鮮魚問屋」を立ち上げた片桐寅吉が晩年暮らした家屋でございます。
大海原を駆け巡り、北洋漁業をこよなく愛した寅吉は、やがて北陸でも一大問屋と言える鮮魚商となりました。
江戸時代より変わらぬ「魚や」として、現在までこだわってきた鮮度と味を、日本庭園を眺めながらご堪能ください。

だそうで、天井の高いお座敷にテーブルが並べられた作りになっていて、なにやらイイ感じ…

私が頂いたのは、銀だら「焼き魚定食」(1,900円)の味噌汁を豚汁にチェンジ(+200円)したもの。

銀だらは、「皮パリ & 身トロ」で、実に美味しかった
もちろん、ご飯美味しかった
きれいに整備されたを眺めながら旨い食事を摂る、、、、旅行らしい贅沢な気分に浸れるひとときでした

「X」に、「この店で昼食とポストしたところ、フォロワーさんから「近所に美味しい大福が買えるお店がある」という情報をいただきました。
さっそくググってみると、確かにそのお店「さわ山」は近い。
よし、寄ってみよう ということで、「魚や 片桐寅吉」をあとにしました。

   

ところで、「魚や 片桐寅吉」第四北越銀行 住吉町支店がある「御祭堀(五菜堀)」は、通りの名前っぽくありませんが、こちらのリーフレットによれば、

御祭堀(ごさいぼり):江戸時代、御祭堀という堀の両側に付けられた小路であり、古い絵図では「さい小路」「御菜堀」と記されることもあった。
堀は明治の町名改正で五番堀とされたが、戦後になって埋め立てられ道路となった。今は「五菜堀」と記されることが多い。

と、今では堀の名前ではなく通りの名前です。
さらに、

昔の新潟町は、地域ごとに職業が決められていました。風間小路から片桐小路、御祭堀のあたりは「肴(さかな)町」または「助賈(すけご=魚屋)町」と呼ばれる地域で、現在の本町通11番町の西側には「大助賈(おおすけご)」よばれる魚問屋が並んでいたといいます。
当時新潟町で魚の店売りができるのはここだけでした。

だそうです。
この地域のことは、またあとで触れることになります。
なお、という字を確認・入力するために、超久しぶり漢和辞典を引きました

   

「魚や 片桐寅吉」2ブロック北に、大きなお屋敷がありました。
「北前船の時代館」と公開されている「旧小澤家住宅」です。

この建物は、江戸時代後期から新潟町で活躍していた商家・小澤家の店舗兼住宅だそうで、広さはなんと1600平方メートル、敷地が正方形だとすれば40m四方もの大邸宅です

新潟市のサイトによると、

かつての新潟町における町家の典型例であり、かつ明治時代に成長した豪商の屋敷構えを構成する一連の施設がほぼそのまま残っていることから、建造物 7棟 (主屋、新座敷、離れ座敷、道具蔵、家財蔵、蔵前及び渡り廊下、門及び東塀) と敷地は、市指定文化財になっています。

とありますが、「町家」といえば、「狭い間口に長ぁ~い奥行き」のイメージですが、こんな長大な間口「新潟町における町家の典型例」なんですか…
「吉野活版所」の辺りは、私がイメージする「町家」そのものだったんだけど…

「北前船の時代館 旧小澤家住宅」内部が公開されていますが(観覧料は一般:200円)、13時になろうかという時刻だったことから(このあと大福を買って、みなとぴあを観て、15時頃には朱鷺メッセに着きたい)外観を眺めるだけにとどめ、「粋な黒塀、見越しの松に「お富さん」の冒頭を心の中で口ずさみながら「さわ山」さんを目指しました。

「さわ山」さんは簡単に見つかり、順番待ちする間に熟慮の末(繁盛しているお店でした)大福桜餅1個ずつ購入しました。
「新潟なら『笹団子』だろ」とも思ったのですが、「笹団子」はまたいつか…
なお大福桜餅は、このあとの私の行動の過程で、バッグの中でかなり変形してしまいましたが、帰りの新幹線の中で夕食のデザートとしていただきました。
とても美味しゅうございました

   

もと来た道をちょっと戻り、「この道の突き当たりが『みなとぴあ』」という通りを歩きました。
この通りがちょっと変わっていて、車道の幅に比べて、両側の歩道が異様に広い。しかも南側の歩道の横には小さな水路が流れています。
その「謎」は、案内板を見て解けた気がしました。

この通りは「早川堀通り」という名前で、ここもかつてはが流れていて、堀が車道に、両岸の道が歩道になったことが察せられました

さらに調べたところ、こちらのサイトによると、この道路は10年前に整備されたそうで、

新潟市が早川堀通りの整備に伴い、かつて堀のあった湊町の風情を感じられる水辺空間の創出に、地元との協議を重ね復元されたもの。

だとか。
さらに、

また、篠田市長は「新潟を象徴する素晴らしい通り。みなとピアと旧小澤家、下本町をつなぐラインであり、さらに磨きをかけて、新潟の名物通りに仕上げていただきたい。この通りがさらに楽しく、潤いの通りになるよう、我々も共に頑張りたい」と語った。

とのこと。
私が通ったときは、人通りもクルマの通りも少なく、ちょっと寂しかったのですが、でも、きれいな、歩いていて気持ちのよい通りでした。

ということで、新潟市歴史博物館みなとぴあまではあと少し。
つづきの「#2-4」は新潟遠征記の完結編の予定です。

【追記】「予定」はあくまでも「予定」でしかありません (2024/03/11 21:22)  

つづき:2024/03/11 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-4

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泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-2

2024-03-08 19:05:42 | 旅行記

1週間のインターバルをおいて、「泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-1」のつづきです。

「ダイジェスト」にこの日の街探索ルートを載せましたが、「新潟市観光 mini MAP」にプロットした別バージョンを載せます。

西堀通(寺町)を右折して鍛冶小路に入り、ちょっと進むと、セブンイレブンの前で(私にとっては)珍しいものを見つけました。

横型歩行者用信号機です。

新潟市内の信号機縦型で、それは「雪国あるある」何の不思議もないのですが、横型歩行者用信号機なんて初めて見ました
ネットで調べてみたところ、道路交通法施行規則の別表第一(第四条関係)「備考」で、

道路の状況により必要があるとき又は主として歩行者のために設ける信号機(以下この表において「歩行者専用信号機」という。) 若しくは可搬式の信号機を設けるときは、二・五メートル以上の高さとすることができる。

と定められていて、逆に言えば、歩行者用信号機は、信号機の下端が地上から2.5m以上高くなければならないということ。
ところが、この交差点の歩道にはアーケードがあるため、ここにおなじみの縦型の信号機を設置することは法令違反になってしまうというわけ。

なるほどね… と、さらに寄り道して調べると、群馬・桐生市「樹徳高校入り口」交差点に、かなり例外的な歩行者用信号機があることを知り、Google Mapのストリートビューを見てみました。

ほぉ~、普通の交差点なのに、歩行者用信号機が横型で、しかも、異様に低い位置に取り付けられています。
実はこの辺り、かつて歩道にはアーケードがあって、この横型歩行者用信号機はそのなごりなのだとか。

やはり復習のブログ書き勉強になります

   

さて、このセブンイレブンでお茶を買ったあと、私は鍛冶小路をさらに進み、東堀通との交差点を左折して進路を北北東に変えました。

そして、東堀通と新津屋小路の交差点で、これまた変わった商店街をみつけました。

にいがた人情横丁

100数十mにわたって、背中合わせの棟割り長屋のように、間口の狭い商店が連なっています
ここは「本町中央市場商店街」、通称「にいがた人情横丁」というところらしい。
私が行った時は、「シャッター通り」になっていたのですが、どうやらここは基本的に「日曜定休」のようです

この「人情横丁」、まるで新津屋小路(にいつやこうじ)の中央分離帯が商店街化したように見えます。もともと新津屋小路は中央分離帯があるような広い道じゃないのに…

このは、新潟遠征の復習とブログ書きの参考にしようとして視た「ブラタモリ」「新潟~新潟は"砂"の町!?(2017/7/30放送) で解けました
初回放送を視たはずなのに、タモリさんと近江ちゃん()が、この人情横丁で雨宿りがてら銀だらの塩焼きを食べていたなんて、まったく記憶にありませんでした。
で、昔、新潟の街にはが縦横に通っていて(これは知ってた)、この人情横丁は、その(新津屋小路堀)を埋め立てた上に作られたのだそうな。そして、現在、人情横丁を挟んでいる 2本の狭い道路は、堀の両岸の道だったという…。
なるほど~ でした。
なお、歩いてきた西堀通東堀通には、まさに西堀・東堀が通っていた由。

さて、人情横丁はほとんどの店が閉まっていたので、前半のブロックだけで切り上げ、白竜大権現のところで左折し、本町通から大通りに出ました。

おぉ、国道7号線の始点だ

ふるさと秋田市には「旧国道」と呼ばれる市道と、「新国道」と呼ばれる県道がありますが、この「国道」とは国道7号線のことで、私の生家や入学した小学校「新国道」(当時は本物の国道だった)ほぼ沿線でした。

福島市でこれまたなじみ深い国道13号線の始点を見たとき、沼津国道246号線の終点を通ったとき以来の感動(大げさ)でした。

   

ここから東堀通に戻り、北に進んでいくと、右手に覚えのある屋号を掲げたビルが…
「さけ茶漬け」で有名な加島屋の本店です。(基本的に日曜日はお休みみたい)

加島屋 本店

以前から「さけ茶漬け」は旨いけど高いんだよなぁ と思っていたら、たまたま何かのTV番組で「さけ茶漬け」の製造過程をやっていて、それを視たら、これは安売りできない商品だ と思いましたとさ。

加島屋さんの筋向かいに、大きな木造の建物がありました。

3階建ての古い木造建築というだけでも珍しいのに、大通りに背を向けているというのも珍しい。

これはいわくありげだと思い、地図を見ると、どうやらこの建物は古町花街を代表する料亭「鍋茶屋」裏側らしい。

これは正面から拝見せねば と、来た道をちょっと戻り、新堀通から「新潟観光 mini MAP」「鍋茶屋通(古町花街)」と表記されている通りに入っていきました。

そして、鍋茶屋通に入ってすぐに、「鍋茶屋」さん。

いかにも「格を感じさせる風情です。
「ブラタモリ」で、タモさんがお座敷遊びを体験するシーンがあったことは記憶していましたが、見かえすと、その収録場所が、この「鍋茶屋」さんでした。
やはり遠征前に「ブラタモリ」を視ておくべきだったか…

 width=鍋茶屋通に面した鍋茶屋さんの正面から古町通にかけて「取付道路」のような道がありました。
これは、もしかして、運転手付きのクルマでやってきたお客さん用の駐車場に使うのかな?

かつての私の勤務先は「新橋の料亭街」近くにありまして、近所の高級料亭の周りの道路では、夜になると運転手さんが乗ったままの黒塗りのクルマ群れをなして駐車していましたっけ…

この辺りは基本的に「夜の街」のようで、私が歩いた「日曜日の正午近く」眠っているようでした。
ちょっと退屈しながら古町通を歩き続け、国道7号線を横断し、救世軍の向かいで、魅力的古い建物に出会いました。

看板建築です

見た目はしっかりと手入れされているようですが、人気(ひとけ)はありません
仕方ないので(?)、写真を撮るだけで通り過ぎましたが、この記事を書くにあたって調べたら、「コーヒー焙煎所とリソグラフ印刷スタジオ」として現役の建物でした (HP)

こちらのサイトによると、この建物は、1916年に、当時の吉野活版所の当主・吉野松次郎氏の設計で建てられたもので、2017年まで印刷業が営まれていたそうな。

「看板建築です」と断定してしまったものの、本当にそうか? と、Googleマップの航空写真を見ると、案の上、洋風のファサードの奥は、普通の三角屋根でした
でも、「看板建築」は、関東大震災(1923年) からの復興過程の東京が発祥とされているんだけど、この建物の竣工はそれに先立つ1916年…。はて…

難しいことは放っておきましてGoogleマップを見ていたら、吉野活版所ごく近くに、漫画家の高橋留美子さんの生家(産婦人科医院らしい) があることを知りました。

私、そんなことはつゆ知らず、そこ(現在は駐車場)を通り過ぎました

きょう、鳥山明さんの訃報が流れていました。急性硬膜下血腫による急逝ということで、同世代の高橋さんもショックを受けているんじゃなかろうか

「#2-3」につづきます。

つづき:2024/03/10 泊まりがけは17年ぶりの新潟遠征 #2-3

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