「3年半ぶりの福岡旅行 #2-1」のつづきです。
まずは、「#2-1」で書いた冷泉公園、櫛田神社、龍宮寺と、次に訪問した聖福寺との位置関係を…。
さて、祇園町交差点で大博通りを横断すると、大きなお寺。
東長寺です。
軒丸瓦の藤巴紋から察せられるとおり、福岡藩主・黒田家の菩提寺だそうで、塀越しに見える巨大な五輪塔は黒田の殿様の誰かの供養塔なんでしょう。
「福岡大仏」なるものに、ちょっとは興味を惹かれつつもスルーしてしまった東長寺でしたが、あとになって調べてみると、弘法大師空海開基の長ぁ~い歴史を持つお寺だそうで、正式名称は「南岳山 東長密寺」で、「東長密寺」という寺名には、「真言密教が東に長く伝わるように」という空海の願いが込められているのだとか。
空海は、806年10月に唐から帰国したのですが、「帰ってくるのが予定より2年早い。しばらく京に来てはならぬ」という朝廷のご命令のため、809年まで太宰府に滞在したそうな。
現代の感覚では、なぜ博多辺りではなく太宰府? ですが、当時の太宰府は「日本国九州支社」みたいなところだったわけですから、自然なことなのかもしれません
さて、聖福寺。
こちらの寺紋は「笹竜胆(ささりんどう)」で、源氏系か? です。
と、近くの電柱に、まるで広告のように説明板が巻かれていました
この説明板は聖福寺について、というよりも博多の町割りについてのものでしたが、転記しますと、
元寇の後 鎌倉幕府は更なる侵略に備えて、博多に鎮西探題を設置 (1293)、源頼朝公開基の聖福寺の伽藍配置の中心線を基軸線のひとつに、半丁単位で町割をして鎌倉になぞらえた強固な城郭都市に造り変え、鎌倉、京と並んで日本の三大重要都市に位置付けました。
ちなみに この電柱は ほぼその基軸線上にあります。
そっかぁ、源頼朝公開基のお寺だから「笹竜胆」なんですな
聖福寺の詳細な説明板は寺の境内、総門を入ってすぐのところにありまして、その一部をご紹介。
聖福寺は山号を安国山(通称安山)、寺号を聖福至仁禅寺といいます。開山は千光祖師栄西禅師です。建久6年(1195)に源頼朝公により、この地を賜り、頼朝公を開基として創建された、日本で最初の禅寺です。また、後鳥羽上皇より「扶桑最初禅窟」(山門の楼上に提示)の号を賜っています。(中略)
(栄西禅師は) 聖福寺以外に、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺などの禅院を造営し、「興禅護国論」など多数の著書を著して禅の宣揚に努めるとともに、香椎に建久報恩寺を立てて、日本で初めての菩薩戒による布薩会を行いました。
また栄西禅師は宋(中国)より「茶」を持ち帰り、当寺境内や背振山などに植えて、各地に広めました。同時に宋風の喫茶も伝え、「喫茶養生記」を著して茶文化の先導的な役割を果たしています。後に「茶祖」と呼ばれる所以です。
栄西禅師の没後、室町時代に入って、聖福寺は五山十刹制度の十刹第三位(後に第二位)に序され、大いに隆盛しました。初め建仁寺派に属し、江戸時代に、黒田長政公の命により妙心寺派に転派していますが、開創以来八百余年、現在の住持である第133第白峰老師に至るまで連綿と法灯が護られ、禅の専門道場として厳しい修行が行われています。
「開山:栄西禅師 開基:源頼朝」の「日本最初の禅寺」というわけです。
寺の説明板に登場した後鳥羽上皇より賜ったという「扶桑最初禅窟」の勅額が掲げられているという山門ですが、カラス除けなのか2階部分が網で覆われていまして、ちょっとよく見えません。
でも、近づいて良く見ると、ありました
なお、この山門は1911年に再建されたものだとか。
と、気になる立て札がありました。
「日本茶発祥の『茶の木』」ですって
現在、飲まれております日本茶は今より約800年前の1191年に臨済宗の「栄西禅師」が中国(南宋)より帰国する際、茶の種を日本に持ち帰り、佐賀県神埼郡吉野ヶ里町松隈の「背振山霊仙寺石上坊」の前庭で栽培したのが始まりとされ、その後「聖福寺」境内で栽培されています。
この茶の木は、禅師の偉業をたたえるとともに、茶振興を祈念し関係機関の協力を得て、茶樹栽培発祥地「石上坊跡」に自生する栄西禅師ゆかりの茶の木を移植したものです。
だとか。
栄西禅師は日本における臨済宗の開祖だし、重源の跡を継いで東大寺の復興に携わるなど、多方面に才能を発揮した高僧なんですが、その功績の筆頭は、茶を日本に紹介&普及させたことじゃなかろうかと思っています。
その後の「茶」が、日本史の中、政治・文化両面でどれだけ大きな役割を担ったかを考えれば、まさしく栄西禅師は「種を撒いた人」だと思うのです
話はちょっとだけ時間を遡ります。
聖福寺の周囲は筋塀で囲まれています。
16弁の菊花紋がついた勅使門があるくらいですから、5本の定規筋が引かれているのもむべなるかな
なんですが、その内側がまたおもしろい
なんだか楽しくなってきます。
これは「博多塀」というもので、廃物をリユースした塀だそうです。
こちらのサイトによると、
豊臣秀吉が九州を平定する頃、博多の町は毛利・大友・島津などの諸勢力による相次ぐ合戦で荒廃していた。「博多塀」とは、その焼け跡に残った石や瓦を埋め込んで作った土塀のこと。御供所通り側は上塗りにより見えないが、境内側は禅宗様式の形態をとどめ、周囲の歴史的建造物や樹木の豊かな緑と一体となって、歴史を感じさせる美しい景観を形成している。現在ではここ聖福寺を含め、わずかしか残っておらず、希少価値の高いものとして大切に保存されている。
だそうで、櫛田神社にもあるそうですが、ぜんぜん気づきませんでした
ここで例によって脇道にそれます。
聖福寺勅使門を飾っているのは前記のように16弁の菊花紋(パスポートに描かれているのと同じ)ですが、天皇家のご紋は「十六葉八重表菊」です。
この記事を書いているうちに、おもしろい話を見つけました。
こちらのサイトによると、
菊花紋が皇室の紋章として用いられたのは、鎌倉時代初期、とりわけ菊を好んだとされる後鳥羽上皇の頃からといわれています。
なんですと
へぇ~ です。
聖福寺に「扶桑最初禅窟」の号を下賜された後鳥羽上皇がここでも出てきた
もう、さっきから「鎌倉殿の13人」で尾上松也さんが演じた後鳥羽上皇のお姿が私の頭の中を駆け巡っております
話を聖福寺の境内に戻すのは「#2-3」で。
つづき:2023/03/15 3年半ぶりの福岡旅行 #2-3