ふくろう日記・別室

日々の備忘録です。

味噌  河上肇

2015-02-26 12:15:02 | Poem

《画像は2月のさるすべり。線描画のようにうつくしい。》



味噌  河上肇


関常の店へ 臨時配給の
正月の味噌もらひに行きければ
店のかみさん
帳面の名とわが顔とを見くらべて
そばのあるじに何かささやきつ
「奥さんはまだおるすどすかや
お困りどすやろ」
などとお世辞云ひながら
あとにつらなる客たちに遠慮してか
まけときやすとも何とも云はで
ただわれに定量の倍額をくれけり
人並はづれて味噌たしなむわれ
こころに喜び勇みつつ
小桶さげて店を出で
廻り道して花屋に立ち寄り
白菊一本
三十銭といふを買ひ求め
せなをこごめて早足に
曇りがちなる寒空の
吉田大路を刻みつつ
かはたれどきのせまる頃
ひとりゐのすみかをさして帰りけり
帰りて見れば 机べの
火鉢にかけし里芋の
はや軟かく煮えてあり
ふるさとのわがやのせどの芋ぞとて
送り越したる赤芋の
大きなるがはや煮えてあり
持ち帰りたる白味噌に
僅かばかりの砂糖まぜ
芋にかけて煮て食うぶ
どろどろにとけし熱き芋
ほかほかと湯気たてて
美味これに加ふるなく
うましうましとひとりごち
けふの夕餉を終へにつつ
この清貧の身を顧みて
わが残生のかくばかり
めぐみ豊けきを喜べり
ひとりみづから喜べり

  ……1944年(昭和19年)元旦 作…… 


出典は茨城のり子著「詩のこころを読む」
1979年第1刷、1992年第30刷、「岩波ジュニア新書・9」


友人とごはんを食べながら、食べ物の話になった時に、
何故か芋類やら栗や南瓜の話になったことがある。
なにやら喉につまりそうなものばかり……。
その中でも熱がこもった食材は「里いも」だった。
東北出身の友人は、味噌と砂糖で味付けをすると言った。
北関東出身の私は、醤油と砂糖で味付けしたもので育ったけれど、
「河上肇」の「味噌」という詩を読んでから、
味噌で味つけした里いもも食べるようになったと話した。

それはかなり古い本で、茨城のり子によるアンソロジーだった。
しかし、その本は彼女も読んでいた。
東京育ちのもう一人の友人もこの本を読んでいた。
しかし、記憶に残った詩はそれぞれに違っていたのが面白い。
お二人とも「河上肇」の詩は記憶から落ちていたようだった。

しかし、三人が改めて、味噌味の里いもを煮るのはあきらかなこととなったが……。

やすらい花  古井由吉

2015-02-02 22:01:30 | Book




これは「新潮」に掲載されていた8編の短編集です。
全体を通して共通していることは、「生」と「死」との境界線が
薄闇のように静かに常に在るということでした。


《やすみしほどに》
これは私小説に近い。自宅から近い病院に短い入院生活を3度ほど繰り返す。
その間に仕事を片づけ、「一人連句」をするという、
すこぶる年長者の精神的なゆとりが感じられる。
「死」は間近にせまっているのか?いや、まだのようだけれど。
その「死」を恐れる気配もない。


《生垣の女たち》
老人が一人住む家の離れに若い夫婦が住むようになって、
その夫婦は老人の死に立ち会うことになる。
このあたりから、この成り行きを観ているのは若夫婦の夫の眼となる。
縁者らしき老夫人、さらに遅れてまた女性が現われ、妻もふくめて
死者を送る女性たちが、その家の生垣に集う。
そこはまさに「生」と「死」に境界のようで、夜の闇のようで、
人々の暮らしの中に静かに佇んでいる。


ここを読んでから「生垣」という詩を書きました。


《朝の虹》
これは、身体の老化によって起こる脊髄の損傷による歩行困難のために、
49日間の手術入院を余儀なくされ、さらに身体を一時的に固定されたり……。
その老人の夢のなかに現われる友や、過去に出会った友の思い出(なのか?夢なのか?)
について書かれている。その友は若かったり、老いていたり。
老作家が「人間の老い」について書く時、こんなにも冷静なのか、と驚かされました。

一部引用
『年寄りは寝ている間に、魂が楽々と抜け出して、あっちこっちほっつきまわりやがる、
 からだのつなぎとめる力が弱ったもので、と昔、老人が言った。
 心配じゃありませんか、と私は冗談に乗ったつもりでたずねた。
 なぁに、俺の知ったことじゃない、寝ている間のことまで面倒を見切れるか、
 と老人はそっぽを向いた。
 しかしその、知ったことじゃないという俺は、何処にいることになるのですか、
 と若いので突っこんだ。
 はて、何処にいるか、それも知ったことじゃない、と老人は答えて、
 策麺が饅頭を喰っているところを、端から莫迦莫迦しいと憤慨して見ているようなものだ、
 とわけのわからぬことを言って笑い出した。』


《涼風》
若者が女性の部屋で朝を迎えて、そこからの帰宅途中に、
通りすがりの家の庭で老人が突然倒れたのを生垣越しに目撃した。
その生垣の家の女性に伝えたけれど、その2人の様子が奇妙に永い記憶となった。
「死」と「若い女性のあまやかな夏の風のような匂い」とが。
その40年後、老人となった過去の若者は、
やはり夏のベランダで汗ばむ肌をなでてゆく風にその「あまやかさ」を思い起こす。
ここにも「生垣」があった。


《瓦礫の陰に》《牛の眼》《掌中の針》は省略します。


《やすらい花》
「やすらい花」とは、鎮花祭で唄われる「夜須禮歌=やすらいうた」から。

はなさきたるや やすらいはなや
とみくさ(富草)のはなや~~~

富をもたらす花とは「稲の花」であり、豊穣を願う歌であり、
同時に秋の収穫までに、数々の災害がないように願う歌でもある。
さらに男女の契りの歌でもある。花は田植えする女の後に降りかかる。

中年になった妻子持ちの男が、老妻を亡くして一人になった父親との
同居から、話は始まる。この歌は老父の思い出のなかで唄われる。

また、老父には「杜鵑」の声にまつわる思い出話がある。
杜鵑が鳴き止み、川の音が静かになった時に、間もなく出水する。
しかし、かつての農村は、水が溢れて流れ出す先には家や田畑はなくて、
荒地だったと言う。
今、老父が身を寄せている、息子の住む土地では、
改修工事で気付いたことだが、水は暗渠から暗渠に流れていて、見えない。
その暗渠にせり出すように人間の暮らしがあるのだった。

老父のそばに毎晩寝るようになってから、息子は繰り返し父の話を聞く。
そうやって暮らしながら父は逝く。
中年の息子にたくさんの思い出話を残して。
息子が子供だった時に、何故だかしょっちゅう不在だった父だったが……。


古井由吉の著書に「辻」という幻想的な作品があるのだが、
この短編集のなかにも「辻」は何度も人間たちの前に表れた。


 (2010年3月25日 新潮社刊)

辻  古井由吉

2015-02-01 12:40:49 | Book


これは「辻」をはじめとした十二編の短編小説が収録されています。
初出は「新潮」に2004年7月から2005年9月までに掲載されたものです。
「辻」という短編は1編だけですが、12編全体に「辻」というテーマは少年期の原風景のように在りました。
それは父との暗い決別を象徴していると言えばいいのでしょうか。

「辻」・・・それはひととき佇んで、あるいは考える暇もなく、
選びとってしまった一個の人間の生きる道筋へのプロローグであり、
引き返すことのできないものとしての象徴だと言えばいいのでしょうか。
引き返すとしても、「辻」がどのあたりであったのか、
思い出すことのできない場所でもあるのでしょう。
また主人公が現実に立った「辻」は、そのまま夢の暗部へのもう一つのプロローグにもなっているようです。
これらの小説に登場する人間たちはほとんど青春期を過ぎた男女あるいは老人です。

まず「男女の出会い」という普遍的な人間ドラマを、作者はこの「辻」を起点として書いてゆきます。
またその「辻」に辿りつくまでの男女の生きてきた過去の道筋が、背後の影のように常にあります。
ある長い時間を生きてきて、もう充分に大人といえる男女の出会いがあったとする。
その互いの人格に「光」と「影」を与えた者は過去のさまざまな人間たち、あるいは死者たちではないだろうか。
それらは男女が互いに向きあった時に、お互いの背後に立ちあらわれるのではないか。
どうにもならないその状況が、最も深く現在を支配している。
時間の止まったものに対して、生きつづける人間の思いが超えることができるのだろうか。
生きている者の敗北すら思わずにはいられない。


古井由吉は1937年生まれ。これらを書いた時期は60代の終わりと思える。
「人間の老いあるいは死」ということを考える時、ふたたび人間はみずからの「辻」を思うのではないか。
後半の短編になると老人問題がテーマとなってくる。
老いの道は「辻」からは異界へのプロローグにもなるのだ。
この「老い」を身近なものとして見つめているのは中高年世代ですが、
そこにもまた彼等が踏み込む「辻」があるのでした。

ちょっと奇妙な表現かもしれませんが、これらは中高年男性の「ファンタジー」小説とも言えるのではないだろうか。
ここに登場する人々は人並みはずれた人生を生きたわけではない。
適切な時期に女性を愛し、結婚し、子供を育て、次第に老いてゆく人々の生活です。
「辻」にさしかかる毎に少しづつ生じてくる心の歪に、
かすかに沁み込み続ける狂気や夢が現実との境界をあやうくする。そのような生活。。


 (2006年・新潮社刊)