「3年半ぶりの福岡旅行 #2-2」のつづきは、聖福寺の境内から始まります。
禅寺にやって来たのは、1か月前の東福寺(記事) 以来でした。聖福寺も東福寺も鎌倉初期に創建された臨済宗のお寺です。自然、両寺の伽藍を比較してしまうわけですが、ふと思ったのは、そういえば鎌倉時代以降に創建されたお寺には塔が無い
日本で仏教寺院が建てられ始めた飛鳥時代には、お寺の伽藍には、その配置は別として、門、塔、金堂、講堂が、必ず
といってよいほどありました。
ところが、聖福寺には塔は無いし、東福寺を含む京都五山の各寺にもありません。
私が実際に拝見したことのある3層以上の塔といえば、法隆寺、薬師寺、興福寺、元興寺(小塔)、海龍王寺(小塔)、當麻寺、東寺、清水寺、仁和寺、八坂の塔(法観寺)、四天王寺、浅草寺、上野の五重塔、羽黒山、日吉山王神社(秋田)、東長寺(チラ見
)と、上野の五重塔(こちらで書いたように、もともとは寛永寺の塔ではなく、上野東照宮に寄進されたもの) を除けば、寺伝・社伝では、飛鳥~平安時代に創建された寺・霊場ばかりです。
それが、鎌倉時代以降創建されたお寺には3層以上の塔はほとんどなく、江戸時代に入ってからボチボチと復活しています。
なぜ???
もともと仏塔はお釈迦様の骨(仏舎利)を納める建物で、御本尊をおまつりする金堂、僧侶たちが勉強する講堂と共にお寺にはなくてはならない建物だったはず。
それが鎌倉時代に入ると、新たに創建されたお寺では無視(?)されたのはどうしたことなのでしょうか?
三重塔・五重塔が姿を消した理由は、いつか腰を据えて調べてみることにして、話を聖福寺に戻します。
聖福寺の御本尊は、「仏殿(大雄宝殿)」に鎮座されています。
そして、仏殿から一本の紐が伸びて、回向柱に繋がっていました。
回向柱に貼られた説明書きによると、
善の綱
聖福寺の本尊様は三世「釈迦・阿陀・弥勒」佛です。
仏殿に安座している三躰の仏さまです。
創建当時の大きさの仏像、丈六仏で再興しました。
丈六仏は立像で4.8m、座像で3mです。
大法要に先立って、丈六三世佛のそれぞれの仏様の右の御手に金糸を結び、善の綱を経て回向柱にと繋がれています。
回向柱に触れる事は、三世佛の仏様に触れる事になります。
このまたとない機会です。健康や長寿、病気の平癒を願って、この回向柱にお触れください。
めったに受けることのできない結縁が生まれ、仏様の慈悲がもたらされて、その功徳の慈悲がもたらされて、その功徳の恩恵に浴することが出来、願いが叶うと言われています。
だそうで、私が回向柱に触れたのは言うまでもありません。
仏殿の中には入られませんでしたが、お参りしたあと、堂内を覗き見しました。
御本尊が左右に脇侍を従えた「三尊像」はよく拝見するパターンですが、如来三仏が勢ぞろいというのはあんまり見ませんよねぇ。(堂内の写真は聖福寺のHPで拝見できます)
その横にあった説明書きには、
仏殿は、寺院の本尊様を祀るところです。本尊様は、釈迦如来、弥勒如来、弥陀如来の三如来になります。また、聖福寺では仏殿が法堂も兼ねています。
丈六三世仏の造立は、栄西禅師以来開創当時の再興です。向かって左より「弥陀、釈迦、弥勒」の三体の金色の如来仏が安座しています。三体の如来仏はそれぞれ「弥陀は過去仏、釈迦は現在仏、弥勒は未来仏」にあたります。(中略) 像全体が乾漆で出来ており、乾漆の仏像として「日本一の大きさ」になります。立像で10cm四方の金箔を約1万枚貼ってあります。
とありました。
そっかぁ、仏殿は「金堂 兼 講堂」みたいなものなんですな。
さらに、
この仏殿の特徴は、「丸窓、湾曲した格天井(外側)、連子窓、木の礎盤」です。栄西禅師の修行した中国(南宋)の万年寺、天童寺などの禅宗寺院の特徴が今によく伝えられています。「大雄宝殿」の扁額が掛かっている日本の臨済宗の禅寺は非常に珍しいことです。天井の龍の彫刻は、以前、描かれていた天井画、狩野常信(江戸時代初期、狩野探幽の弟)の雲龍画をもとに彫刻しました。
この「大雄宝殿」の扁額について、「日本の臨済宗の禅寺は非常に珍しい」という説明がよく判りません
そこで「大雄宝殿」を調べてみたところ、こちらのサイトによると、
中国・朝鮮の寺院で、金堂・本堂に相当する建物の呼称。大雄は釈尊のことで、釈迦仏が本尊のもののみをいう。宗派により雄はオウと読む。
だそうな。初めて知りました
そういえば、同じく釈迦如来を御本尊として祀っていた東福寺の本堂(聖福寺と同様に仏殿兼法堂)の扁額は「毘盧宝殿」でしたっけ… (記事)
最後に庫裏の外観を遠目から拝見して、聖福寺から退去しました。
この庫裏へのアプローチが、いかにも禅寺らしく、静寂に包まれて、心がすぅ~っとするようでした
聖福寺の境内から東側の小径に退出した私は、聖福寺の裏側をぐるっと廻ってみることにしました。
と、落花したツバキ。
そして見上げれば柑橘系。
この小径の突き当たりには門があったのですが、
その内側はというと、
広大な更地…
恐らく塔頭の跡地なのでしょうけれど、一つの塔頭にはあまりにも広すぎます
境内の説明板に、
聖福寺の境内地は、創建当初、鎌倉幕府源頼朝公より方八町を戴き、七堂伽藍を建立して、丈六の釈迦・弥勒・弥陀の三尊を安置したと伝えられています。塔頭も38院(現在は6院)を数えました。
とありましたっけ
38院もあった塔頭が、今は6院とな…
聖福寺の境内地も、天正15年(1587)の太閤町割で「方四町」と1/4に狭められて現在に至っているのだそうな
トンビの鳴き声がもの悲しい…
そんなことを思いながら、聖福寺裏側の小径を歩いて行くと、
激減した中で残っている塔頭のひとつ「幻住庵」がありました。
幻住庵の創建⇒焼失⇒移転・再建を記した門前の説明板の後半にはこうありました。
文化・文政年間(1804-1830年)には聖福寺の名僧仙厓和尚が、庵内の虚白院にて静かに余生を過ごしました。(本庵は、拝観できません。)
でたぁ~、仙厓義梵
そっかぁ、あの仙厓さんがここで余生を過ごしたのかぁ~
仙厓さんで思い出すのは、このブログの中で地味~にずっとアクセスの絶えない記事「『まる・さんかく・しかく』は禅の真髄か?」に登場した「○△□」(出光美術館所蔵)を書いた方です。
なお、このあと訪れた福岡市美術館のミュージアムショップには、さまざまな「仙厓グッズ」が取りそろえられていました
ということで聖福寺の散策を終えたところで「#2-4」につづきます。
つづき:2023/03/16 3年半ぶりの福岡旅行 #2-4