翻訳 有働薫
青の歴史を誰かが書くかもしれません。(ライナー・マリア・リルケ)
そして人々は山々の頂きや、海の波、川のゆったりした流れ、大洋の循環、そして天体の運行を感嘆して眺め、
自分自身を忘れてしまうのです。(聖アウグスティヌス)
この上記の二文は、この詩集の扉にあたかも「予言」のように置かれています。
有働薫さんの解説によれば、それに応えるかのようにジャン=ミッシェル・モルポアの「青の物語」は書かれたようです。
このように時を越えた運命的な詩人の出会いは繰り返されてきたのかもしれません。そしてこのようにして「詩」が引き継がれてゆく。
この詩集は海(青)と人間との絶え間ない対話なのだと思えます。そしてその「海」に青の言葉を捧げ続ける詩人の絶えることのない作業のように思える。
その作業はとても勤勉であり、大変美しく均衡のとれた言葉の構築でありました。
そしてジャン・ミッシェル・モルポアは「人間が生きる。」ということのすべてを書き尽くしてみようと試みたのではないか?とさえ思えます。
……と言ってもそれは有働薫さんの翻訳による言葉の美しさ、豊かさでもあるわけです。
フランス語のわからないわたくしは有働さんの翻訳された日本語のみでこの詩集を読み、受け取ったわけですから。
その美しい言葉をすべてここに書きとめておきたいのですが多すぎる。でもさらに抜粋して引用させていただきます。
* * *
海はわれらの内で文章を書こうとする。
《空の本質は不思議なやさしさでできている。》
明日という日は、こんなに野蛮な身振りをし、こんなに汗をかき、青白く期待をかける価値が十分あるのだから。
彼らはおのれの生のかたちにふれようとする。
彼らは青を見つめる、だがそれをどう言えばいいのか決して分からないだろう。
どこまでも青は逃亡する。
じつを言えば、青は色ではない。むしろ印象であり、雰囲気であり、空気の特別な響きである。
積み重なった透明さ、空虚に加えられた空虚から生まれ、
空でのように人間の頭の中でも、変わりやすい透明なニュアンスである。
われらの呼吸する空気、われらの姿が動き回る空虚な外観、われらが横切る空間、
それは紛れもないこの地上の青である。あまりに近すぎ、あまつさえわれらと一体化し、
われらの身振りと声を身につけているので、目に見えないのだが。
鎧戸を全部下ろし、ランプを全部消してもなお、われらの生の、覚えがないほど軽い服を着て、
青は部屋の中までいるのだ。 (*)
おまえは海に行き、おのれの憂愁で洗われる。
その青と折り合いをつける。
たくさんの日々が過ぎた……。
だがこの傷はふさがっていない。
それ以来彼女にできることは、青をつくることだけ。彼女は青を押し返したり、揺さぶったりする。
浜辺の男たちにそれを見せ、男たちはそれで商売することを忘れず、それから彼女に少し汚れた青を返してよこす。
彼女は、豪奢な夕日で顔を染めることも、嵐の日のように怒りで顔を蒼白にすることも、塩の中で死んで石になることも夢みたりしない。
ただ、夏の美しい夕方、海辺の低い石塀にこしかけて愛を語り合う人々のまなざしや声のように、ただ透きとおっていたいだけだ。
彼女はとりわけ夏の雨が好きだ。
海の上に、長い斜めの縞になって降ってくる温かい、灰色の雨。ほんのお湿りほどの雨で、雨音は聞こえない。
彼女は、雨を避ける場所を探しもせず、顔を雨に差しのべる。雨が静かなので、彼女は自分がここにいることを知り、感じる。
彼女は言う――雨は彼女にみずからを捧げてくれ、あるいは彼女自身気づかなかったこの優しさを、単調で自由なこの落下運動を、
そして哀しみで彼女から潮が退いていらい、もはや彼女のものではなくなっているこのような軽やかな波立ちを呼び戻してくれるのだと。
(註:ここがエピローグです。)
* * *
やっぱり長い引用になってしまいました。しかし数年後にまたこの詩集を開く時、きっとわたくしは別の詩行を選ぶのかもしれません。
「青の物語」はそういう永い時間を息づくであろうと思われる詩集なのです。
実はこの上記の文章は6年ほど前に書いたものです。
10月9日、久し振りに翻訳者の有働薫さんが、この「青の物語」を朗読された時に、わたくし自身が引用していた部分(*)を朗読されたという偶然に、
なつかしい思いとともに、ふたたびこれを掲載することにしました。6年間の「青」はわたくしのうちでは色褪せないものでした。
(1992年・メルキュール・ド・フランス社刊……1999年・思潮社刊)