「今年最初の関西旅行記 #3-1」のつづきです。
私が持っていた妙心寺の予備知識は、臨済宗妙心寺派の大本山であることと、15年前に九州国立博物館(九博)で観た「京都 妙心寺 善の至宝と九州・琉球」展で得た断片的なものだけです。
しっかりとブログを書いて(一応は書いた)、「復習
」しておけばまだマシだったのでしょうけれど…
私が知っていたことは、せいぜい、京都五山には含まれないこと、「妙心寺展」のメインビジュアルになっていた狩野山楽「龍虎図屏風」(九博でも2016年の「禅」展@東京国立博物館[記事]でも観られなかった)、円形フライヤー
で採用されていた狩野探幽の筆による天井画「雲龍図」(もちろん展覧会には出陳されず)とか、如拙「瓢鮎図」とかめちゃ古い梵鐘(この国宝
2点は現物を拝見できた
)などを所有しているということくらい
そこで、京都市による説明板に登場いただきます。
妙心寺
正法山と号し、臨済宗妙心寺派の大本山である。深く禅に帰依された花園法皇が関山慧玄を開山とし離宮萩原殿を改めて寺とされたのが当寺の起りで、室町初期に一時中断し、再興後応仁の乱で再び焼失したが、乱後雪江宗深が再建、弟子にも名僧が出て寺運はさかんとなり、塔頭が相次いで建てられ、地方へも当寺の勢力は発展した。
現在末寺3,400余、臨済宗各派中最大である。勅使門より北へ三門・仏殿・法堂・寝堂・大方丈が一直線に並び、その東側に浴室・浴室鐘楼・経蔵が並ぶ。室町後期から江戸初期の建築で、近世禅宗伽藍の最も完備した形を示している。(後略)
上の説明にちょっと補足しますと、開山は建武4(1337)年、また、「室町初期に一時中断」とあるのは、応永の乱(1399年)で室町幕府に対して反乱を起こした大内義弘と妙心寺が深い関係だったことから、怒った足利義満
が妙心寺を没収
、それが解かれるまで30年以上も要したことを指します。
足利義満とトラブったら、京都五山に入れるはずもありませんな
妙心寺の伽藍拝観に戻りまして、内側から見た勅使門と放生池。
南総門は瓦葺なのに対して、勅使門は檜皮葺です。何か意図があってのことなのでしょうか?
それはさておき、妙心寺の勅使門は、桃山時代、慶長15(1610)年の創建とのことで、
平生は閉じられていますが、妙心寺住持の入山・晋山時に新住職はこの門より入られます。
とのこと。「勅使」専用の門じゃなかったんだ…
初めて「住持」という言葉を知って思ったのですが、もしかして、おなじみの「住職」って「住持職」の略か? ←そうらしい
妙心寺の「晋山式」についてのページに、「住職として己を律する四つの戒め」が載っているんですが、これが深い そして納得
第一、勢い使い尽くすべからず (調子に乗りすぎるな)
第二、福受け尽くすべからず (受けている恵みを感謝し、恩返ししろ)
第三、規矩行い尽くすべからず (決まりを強制しすぎず、慈悲の心を持て)
第四、好語説き尽くすべからず (人の話を聞いて判った振りをせず、体得しろ)
( )内は私なりの解釈です
「モーセの十戒」とはレベルが違うって感じですな。
次は、境内で唯一色彩を感じた三門です。
こちらは勅使門よりちょっと古く、慶長4(1599)年(関ヶ原の戦いの前年だ)の創建だそうで、非公開の2階には「観世音菩薩と十六羅漢が祀られ、極彩色鮮やかに飛天や鳳凰、龍の図が柱や梁に描かれています」とか。
そういえば、東福寺の三門ともそうだと聞きます(観世音菩薩の代わりに宝冠釈迦如来だけど)
いつか内部を拝観したいものです
ここで塔頭の一つ、退蔵院を拝観しました(拝観料:600円也)。
ここの塀の屋根にある鬼瓦がおもしろくて、
瓢箪と鯰(ナマズ)の図柄です
それもそのはず、かの国宝「瓢鮎図」は、退蔵院の所蔵なのです。
国宝の掛け軸なんて、そうそう拝見することが可能なはずもなく(京博に寄託しているらしい)、模本が退蔵院の方丈(本堂)に展示されていました。
その模本をしげしげと拝見し、写真
も撮ってきたのですが、それはのちほど…
今から600年ほど前(1404年)、室町時代の応永年間に当時の京洛に居を構えた波多野出雲守重通が高徳のきこえ高い妙心寺第3世をつとめる無因宗因禅師への深い帰依によって、無因宗因禅師を開山として建立されました。これが退蔵院のはじまりです。
そのころ妙心寺は足利義満の弾圧で名を竜雲寺と変えられ、 関山一派の人々も祖塔を去る悲運に見舞われました。無因宗因禅師は高徳を惜しまれて大徳寺へとの誘いがありましたが、固く辞して西宮の海清寺に隠棲し、ついに時の有力者たちに終生近寄ることがありませんでした。
退蔵院は応仁の乱で妙心寺とともに炎上しましたが、1597年に亀年禅師によって再建され、今に至ります。
方丈(本堂)の南面と西面にある庭は通称「元信の庭」。「元信」とは狩野派二代目の狩野元信のことで、絵師の彼が作庭したのだとか。
南面の庭はさほどおもしろいこと無く、見どころは西面の枯山水様式の庭でした
常緑樹の生気溢れる緑と、無機質な石・砂との対比がおもしろい
北から南へと川(=砂)が屈曲しながら音も無く流れていきます。
しかも、川の流れは、絶対に絶えることがないという…。
なんとも心が落ち着くひとときでした
このあと、恐らくはこの「川の流れのつづき」を意識したであろうものを体験することになるのですが、その前に、「瓢鮎図」の模本を拝見
『瓢鮎図』 (国宝・如拙 筆)
「丸くすべすべした瓢箪で、
鯰を押さえることができるか」
室町幕府の4代将軍・足利義持はある時、「瓢箪でナマズを押さえることができるか」という公案(禅問答)を考え、この公案を主題とした絵を画僧の如拙に描かせました。
上部には五山の高僧31人による様々な答え(讃)が書き込まれています。
皆さんならこの禅問答にどのように答えますか?
※「鮎」とは「なまず」のこと。
「なまず」は「鯰」と書きますが、中国由来の「鮎」と表記されています。
恥ずかしながら私、今の今まで「鮎」と「鯰」のことに気づきませんでした
「ひょうねんず」で変換すると、ATOKはきちんと「瓢鮎図」にしてくれますので
←ただの言い訳
さっそく、じっくりと「舐めるように」観ることにしまして、まずは如拙による画。
背景と前景は静謐感漂う山水画ですが、人物と鯰はどことなくマンガチックでユーモラスです。もっとも、公案自体がいわば足利義持のジョークみたいなものですからねぇ。
人物と鯰の部分を拡大してみます。
なかなかよくできた模本です
近頃、障壁画や絵画の精細な模本を作り、現物と模本を入れ替えて、現物は温度・湿度が一定で紫外線の入らない収蔵庫で保管するケースが見られますが、これだけ良い模本ができるのなら、非常によいアイデアだと思います。
それはそうと、この人物に妙なところがあるのに気づきませんか?
浮游しようとする瓢箪を両手で押さえ込もう
としているように見えます
または、既に鯰を押さえ込みにかかろうという瞬間なのでしょうか?
これは一体…というところで「#3-3」につづきます。