アメリカフウロ
①「詩を読む、時を眺める」 新潮2010年1月号
②「言葉の宙に迷い、カオスを渡る」 新潮2014年6月号
③「文学の伝承」 新潮2015年3月号
私の読み落としがなければ、新潮誌上でのお二人の対談はこの3回となるのだろうか?
このお二人はとても大変なエネルギーをかけて読まなければならない小説家ではありますが、
それでも安心して読んでいけるという信頼感によって、細々と読んできた私です。
そのお二人の対談を、ゆっくりと安心して、時には「クスクス……」としながら読みました。
大好きなお二人への私の信頼は絶大であります。
①「詩を読む、時を眺める」 新潮2010年1月号
この対談は、2005年に出版された、古井由吉の「詩への小路・書肆山田刊」
を出発点として、お二人が語って下さった。
大江健三郎は大学時代から、すでに小説を書くことから出発してしまった。
しかし古井由吉は小説を書き始める前に、ドイツ文学者として出発しています。
そして詩の翻訳もされています。
この点において、大江は「古井さんは本の読み方が玄人になっています。
それにひきかえ、私は詩を翻訳できません。」とおっしゃる。
ここから、「詩への小路」のお二人の読み解きが展開されています。
最後は、ポーの「黒猫」、ル・クレジオの「調書」、カフカの「裁判」などを例にして、
近代以前と近代初期のの人間が裁かれることとは、
「……の罪によって。」という裁きではなく、存在そのものの裁きであったと。
そこに「神」の存在が必要とされた。
しかし、日本では神は法廷向きではない。
その分、日本人の小説は健闘しているのではないかということで、この対談は終わっています。
②「言葉の宙に迷い、カオスを渡る」 新潮2014年6月号
この対談では、古井由吉の短編集「鐘の渡り」と大江健三郎の「晩年様式集 イン・レイト・スタイル」
について主に語られています。
大江はこの小説を最後に、主人公の作家「長江古義人」と、その長男「アカリ」という小説の枠組みを
終わりにしました。
古井由吉は「連歌」や「俳句」をからめつつ、「鐘の渡り」を書いていました。
お二人の話題は演劇、俳句 連歌 翻訳詩 日本の古典文学へと広がり、
「書き終わった。」という時点で、また新たな方向性が見えてきます。
③「文学の伝承」 新潮2015年3月号
老作家たちは、書き終えたのではないのだ。
かつてギリシャ語のおさらいを終えて、ラテン語を途中下車した古井由吉は、
それを再開させるという、言葉へのこだわりが。
ドイツ語はギリシャ語を母体とし、フランス語はラテン語を母体としているようだ。
次は「古事記」へと話題は広がる。
古井由吉はここに、小説の源泉と自由を見ているようです。
小説を書き始めた頃、またその小説を読み直す時にきたお二人には
さらに新しい局面が見えてきます。
際限のない小説家の生き方を見てしまった、という思いです。
最後にお二人は、ユーモアたっぷりにこう結びます。(ここから引用)
大江「結局は自分が小説を書くほか何もできない人間であったことも
わかって来ています。
今日もここへ来る途中道路工事中の場所を横切ったら、
踏み出した瞬間にひっくりかえりました。(中略)
責任者が飛んできて元気なのに安心したか、
おじいさん、ほとんど完璧に転んだねぇ、と感心してくれた(笑)。」
古井「ストンと倒れたほうが下手な受け身をしないから、
怪我することが少ないそうですよ。
酔っぱらいが転んであまり怪我しないのはそういうことですって。」
大江「酒の代わりの僕はエリオットの一行に酔ってました(笑)。(中略)
僕の老年についての端的な認識は、よく倒れる人間になった、
しかも完璧な転び方に近いらしい、というものです(笑)。」
古井「こういう話をしておけば、この年寄りたちが
どういう料簡でいるのか若い人たちはも
わかってくれるでしょう。」