アニー・ロリー ・故郷の空 ・ロンドンデリーの歌 / 佐藤しのぶ
青空の穴より小鳥こぼるゝや
「神さまは雀一羽の死もご存じです。」という言葉を映画のなかで聞いたのは、この一句に決めたその翌日であった。
小さな鳥は天に放てばたちまち天に抱きあげられ、落ちてくる時には、そこに小さな空白を置いてくるに違いない。
「小鳥こぼるゝや」という表現がなんとも愛おしい。
詩人清水昶氏は、多面体の書き手であった。
虚無も無頼も少年(少女も含めて)も郷愁も合わせ持ち、
そして幼い者や小さな生き物に注がれる温和な父性の視線も見逃せない。
詩から俳句の領土への移行のなかで、それでも尚残る詩の残り香が、
清水昶氏の俳句に独特の世界を創りあげていた。
その世界にふいに小鳥がこぼるゝのだった。
ここで書き手は掌を差し出しているに違いない。小鳥を受け止めるために。
詩集「詩人の死・一九九三年刊」には
「亡霊になってはじめて人間は生きているみたいになつかしい」という詩の一節が書かれていました。
昶氏は驚くほど「死」に対する関心が強い方でした。
しかしご自身の「死」は、ふいにこぼれてきたのではないか?と思えてなりません。
「神さまは昶さんの死もご存じです。」
(俳句誌「百鳥」2013年11月号・所収)
翻訳:堀茂樹
「アゴタ・クリストフ」はハンガリーのオーストリアとの国境近くの村に生まれ育ち、
ハンガリー動乱(1956年)の折に亡命して以来、スイスで暮しているようです。
この「悪童日記」は彼女の処女小説です。
フランス語で書かれ、1986年パリのスイユ社から世に送り出されました。
その後、日本で翻訳出版されたのは1991年となっています。
原題は「大きな帳面」となっているように、双子の少年が記した62章の日記形式になっているフィクション小説です。
主人公の双子の少年は「大きな町=ハンガリーのブタペスト?」から、
母親に連れられて、「小さな町=オーストリアとの国境にごく近いハンガリーの農村へ。
「母方の祖母の農家」へやってくることから、この物語は始まります。
父親は戦場にいる。つまり「疎開」ですね。母親は「大きな町」に一人で帰ります。
この祖母と母は十年も会うことがなかった。従って少年たちと祖母とは初めて出会い、共に暮すことになったのです。
祖母は近隣から「魔女」とも「夫殺し」とも噂され、入浴も洗濯もせず、ケチな生活をしている農婦です。
母親の愛に守られ、清潔な生活をしていた少年たちの過酷な生活が始まるのでした。
しかし少年たちは、この過酷ともいえる生活のなかで、逞しく、賢く、自立してゆくのです。
まず文字の勉強は、「大きな町」から携えてきた父親の大辞典と、祖母の家の屋根裏部屋にあった聖書をお互いに熟読します。
からだを鍛え、農作業を覚え、お金を稼ぐ方法を覚え、どのような過酷な状況にも生き抜ける心身を自力で育てるのでした。
それは大人ですらできないであろうと思われる過酷さです。これはちょっと表現しがたいものがあります。
人間の死すらも冷静に見つめ、迎えに来た母をその場で亡くし、祖母の死への願いを冷静に実行し、
捕虜収容所から逃げてきた父親の国境を越える逃亡計画にも双子の少年は手を貸しながら、父親は地雷で死ぬ。
死者が出たあとでは、その直後の逃亡者は逃げ切れる。双子のどちらかが。。。
衝撃的な小説ではあるが、読後に救いのない思いに陥らなかったのは何故だろうか?
それは双子の少年の並はずれた状況把握、判断の見事さにあるのだろうか?
そして彼等は双子であることによって、お互いのどちらかが生き残ることに賭けたのでしょうか?
人間はここまで強靭にも残酷にもなれる。
しかしそこは間違っているのではないのか?とこちらから主張できないほどの少年の強靭さを見事に描き出した小説であったと思います。
この「悪童日記」には続編が2冊あるようです。少年たちのその後の生き方をいずれ読んでみたいと思います。
(1991年初版・1992年8刷・早川書房刊)