ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

大江健三郎×古井由吉 対談

2015-04-30 13:21:14 | Book

  アメリカフウロ


①「詩を読む、時を眺める」 新潮2010年1月号

②「言葉の宙に迷い、カオスを渡る」 新潮2014年6月号

③「文学の伝承」 新潮2015年3月号


私の読み落としがなければ、新潮誌上でのお二人の対談はこの3回となるのだろうか?
このお二人はとても大変なエネルギーをかけて読まなければならない小説家ではありますが、
それでも安心して読んでいけるという信頼感によって、細々と読んできた私です。

そのお二人の対談を、ゆっくりと安心して、時には「クスクス……」としながら読みました。
大好きなお二人への私の信頼は絶大であります。


①「詩を読む、時を眺める」 新潮2010年1月号


この対談は、2005年に出版された、古井由吉の「詩への小路・書肆山田刊」
を出発点として、お二人が語って下さった。

大江健三郎は大学時代から、すでに小説を書くことから出発してしまった。
しかし古井由吉は小説を書き始める前に、ドイツ文学者として出発しています。
そして詩の翻訳もされています。
この点において、大江は「古井さんは本の読み方が玄人になっています。
それにひきかえ、私は詩を翻訳できません。」とおっしゃる。
ここから、「詩への小路」のお二人の読み解きが展開されています。

最後は、ポーの「黒猫」、ル・クレジオの「調書」、カフカの「裁判」などを例にして、
近代以前と近代初期のの人間が裁かれることとは、
「……の罪によって。」という裁きではなく、存在そのものの裁きであったと。
そこに「神」の存在が必要とされた。
しかし、日本では神は法廷向きではない。
その分、日本人の小説は健闘しているのではないかということで、この対談は終わっています。


②「言葉の宙に迷い、カオスを渡る」 新潮2014年6月号

この対談では、古井由吉の短編集「鐘の渡り」と大江健三郎の「晩年様式集 イン・レイト・スタイル」
について主に語られています。
大江はこの小説を最後に、主人公の作家「長江古義人」と、その長男「アカリ」という小説の枠組みを
終わりにしました。
古井由吉は「連歌」や「俳句」をからめつつ、「鐘の渡り」を書いていました。

お二人の話題は演劇、俳句 連歌 翻訳詩 日本の古典文学へと広がり、
「書き終わった。」という時点で、また新たな方向性が見えてきます。


③「文学の伝承」 新潮2015年3月号

老作家たちは、書き終えたのではないのだ。
かつてギリシャ語のおさらいを終えて、ラテン語を途中下車した古井由吉は、
それを再開させるという、言葉へのこだわりが。
ドイツ語はギリシャ語を母体とし、フランス語はラテン語を母体としているようだ。

次は「古事記」へと話題は広がる。
古井由吉はここに、小説の源泉と自由を見ているようです。
小説を書き始めた頃、またその小説を読み直す時にきたお二人には
さらに新しい局面が見えてきます。
際限のない小説家の生き方を見てしまった、という思いです。

最後にお二人は、ユーモアたっぷりにこう結びます。(ここから引用)

大江「結局は自分が小説を書くほか何もできない人間であったことも
   わかって来ています。
   今日もここへ来る途中道路工事中の場所を横切ったら、
   踏み出した瞬間にひっくりかえりました。(中略)
   責任者が飛んできて元気なのに安心したか、
   おじいさん、ほとんど完璧に転んだねぇ、と感心してくれた(笑)。」

古井「ストンと倒れたほうが下手な受け身をしないから、
   怪我することが少ないそうですよ。
   酔っぱらいが転んであまり怪我しないのはそういうことですって。」

大江「酒の代わりの僕はエリオットの一行に酔ってました(笑)。(中略)
   僕の老年についての端的な認識は、よく倒れる人間になった、
   しかも完璧な転び方に近いらしい、というものです(笑)。」

古井「こういう話をしておけば、この年寄りたちが
   どういう料簡でいるのか若い人たちはも
   わかってくれるでしょう。」

ハナミズキ

2015-04-24 17:05:51 | Stroll










「ハナミズキ」 別名は「アメリカヤマボウシ」。
「ハナミズキ」の名は、ミズキの仲間で花が目立つことに由来する。
「アメリカヤマボウシ」の名は、アメリカ原産で日本の近縁種のヤマボウシに似ていることから。

北アメリカ原産。
日本における植栽は、1912年に当時の東京市長であった尾崎行雄が、
アメリカ合衆国ワシントンD.C.へサクラ(ソメイヨシノ)を贈った際、
1915年にその返礼として贈られたのが始まり。
花言葉は「返礼」。

しかし、戦時中には「敵国の花」として切られたり、放置された経緯がある。
残り少ないハナミズキが戦後になって保護されるようになった。
アメリカに渡った「ソメイヨシノ」は切られていない。
今年で「ハナミズキ」が日本に来てからちょうど100年になる。

詩への小路  古井由吉

2015-04-22 11:59:31 | Book


この著書の初出は「るしおる」の31号(1997年6月)~56号(2005年3月)までに連載されたもので、古井由吉が、ドイツの詩人達の作品を、散歩のように訪ね歩きながら、その詩を邦訳(行を立てぬ半散文の訳←本人のお言葉です。)しながら、迷ったり、短い解説を書いたり、独り事をつぶやいたり、またテーマの似た作品を並べてみたり、そして最後はリルケの「ドゥイノ・エレギー訳文1~10」で締めくくった1冊でした。これはわたくしにとっては「詩への小路」どころではない「詩への大旅行」でありました。にもかかわらず、この大老はこともなげにこのようなことさえつぶやくのです。


 『豚に真珠というところか。私などには所詮活かしようにもなかった知識を、若い頃にはあれこれ溜めこんだものだ。あんな無用の事どもを覚える閑があったのなら、今ごろはとうに失われた町の風景でも、つくづくと眺めておけばよかったのに、と後年になり悔やまれることもあったが、さらに年を重ねて、それらの知識もすっかり薄れた頃になり、その影ばかりに残ったものが、何かの機会に頼りない足取りながら、少々の案内をしてくれる。』


 上記の抜粋した一文でもわかるように、壮年を過ぎ、晩年に至った著者の積み重ねられた日々の豊かな収穫を、私は幸運にもこの手に授かったのだという思いがしてならない。この思いはそのまま下記のヘッペルの詩に繋がってゆきました。ヘッペルは50歳の生涯でしたので、この詩はすでに晩年でしょうか?


 『――このような秋の日は見たこともない。あたかも人がほとんど息をつかずにいるように、大気は静まり返っている。それなのに、あちこちでざわざわと、木という木から、世にも美しい果実が落ちる。
 乱さぬがよい。この自然の祭り日を。これは自然が手づからおこなう獲り入れだ。この日、枝を離れるのはすべて、穏やかな陽ざしの前で落ちるものばかりなのだ。』
 (ヘッペル「秋の歌」1857年・44歳)


  *   *   *

 以前観た映画「約束の旅路」の最後は、主人公の若者が生き別れた母親に、やっと巡り会った時に、彼は靴をぬいで裸足で母親に歩みよるシーンでした。この映画の下敷きとなっているものが「出エジプト記」であることはどうにか理解していましたが、この最後の靴をぬぐシーンがナゾのまま日が過ぎていました。怠慢ですね。


見紛うかたもなく あなたはわたしと異なる
わたしが近づくにはモーゼに倣って
靴を脱がなくてはならぬ存在
(アンネッテ・フォン・ドロステ=ヒュルスホフ「鏡像」より)


 上記の詩に対する筆者の解説によれば、『靴を脱ぐとは、旧約聖書の出エジプト記の第3章、ホレブの山で棘(しば)の燃えるその中からヤーヴェがモーゼを呼び、そして戒めた、「それより近寄ってはならん。靴を脱げ。お前のいま立っているところは聖なる地なのだ」から来る。』・・・・・・と書かれていました。あの若者の「靴を脱ぐ」行為は母への最上の敬意を表したものだったのですね。新しいことを知る歓びを大切にしたいと、この大老の本はしっかりと教えて下さいました。


 (2005年初版第1刷・2006年初版第3刷・書肆山田刊)

八重桜の咲く頃には……

2015-04-19 21:17:58 | Stroll


八重桜が重たい花房を見せる頃には、その下に咲く花たちの顔ぶれも変わってくる。



あ。その前に鳥たちの春の巣作りが始まりました。多分キジバトの巣だと思います。未完成巣ー巣ー曲。


 ナルコラン


 シャガ


 チューリップ


 ミツカドネギ


 ブルーベリーの花


 キュウリグサ。

私が散歩で見る野の花のなかで、多分一番小さい花ではないか?花弁が1ミリ~2ミリほど。


 オランダミミナグサ


 
タンポポの綿毛よ。飛んでゆけ~。


ラプンツェルとノヂシャ

2015-04-14 16:52:58 | Stroll
この花が咲くのを、いつも楽しみにして待っています。
この花がうまく撮影できた時には、春の一大行事が終わった気分です。
あまりにも小さな花ですので。


 ノヂシャ

グリム童話の「ラプンツェル」は「チシャ」と訳されることがあるが、本来はキク科のレタス(チシャ)ではない。
ラプンツェルと呼ばれる野菜はオミナエシ科の「ノヂシャ」だという説がある。まさにこの花である。
妊婦が食べるのによいとされる植物である。


 ミミナグサ

一緒に咲いていました。


 ヤエザクラ

見上げれば、すでに八重桜の季節になっていました。

12日、投票所の帰りに撮影。がらんとした投票所。花たちは満ちているのに。

《浜田知明作・風景》に捧ぐ

2015-04-07 17:04:01 | Poem

 《浜田知明作・風景》


豪雨のなか
若い兵士の亡骸はすでに大地に溶け合おうとしていた
しかし古びた軍靴は歩き出そうとしていた
どこへ?祖国へ 

何故自分はここにいるのか
亡骸はつぶやく
お前はどこへ行くのか
海を渡る、と軍靴がつぶやく

若い兵士は
どの地で産声をあげたのだろうか
そこからどこへ?何度?移動したのか?
海を渡ったのか
どの母親から生まれたのか
父親は誰か
記憶は抹消され
物語はすべて一律化させられた

それぞれの一つの死が
山積し 散乱する
大地はすべてを抱きよせることができるだろうか
深い怒りは死とともに眠ったか
いや 疲れた軍靴は尚も歩こうとしているのだ

雨音が遠ざかってゆく
やがて空の青を映して
海の青が深まるとき
虹の足が降りてくる


   *    *    *


ささやかな献詩です。


4月の花の木

2015-04-04 15:44:48 | Stroll
まさに「菜種梅雨」の季節です。
桜満開の翌日には、大風が吹いて、その後は雨もよいの日々です。
この時期に「三椏」が咲くはずだと思いだして、
雨の止む時間をねらって、カメラを持って会いにゆきました。
出会った花たちも。




 ミツマタ


 ヤマブキ


 ハナモモ






 ツバキ3色


 アシビ



4月の野花たち

2015-04-03 00:35:40 | Stroll
春になると、とても小さな花や目立たない花たちが風に吹かれて咲いている。
自分も小さくなって、花たちに近づいてカメラを向ける。
その花たちの可愛い姿を、なんとか画像として定着させる喜びよ。(下手だが……。)


 ヒメオドリコソウ


 ハコベ


 アカネスミレ


 ハナニラ


 カラスノエンドウ


 ワスレナグサ


 ハマダイコン