ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

挨拶

2010-07-28 21:40:27 | Poem
   《マラルメ・モネ画》


十九世紀のある詩人の最期の仕事は
四百年前のポルトガルの航海者への挨拶だった。
大陸ではない 大海を渡るということは
ひどく抽象的な「喜望」に等しい?

セイレーンの歌に惑いつつ進む船べりに
一羽の鳥が現れたとしたら
それは具象的な風景に変わるだろう。
陸が近いのだ。嵐の岬があるのではないか?

四世紀前の船旅に倣いて
詩人は死の船出の前に
多士済々の若い詩人に挨拶を送る。

孤独 暗礁 星座
陶酔 恐怖 よろこび
憂鬱の水長は空にむかって杯を掲げるのだった。


 *     *     *


 上記の公開に耐えぬほどの下手な詩は、某同人誌に掲載した自作詩です。この詩に登場するモデルはどなたなのか?というお手紙やメールが多かったので、ここを釈明の場とします(^^)。ここをお読みくださればわかると思います。「パクリ」というご批判もあえて受けませう。自作詩はここに掲載しない方針でしたが例外とします。どうぞよろしく(^^)。

ステファヌ・マラルメ(1842~1898)
ヴァスコ・ダ・ガマ(1469~1524)

借りぐらしのアリエッティ

2010-07-23 12:33:56 | Movie


企画&脚本:宮崎駿
原作:メアリー・ノートン
脚本:丹羽圭子
監督:米林宏昌
音楽:セシル・コルベル



 スタジオジブリ映画の「借りぐらしのアリエッティ」を近所のMOVIXで観てきてしまいました。メアリー・ノートンの原作の「小人の冒険シリーズ・5巻」の最後の「小人たちの新しい家」を半分までしか読めませんでしたが。。。でもアニメ映画は第1巻の「床下の小人たち」と第3巻の「川をくだる小人たち」を繋げたかたちで、人間の少年「翔」と小人の少女の「アリエッティ」との出会いと別れと友情を描いていました。原作には少年はたしかに出てきますが、原作では健康な少年。「翔」は重い心臓病の手術を控えた少年という設定です。

 そして「翔」は、父親は不在、母親は仕事で海外に行ったために祖母の家にあずけられます。この家は「ターシャおばさん」の家のようです。ポピーの咲く広い庭、蔦のからまる家(←これは、15センチの小人のアリエッティには都合のよいもので、翔のいる部屋の高窓まで登れるのです。)

 宮崎アニメの特徴と人気の要素はどこにあるのか?と思う時に、ソ連の映画監督のセルゲイ・エイゼンシュテイン」の言葉を思い出します。彼はディズニー・アニメを批判した時、その背景画の貧しさが映画全体を殺しているのだと言ったそうです。

 それを思い出しつつ・・・・・・宮崎アニメはこの作品に限らず、背景画、建物の内部の様子、もちろん床下の構造、庭や自然界の描写、光、雨、水の流れなどが生き生きと丁寧に描かれていることです。物語を生き生きとさせるものとは、実はヒロインやヒーローではなくその背景が大きな要素であることが理解できます。この背景の見事さや精密さなどは言葉で伝えることは無理ですね。観てみないとわかりません。

  *     *     *

 さて、この「借りぐらし」と「人間」いう言葉について、原作と映画での「アリエッティ」と「少年」との会話が興味深い。原作では「床下」に暮らしていた頃に、その家の少年に見つかりましたが、食べ物やらドールハウス用の小さな品々をプレゼントしてくれました。しかし少年は「借りるではなく盗んでいたんだろう?」とアリエッティに言いました。その時アリエッティはこう言ったのでした。

 『パンのためにバターがあり、牛のために草があり、人間のために牛がいる。人間はなんのためにいるの?それは借りぐらしの小人のためにいるのよ。』たった15センチの小人の少女の言葉です。

 アニメに登場する少年は重い心臓の病をかかえ、手術を待っているのですが生きる確率は非常に低いという状況にありましたが、曾祖母、祖父母から母へ、そしてその少年へと「小人の存在」を信じて語り続けられてきました。そして祖母の家には、少女時代の母のために祖母が与えたという、「アリエッティ」が思わず息をのむほどに精巧なドールハウスがありました。そして少年は「アリエッティ」に出会ってそれを信じました。しかし少年と「アリエッティ」との会話は「小人は今何人いるのだろう?やがて絶滅するのではないか?」たしかに彼女の知る限りにおいては父母とスピラーともう1家族だけでした。でも知らないところにはまだ存在しているのだと信じています。

 しかし少年は「世界人口」の数を「アリエッティ」に伝えて驚かせます。これは自らの「死」を意識した少年の発言でしょうが、「アリエッティ」は涙を流しながら答えます。「小人は絶対にどこかにいる!」と・・・。そうです。小人たちの行動半径、移動手段を考えてみた時、それは絶対にいるのです。

 そして、「アリエッティ」一家は、その少年の家を出なければならなくなりました。少年は「君は僕の心臓だよ。きっと生きていくよ。」そして小人たちはスピラーの待つやかんの舟に乗って川を下ってゆきました。そこにはまた新たな世界が待っているのでした。

 「小人」の存在を信じること。ともに人間と生きてゆけること。ああ。やっと元気になった(^^)。


空を飛ぶ小人たち メアリー・ノートン

2010-07-17 21:24:52 | Book
大分、このブログをお休みしてしまいました。どうも体調がすぐれません。梅雨も明け、本格的な夏のはじまりですが、どうも季節に体調が追いつかないようです。体調が悪ければ、自動的に思考停止となります。書くという行為も難しくなります。・・・・・・と自らの無能を季節のせいにします。すみませぬ。。。

さーて、この小人シリーズの4巻目です。ふと背表紙を見ましたら「小学5,6年以上」と書いてありました。この基準はどなたが決めるのでしょうか?でも一応「以上」ではありますので、わたくしもその範疇と考えてもいいのでしょうね(^^)。8年後には孫にあげましょう。あ。もしかしたら「形見」に・・・。

さて、「アリエッティー」一家が川から上がった村には「リトル・フォーダム」という模型の村がありました。これは森の中を走る鉄道の信号所勤務だったポットさんが手作りでこつこつと作ったものでした。

ポットさん(アリエッティーのおとうさんはポッドです。念の為。)は、森の夕暮れに、ハッターズ・クロスから来る最終列車の時間には、よくアナグマが現れるので、いつも注意していたのですが、線路上に現れたそのアナグマを助けようとして、片足を失いました。

鉄道福祉事業からの援助によって、彼は村のはずれにある小さな家と保証金を受けて静かに義足で暮らしていました。手先の器用なポットさんは、その川辺の家の小高い庭で、鉄道模型作りから始まって、「リトル・フォーダム」を作りました。そこにさまざまな小さな人形を置いたのは、「ミス・メンチス」でした。彼女は人形の衣類や日常品などを作りました。そこにある「ぶどう小屋」をアリエッティー一家が住むことにしました。

しかし、これに気づいたのは「ミス・メンチス」で、実際に会話したのは「アリエッティー」だけでした。ポットさんは「ミス・メンチス」の話などをろくに聞いていなかったのです。小人が人間と会話したり、いやそれよりも存在を知られたりすることは、とても戒められていたことです。それは小人にとってもっとも危険なことだからなのです。

「リトル・フォーダム」の人気を(でもポットは入場料などとりません。)知った、シドニー・プラター夫妻(職業は、住宅建築および葬儀一般請負というあやしげなもの。)は、「ぶどう小屋」に住む小人たち一家を見つけてしまい、見世物にすべく捕獲、天井裏に閉じ込めました。小人たちが1番苦手な場所は建物のなかの高所でした。

しかし、ここで誇り高い彼らは、天井裏にあったものを利用して、考えられる限りの知恵と勇気と力を合わせて、ついに風船の気球を造り、窓から脱出成功。「リトル・フォーダム」へ無事帰りました。

「ぶどう小屋」は、留守中に「ミス・メンチス」の心遣いによって、水道、ガス、電気まで用意されて、羽布団もありました。スピラーにも久しぶりに会えました。しかしここでハッピー・エンドと言うわけにはいきません。

心優しい「ミス・メンチス」と会話したこと、お世話になったことは、行く末には他の人間にその存在を知られることになりかねません。小人の掟です。「ミス・メンチス」を寂しがらせることとなったとしても、彼らはまた新しい場所をさがして出てゆかなくてはなりません。

「ポットさん」と「ミス・メンチス」も、2人で助け合って生きてゆくのです。さて、5巻はどうなるでしょう?アニメ「借りぐらしのアリエッティー」は今日からロードショーです。急がなければ(^^)。

をんなの四季・中村汀女

2010-07-06 14:11:52 | Book
大分前のこと。古い貴重な本をいただいた。汀女書き下ろしのエッセー集である。俳句はそのなかに配されている。つまり俳句の成り立ちがわかる仕組になっているのだ。主婦としての汀女の日々の出来事が丁寧な描写とおだやかな感性によって、とても美しい文章になっている。

この本のなかには、句会に出席してもいつも途中で抜け出して急いで帰宅する汀女がいる。それに不満や無念を抱きながらも、家族の夕餉を整えられたことに安堵する彼女もいる。また幼い子供が重い病にかかり、病院で手厚い治療を受けている最中、罪の意識にかられながらも、それを書かずにはいられない汀女がいる。静かな病室では鉛筆の音さえ響くのだった。

季節柄「日傘」にまつわる一文について書いてみよう。
炎暑のなか、日傘をさした見知らぬ母子の姿に出会う。その必死な姿に、汀女は自らの若い母親だった頃を思い、遠い土地に暮らす娘もこんなであろうかと思い、さらに母上の日傘の思い出へと、その想いの道のりを伸ばしてゆく。
麦刈りに忙しい村に帰省した汀女が、日傘をさした母上と別れてふたたび戻ってゆくときに歩くのは「堤」であった。この「堤」での別れは辛いものだ。「ここまで。」という地点が見つけにくい。さらにお互いの相手の姿が見えなくなるまでに大層時間のかかることになる。しかし視力の衰えた母上の方が汀女よりもその時間が短いであろうことに不思議な安堵を覚える。母上が汀女と別れがたく送ってくれる道のりの長さは、母上の戻って帰る道のりの長さにもなるのだ。

そうして別れて戻ってゆく母上と汀女の間に、麦の穂束を満載した荷車が現れ、彼女は母上の後姿が見えないことにわずかに救われていた。そして村全体が麦刈りに忙しく活気に満ちていることにも救われている。手には母上と女中さんが作ってくれた車中の弁当が少し重い。

炎天を歩けばそゞろ母に似る   中村汀女

 (昭和31年・朝日新聞社刊)

川を下る小人たち・メアリー・ノートン

2010-07-03 15:46:43 | Book
 ついに「メアリー・ノートン」の小人シリーズ全5巻を買ってしまいました(^^)。この出版は、これから公開される宮崎アニメ「借りぐらしのアリエッティ」に便乗した出版(新版)だとわかりつつ、2巻までしか読んでいなかったことに気づいて、買ってしまいました。「川を下る小人たち」は3巻にあたります。ちなみに・・・。

①床下の小人たち
②野に出た小人たち
③川を下る小人たち
④空を飛ぶ小人たち
⑤小人たちの新しい家

 ・・・以上です。おそらくアニメ映画は、この全巻を描くのではないでしょうか?それでアニメを観る前に全部読んでしまおうという魂胆です(^^)。

 以前は人間の家の床下で暮らしていた身長15センチほどの小人の一家。父親はポッド、母親はホミリー、主人公の少女が「アリエッティ」です。人間の暮らしの近くで生きることが小人にとっては1番生きやすいのです。わずかな食料、衣類の端着れ、さまざまな小さな道具などなどを、ちょっとだけ頂ければ暮らしてゆけるのですが、人間にみつかってしまい、ねずみのように追い出されるのでした。「アリエッティ」が暗く埃っぽい床下で夢見た野の暮らしは小人にとっては困難なことでした。彼らは魔法が使えるわけではないのですから。そして、1人で生きている自由で知恵者の小人少年「スピラー」は、この家族をよく助けてくれるのでした。

 1度は森番の家の壁穴に住んでみましたが、この家には誰も住まなくなるということで、一家はまたまた家を出るのでした。出口のない家では「スピラー」の誘導のもとで、下水管を通って川に出たのでした。さてやかんの舟から「スピラー」の舟で、川の先にはなにがあるのでしょう?

 すでに、小人の存在を知っているジプシーの男、舟を漕ぐ櫂が「編み棒」であることに気づいているかつての家の人間・・・・・・。小人たちの生きることの困難さが増すばかり。

 (岩波少年文庫・2010年・新版第3刷)