ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

いわさきちひろ、絵描きです。

2018-08-24 11:22:35 | Art


いわさきちひろ、絵描きです。

22日、東京ステーションギャラリーにて、いわさきちひろの展覧会をみました。
彼女の絵は単なる「絵本の絵」に留まらず、その優しくかわいらしい絵から
訴えているものは「反戦」であった。

更に、色彩へのこだわり、光と影、水分の多い絵具の微妙な重なりによって、
独自の画法を作りだしていました。
いつか全作品を見たいです。いつのことやら。

その後、ご一緒して下さった友人のAさんとおしゃべり。
観てきた絵の感想や、画家の生き方まで、おしゃべりは尽きず。
ついでに、詩のお話もたくさんして。
帰宅がとても遅くなりましたが、無事帰宅。

朝になったら、喉が痛い。声がかすれる。・・・・・ほどにおしゃべりしたのね。
楽しい時間でした。

48年前の名画

2017-09-14 23:50:34 | Art
あえて、「Art」のカテゴリーに。



若き日の私のニックネームは「ポコ」だった。
そして、この名画を描いた方は「ペコ」だった。

昔のファイルの整理をしていたら、懐かしい名画があらわれた。
私の結婚祝いに描いて下さったものでした。

6枚のうちの1枚です。全部は見せません。

あああ。元気が出た。
残りの日々もゆったりと生きてゆこう。
なにがあっても、この絵を思い出しながら。

青春のロシア・アヴァンギャルド

2017-01-30 21:58:41 | Art

ロシア・アヴァンギャルドの詩人について、前記しましたが、大分以前に画家についてのメモがありましたので、ここに書いておきます。

「モスクワ市近代美術館」所蔵の、およそ100年前のロシアの若き画家たちの作品70点(うち、ニコ・ピロスマニの作品は10点、特設コーナーとなっていました。)の展示です。


 (農婦、スーパーナチュラリズム:カジミール・マレーヴィチ:1920年代初頭)

 さて、「ロシア・アヴァンギャルド」とはなにか?
 20世紀初め、帝政への不満からロマノフ王朝の崩壊、ソ連誕生という革命の機運の高まる時代にあって、若きロシアの画家たちは西欧のマティス、ピカソに学び、さらにその先を行く前衛芸術を目指したものの、スターリンの登場とともに衰退する。亡命する者、この運動の代表的な画家であった「カジミール・マレーヴィチ」は具象に戻る。「いずれにせよ、画家たちは政治と無縁ではなかった。」とは、トルストイの言葉である。

 ではこの「ロシア・アヴァンギャルド」に、何故グルジアの画家「ニコ・ピロスマニ」が登場するのか?その時期の若きロシアの画家たちがピロスマニに夢中になったのは、そのボヘミアン的生き方への憧憬と尊敬があったのではないか?モスクワ市近代美術館は、1999年に開館。「ロシア・アヴァンギャルド」の作品を中心に収蔵、展示。初代館長を務めたグルジア出身の彫刻家、ズラーブ・ツェレテーリ氏が海外から買い戻した個人コレクションが基になっている。この初代館長のもたらした幸運だったのか?


 (小熊を連れた母白熊:ニコ・ピロスマニ:1910年代)

 ニコ・ピロスマニ(1862年~1918年)は19世紀末から20世紀初頭にかけて活躍したグルジアの画家。彼はグルジア東部のミルザーニの村で生まれ、後にトビリシに出て、グルジア鉄道などで働いたが、その後、独学で習得した絵を描くようになる。
 彼はプリミティヴィズム(原始主義)あるいは素朴派(ナイーブ・アート)の画家に分類されているが当人にはいかがなものであったのか?彼はグルジアを流浪しながら絵を描いてその日暮らしを続けた。一旦はロシア美術界から注目され名が知られるようになったが、そのプリミティヴな画風ゆえに非難もあった。
 失意の彼は1918年、貧困のうちに死去したが、死後グルジアでは国民的画家として愛されるようになり、ふたたびロシアをはじめとした各国で注目されることになる。

 「百万本の薔薇」という歌をご存知の方も多いことでしょう。このモデルとなった画家が「ニコ・ピロスマニ」であり、フランスの女優「マルガリータ」が彼の町を訪れた時に、彼女を深く愛したピロスマニは、その愛を示すために彼女の泊まるホテルの前の広場を花で埋め尽くしたという。この実話はロシアの詩人アンドレイ・ヴォズネセンスキーの詩によって有名になり、ラトビアの作曲家が曲をつけ、モスクワ生まれの美人歌手が歌い、世界的にヒットした悲恋の歌です。日本では「加藤登紀子」によって歌い継がれています。

東京藝術大学大学美術館 ヘレン・シャルフベック

2015-07-19 22:05:05 | Art
東京藝術大学大学美術館 ヘレン・シャルフベック




東京藝術大学大学美術館 ヘレン・シャルフベック




ヘレン・シャルフベック 回復期






NHKの「日曜美術館」で、初めてこの女性画家の名前を知った。
名前のみならず、即刻「観たい」と思い、7月15日、藝大美術館へ。
フィンランドの女性画家ということも私を惹きつける。

詳細はこちらをご覧下さい。

3歳の事故がもとで、杖を使わなくては歩けないという生涯だった。
また、人生2度の「婚約破棄」という不幸もあり、孤独な生涯であったようだ。
その人生の陰影を感じさせながらも、決して暗いだけの絵画ではなかった。


才能はもちろんのこと、彼女の絵画に対する情熱と謙虚な探究心が作品を実らせた。
さらに年齢を重ねるごとに、絵画は命に迫ってゆく。
自画像の変遷に、それをはっきりと観られると思います。




また、ジェームズ・マクニール・ホイッスラーの「母の肖像」を思い浮かばせる絵がありましたが、調べた結果、やはり影響を受けていました。



 《ホイッスラー 母の肖像》



 《ヘレン お針子(働く女性)》


彼女自身が、1人で生きてゆかねばならない人生だった。
その生き方が様々な女性を描くことになったのだろうか?
素晴らしい女性像が数多く観られました。




ルーブル美術館展

2013-09-12 11:48:46 | Art



ルーブル美術館展 地中海四千年のものがたり

9月6日、東京都美術館にて。
気の遠くなるような長~~い時間の旅であった。実際の所要時間は2時間足らずではあったのだが。


序   地中海世界ー自然と文化の枠組み
第一章 地中海の始まりー前2000年紀から前1000年紀までの交流
第二章 統合された地中海ーギリシア、カルタゴ、ローマ
第三章 中世の地中海 十字軍からレコンキスタへ(1090~1492年)
第四章 地中海の近代ールネッサンスから啓蒙主義の時代へ(1490~1750年)
第五章 地中海紀行(1750~1850年)

以上、約4000年の時間の旅であった。

第一章の展示品に「カルピス(水瓶)」という作品があったが、「え!これがカルピスの語源なの?」と帰宅してから調べたら、
乳酸飲料の「カルピス」は、「カルシウム」とサンスクリットの「サルピス」(sarpis, 漢訳:熟酥(じゅくそ))を合わせたものだった(笑)。
それはそれとして、壺、印章、杯、椀、スプーン、香油入れ、水差し、などの模様はほとんどは歴史上の出来事や人物が描かれている。
身分の低い者、子供などの日常も描かれていました。
しかしながら、人間の日常使うものの基本的な形はほとんど変わらないのね。感動した。


第二章では、「タナグラ人形」という言葉と共に、その作品の小ささが気になっていた。
タナグラ人形【 Tanagra figurine】とは、
前5世紀ころから前3世紀ころを最盛期としてギリシアのボイオティアやアッティカ地方で製作されたテラコッタの小彫像。
これらは墓の副葬品,神殿の奉納品,日常の置物として製作された。
大彫刻の影響が見られる優れたものが多い。
女神,婦人,騎士,楽人,床屋,大工,農夫,子どもなどさまざまな人物像が製作されているが、
とくに優美な着衣の婦人小像が有名である。高さは6~7cmから25cm。
1870年代初めボイオティア地方東部の小村タナグラ周辺の墓地から多数出土したことにちなんでこのように呼ばれている。


第三章では、十字軍が歴史を動かしはじめる時代となっているのだが、その時代の権力と、
宗教(キリスト教、イスラム教)のバランスは正直言ってややこしい(笑)。
しかし、この時代に至って、様々な食器や調度品の装飾は、宗教的であったり、騎士たちの姿などに変わっていった。
この時代には石膏像は見られるが絵画はまだ出てこない。石棺なども見られる。


第四章では、絵画が中心となってくる。
装飾品には、懐中時計や煙草入れなどがあらたに登場している。
懐中時計、香油入れ、絵画などに歴史上の出来事や神話などが描かれている。
この時代の最も代表的な歴史上の人物はエジプト女王クレオパトラであり、
その最期の毒蛇による自殺であろう。ジャンピエトリーノ、クロード・ベルタンによって描かれている。


第五章は、ほとんど絵画の展示になる。この時代の代表ははナポレオンか?
風景画、歴史上の出来事、神話などと共に、雑多な民族の文化の混合が見られる。
それにしても、人間の歴史とはなんだったのだろう?
民族、宗教、領土などの争いの連続であった。
そこにも人々は美しいものを求めていた。それを今見ることができる。
……ということを改めて思う。この4000年の時間の旅の終わりに。

ポール・デルヴォー展  夢をめぐる旅

2013-02-23 22:30:47 | Art
ポール・デルヴォー展 夢をめぐる旅 オフィシャルサイト

私は現実を
ある種の《夢》として
描き出そうとしてきました。
事物が本物らしい様相を
保ちながらも
詩的な意味を帯びている、
そんな夢として。

(ポール・デルヴォー)



22日、風のない静かな午後に「埼玉県立近代美術館」にて、「ポール・デルヴォー展」を観てまいりました。
上記のポール・デルヴォーの短い言葉がこの作品たちを語りつくしているようでした。

ポール・デルヴォー(Paul Delvaux 1897年9月23日 - 1994年7月20日)は、ベルギー・リエージュ州生まれの画家。
印象派、ベルギーの表現派、1930年代にシュルレアリスムにも出会ってはいますが、独自の作風を守る。



愛蔵品の鉄道模型、ランプなどが絵画に登場し、そこに美しい女性が描かれるという不思議な世界が展開されています。


《トンネル・1978年》

ポール・デルヴォーが美しい女性を描き続けたのは1930年に出会った恋人「タム」の存在が大きいのではないか?
「タム」とは親の反対で結ばれることはなかったのだが、1947年「タム」と再会、1952年生涯の伴侶となります。



「タム」と再会できた時期に「森」が描かれています。



まさに夢のなかの出来事のような美しい絵画でした。


《森の小路 1921年》

ベン・シャーン展・線の魔術師

2012-12-13 23:21:15 | Art

快晴の12日午後、埼玉県立近代美術館にて。

ベン・シャーン展・線の魔術師オフィシャルサイト


1930~1960年のアメリカを代表する画家であるベン・シャーン(Ben Shahn・1898年9月12日 - 1969年3月14日)は、
リトアニア(当時は帝政ロシア領)のカウナスに貧しい木彫職人の子として生まれた。両親ともユダヤ人だった。

1906年、7歳のとき、移民としてアメリカに渡る。
ニューヨークのブルックリンに住み、石版画職人として生計を立てていたシャーンは、肉体労働者、失業者など、
アメリカ社会の底辺にいる人々と身近に接していた。
シャーンは社会派リアリズムの画家として、戦争、貧困、差別などのテーマを追い続けた。
その仕事は壁画、ポスター、挿絵、写真など、グラフィックアートのあらゆる分野に及ぶ。

1954年の核実験で被爆した第五福竜丸をテーマにしたシリーズ、
フランスの「ドレフュス事件」をテーマにしたシリーズなどが知られている。

また世界の政治家、運動家(ガンジーなど。)の人物画はその人の全体像を的確に捉えている。みごとだ。


 《ガンディーと『不思議な少年』》

わたくしが魅かれた作品は「ハレルヤ・シリーズ」の一連の作品で、それぞれの楽器とその奏者を描いたものです。


 《バイオリンを弾く少年/神をほめたたえよ/ハレルヤ・シリーズ》


 《キタラを奏でる男/その大能のみわざのゆえに/ハレルヤ・シリーズ》


さらに、晩年(1968年)に詩人リルケの『マルテの手記』をテーマにした石版画連作である。
おそらく、「マルテの手記」のこの部分の各一節ごとに絵があるはず。
展覧会の最後に観たこの連作には興奮さめやらず。
わたくし個人としては、これだけを記憶しておけばいいように思えてしまう。




 《星くずとともに消え去った旅寝の夜々》


 《愛に満ちた多くの夜の回想》


 《一篇の詩の最初の言葉》

わたくし個人の観方で言えば、ベン・シャーンの描いた作品は、言葉を持っているのではないか?
それでも語りつくせないものがあって、絵画の背景と周囲に言葉の森があるようだ。

尊厳の藝術展―The Art of Gaman

2012-11-29 22:42:05 | Art

 《マンザナー強制収容所の砂嵐》


 《収容所の風景・木彫画・作者不詳》

尊厳の藝術展―The Art of Gaman ←←詳細はここに。


70年前、日米開戦の影響を受けて、大統領令によってアメリカ西海岸やハワイの一部地域に住んでいた日系アメリカ人およそ12万人が、強制収容所に隔離されました。
砂漠の中などにつくられた強制収容所での生活は厳しく、風雨が吹き込む住宅での生活は、3年以上も続きました。
終戦後すべての強制収容所が閉鎖され、1988年にはアメリカ政府による公式謝罪と、強制収容所の入所者へ対する補償が実現しました。

収容者は粗末な仮設住宅へ収容されましたが、そこに家具などはなく、
椅子、机、たんすなどの基本的な家具をはじめ、生活に必要な用品は、廃材などをもとに、すべて手作りでした。
また収容所ではできる限り自給自足の生活が求められ、家庭菜園を営むことも多かったようです。
子供の教育と、大人たちの生きる楽しみへの要求は強く、様々なものがなにもないところから生まれました。
希望を持つことが難しい環境の中で、収容者は芸術やスポーツ活動によってつらい現実から生きる力を獲得しました。
素晴らしい美術工芸品を生み出した理由は、そこにあるのでせう。
それらの貴重な作品(日用品&美術品)を集めて展示したものです。



1番心に残ったものは、貝細工による様々な美しいブローチでした。
この貝は、砂漠をかなり深く掘ったところにありました。
苦しみのなかで最も疎外されるものは、装飾品かもしれないのに……。
そのなかには、夫から妻へ、恋人へ、または自分自身のために?

ブローチの展示ケースの周囲には女性たちの感嘆の声が聞こえました。

小雨降る28日午後、上野の東京藝術大学美術館にて。

日本の70年代 1968-1982

2012-10-18 16:49:37 | Art


埼玉県立近代美術館において、日本の70年代 1968-1982という展覧会が催されています。
会場の一角に、その時代の若者の標準的なアパート(6畳・バスルームなし)が再現されていました。

その頃、わたくしは何歳だったのか?指折り数えてみました。
ありゃ。70年代はわたくしが母親になってしまった時代でもあったなぁ。笑。
そのようにして、自分がやり過ごした時代を再度考えてみるという気持でした。
思いかえせば、それ以前に出会った友人の多くは演劇、映画、文学、学生運動になんらかの関わりを持っていたと記憶する。
そして、みんないなくなった……。

展示されたものは様々で、ポスター、雑誌や書籍の装丁&デザイン、大阪万博の展示品、レコードジャケット、漫画などなど雑多極まりない。
これらを包括して、この時代を浮き彫りにしようという試みでせう。

どの時代でも、必ずそれぞれの時代への新しい切り口はあったと思う。
しかし「戦後」という時期を過ぎて、60年~70年の「安保闘争」に始まったこの時代の激動は、
どこかで形にするなり、歴史の一部として総括しなくてはならない時期に来たのではないか?
その1つのかたちとして、この展覧会は開催されたのではないだろうか?

粟津潔、赤瀬川原平、横尾忠則、宇野亜喜良

大島渚、唐十郎

大阪万博、天井桟敷、セゾン

週刊アンポ アンアン 少年マガジン 季刊芸術 

さまざな分野で、さまざまな人間が活動したエネルギッシュな時代であったと言ってもいいだろう。
次の動きがあるとすれば、それは「0年代」と言われている方々の動きだろうか?
こうして、ざっと見ていると、時代は親から産まれた子供が青春期に差し掛かる時に「変化」は起こる?
自分の生きた時代を再考するのに、ふさわしい体験であったと思う。

雑記ですがご容赦を。