23
月みればちぢにものこそ悲しけれ
我が身ひとつの秋にはあらねど (大江千里 生没年不詳)
「ちぢ」は無秩序に数の多いさま、ということ。とても悲しい。
24
このたびは ぬさ(幣)もとりあへず手向山
紅葉の錦 神のまにまに (菅家・かんけ 845~903)
「このたび」は「旅」「度」の掛詞。「幣」は旅の安全を祈って、神様に捧げるもの。
その「幣」の用意もないままに、来てしまいましたが、この美しい風景を手向けたく
思います。
23
月みればちぢにものこそ悲しけれ
我が身ひとつの秋にはあらねど (大江千里 生没年不詳)
「ちぢ」は無秩序に数の多いさま、ということ。とても悲しい。
24
このたびは ぬさ(幣)もとりあへず手向山
紅葉の錦 神のまにまに (菅家・かんけ 845~903)
「このたび」は「旅」「度」の掛詞。「幣」は旅の安全を祈って、神様に捧げるもの。
その「幣」の用意もないままに、来てしまいましたが、この美しい風景を手向けたく
思います。
21
今来むといひしばかりに長月の
有明の月を待ち出でつるかな (素性法師 生没年不詳)
すぐに逢いにきて下さると、おっしゃいましたわね。長い夜を待っておりましたのに。
有明の月を待っていたわけではないのに。「長月」は陰暦九月、すでに夜は長い。
22
吹くからに秋の草木のしをるれば
むべ山風を嵐といふらむ (文屋康秀・ふんやのやすひで 生没年不詳)
「むべ」は「なるほど」という意味が込められている。
山の風が吹くと秋の草木はすぐにしおれてしまう、ということだな。
19
難波潟みじかき葦のふしの間も
逢はでこの世を過ぐしてよとや (伊勢 788~938頃)
当時としては、珍しいことではないが、伊勢は天皇に寵愛されて、皇子を生み、
その後、天皇の御子・敦慶(あつよし)親王との間に娘も生んでいる。
しかし、白洲正子は優れた、孤独な歌人と記している。
20
わびぬれば今はた同じ難波なる
みをつくしても逢はむとぞ思ふ (元良親王 890~943)
この辺で、少々「食傷気味」になっております。なんと恋歌が多いことか。
しかも、自由恋愛の時代ではないか? 民は貧しく暮らしていた時代ではないか?
勝手にしやがれ。
これで、五分の一終了。しばらく休憩します。
ご迷惑とは存じますが、お付き合い下さいませ。
16
立ち別れいなばの山の峰に生ふる
まつとし聞かば いま帰り来む (中納言行平 818~893)
「因幡・いなば」を「居なば」、「松」を「待つ」にかけている。
因幡にゆくために、お別れですが、「待つ」と言ってくだされば、
すぐに戻ってまいります。
17
ちはやぶる神代もきかず龍田(たつた)川
からくれなゐに水くくるとは (在原業平朝臣 825~880)
「ちはやぶる」は「神」にかかる枕詞。紅葉で川が赤く染まることなんて、
神々の時代ですら、聞いたことがない。
18
住之江の岸に寄る波よるさへや
夢の通ひ路人目よくらむ (藤原敏行朝臣 生没年不詳)
住之江の岸に寄せる波のように、人目のない夜、夢の中でさえ逢っては
下さらないのですね。
「よく」は避けるという意味がある。
14
陸奥のしのぶもぢずり誰ゆゑに
乱れそめにし われならなくに (河原左大臣 822~895)
「陸奥・みちのく」は現在の東北地方東部。「しのぶ・信夫」は福島県の旧郡名。今の福島市南部にあたる。「もぢずり」は信夫地方の独特の織り方で、乱れ模様のような織り方でないかと言われています。そのように心が乱れています、ということかな。
15
君がため春の野に出でて若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ (光考天皇 830~887)
まだ雪が微かに降る頃ですが、野に出て、せり、なずななどをつみます。
冬の間に乏しかった野菜を好んで食しましょう。
11
わたの原八十島かけてこぎ出でぬと
人には告げよ海人(あま)のつりふね (参議 篁・ 八〇二~八五二)
「八十」とは数が多いこと。沢山の島を巡って流されてゆく身を、
海人たちよ、都に残された人に伝えてほしい。残酷な時代だなあ。
12
天つ風雲のかよひ路吹きとぢよ
乙女の姿しばしとどめぬ ( 僧正遍昭 ・そうじょうへんじょう・八一六~八九〇)
舞姫たちの美しい姿をもっと見ていたいから、雲を引き寄せて
天の通り道を塞いでおくれ。
13
筑波嶺の峰より落つるみなの川
恋ぞつもりて淵となりぬる (陽成院・八六八~九四九)
筑波の峰は「男体」「女体」という二つの峰から、滴る水が合流して「皆野川」になると言う。あなたへの思いも、そのように深い淵となってしまいました。
8
わが庵(いほ)は都のたつみしかぞすむ
世をうぢ山と人はいふなり (喜撰法師・生没年不詳)
喜撰法師は、平安時代の六歌仙の一人だが、確かな情報がない。
鴨長明「無名抄」には「宇治山に喜撰法師が住んだ跡がある。」と記されている。
「都」は京都のこと。「たつみ」は東南。「うぢ」は「「憂い」と「宇治」の掛詞。
9
花の色はうつりにけりないたづらに
我身世にふるながめせしまに (小野小町・生没年不詳)
「小町」と言えば、美しい女性の代名詞ではないか?
その彼女にも、「老い」は訪れる。花が色あせてしまうように。
10
これやこの行くも帰るも別れては
知るも知らぬも逢坂の関 (蝉丸・生没年不詳)
「逢阪」と「大坂」。この二つは掛詞。逢坂の関は交通量が多く。沢山の人々が
行きかうところだった。
4
田子の浦にうち出でてみれば
白妙の富士の高嶺に雪は降りつつ (山辺赤人 生没年不詳)
見晴らしのよい田子の浦(由比、蒲原あたりの海らしい。)に来ました。
雪をのせた富士を見上げています。どこにでもある風景ですが……。
5
奥山に紅葉(もみぢ)踏みわけ鳴く鹿の
声きくときぞ秋はかなしき (猿丸太夫 生没年不詳)
かなしみは、日本人の歌の栄養素みたいなものかもしれない。
6
鵲(かささぎ)の渡せる橋におく霜の
白きをみれば夜ぞ更けにける (中納言家持 七一八~七八五)
鵲の背中は黒くて、お腹の方が白い
橋の霜は鵲のお腹と同じくくらい真っ白だった?
陰暦七月七日の夜、牽牛星と織姫星とを会わせるため
鵲が翼を並べて天の川を渡すという想像上の橋。
7
天の原ふりさけみれば春日なる
三笠の山に出でし月かも (安倍仲麿 六九八~七七〇)
七一六年に、遣唐使として、彼は唐に留学していた。李白や王維たちと親しくなった。
しかし、暴風のために船が漂着して帰国できず唐で生涯を終える。
3
あしびきの山鳥の尾のしだり尾の
ながながし夜をひとりかも寝む (柿本人麻呂 生没年不詳)
「あしびきの」とは、「山」への掛詞
「しだり尾」とは、長く垂れた尾のこと。
その尾のように、長い夜を独りで過ごしているのです……。
五歳から、大人たちや姉たちに混じって始めた「百人一首」は、
取り札が平仮名で書かれているので、なんとか参加できた。初めて一枚を取った時に
は、姉たちや大人たちに「いいこいいこ」された。その懐かしい日々を思い出しながら、
改めて読んでみようと思った。意味もわからずにいたあの頃から永い歳月が流れた。
さらにもう一つの思い出は、高校生の時に一回だけ「百人一首のクラスマッチ」があったこと。一クラス五人の選手が選ばれる。私は補欠選手になったけれど、選手の一人が辞退したために、正選手になった。そして決勝戦まで仲間を引っ張った。なぜか?百首を全部暗記していたため。リズムのある言葉は暗記しやすかった。
さてさて始めてみたが、歌は覚えていたが、解釈には以下の資料に頼った。
参考文献 「吉原幸子 百人一首 平凡社」
「白洲正子 私の百人一首 愛蔵版 新潮社」
「佐佐木幸綱 口語訳詩で味わう百人一首 さ・え・ら書房」
「江橋崇 百人一首・ものと人間の文化史189 法政大学出版局」
1
秋の田の かりほの庵(いほ)の 苫(とま)をあらみ
わが衣手(ころもで)は 露にぬれつつ (天智天皇 626~671)
農作業のための仮小屋は苫(とま)と申します。
菅(すげ)や茅(かや)を粗く編んだものですから
そこから夜露が滴り落ちて、私の着物が濡れてしまうのです。
2
春過ぎて 夏来にけらし 白妙(しろたへ)の
衣ほすてふ 天の香具山 (持統天皇 645~702)
香具山は奈良県檀原市南東部ある山。「耳成山みみなしやま」「畝傍山うねびやま」とともに大和三山と称されている。春が過ぎ、夏がきて♬あの山に白い夏の衣装が干してあります。風にはためきながら……
(続く、100首までやってみます。暇人です。)